花中毒水中毒
花が無ければ生きていけなかった。
春だったらカーネーションが好き。下手に色が分かれているより、一色のやつが良い。花弁は波打つフリルのように可愛いのに、歪に曲がる茎と細くてうねる葉の濃い緑のバランスが絶妙で危うい。
花の中でも日持ちがするのか、花束を活けたときに、花瓶に最後まで残っていることが多い。細い花瓶に一本だけ立っているのは、十二時ちょうどで壊れて止まった時計の長針と短針によく似ている。
ふと目を開けると真っ暗だった。
「寝てた」
少し考えて身体を捩り、サイドテーブルに手を伸ばすとスマートフォンのホームボタンに触れる。押すと画面が白く光って、眩しくて目をつむった。
ようやく明暗の差に目が慣れて画面をのぞき込むと、夜の十時三十分。七時三十分に夕飯を食べて、そのあとはこのベッドの上で本を読んでいたのだが、いつの間にか眠ってしまったらしかった。
とりあえず起きあがり、寝室を出る。まだ眠気がだいぶ残っていて、シャワーを浴びる気になれない。
廊下の突き当りには歩くとリビングに繋がるドアがあって、開けて入るとすぐ左側にキッチンがある。私は冷蔵庫から日本酒の瓶を取り出し、隣の棚からは水色の硝子出来たお猪口を出した。
「一杯だけ」
お猪口になみなみ日本酒を注ぐと、瓶は冷蔵庫に戻す。溢れそうで怖かったからちょっとだけすすってからキッチンを出た。リビングを横切って、ベランダに向かう。
途中、テレビとソファの間にあるローテーブルの上の花瓶から、黄色いガーベラを一輪抜き取った。妹が送ってくれた花束。他の花がこちらを見上げるようにわさわさ揺れる。
ベランダに出ると、空気が少しひんやりしている感じがした。四月も半ばだけれど、夜に上着がないのはまだちょっと肌寒い。
でも上着を取りに戻るのも面倒くさくて、ベランダの柵に七分袖のTシャツに隠れた肘を乗せた。日本酒をすする。ガーベラの茎を指で転がして、花をゴロゴロ回した。
「美味しい」
まろやか。とも口に出す。これも妹が送ってくれたものだった。私のことを気に掛けてくれる、優しい妹。
ガーベラの黄色い花弁に歯を立てると、五、六枚がふちふちと外れた。ちょっと上を向いて口の中に全部入れる。
「美味しい」
甘い。とも言う。もう一口。美味しいなと思って頷いた。
花を見ると、駅前に出来た新しい花屋を思い出す。白い壁にオレンジ色の屋根の花屋。錆びたシャッターが目立つ商店街を抜け、飲食店も無く車寄せだけが広い駅舎の前で、そこだけがいつも明るい。あそこの花はどれも綺麗だから好きだ。
ふと、家にある花のことが頭に浮かぶ。玄関の靴箱。狭い廊下の床。寝室の床。ベッドのサイドテーブル。仕事机。タンス。脱衣所の洗面台の棚。シャンプーとかを置く棚。浴槽。窓辺。トイレの棚。キッチンの作業スペース。カウンター。リビングの床。ローテーブル。テレビ台。本棚。ベランダ。
「結構通ってる」
いつの間にか、家にある花のほとんどが、あの花屋の花になっていたことに今気が付いた。
不意に、カシャー、と小さな音が聞こえてくる。反射的に目を向けると、ベランダから見える道路の隅っこから、誰かが歩いて角を曲がるのが見えた。
「……写真撮られた、っぽい、なあ」
最近、この周辺で不審者の目撃情報があるらしい。日本酒を飲み干して、心なし急ぎめにガーベラを食べ終わると、部屋の中に戻った。
翌日。駅前の花屋に行った。
「いらっしゃいませ」
奥でなにか作業をしていた店長が、私に気付いて笑う。黒縁眼鏡を掛けた男性だ。いつも一人で店にいる。バイトとか他の従業員はいないらしい。
私は税込み千円の小さいブーケ手をバケツからひとつ取った。茎からぽたぽた水がたれて、花を買うんだな、という気がする。
でも、まだ渡さない。店長をじっと見てみる。
「今日はそちらにするんですか?」
店長が首を傾げた。
「はい」
「そうですか」
ちょっと両手を差し出した体勢で店長が止まる。それでも黙って見続けてみると、一分もしないうちに、店長は一瞬真顔になった。口元だけで笑う。
「お花って美味しいですか?」
「はい」
「そうですか」
店長が頷いた。それで、極めて穏やかな口調で話し出す。
「僕、君のこと大好きなんです。だからちょっとあとをつけて、お家の前まで行きました。昨日はとっても美味しそうにお酒を飲んで、黄色いガーベラを食べていて、それがすごく綺麗で、写真を撮っちゃいました」
どうしても欲しくて。と店長の口元が笑う。レジカウンターの方を向くと、包みかけの赤いカーネーションから一枚花弁を取った。
「はい、あー……」
ん。とその花弁が私の口にたどり着いたとき、私は口を開けていなかった。唇に、薄くてひらひらした柔らかい感触が伝わる。
店長はちょっと不満げに口を曲げた。
「はい」
ぐーっと彼の指が花弁を押して、口の中に入れようとする。私は結構耐えたのだけれど、最終的にはこじ開けられるような形で口を開けた。指と花弁が入ってくる。
花弁が舌に乗って、甘いような微かな味を感じた。
花弁を舌に押しつける指が退かない。食べられないから退けて欲しい。
「あうあ」
「可愛い」
今度は目も口も笑った。
唾液が染み出してくる。じわりと花弁が濡れるのを感じた。唾液だけでも飲み込まなければ、と思ったけれど、口を開けたまま飲み込むのはなかなか難しくて、舌が痙攣するように動くだけだった。
その瞬間、店長の指が動き出す。
花弁から離れた指は、舌の表面をまんべんなく撫でて、下の歯の裏をピアノの鍵盤のように滑ったあと、舌の裏側にある肉をかき混ぜた。なんなのかよく分からない柔らかいところ。
「おふ」
二十秒くらい店長は私の肉を堪能して、指を引き抜いた。ようやくだぼだぼになった唾液を、花弁と一緒に飲み込む。
溢れた分を服の袖で拭っていると、店長はベタベタの人さし指を眺めてから、うんうんと満足げに頷いた。
指を自分でも軽く舐めてから、ぱたぱたエプロンで拭く。
それからこちらに寄ってくると、私を、優しく優しく、抱きしめた。
「君は、僕のお水です」
「お水」
「そう。僕はお水が無いと生きていけないんです。君は一番のお水。とっても綺麗に、花を活かすから」
店長は私の頭のてっぺんに頬ずりをする。
「毎日綺麗で美味しいお花がそばにある生活は嫌かな」
タダだよ? と言われた。嫌じゃないかも、と思った。
夏は紫陽花がいい。花がわさわさ丸く咲くやつが好きだ。血管が浮き出たような、ふわふわしている肉厚な花弁。葉は見る度に意外と大きいと感じる。割とどこにでも咲いているのに、高貴な感じがするのが不思議だ。
子供の頃、誰がやったのか幾朶かが公園の小川に流されていたのを見たが、あれは綺麗だった。
ある日の夜。リビングにあったいろいろな色の日日草を端から味見していると、どこかへ出かけていた彼がひょっこり顔を出した。
「こらこら、さっき夕飯を食べたじゃないか」
「花は別腹なんだよ?」
「そんな、知らないの? みたいな顔されてもね」
困るんだけどね、と言われたけれど、構わず最後の一種類を食べる。
「美味しかった」
「可愛い。そのうっすら口が開いてて歯が見えててほっぺを中途半端に上げた変な笑い方すごく可愛いよ」
一瞬のうちに彼が傍に来て私を抱きしめた。頭のてっぺんに頬ずりをしている。彼の家に来てから二ヶ月と少しが経った。
彼はお金持ちだ。彼がお金持ちと言うより、実家がお金持ちで、彼はいわゆるボンボンだ。
家は、花屋から車で一時間くらい走った、都会の高層マンションの屋上にある。あれだ、普通の部屋とは違って、オーナーとかが住むような綺麗でお洒落で豪華な感じの家だ。
初めて来たときは、玄関からリビング、その他各部屋、トイレやお風呂場まで、水がなみなみ入った様々な種類の瓶が置いてあった。今ではその全部に、お店から持ってきた花が活けられている。
私は毎日、彼と起きて、彼と朝ご飯を食べて、彼とお弁当を作って、彼とお店を開けて、彼と仕事をして、彼とお昼を食べて、彼とお店を閉めて、彼と帰ってきて、彼と夜ご飯を食べて、彼とお風呂に入って、彼とだらだらして、彼と寝ている。だいたいいつも一緒。
「そうそう、ちょっとおいで」
ひとしきり頬ずりをして満足したのか、彼が私の手を取って立ち上がる。私はついて行く。
屋上の大部分は庭になっている。芝生との上に赤とか茶色とかオレンジの煉瓦の小道があって、花壇もあって、小さい木も植えてある。池もあって、魚はいないけど睡蓮の花が咲いている。
彼は私の手を引いて、池の傍までやってきた。彼がこっちを見てニッコリ笑う。
「見て。君が言ってたから、浮かべてみたんです。川じゃなくて池だけど」
そう言って、彼が池を指し示す。普段、睡蓮がぷつぷつ浮かぶ静かな池には、紫陽花の花が幾朶も浮いていた。
赤、紫、青、水色。
池の周りに置かれたライトの白い光が、柔らかく花を照らしている。水面もキラキラ光ってる。
「綺麗」
観光地でよくある、紫陽花のライトアップ。いつも必要ないと思っていたし、今も思っているけれど、この景色は綺麗だと思った。池の周りのライトはいつもあるし、ワザとじゃないからかな、と考える。
靴を脱いで一歩足を踏み出すと、芝生はひんやりしていて、風が吹くと足首を撫でるのが気持ちよかった。
歩いて池に入る。水かさは膝より少し上くらい。そんなに深くないことは知っていた。真ん中辺りの、紫陽花がたくさん浮いている場所に寄って行って、青い一朶を掬い上げる。口と鼻をふわふわな花弁に埋めた。
紫陽花の根や葉や蕾には毒があるらしいから用心して花も食べないようにしているけれど、ここで食べて倒れて溺れるっていうのも、悪くない気がする。
ふと、ざぷんっていう音が聞こえてきて顔を上げた。彼も池を歩いてきている。すぐ傍まで来ると、彼はまた私を抱きしめる。でも、今度は頭に頬ずりするんじゃなくて、左側の首筋に顔を寄せた。
腰が引き寄せられて、私の胸と彼の胸の間で紫陽花が潰れる。
「素敵だ。素晴らしいよ」
肩に顎を乗せて、耳元で囁く。息が耳に当たった。
「くすぐったい」
「そう? 我慢して」
「うん。嬉しそうだね」
「うん。嬉しいし、すごく興奮してる。なにもしてないのに、イっちゃいそうだよ」
少しうわずった声で彼が言って、唇と舌先が首を這う。またくすぐったい。身を捩ると、足の付け根あたりに彼の股が当たる。私はちょっと考えた。
「変」
「え、なにが?」
「一緒にお風呂入るときは、こうならないのに」
首を傾げると、彼は驚いた顔をしてから、同じように首を傾げる。
「んー、んー、えーっと。そういえば、僕、君の裸に興奮したことないなあ。好きだけどね。大好きだけど、やっぱり、花が無いとね」
「お風呂にも花浮かべてる」
「そうだけど……君の肌ととびっきり引き合う花がまだ無いんだよ。見つかったら見つかったで、僕ぶっ飛んじゃいそうだけど。そのときは、顔にかけてあげるね」
彼が私の顔をのぞき込んで、目を細めて笑った。唇を尖らせると、人差し指でぶにーっと押される。
「なぁに? 珍しいね、今まで僕のことなんてぜーんぜん興味無さそうだったのに。興奮した僕には興味あるの?」
変。と、彼は笑みを深めた。
「いいよ。まだおさまりそうもないし。お風呂でじっくり見てくれれば」
「いい」
「えー、つれないなあ。まあ連れて行くんだけどね」
身体を離すと、潰れて擦れていた紫陽花が手から滑り落ちる。花のひとつひとつがバラバラになっていた。
よいしょ、と、膝裏と背中に手を添えて私を持ち上げる。
「嬉しそう」
顔を見て言うと、彼はまたうんと頷いて、岸に向かって歩き始めた。
秋は桔梗が一番好き。紫色一色のやつが特に。
正直ちゃんと観察したことはない。綺麗なのだけれど、なんとなく近寄りがたい気がする。
子供の頃、窓の外にある植木鉢の桔梗を眺めていた。一輪だけ咲いていた花が大きくて、食べられそうで怖かった。
トントン、と植木鉢を軽く受け皿に落とすと、土のかさが少しだけ下がった。小さいスコップでバケツに入った土を掬って満遍なく入れていく。
そのとき、私の名前を呼びながら、彼がテラスに出てきた。今日は、花屋は気まぐれな臨時休業だ。
「ここにいたの。あれ、植木鉢だ珍しい。今日は瓶じゃないんだね」
「桔梗は植木鉢じゃなきゃダメ」
「ふーん」
普段、彼や私が持ってくる花は瓶に入れて飾っている。
水の取り替えはあるけど瓶の方が楽だし、彼も水がある方が良いって言うから。
でも、桔梗はなんとなく植木鉢に植わっていて欲しかった。
「まあいいけど、いつもみたいにひっくり返さないようにね。水は拭くだけでいいけど、土は片付けが面倒だから」
「うん」
植木鉢をくるくる回して全体を眺めながら返事をすると、彼が息を吐くのが聞こえた。私の後ろにしゃがむと、腕を首に回して、肩に顎を乗せる。
「ちゃんと聞こえてる?」
「うん」
「なんて言った?」
「ひっくり返さないようにって言ってた」
「えー、正解……あ?」
私が植木鉢に花を植えるのと同じように珍しく、彼がガラの悪い声を出した。それから黙って耳に鼻をくっつけて匂いを嗅ぎはじめる。それがほっぺから、首筋、うなじまで滑った。
「……変な匂いする」
「どっか汚れてる?」
「違う。嫌な匂いじゃないんだけど、嗅いだこと無い匂い。ねえ、勝手にどっか行ったの? 誰かと会ったとか?」
怒った声に、私は急いで首を横に振った。ここに来たばかりの頃はよく怒られたけれど、最近では珍しい。
「行ってない。お昼ご飯のあとは、ずっとここにいた」
「……そうだよね。エレベーターに行こうとすれば、カメラとセンサーで分かる。じゃあ、なんだろうこれ。すごく、ムカムカする」
突然、彼は立ち上がると、私の腕を強く引っ張って立たせた。そのまま引きずるように脱衣所まで連れて行かれて、長袖Tシャツの襟を掴まれる。
お風呂に入るのか。そう考えた瞬間、私はとっさに彼の腕を掴んだ。
「なに」
「お風呂。今、花が無い」
「……じゃあここにあるの持って行けばいいでしょ」
洗面台の棚にある、コップに活けたコスモスを指さした。
「でも、それだとここの花が無くなる」
「持って出てくればいいでしょ!」
「それに」
彼の言葉を遮って、首を横に振る。胸の辺りを服の上から掻きむしった。
「この辺、急にグジグジして痛い。病気かもしれない。これなに?」
「……っ!」
襟を掴む彼の手が緩む。完全に離れたと思ったら、頭をガリガリ掻いていた。
「ごめん。じゃあお風呂は無し。でも、寝室に行くから」
そう言って、彼はまた私の手を引っ張った。
寝室はリビングにある階段を上った二階にある。二階は吹き抜けになってて、黒い鉄格子みたいな手すりの向こうにはリビングが見渡せた。
リビングに面した壁二面がガラス張りの寝室は、私が来る前は使っていなかったらしい。彼の自室にもベッドはあるらしいけど、入れてもらったことはない。
寝室に入ると、すぐに服を全部脱がされた。そのままベッドに仰向けに寝るように指示される。
「ちょっと冷たくて、痛くするかも。ごめんね」
さっきよりいくらか落ち着いた彼は、でも荒く呼吸をして早足で寝室を歩き回る。
寝室は、他の部屋よりもっと花瓶と花がいっぱいだ。二人だけのスペースだから、と言われたのを覚えている。
ぼーっと寝転がって天井を見上げていると、彼がこちらをのぞき込んだ。と、思ったら、胸の上辺りで花瓶がひっくり返っていた。
あ、っと思った瞬間にはダリアと水が降ってきた。
続けてペチュニア。
彼岸花。撫子。マリーゴールド。ゼラニウム。白粉花。サルビア。
部屋中に活けてあった花という花が水と一緒に降って肌を打つ。空になった花瓶は、柔らかい絨毯の上に次々投げ捨てられていった。
顔は手で覆ったけれど、髪の毛から爪先まで濡れて、マットレスもひどく冷たい。上だけ脱いだ彼が私を上から覆い被さるように抱きしめて身体を弄る。花をバラバラにして、花弁と花粉を身体に擦り付ける。
何度か彼の股が身体に当たったけれど、夏のときみたいじゃなかった。
ダリアの細かい花弁が詰まっている胸の間に鼻を押しつけて、彼は息を吐いた。
「ダメだ、取れてない。これ、君の匂いだ。君の匂いが変わったんだ」
弱々しい声で彼が言って、胸を枕に身体の力を抜く。
でも、四、五秒後に腕を立てて起き上がると、私を見て首を傾げた。
「ねえ、あの桔梗の植木鉢、僕にくれない?」
新しいの買ってくるからさ、と、額と額を合わせる。
「いいよ」
「ありがと」
ベッドから降りて、彼が部屋を出ていった。私は寒くなってきてくしゃみをする。
しばらくして、彼が植木鉢とタオルケットを両手にそれぞれ持って帰ってきた。まさか今度は土をかけられるんじゃないだろうかと思ったが、さすがにそんなことはなかった。彼は一輪だけ咲いていた桔梗の花を額のギリギリのところでプツッと手折る。そして、私の濡れた髪の毛の間に、適当に刺した。
茎と葉だけになった植木鉢が彼の手を滑り落ちて、絨毯に落ちる。割れたかどうかは、ここからじゃ分からなかった。
「嫌な匂いだよ。雄を誘う雌の匂いだ」
背中と頭に彼の腕が回ってきて、もぞもぞと首筋に髪の毛が当たる。私と彼をまとめて包むタオルケットはすぐに周りの水を吸い始めた。
「僕の水……。大事な、僕の……」
私はそのとき初めて、彼の背中に腕を回した。
冬はポインセチア。クリスマスが近付くとお店に出てくるあれ。
都会のお洒落な花屋に行くと赤以外にもいろんな色があって楽しい。でもやっぱり、赤が好き。冠になりそうなくらいの大きいのがいい。
赤い部分は本当は花じゃなくて葉っぱで、真ん中にあるやつが本当の花なんだけど、私は全部ひっくるめて花ということにしている。同じ葉っぱなのに色が分かれるなんて不思議だ。でも、その不思議が素敵だ。
「風邪引くよー、お嬢さん」
お店の昼休みの時間。店先で、今日届いたばかりの小さな赤い椿の鉢植えを眺めていると、彼が奥から出てきた。
「今日は天気いいなあ。なーんか全部面倒になってきた。もうお店閉めようか」
「いいの?」
「いいでしょ。昨日十人も来たんだから、今日は誰も来ないよ。毎日熱心に通ってた君は、もう従業員だしね」
言いながら、彼はもう外に出していたクリスマスローズを店の中に入れ始めている。こうなったらなにを言っても無駄なので、私も足下にあるポインセチアの鉢植えを持ち上げた。
「その鉢植え、ひとつ持って帰ろっか」
彼が私に背中を向けたまま、独り言のように言う。うん、と、声に出して頷いた。
車の後部座席にポインセチアを乗せて、帰り道を走る。早い時間なのに、珍しく寄り道もせずにまっすぐ家に帰った。二人で手を洗ってうがいをして、私はポインセチアの鉢植えをリビングに置こうと足を向ける。
けれど、それは彼に止められた。
「ソレ持ったままでいいから、こっちにおいで」
手を引かれて連れてこられたのは、彼の部屋の前。私は少し驚く。彼の部屋にはまだ入ったことがなかった。
白い扉の向こうにあった彼の部屋は、意外と普通というか、むしろ殺風景だった。ベッドと本棚。机にはデスクトップパソコンが乗っている。あとは窓辺に水の入った瓶がいくつか置いてあるくらいだ。暖房が入ってないからか、少し寒い。
「君が来てからほとんど使ってないからなあ。鉢植え、適当に置いて。ここ座って」
私の考えを見透かすように彼が言った。私はポインセチアを置いて、それから示された彼の膝の上に腰を下ろす。
でも、その座り方は彼が想定していたものとは違ったようで、ちょっと驚いた顔が目に入った。でも私は、心の中でえいっと勢いを付けて彼の首に腕を巻き付ける。彼の耳に鼻を近付けて匂いを嗅いだ。
「こ、こらこら。なにしてるの」
「んん」
戸惑った声が聞こえてくる。いつもはぎゅーぎゅー抱きしめてくる腕が私の背中の辺りで彷徨っているのが分かった。
夏の終わり辺りまで、彼は無臭だった。でも、空気が秋に変わる頃、彼から不思議な匂いがした。花の香りとも違うし、食べ物とも違う。でも、なんだか安心する。今も変わらず、その匂いがした。
「あー……あー、もう!」
和んでいたら、急に視界がぐるりと回る。私の腕を押さえつけてこちらを見下ろす彼の顔が、珍しく赤い。
「み、水の分際で勝手に動くなって前から言ってるでしょうが。君は、僕の……」
そこまで言って、彼はぐっと黙った。と思ったら、なにも言わずに私の着ていた白いフリースに手を掛けて、するっと脱がしてしまう。そして、オーガンジーのキャミソールの中に手を入れると、その手をブラジャーの下に突っ込んだ。
今度は私が戸惑った。こんな風に、彼が明確なそういう意志を持って身体に触れてくるのが初めてだったから。なんだか息が上がる。
「は。だめ」
「ダメじゃないよ。君は僕の……」
そう言って、彼は自分の服も次々と脱ぎ去った。反射的に下半身に目線をやると、手で目隠しされる。
「そうやって見ない!」
「夏は見ていいって言ってた」
「夏は夏! 今は今!」
片手で目隠しをしたまま、もう片方の手で器用に私のスカートも脱がせた。目隠しが取れる。彼が私を見ていた。
「君は、僕の水……。水、なのに……」
ぶるりと彼が震えた直後に、荒々しく口付けられる。私も震えた。これも初めてだった。私の初めてでもあった。
ふと目を開けるとベッドに腰掛けた彼がこちらを見ていた。
「寝てた」
「気を失ってたって言うんだよ」
彼の手が伸びてきて、こちょこちょと顎の下をくすぐる。腕に頬ずりをすると、彼は溜息を吐いた。
「なにその顔。トロンとしちゃって。匂いも表情も身体も、ちっとも綺麗なお水じゃなくなった」
彼が私に覆い被さる。怒った顔はしていなかった。
「綺麗じゃない。僕が……僕が汚した? 君は……」
ほっぺに手が当てられたから、自分からすり寄る。彼を見上げると、彼は目を細めた。
「君は、綺麗だね」
囁くように言って、手が繋がれた。指と指が絡む。
「君は僕の大切な、人。……僕は、君のなにかな」
彼が私の目をのぞき込んだ。私は同じようにその目をのぞき返して。
「大好き、です」
いひひ、って、不思議と自然に笑えた。彼は大きく目を見開いて、それから声を上げて泣き出した。ボロボロこぼれる涙が私の身体を濡らす。
「僕も好き! 大好き! 君のことっ。ごめんね。好き、今までごめん。大好き……!」
唸りながら、彼は私のお腹に顔を押しつけてまた泣いた。ずっとずっと泣いて、そのまま寝てしまった。
私は彼の頭を撫でながら、もう片方の手を伸ばしてポインセチアの鉢を引き寄せた。
折ったり、曲げたり、爪を立てたりしながら何とか綺麗な形で赤い部分を外す。
そしてそれを、彼の頭に乗せた。満足した私はそのまま、また眠る。
起きたら、二人で風邪を引いていた。