朽ちるインフラ(ショートショート二次選落ち)
止まっているエスカレーターはひどく上り難くかった。
高さも奥行きも階段と変わらないはずなのに何度も足を引っ掛けて前の人にぶつかった。
照明も消えている。今は非常灯とその周りが緑色に浮かんで見えるだけだ。
足元だけでも見えればいいのだけれど、前に並んだ人が邪魔になって腹のあたりから下が見えない。後ろも自分と同じように並んだ人がいて下がることも出来ない。これでは照明が点いていたとしても足を引っ掛けてしまうのは変わらないだろうな。
緑色の人影を見上げながら若松秀樹はそんなことを考えている。
それというのも先ほど起きた地震がいけないのだ。
一週間前からバンド仲間とニューヨークを旅していた。なんとなくツインタワービルの跡地を見たくなった秀樹は仲間と別れて一人でタワー跡地の近くへと向かう電車に乗ったのだ。ほんの十数分だけ電車に揺られていればいいと思っていた。しかし、電車が駅へ到着するより早くそれは起きた。電車が揺れるのは普通の事だと思っていたから、体が浮き上がるまでは反対から来た電車とすれ違った程度にしか感じなかった。
どう転がったのかは分からない。立ち上がって先ず驚いたのは、自分が電車の壁に立っていることだった。点滅する照明に照らされて誰かが大声で喋る。立ち尽くす何人かと目が合う。スローモーションを見ているようで事態は急速に加速している。
わけもわからないままドアによじ登って外へ出た。シャッフルされたせいで、どっちが来た方向かも分からないから、とりあえず前を歩く人を追ってなんとか地下鉄のホームまでたどり着いた。このときはまだ停電まではしていなかった。エスカレーターやエレベーターは止まっていたけど、B5と書かれた白いプレートが、天上から下がっているのを見たのだから間違いない。そしてB4へ上ったところで照明が消えたのだ。
最初は色んな人が何かを言っていた。押したり押されたりを何度も繰り返す。そんな中で誰かが携帯電話を開いた。遠くで白く光るとまた誰かが携帯を開いていって連鎖的に明るくなる。秀樹も周りに倣いたかったが、携帯を他の荷物と一緒に預けているので出来なかった。
あれからだいぶ落ち着いて、初めほど大きな声を出す者はいなくなった。秀樹はポケットにメディアプレイヤーが入っているのを思い出してイヤホンで聞いている。
携帯電話よりも小さい画面に、再生中の文字と再生時間が表示されている。たとえ僅かでも、明かりがあると安心するのだと昔、テレビで言っていたような気がする。
少し、落ち着き過ぎだろうか。
白と緑の人影を見上げてみると、天井から下がったプレートが人の影に見え隠れする。このエスカレーターに並んだ時には見えなかったものだ。
出られる。暗がりの奥に浮かび上がるプレートを見つめると、そんな気がした。
時間は掛かるだろう。ここに来るまでもずいぶん時間がかかったように思える。プレイヤーの画面を見ると電池残量が半分になっていた。それだけ長い間聴いていたということだ。出来ることなら、電池が切れる前に出たいものだ。
再びプレートへ視線を向ける。暗闇とプレートの境界はとても曖昧で、輪郭を目で追っていくと視線は虚空を泳いでいた。プレートよりも更に奥の真っ暗で何も無い、どこか知らない所。
……虚空。
何も無い宇宙があそこなら、プレートは宇宙の漂流者。なら自分は……。
肩に走る痛みで思考が遮られる。痛みを発する所へ手を伸ばすと、肩に掛かる革のストラップが食い込んでいるのがわかった。
ここに来るまでもずっと背負っていたギターケースのストラップだ。ケースにはエレキギターが入っているので当然重い。
ストラップが掛かる位置と、背中とケースの間が汗ばんでいて気持ち悪い。
肩とストラップの間に指をねじ込んで位置を直す。服の端をつまんではためかせると空気が流れて汗が乾く。いくらか気が楽になる。
虚空へ思いを巡らせて事などすっかり忘れた秀樹は、何を思うわけでもなく頭に手を伸ばす。
髪は、早朝の霧の中を自転車で飛ばしたときみたいに濡れている。
濡れてまとまった髪を弄りながら、秀樹は来た道を回想する。地下鉄、ホーム、エスカレーター。少なくとも水を被るような場所を通った覚えは無い。なんで濡れているんだろう。
そのまま髪を弄る。イヤホンを挿したとき一緒に耳に挟んだ髪を指で引っ掛けて抜いた。くすぐったい。
「It'sRain」
後ろから子供の声。
外は雨か。友人と別れたときの空は曇っていたから別に不思議でもない。それよりも自分は傘を持っていない。このまま外に出たら濡れてしまうだろう。だが、髪はもう濡れてしまっている。
首筋を水が伝い背中に流れる。身震い。髪を弄る手に水が当たる。やや不規則なリズムで当たっては弾ける。
しかし、それは濡れた髪の毛から飛んで来るものでは無いように思えた。頭から手を離しても、水は手に当たってくる。
ポツ、ポツ。
やはりこれは髪から落ちたものではない。もっと上から・・・・・・。
手に当たる水が重みを増す。手を伝い袖から肘を濡らしていく。この水は、上の階から落ちてきているものだ。秀樹は確信する。
次第に大きくなる水音の裏に重低音。それは数秒としない内にやってきた。
咄嗟に手すりにしがみつく。
強い衝撃が襲う。地下鉄の時と、同じ感じ。
浮き上がって急降下。
前に並んだ人が視界の下へ落ちて虚空を漂う薄い影が視界を横切る。
体が跳ね上がりエスカレーターから上半身が飛び出す。水で滑る手すりになんとか手を掛けて堪える。背中のギターで重心が前に傾く。それもなんとか堪える。
大きい声。高い声。声が混ざり合って自分の声がわからない。上っていたはずのエスカレーターが下を向いているが、何故そうなったのか考えている余裕は無い。
すべる手すりを何度も掴みなおして足を床に着けようともがく。
頭の上の水溜りが緑色をしている。
そして再び激しい浮き沈みが襲ったとき、秀樹はついに全ての支えを失った。
それから、どれくらい経ったのだろう。
秀樹は眠っている。
その隣の壁にはギターケースが立てかけられてあった。