伯爵家令嬢の朝帰り
あたしの名前はレティシア・フローレン。
フローレン一族の長女である。
あたしの3歳下の弟がフローレン一族の跡取りである。
弟の誕生をもって、あたしは外にお嫁に行くことが決まった。
たいして美人でもなく、伯爵程度の家柄であるものの、この国ではたまたま、王太子と年回りのあう貴族令嬢が居なかった。
何十代も前のご先祖様に、王家の血筋が入っているとかで、あたしはウッカリ王太子の婚約者という立場になってしまった。
もしも、あたしがある程度、成長していれば、どんな手を使ってでも婚約など阻止しただろうが、あたしが物心つく頃には、周囲は皆、次期王妃様だと認識していた。
――――――非常に迷惑な話である。
王妃になりたいという野望もないが、ウッカリ王太子の婚約者になってしまったあたしは、3歳から王妃のための英才教育がなされていた。
テーブルマナーに、他国の語学。
王が不在のときには戦にも借り出される可能性があると、兵法まで学ばされた。
正直、王太子よりもよっぽど勉強していたと思う。
そんな立派な王妃候補として成長したあたしが、なぜか、見知らぬ男とベッドイン。
ありえない。
本当にありえないとしか言いようがない。
男の家は王都の一角にあり、あたしの屋敷とはほぼ反対側に合った。
辻馬車も走っていない早朝のため、伯爵令嬢が供も連れずに、街中を急いだ。
誰にも見られなかったのは不幸中の超幸いとしか言えない。
見慣れた屋敷の生垣の隅に、小さな穴がある。
幼い頃、発見した秘密の抜け穴である。
まだ入れるかな?と覗き込んでみると、向こう側の誰かと目が合った。
ぎょっとして、声にならない悲鳴を上げて、しりもちをついた。
「レティシア姉様」
恨めしい呪いの言葉でも発するかのように、名前を呼ばれて、もう一度、生垣の向こうを覗き込むと、同じ目をした彼と目が合った。
「リューイ、何しているの? そんなところで」
「それはこっちの台詞です」
弟リューイはジトッとあたしを睨み付けなら、穴の向こうで座り込んでいる。
「とにかく、こちらに来てください。表から入ったら、使用人もみな腰を抜かしてしまうので、穴から。僕がこっちから、引っ張ります」
「あ、ありがとう」
朝帰りの伯爵令嬢など見たら、使用人も、皆、誰もが腰を抜かすだけではすまない。
あたしは弟の優しさを素直に受け入れて、穴の中に頭を突っ込んだ。
なんとか生垣をくぐって、屋敷の中に入る。
裏口から、自室に戻る廊下はまだ、朝方ということで静かだった。
「レティシア姉様、それで昨日はどこに居たんですか?」
弟 リューイは問いただしたいのを必死で我慢していたのだろう。
部屋に入るなら勢いよく、訊いた。
「一晩ですよ。一晩。ま、まさか、王太子の馬鹿と一夜を!?」
自分の言葉にショックを受けたのか、リューイは顔を真っ青にして今にも倒れそうだ。
――――――大丈夫。王太子ではない!
胸を張って言いたいところだろうけれど、王太子の婚約者である今、隣に寝ていたのが馬鹿太子のほうがよっぽど良かった。
とかいう前に。
リューイもあたしも、馬鹿とか本当のこと言っちゃダメね
ブラコンまっしぐらのリューイはあたしが、王太子と結婚することに大反対の一人だ。
あたしが物心つく頃には婚約は成立していたのだから、リューイにはどうすることもできなかった。
リューイの最大の汚点は、あたしよりも先に産まれなかったことらしい。
もしも、産まれたら全力で王太子との婚約なんてさせない、日ごろから息巻いていた。
「リューイ、ちょっと落ち着いて」
あたしの内面はリューイよりもパニック状態だけど、見かけだけでも落ち着いて言った。
「ちょっとお喋りし過ぎて、帰るタイミング逃しただけ。女子会よ」
「女子会?」
「そうよ。伯爵令嬢としてはあるまじきことだから、こっそり帰ってきたけど、本当に夜会に出ていた女性たちと集まっていたの。楽しかったわ。恋話」
「レティシア姉様に、語れる恋話なんてないじゃないですか」
痛いところをついてくるリューイは、あたしに良く似ている。
「ほかの方とお話を聞いていたんです。どの方のお話も、物語のようで楽しかったわ」
「ほんとですかー?」
明らかに疑う表情のリューイに、あたしは「本当よ、本当」と何度も念を押した。
「リューイは、姉様が信じられないっていうの?」
「年頃の乙女が朝帰りすれば信じられないのも無理はないですよ」
まぁ、ご尤も。
あたしはリューイに拍手したくなったけれど、ここで負けるわけには行かない。
「本当よ、本当に、ほんと。信じなさいって」
「まぁ、わかりました。渋々ですが、姉様のいうことを信じます。でも、例え、女子会だとしても、結婚前の令嬢が朝帰りなんて許されませんよ?」
「わかってるわ。リューイ、もう絶対にしません」
あたしはリューイを安心させるように、穏やかに微笑んで見せた。
「まったく、姉様は猫をかぶるのだけは一級品なんだから」
「あら? リューイ、それはお互い様よ。社交界随一の貴公子なんて、いったいどこの誰に呼ばれているのかしらね。あたしの弟は」
リューイはあたしの言葉に、すねたように唇を尖らせた。
子どもっぽいしぐさは、夜会の女性陣が一度も見たことのないものだろう。
母親譲りの金髪に、色素の薄い茶色の瞳。
黙っていれば、王太子よりも美形の貴公子 リューイ。
しかも、フローレンの跡取りなのだから、夜会では引く手数多になるのも無理はないだろう。
「とにかく、姉様は綺麗で美しくて、優美で可憐で、愛くるしくて、素敵で麗しいのですから、気をつけていただかないと困ります!」
あたしにビシッと指をつきつけてきたリューイ。
あたしは唖然と彼を見上げた。
―――――――リューイって、言葉をよく知ってるわね
混ぜ返すと、面倒な時間が長引きそうだったので、そっと飲み込んだ。