1話
初投稿になります。温かい目で読んでいただけたら幸いです。
一之条葉花は、自転車に乗って信号待ちをしていた。大きな環状線を渡った先に、大型スーパーがあるのだ。
葉花は現在二十五歳独身、セミロングの黒髪に、ヤセ型、身長は百六十センチ、ごく平凡などこにでもいそうな人間だと、自己評価している。都内のマンションに一人暮らし中で、某有名ホテルに勤めている。そういえば聞こえはいいが、仕事内容はホテル内のレストランのウェイトレスである。サービス業なので、基本土日は確実に仕事で、平日に不定期で週二ペースの休みがあるが、このところ毎日残業続きで、休みの日は、十時頃まで寝て、そのあとには、たまった家事をこなし、買い出しに行くと、あっという間に夕方になる。
こんな生活を送っていて、果たして彼氏が見つかるのだろうかと、交通量の多い平日の環状線を走り去っていく車をぼんやり見ながら、ため息を吐く。
買い物が終わったら、気晴らしに街にでも出かけてみようかと、ふと、自分のTシャツに短パン、日焼け止めを塗っただけの冴えない顔と、寝癖をごまかすためにとりあえず一つにまとめただけの髪型という姿を思い出す。ここから化粧をしてオシャレをして出かけるのが、たまらなく面倒に思えた。
きっとそれが面倒だと思うようになってしまったら、女として終わりなんだろうなと、げっそりする。
右から左に流れていく車の先から、救急車のサイレンが聞こえた。
歩道の信号が青に変わったが、救急車のサイレンはすぐそこまで来ている。
葉花は仕方なく、信号を渡るのを止めて、救急車が通りすぎるのを待つ。
ここの信号は変わるのが早いのだ。おそらく救急車をやり過ごしたら、もう一度信号を待つことになるだろうと、葉花は損した気分になる。横で信号待ちをしていた中年の男はあからさまに、不服そうな顔をした。
とくに興味があるわけでもないのに、サイレンを聞いていると、つい見てしまい、少し身を乗りだして、救急車がやってくる方向を見る。
救急車の真横を、それと同じくらいの速度で走ってくるものがちらりと見えた。
最近は自転車ブームで、ロードレーサーに乗って車道を走る自転車をよく見るなとは、思っていたが、さすがに救急車の真横を猛スピードで走るのは危ないと思いながら、じっと見ていると、自転車にしては何かおかしいと目を凝らした。
大きくなるサイレンの音と共に、その姿がはっきり見えた。
走っていたのは、大きな金色の豹だった。
「は?」
思わず息が漏れるように、声を出してしまった葉花は、茫然とその姿を見ていた。
葉花の声が聞こえたのか、中年の男が、訝し気に視線を向けてきたが、すぐに車道に顔を戻す。中年の男は、特になんでもないように、救急車が通り抜けるのを待っている。
救急車が、信号に差し掛かり、拡張機から、くぐもった男の声が響く。
『赤信号直進します!赤信号直進します!』
周りの車がみな、端により停止する中、救急車と、金色の豹が目の前を通過していく。
葉花は唖然として豹を見ていたが、視線を感じたのか、豹の目玉がすっと葉花を捉えた。葉花はびくりと身をこわばらせるが、その目から視線を外せず、じっと見てしまう。
救急車が走り去っていく中、豹は、交差点の真ん中で、走るのをやめた。そして、葉花の目を捉えたまま、ゆっくりと向かってくる。
「あ……」
こんな交差点のど真ん中に、大きな豹がいるのに、どうして誰も騒がないのだろうと、疑問に思いながらも、葉花は、蛇に睨まれたカエルのように、恐怖で全く動けなかった。
中年の男は、点滅している青信号を、小走りで渡っていく。
横断歩道の向こう側からは、買い物袋を持った主婦が、こちらに向かって駆けてくる。このままだと豹にぶつかってしまうと思うのに、声も身体も固まってしまったように、動かない。
主婦は、何も見えないようで、すっと豹を通りすぎて歩いて行ってしまった。それはホログラフで映し出された画像の上を通っていくように、するりとすり抜けた。
葉花は、これは夢なのかと目を疑った。豹は葉花の目の前で立ち止まり、金色の目でじっと見つめ、口を開いた。鋭い牙が見える。
葉花は豹が自分に食らいついてくるのかと身構える。
しかし豹がした次の行動は、予想外のものだった。
「おい、お前。見えているんだろう?」
「!」
開かれた口からは、人間の言葉が発せられた。
ぽかんとしたまはま突っ立ている葉花に、豹は目を細めて再び尋ねる。
「おい、お前。私を無視する気か。見えているのだろう」
「夢か……」
葉花は、豹がしゃべったことで、夢だと確定した。最近疲れていたせいだなと、変に納得する。納得はするが、嫌に生々しく冷や汗が背中を伝う。
「おい、夢ではないぞ。私が見えているならちょうどいい。探す手間が省けた。私と契約してくれ」
「いや、契約とか無理なんで。お断りします」
葉花は早口でそう言うと、豹を無視して、やっと青に変わった信号を勢いよく渡った。
ペダルを一気にこぐと、自転車は少し下り坂なのもあり、ぐんぐん速度があがった。葉花はふうと、息を吐くと後ろを振り返った。
そこには、さっきの豹がぴたりとついてきていた。葉花は驚いてバランスを崩しそうになって、慌てて踏ん張って自転車を止めた。
「ついてこないで!」
豹に向かってそう怒鳴ると、すれ違った人が、ぎょっとした顔で葉花を振り返り、怪訝そうな目を向けて、足早に立ち去って行った。
(やっぱり他の人には見えてないんだ。なんなのこれ!本当に夢?)
葉花は自転車を方向転換させると、じっと見ている豹と目を合わせないようにして、自宅に向かって自転車を飛ばした。
途中振り返ると、豹はついてきていなかった。
それでも、葉花は気味が悪く、大急ぎで帰ると、一人暮らし中のマンションの部屋に駆けこんだ。ドアの鍵をしっかりかけて、チェーンもかける。
息が切れていた。
乱雑にスニーカーを脱ぐと、台所に行き、冷蔵庫から麦茶を取り出すと、コップに注いで一気に飲み干した。
今現在、自分が夢を見ているという感覚はない。
自分は頭がおかしくなってしまったのだろうか。それとも、豹の幽霊でも見たのだろうか?と葉花は頭をひねりながら、夏の気温で熱のこもった部屋に外の空気を入れようと、窓を開けた。
さっと心地よい風と共に、ひらりと金色の豹が部屋に入ってきた。
葉花は、再び背筋につめたいものが走った。身体中の毛が逆立つようなそんな感覚がした。
やはり夢ではなかったのだ。
部屋の中で見ると、その豹はさらに大きく感じた。
葉花が四つん這いになったよりも、一回りも大きく、もし襲われたらひとたまりもないと、恐怖で身体が強張った。
「おい、お前、そんなに怯えるな。なんだか悪い事をしている気になる」
「え……」
「そういえばよくケンタロウが言っていたな。私の見た目は人間にとっては怖いものだと。見た目は怖いかもしれんが、私はお前に危害を加えるつもりはない。話を聞いて欲しい。そして出来れは、協力してほしいのだ」
「ほ、本当に噛みついたりしない?」
「しない」
「絶対よ!?」
「分かった。なら話を聞いてくれるか?」
「わ、分かったわ」
葉花は窓際のフローリングにちょこんと座る豹を見ながら、自分も恐る恐る、ベッドに腰かけた。
「私と契約してリムの提供者になって欲しい。期間は一月だ」
真面目な顔で訳のわからない事を言う豹に、葉花は困惑する。
「何を言っているのか全然分からないわ。リムってなに?」
「リムとはリムだ。私の身体はリムで出来ている。存在するだけでリムはどんどん減っていく。だがこの世界にはリムが絶対的に少ない。だから、お前のようにリムを持っている人間に分けてもらわないと、私はそう遠くないうちに消滅してしまう」
「ちょ、ちょっとまって。一個ずつ聞いていい?」
「ああ、いいぞ」
「この世界って言ったけど、あなたはこの世界の生き物ではないの?」
「そうだ。この世界に隣接した他の世界からきた」
「ちょっと信じられないけど、それは置いておいて、私にリムを分けて欲しいって言ったけど、私はそんなもの持っていないわよ?」
「お前は私が見えるのだろう。リムで出来た私を見る事が出来るという事は、リムを身体の中に持っている人間だからだ。ある一定以上のリムを体内に持っていないと、私を見る事はできない。リムを持たない人間などは、私にさわることすらできない」
葉花は、信号待ち中に、買い物帰りの主婦が豹をすり抜けたのを思い出す。
「私はあなたにさわれるの?」
「そのはずだ。まあ、さわれれば、リム持ちだという事は確定だがな」
「ちょっとさわってみてもいい?」
話しているうちに、豹の存在に少し慣れた葉花は、むくむくと好奇心が湧き上がってくる。
「さわりたいなら、さわればいい」
豹の金色の目は、葉花をじっと捉えたままで、話す口元からは、鋭い牙がのぞく。真正面から向き合うとかなり恐ろしい。湧き上がっていた好奇心はあっという間にしぼんでしまった。
「やぱっぱりいいや」
豹は、ほんの少し首を傾げた。葉花は、今怖いと思っていたのに、そのしぐさを、ほんの少しかわいいと思ってしまった。
「そのリムを分けるっていうのはどうやって分ければいいの?私には自分にリムっていうのがあることすら分からないのに」
「私と契約すれば、リムを分け与える事ができる。お前の体液を私の中に取り込んで、お前が私に名を与える。それだけだ」
「体液?」
「ケンタロウは血液とやらをくれたな」
「その、ケンタロウっていうのは誰?」
「私の前の契約者だ」
「じゃあその人にまた契約してもらえればいいじゃない」
「ケンタロウはもういない。三日前に消滅した」
「消滅!?」
「ああ、人間は死んだというのだったな。ケンタロウは死んだのだ」
なんの感情もなく淡々というその金色の豹を、葉花は不思議そうに見た。
「ケンタロウさんって人が死んで悲しくないの?」
「悲しいというのが何かよく分からない。ケンタロウもたまに言っていた。悲しくないかと。人間の言うところの悲しいというのが分からない。楽しいは分かる。ケンタロウが楽しいの反対だと言ったが、楽しいの反対なら、つまらないということかといったら、それとは違うと言われたな。未だに分からない」
「そう。ケンタロウさんは何で死んだの?」
葉花はもしかしたら、契約とやらが、その死に関わっているのではないかと、頭をよぎった。
「ケンタロウは、病気で死んだ。突然倒れた。病院とやらに運ばれたが、あっという間に死んでしまった」
「なんの病気だったの?」
「人間の病気など知らん。ただ、人間があっという間に死んでしまうということは分かった」
「そう……。じゃあケンタロウさんが死んだことと、契約とは関係がないのね?」
「ない。契約してリムを分けてもらっても、命にかかわることはないと思う」
「ないと思う!?ないとは言い切れないの!?」
「お前のリムを私が全部吸い取ってしまったら、どうなるかわからん。前にケンタロウのリムを吸いすぎて、ケンタロウが倒れた事があった。それからは気を付けているから大丈夫だ」
「なんか物騒な話になってきたわね。私が嫌だと言ったら?」
金色の目がすっと細くなった。
「他を探すしかないな。だが、私もあまり時間がない。ケンタロウが死んでから、もう三日もまともにリムを取り入れていない。このままだとあと数日で私は消滅するだろう。リム持ちの人間は少ない。私はケンタロウとの約束を果たすために、あと一月だけはどうしても、存在していたいのだ。だから、もし、どうしても他にリム持ちの人間が見つからなかったら、お前を食ってでもリムを身体に入れるしかない」
「ちょ、ちょっと待った!食うってどういうこと!?」
「契約すれば、触れるだけでリムの受け渡しができるが、そうじゃない場合は、そのリムを持った存在を身体に取り込むしかない。文字通り食う」
「それって、私を殺すと言っているの?」
「食ったらお前の存在は消滅するから、ケンタロウと同じで死ぬという事だろうな」
「私に拒否権がないじゃない」
「お前の他にリム持ちが見つかれば、そちらに契約してもらう」
「リム持ちの人間は少ないってあなたさっき言ったじゃない。あと数日中に見つかるくらいの人数は存在するの?」
「しないだろうな」
「じゃあやっぱり、契約しないと殺すって言っているようなものじゃない!」
葉花はだんだん腹が立ってきた。
「私とて、そんなことがしたいわけではないが、あと一月生きるためだ。仕方がない。こちらとしても、人間を殺すといろいろ面倒なのだ。まったくごちゃごちゃ言わずに契約すればいいだろう?ケンタロウはすぐにリムを分けてくれたぞ」
「ケンタロウさんの事なんて知らないわよ。私は自分に危険が伴う事はしたくないの!」
「たった一月だ。リムを与える事に危険はない。ケンタロウを知らないというが、ケンタロウは自分でこの国で自分を知らないものなどいないと言っていたぞ?お前は知らないのか?」
「は?しらないわよ!そんな話をしているんじゃないでしょう?」
「ふむ。クロキケンタロウといえば知らぬものはいないと、あれだけ自信満々に言っていたのにな」
「クロキケンタロウ?黒木、健太郎……、黒木健太郎!?」
「なんだ、やはり知っているのか?」
「あの、超有名な、俳優の黒木健太郎!?」
「ああ、ハイユウという仕事もしていたな。よくサツエイとやらに連れていかれた」
葉花は、勢いよくベッドから飛び上がると、数日前の新聞を漁り始めた。
「確か……、おとといの新聞に、あった!これだ!黒木健太郎死去、港区の路上で倒れているところを、通行人が発見し、病院に搬送も意識不明のまま数時間後に死亡確認。死因は脳梗塞……」
葉花は、新聞記事を食い入るように読んだあと、最初と変わらぬ姿勢のままじっと葉花を見ている金色の豹に顔を向けた。
そのまま黒木健太郎の顔写真が載っている新聞を、おそるおそる豹の目の前に広げる。
「黒木健太郎ってこの人?」
「そうだ」
「そう……」
葉花は新聞を掴んだまま、ベッドに戻り腰を下ろす。
黒木健太郎が本当にこの豹と契約していたというのなら、自分も大丈夫なのではないかと思えてきた。
「健太郎さんとは、どのくらいの期間契約していたの?」
「人間の数え方でいうと、たしか二十年だ。ケンタロウがそう言っていた。今年でちょうど二十年だと」
「そんなに……」
「ケンタロウも二十年契約していたが大丈夫だった。これで安心だろう?契約してくれるか?」
「いや、ちょっとまって!まって、ひと月って言ったけど、その契約って一回したらどうやって解除するの?そもそも契約するとき、血ってどのくらい必要なの?」
「ち?ああ、血液か。ほんの少しで大丈夫だ。指先でもなんでも、針で刺したくらいの血で平気だ。あとは名前を付けるだけだ。解約は同じように血液を舐めて、解約と言えばいいだけだ。リム持ちの人間は体内でリムを生成できるようで、一日に一度、私にさわってリムを分けてくれればいい。ケンタロウが言うには、リムを分けすぎると、身体がだるくなったり疲れたりするが、食って寝れば治ると言っていた。そもそもリムを分けすぎなければいい。そのへんはやれば加減が分かってくるはずだ」
葉花は豹の説明を聞いて、頭の中で整理する。なんとなく理解はできた。
「もう一つきいていい?」
「なんだ?」
「健太郎さんとの約束って何?」
「二つある。ケンタロウが死ぬ直前、私とケンタロウはリムルを追っていたのだが、その途中でケンタロウが倒れたので、そのリムルを見失った。ケンタロウはそのリムルを絶対に帰すと言った。だから、私はそれをかなえる」
「また分からない言葉が出てきた。リムルって何?」
「リムルとは私と同じく、隣の世界からやってきた、リムの生命体だ。それをこちらの人間はリムルと呼んでいる。ケンタロウと私は、リムの力を使って、こちらの世界に迷い込んできたリムルを元の世界に帰していた」
「そんな事ができるの!?けど、じゃあ、なんであなたは帰らないの?ケンタロウさんあなたを帰すことができたんじゃないの?」
「まあ、できたのかもしれないな。けど私はケンタロウと一緒にいて、リムルを帰すことをしているうちに、それが当たり前になっていて、自分が帰りたいとは思っていなかったな。多分ケンタロウといると楽しかったのだろう」
「私のリムを使って帰ることはできないの?」
「さあな、興味がない。元の世界に戻りたいとも思わない。ケンタロウもいなくなったし、約束が果たせれば、もう消えてもいい」
葉花は複雑な気持ちになった。それが悲しいという感情なのだろうが、言っても分からないといわれるのだろうなと思った。
「あと一つの約束は?」
「隅田川の花火を見ることだ」
「花火?」
急に話が思いもよらぬ方向に飛んで、葉花は目を丸くした。
「ケンタロウと約束した。今年もまた一緒に花火を見ようと。ケンタロウはもういないが、今年も見ようとケンタロウが言ったのだ。だから見る」
「健太郎さんの事大好きだったんだね」
「大好き?それも良くわからない。ケンタロウも言っていた。『お前、俺のこと大好きだな』と。一緒にいると楽しいとは思ったが、好きというのが分からない」
ほんの少し、金色の目が困ったように揺れた。
「私はケンタロウさんじゃないから、あなたにリムを分けるしかできないよ。きっと一緒にいてもあまり楽しくないと思う。それにそのリムルを帰すとか、よく分からないし、手伝えないと思う」
「元より期待はしていない。リムルも自分で探すし、帰すのも、何とか自分でやってみるつもりだ。花火の日までには終わらせる。それで花火を見たら、契約を解除してくれて構わない。お前にはリムをもらう以外では迷惑はかけない。目障りならば、普段はどこかに行っていよう」
葉花はこの金色の豹の話を聞いて、少し情が湧いてきていた。黒木健太郎が死んで悲しいのに、本人はそれを理解できずに、彼との約束を果たして後を追おうとしているのだ。ひと月だけなら、協力してやってもいいのではないかと葉花はそう思ってしまった。
それが葉花の運命を大きく変えることになろうとは、この時は思いもしなかった。