26.
蟲怪奇事件から二週間が経った。
突如崩壊した『蟲』の光景に陰察官たちは目を白黒させるも、適切な判断と指示の元、解放された人間たちの救命、及び、事態の収束へと迅速に行動を移した。
『蟲』に寄生されたとされる多くの被害者たちは生還したものの、どうして無事だったのか、なぜ蟲が突然崩壊したのか――現場にいた陰察官たちは未だ強い疑問を抱いたままだ。
現場に残されたのは蟲の残骸と思しき欠片と、干乾びた『心臓』。
鑑識の結果から判明したのは、元は人間のものだったということだけ。他にもあの『蚯蚓』の構造やその仕組みも明らかとなったが、それが謎を解く手がかりになることはなかった。
だが何よりも残った大きな謎は、犯人がこの事件を起こした目的にあった。
被疑者とされる加佐見徹が企てた其れは、果たして《蠱毒》だったのか。だとして、膨大な霊力を必要とするその呪術を、何のために持ち入ろうとしたのか。
推測は出来ても、答えとなる確証が無ければ、疑問は増えるばかりだった。
――そうして、慎重な調査と鑑識の元。関東管区の捜査官たちは加佐見徹と、蟲の発生原因とされる『薬』を探し、突き止めることを命じられた。
♢
「――つってもなぁ、やっこさんが尻尾掴ませることなんて、しばらく無ぇだろうしなぁ……」
「……加佐見を取り逃がしたのは貴方でしょうが」
「あー……」
新宿、大橋病院。
今回の『怪奇事件』に関わった多くの被害者が搬送されたその医院の一角で、二人の男が並んで歩いていた。
紺色のブレザーの制服を小奇麗に着こなした青年と、無精髭を汚らしく生え散らかしたスーツの男だ。
こつこつと靴音を鳴らしながら、二人は目的を持って廊下を進んでいる。
「まあ、あれだ……逃がした者はしょうがないって」「と思うのなら後で医者に脳の検査をしてもらいましょうか。費用は陰察局から事件の後遺症と言って出してもらえば良い」
「……ほんと俺を病気にするの好きだよね。みんな」
ちょっとした冗談も許してくれない後輩に、男――坂下は疲弊したように背中を丸めた。ポケットに手を突っ込んで歩く姿は、まるで残業で草臥れたサラリーマンのようだ。
「貴方が、そう簡単に加佐見を逃がすとは思いませんでした」
「……」
誰に言うでもなく、隣の青年――土御門春一がぽつりと溢した独り言のような呟きに、坂下は思い耽るように目を細めた。
廊下の窓へと視線を移せば、加佐見と相対したビルを遠目で捕えることが出来た。
坂下の脳裏に浮かぶのは二週間前の夜。いや、明朝と言った方が良いか。
崩壊する蟲と振動する霊気を背後に佇む《男》は、飄々と微笑を湛えていた。
小奇麗なシャツにスラックス。黒いロングコートを羽織った肩は広く、力強い印象を与えている。だが髪はボサボサで野暮ったく、眼を覆う橙色のレンズは派手だ。硬派とも軟派ともいえる、なんともふざけた雰囲気を持った《男》だった。
坂下は過去に《男》と三回の対面を果たしていた。どれもふざけた事件の真っ只中で、邂逅している。
『ふざけている』――それが坂下の抱く、《男》――加佐見徹に対する印象だった。
そんなふざけた男である加佐見徹だが、先日、坂下が対面した際に、大きな三日月を描いた口が吐いた言葉は、これまた簡素で、『ふざけていた』。
『お久しぶりです、坂下捜査官。そして御機嫌よう』
『――おい!』
挨拶をしたかと思えば、なんの躊躇も無く屋上から飛び降りやがったのだ、奴は。
だが、坂下も伊達に三回も加佐見と相対していたわけではない。
即座に逃がすまいと坂下は駆け出したのだが、加佐見は予測していたのか、やはり罠を張っていた。
いつの間にか坂下の足元に転がっていた閃光弾。まさかの古典的な手段に、坂下は引っかかってしまったのだ。
「本当に見事ですよ。そんな手段を使った加佐見も、それに引っかかった坂下さんも」
「……だから、悪かったって」
どこぞの刑事と怪盗の、対決のような展開を繰り広げたことに、春一は呆れていたようだった。相手の呪術に苦戦するならまだしも、そんな子供の騙し討ちのような罠に嵌った事実に、余程の問題を感じたようだ。
溜息交じりに嫌味で傷口を突く春一に、坂下は罰が悪そうに目を泳がせた。心なしか口元が、引き攣っている。
だがふと宙で視線を止めると、坂下は誰に問うでもなくポツリと独り言のように呟いた。
「……あんな化け物を生み出して。加佐見は、何がしたかったんだろうな」
「さあ……それは直接本人に聞くしかないでしょう。俺としてはあまり戯言は耳にしたくありませんがね」
「言うねぇ」
「加佐見徹に関しては皆、同じ見解を抱いてますよ」
思い浮かべるは三日月のような薄気味悪い笑みを貼り付けた面差し。そして、記録に残された奴の経歴。
過去に起こされた数々の事件とその人物を思うと、ずきりと鈍い痛みが春一の米神を苛んだ。本当に、厄介なのが新宿に来たものだ。
かつかつと、二足の革靴の冷たい音が廊下に響く。目的の病室まではまだ遠い。
「あの少年。片瀬くん、だっけか。どんな子なんだ?」
「……普通の。いや、色々と面倒な子供ですよ」
普通。坂下の問いにまず、そう答えようとした春一だったが、ふと思いなおして訂正した。
あれは、厄介な人間だ。
「なにか、厄を持っているのではないのかと驚くほど事件に遭遇する。まあ、その大半の理由が妖怪と関わっている所以、なんですけどね」
「ああ……『神の欠片』の子みたいにか」
「そうですね。沢良宜とある意味似ています。しかし、彼は状況を客観的に見る能力と己の分を弁えるぐらいの精神を持っていたはずなのですが……」
どうやら、自分の評価は間違っていたらしい、と春一は難息を漏らした。
「……今回の件とどう関わっていると思う?」
探るような坂下の問いに、春一は思考するように目を伏せる。
「アレは間違いなくまた巻き込まれた口だと思います。が、」
ふと二週間程前の光景が瞼の奥を過って、春一は眉を顰めた。
その様子を見て、坂下は苦笑交じりに息を吐いた。
「けど、あれはなぁ……」
青年が振り返っているだろう記憶と同じ光景を、坂下も脳裏で掘り返す。
艶の無いボサボサの黒髪に、血と痣だらけの身体。黄色く変色したブラウスをはためかせる少年はボロボロで。だけど、その背景と相まって、坂下の目には異様に映った。
暗闇の中で煌めく黒。街に溢れる光に照らされた姿は、嫌が応にも人の目を惹きつけた。
不死身の蟲を深く突き刺す、墨のような黒い太刀。鍔は無く、あるのは黒い刀身と真っ赤な柄だけ。武骨で、繊細さの欠片もないソレは、だが何処となく強烈な存在感を放っていた。
どんなものも切り裂く大太刀。振りぬかれる際に刀身が描く円弧の閃きは、烈しく、そのくせ静かだった。
「……あんなもの、何処で手に入れたんかね」
ぽつりと、落とされた坂下の呟き。それに何度目になるか分からない溜息を落とした春一は、俯いていた顔を上げた。
「――それを、今から聞くんでしょう」
かつり、と最後の靴音を真っ白な床に打ち鳴らして、立ち止まった。
眼前には閉ざされた引き戸。壁に貼り付けられた名札には『片瀬桐人』と『206』号室の文字。
其処は二週間ぶりに目覚めた少年の病室だった――。




