20.
阿魂は、この状況に対してほんの少しの苛立ちを抱えると同時に、退屈を覚え始めていた。
別に敵が居るのは良い。
だが、相手は特殊な能力を持っていなければ、どんな攻撃さえも防御できる合鐵の鎧を持っているわけでもない。
なんてことない、ただ怪我をすれば自己修復するだけの――蟲。
特に技を捻ったり、何か策を練るわけでもなく、単純に触手で向かってきては怪我をして、霊気を吸っては回復するだけの、学習能力の無い自動機械と同じだ。
「あー……つまんねぇ」
――つまらない。まさに無為無聊。実に無益なつまらなさだ。
こんなもの、相手にするだけ無駄だ。
阿魂としては、蟲など放っておいて、酒をつまみながら月見でもしたいところだが、面倒なことにあの中には《花耶》がいる。
ならば蟲を潰そう、と思っても一歩間違えれば、中にいる彼女も死んでしまう。
彼女を殺すわけにはいかないので、こうも回りくどい手段を取っているわけだが……阿魂の忍耐力は枯渇しつつあった。
蚯蚓の上半身を吹っ飛ばせば自然と腹の中も見える。気配からして、花耶は蚯蚓の下腹部あたりにいるので、的を外さなければ問題ないだろう……なんて、半ば投げやりに、阿魂は思考した。
せめてこの馬鹿げた蟲を作り上げた背後の術師が出てくれば、阿魂ももう少し楽しめたのだろうが、その様子も皆無。
だが、遠方のビルから薄らと気配は感じるので、これが終わったら顔を拝みにいくのも良いかもしれない、と阿魂は思い直した。
――結局のところ、これだ。この男は、娯楽を求めていたのだ。
『沢良宜花耶』が捕まった時も、不測の事態になった時も、実際のところ、阿魂は苛立ちよりも、一連の事件から微かに漂ってくる『狂気』の匂いに期待を膨らませていた。
欲しいのは、命のぎりぎりの瀬戸際で生まれる『狂気』と『歓喜』。それは簡単に手に入るものではなく、だからこそ阿魂は喉の渇きを誤魔化すために、代わりに酒に溺れ、女を抱き、快楽に浸った。
……まあ、それが原因で、長い眠りに落とされてしまったわけだが。
それでも、沢良宜花耶の手によって封印が解かれてから数か月。阿魂は酒だけで胸に渦巻く渇望を誤魔化してきた。だが、退屈な気持ちは日々、増していった。
――そんな時だ、この一連の事件が起きたのは。
あの巨大な蚯蚓が生まれた瞬間――久々の《予感》に阿魂の心は躍った。
けれど、どうやら期待外れだったらしい。蚯蚓はなんてことはない、壊れたら再生するだけの自動人形だった。
……では、阿魂の目の前に立つこの《少年》は、どうだ?
♢
――少年は、元から阿魂の眼中になど入っていなかった。
最初から阿魂の中で、『彼』は沢良宜花耶のお幼馴染みという認識程度で終わってしまっていた。
あとは言うなれば偶に其処に居る都合の良い駒と、自宅と言う名の『休憩場』の持ち主。
一言二言会話を交わしたことは覚えているが、内容は殆ど思い出せない。
そもそも、阿魂は少年の存在さえも忘れていた。
確かに府中では虫の居所が若干悪くなり、彼を脅してはいたが――ソレは阿魂からすれば、偶々自分の視界を横切ったコバエを軽く叩きつぶすぐらいの感覚だった。
阿魂の頭にあったのは、単純に沢良宜花耶の奪還と害虫駆除だけ。あと何かがあるとすれば、それは今夜のつまみや酒とか煙管のこととかで、それだけしかなかった。
今とてそうだ。
なんか居るな、と思っていたら道の邪魔に入ったので、軽く視界から蹴り飛ばした――そんな感覚で阿魂は、少年を片付けようとしていたのだ。
結局桐人は、阿魂にとって、背景の一部にしか過ぎなかったのだ。
桐人が触手の群れに捕まった時も、「コバエがコバエ取りに捕まった」という認識程度で終わり、次の瞬間には桐人のことをポロっと忘れていた。
ただ、早々にこのくだらない茶番に幕を下ろして一服したい。そんな気持ちで阿魂は腕を振り下ろ――そうとしていた、時だった。
――視界の端で、不意に『何か』が動いたのは。
突然、吹き飛ぶ触手。吸われる霊力。
渦巻く大気の中心で静かに佇む少年に、阿魂は結構――驚いた。
妖刀か、或いは別の何かか。得体の知れない武器を手にする桐人に、ほんの少しの興味が湧いたのだ。
――「後で幾らでもぶん殴られてやるから、手を貸せ! 耳を貸せ! この糞鬼が!!」
それを叫ぶ様は、明らかに喧嘩腰だった。
向けられた切っ先へと阿魂は視線を這わせ、次に息を荒げる幼い顔へと、視線を滑らせた。
擦り傷だらけの頬に、黄ばんだ白のブラウス。黒い大太刀を握る手は、真っ赤に染まっているのが遠目からでも分かった。
脆そうな身体だ。人間としては普通なのだろうが、大柄な阿魂からして見れば一吹きで簡単に飛びそうな骨身だった。
だがそんな貧弱そうな少年が、ほんの一弾指の間だけ放った存在感に、阿魂は言い様の無い高揚感を覚えた。
力の無かったはずの人間が、いや、人間だからこそ、この胸の高ぶりを感じたのかもしれない。
瞳孔の開いた桐人の瞳からは、『狂気』に近い何かが渦巻いていた。
それを見て、阿魂はふと、桐人が自分の予想を裏切っていることに気づいたのだ。
誰が思っただろう。このちっぽけな存在がこうしてこの戦場に立つことを。
誰に想像できただろう。唯の人間がああして異様な『力』を手にすることを。
葬り去られたはずの少年が、こうして目の前に再び立ちふさがったことに、阿魂は予感した。
――面白いことが、起きる。
無味無臭の戦場に、じわりと旨みが加わった気がした。
灰色の景色に一滴の色が垂らされ、波紋を広げてゆく。
退屈が、愉悦へと変わろうとしていた。
必死な形相で自分を睨み上げる面差しを視界に収めながら、阿魂はこの時初めて、『桐人』という存在を認識した。
耳を貸せ、と吐いた桐人の唇は固く引き結ばれ、黒い眼は僅かに充血していた。気張ってはいるが微かに震える切っ先と足元から、彼が既に限界であることは、誰の目からでも察せた。
阿魂は次に下界で蹲る蟲を見た。
微かに感じ取れる気配からして、花耶がまだ生きていることが解る。
アレの泣き顔は好きだが、このまま蟲を人間ごと軽く吹っ飛ばせば、後々面倒臭いことになることは、阿魂だって分かっていた。
眼前の少年も然り。
なれば、事件当初のように安易に力づくで事を解決するよりも、少年に耳を貸してみるのも一興だ。
策はあるようだし、内容次第では手を貸すのも良いだろう。時間ももう無い。今まで嗅ぎ取れていた花耶の香も薄れ始めている。
いざとなれば、最初の予定通りに事を動かせば良いのだと、阿魂は考えを変えた。
荒い呼吸で肩を上下させる桐人へ視線を注ぎながら――鋭い牙を除かす口角が、不気味なほどに吊り上がった。
♢
――差し向ける切っ先が微かに震える。
長い刀身を掲げる桐人の腕を、段々と痺れが蝕み始めていた。
頭上に立つ鬼を猫の如く威嚇しながら、桐人は内心ではどんよりと呟いた。
(……どうしよう)
引き結んだ唇が小波のような、ゆらゆらとした線を描く。カタカタと鳴りそうな顎を必死に引き締めようと歯を食いしばるが、これが中々難しい。
桐人の傷だらけの顔は、白から青へと染まりかけていた。
――俺、本当に殺されるかもしれない。
視界に聳え立つ大男を見て、桐人の足が竦む。
啖呵を切ったのは良いが、此処からどうすれば良いのか分からない。
一時の感情で怒鳴り散らしてしまったことを早くも後悔し始めていた桐人は、やはり小心者であった。
あの阿魂が桐人の指示に従ってくれるとはとても思えない。寧ろ先程の挑発的な行動で怒りを買った可能性の方が高い。
本当にどうすれば良いのか、と焦りに焦った。
『――このままヤる?』
さらりと物騒な言葉を囁かれて、桐人が咄嗟に高速で首を振った。
充血した目で眼前の刀身を凝視しながら、小声で口を捲し立てる。
「無理です! 無理無理! ヤる前にヤられますから、ていうか、今そんな場合じゃないでしょう!?」
『そんなに震えるぐらいなら、最初からやらなければ良いのに』
呆れたような声色にグッと息を詰める。全くもってその通りだった。
『ついでに刀、下したら?』
ぎゅん、と即座に刀身を下げる桐人。
その情けない姿を見ながら万葉はいよいよ溜息を吐きたくなった。
度胸があるのか無いのか、よく分からない少年だ。先程はあんなに怖い顔をしていたのに今ではすっかり形を潜め、随分と弱弱しくなっている。
あれほど理不尽なことをされていたのだ。下手したら殺されてしまっていたのだからもっと強く言えばいいものを、何故ここで踏み止まるのか。
そんな万葉の心情を察したのだろう。桐人はどことなく罰が悪そうに眉尻を下げた。
(つーか、本当にこっからどうすれば……)
このまま阿魂に背を向けて、万葉と二人であの蟲をどうにかするか――。桐人は悩んだ。
だが、自分たちだけでは些か無理がある。第三者、それも力のある協力者が居ないと、あの蟲はどうこうできない。
その事実に歯噛みしながら、桐人は思考を回し続けた。
(誘導……とか)
どうにか自分の望み通りに動いてくれないかと、阿魂へと視線を上げる。
すると、阿魂も何故か桐人をじっと観察するように凝視しており、桐人は困惑したように眉を顰めた。
(え、なに……)
ひたりと合わせられた紅いビー玉のような眼に、冷汗が垂れる。
やはり反感を買ってしまったのだろうか、と不安に思った刹那――阿魂が、笑った。
「……っ」
ぞくりと、得体の知れない『何か』が背筋を駆け上がった。
悪寒というには生温い、悪意とも違う何か。その筆舌に尽くしがたい寒気に首を竦めながら、桐人は唾を飲んだ。
しかし、思考を奪われるのも一瞬。
『――片瀬くん。後ろ』
「えっ」
万葉の声に振り返れば、黒い触手がすぐ其処まで迫っていた。
焦って桐人は太刀を構えようとしたが、右足を後ろにずらした瞬間、霊力で固めていた足場が崩れてしまった。
「っ……!」
既に限界を達していたのだ。元々少なかった桐人の霊力は底をつき、宙に踏み止まろうにも新しい足場を作る余裕はもう無かった。
重心が崩れて、身体が前のめりに傾く。風が頬を叩き、前髪を揺らした。
――落ちる。
差を詰めてくる触手をどこか他人事のように目にしながら、桐人の身が空に投げ出された瞬間。
「――ひっ!?」
強烈な熱が轟音と共に桐人の頬を掠め、横切った。
紅い業火が眼前の肉を焼却したかと思えば、火の粉が此方まで舞い上がり、桐人は断絶的な悲鳴を漏らしながら目を強く瞑った。
すると、ガクンと首の根っこを誰かに掴まれた。
捕まれた制服の襟が桐人の首を絞め、息を詰まらせる。助かったと気づくよりも先に新たな危険が身に迫り、桐人は足掻くように足をばたつかせた。
「……っ、く、くるしっ」
喉仏に食い込む布を何とかしようと間に指を挟む。
懸命に呼吸を繰り返そうとする桐人。そんな少年の様子を、首根っこを掴んでいた相手は気付いたのか、襟から掴む手の位置をずらしてやった。
「は、はあっ……!」
やっと喉を解放された少年が溜まった二酸化炭素を吐き出し、新鮮な空気を新に吸い込む。
肩を大きく上下させながら、桐人は上空を仰ごうと首を捻らせた。途端、嫌という程に聞き覚えのある声が鼓膜を震わせた。
「十秒やる。策を言え」
「……え?」
『……嘘でしょ』
万葉が信じられないものを見たとでもいうかのように、声を漏らした。
桐人の頭上で靡く紅、天を貫く一対の角。
予期せぬ《助け舟》に少年は幻覚を前にしたかのような顔で呆け、手に握られた《大太刀》は現実を否定した。
だが相手の、血のような紅い眼を直視して、万葉は当惑しながらも何処かで納得したように――心の内で、呟いた。
(……ああ、そうか)
万葉はあの目をよく知っていた。
闇へと沈められた記憶が浮上し、酒呑童子という人物の『奔放性』を物語ってきた。
そうだ。ああ、そうだった。
この男は、子供のような、大人のような、唐突な、本当に唐突な行動を起こす鬼だったのだ。それはもう、真面に相手にすることも、考えることも馬鹿げてくるくらいに――。
飄々と周囲を引っ掻き回したかと思えば、急におとなしくなり、かと思えば傍若無人な振る舞いを行ったり――……どうして忘れていたのか。
鬼の、凪いだ瞳子の奥底に見え隠れする『何か』を見つめながら、万葉は思った。
――今も昔も。この男のことは、よくわからん。
♢ ♢
「――土御門捜査官!」
消えた酒呑童子を意識から除外して眼前の問題に取り組んでいた春一は、後方から駆け寄る同僚に確認を取った。
「状況は?」
「負傷者が五名。防戦一方です」
「そうですか――」
蟲を牽制するように何人かの陰察官たちが結界を張っているが、やはりそう長くは持たない。
只管に術を打ち込む仲間たちを前に、春一は深い溜息を吐いた。
(このまま、続けても霊力の無駄。寧ろ、逆手に取られるだけか……)
どんな攻撃も効かず、逆に糧にされている事実を苦々しく思いながら呪装銃の弾倉を外す。
このまま時間だけが過ぎれば、『神の欠片』の吸収による更なる被害が広がることは目に見えていた。
もう手段を選んでいる暇は無いだろう、と春一は懐から、ある箱を取り出した。
「土御門捜査官……?」
「全ての陰察官に後方待機の指示を」
「え?」
「後は俺がやります」
そう言って黒い函の蓋を開ける。
函に、ぎっしりと詰められた沼色の弾丸を視界の端で捕えながら、一人の陰察官が眉を顰めた。
「あの、土御門捜査官……」
「時間がありません。早急にお願いします」
口出しは許さないと言うように男には目をくれず、春一は一弾だけ沼色のそれを弾倉に込めた。
有無を言わさぬその態度に、何を言っても無駄だと男は察したのだろう。大人しく引き下がると、春一の指示通りに他の同僚の元へと向かう。ついでに、使役している飛行型の式神を通達者代わりに、弐機ほど分散させた。
白い折り紙のような式が、暗闇の中を旋回する。小さな羽をはためかせる其れはまるで蝶の様だった。
それを横目にしながら、春一は拳銃の状態を確認する。
(……状態からして、撃てるのは一発。あれほど、大きな的なら外れないか)
『――土御門捜査官。今、全員、後方に着きました』
「――了解。確認いたしました。今から《黒弾》を使います。衝撃に備えてください」
先程の陰察官からの任務完了の声が上がり、静かに拳銃を構えた。
氷柱のような冷たく鋭い瞳が射抜く先は、問題の主柱である蟲。
瓦礫の山に紛れて、罅割れた大道路の上を這いずり回る巨体はやはり異様だ。
暗雲で閉ざされた空の下で、何本もの触手を蠢かす其れは最早、蚯蚓の形を失いつつあるように見えた。
奇々怪々とした《其れ》に目を細める。
「……御免」
一言だけ。唐突な謝罪を落とすと、春一は体内の霊力を弾倉へと集中させようとした。
霊気が微かに振動し、大気を揺らす――途端。
「――赤鬼?」
強い衝撃が地面を襲った。
地に僅かに埋まる巨体と、それの背中を抉る赤い曲線。
予想外の展開に、春一は構えていた拳銃を下ろした。
(どういうことだ?)
阿魂が入れた一撃は、蟲の中心部――沢良宜花耶が居ると推測されている位置を襲っていた。
今迄と打って変わって、迷いのなくなった阿魂の攻撃に、春一は疑うように眉を顰めた。




