15.
午前三時〇〇分。
空を覆う黒雲の隙間から、顔を見せる月が赤みを帯びる頃。
未だまっさらな、作業が殆ど進んでいない工事現場の中心に、相当離れて眺めないことにはその全貌がつかめそうにないくらいに縦にも横にも広い面積を持って建つ、ビルの骨組みの中で、大きな影が一つ、蠢いていた。
鉄骨を使って組み立てられた骨組の合間に、尻尾のような何かが時折、見え隠れしている。
未だ完成していないビルの寂しさを隠すように覆い被さったビニールシートが、風に揺れ、尻尾の先にある身体を晒した。
大蛇の様で、また別の何かに見える『何か』。意思を持って、手元に転がる何かを喰らっては増殖している《ソレ》が悍ましい姿形をしていることは、光の差さない暗闇の中でも分かる。
そんな、何かに食らいつくような動きをしている『化け物』を――観察する者がいた。『化け物』の頭上。街の夥しい蛍光に紛れて立つ『鬼』は、眼下の醜怪極まりない怪物の姿に、冷たい瞳を向けた。
「……人の女だけじゃ飽き足らず、随分と食うじゃねぇか」
『化け物』を見下ろすかのように鬼は鉄骨の上に立ち、紅い双眸を細めながら口端を歪めた。凶悪な牙が、形の美しい唇の中から覗いた。
こきりと赤い指先を鬼が鳴らせば、妖力が迸り、振動する霊気が空気を揺らす。
鬼を中心に突風が起き、深紅色の髪が風に弄ばれる。
「――返してもらうぞ」
一撃でソレを仕留めようと、鬼が宙へと足を踏み出した――。
♢ ♢
同時刻。
西新宿グランズドーム前。
高層ビルやブティック、ショッピングモールが並ぶその街の一角では、蟲に憑りつかれた数体の人間が蔓延り、事態の収束のために駆り出された大勢の『陰察官』たちが対峙していた。
外灯が異形の者たちを照らす。原型を失ってしまった者も居れば、人の形を未だ保っている者も居た。
悲鳴と怒号が飛び交い、地を揺らすほどの騒音を轟かせる。交差点に立つ信号機は歪な形へと曲がり、アスファルトには幾つかの罅割れが見えた。
化け物たちの咆哮が轟き、黒い着物を纏った式神たちが動く。
能面を被った式神を操りながら、混乱の収束を務める陰察官たちが印を組む。
蛍光を放つ陣に、煌めく武器。血飛沫を上げる化け物たちが次々へと倒れていった。
見慣れてしまったその異様な光景に――道端で、煙草を吸っていた一人の男性が溜息を吐いた。
ボサボサの髪に、生え散らかした無精髭。全体的に気だるそうな雰囲気を放つ男は、だが鍛え抜かれたしなやかな身体をしていた。けれど、よれよれのスーツによってそれは台無しにされており、男をみすぼらしく見せている。
「――人は?」
人差し指と親指でそれを摘まみ、細長い煙を吹かしながら男が背後へと問いかけた。
汗をかきながらも駆けつけた一人の若造が、男の質問に応える。
「他のものたちが救出を最優先に動いています……幸い、と言えばいいのか皮肉と笑えば良いのか、出歩いていた市民の殆どが蟲に寄生されていたので、問題はないかと」
「ったく、これだから新宿はよぉ……三時っつったら家に居るだろ、普通」
深夜の三時だと言うのに人が外を出歩いているという事実。そのことに男は困ったように頭を掻いた。そんな上司である男に、若造は苦笑する。
「と言っても、やはり深夜もあって人はそう居ませんでしたよ……現場が歌舞伎町であったらこんなものでは済みません」
目の前の光景を横目にしながら若造は言った。
人が出歩いていると言っても、この時間帯だ――焦ったり、騒いだりするほどの数では無い。
その言葉の意味を察した男は、だが疲れたように嘆息を吐く。
「そのうち、隠し通せなくなるんじゃねぇの? これも……」
四方八方から聞こえてくる騒音。
そっと感覚を研ぎ澄ませれば、彼方此方から感じられる妖の気配。それは常と違って禍々しいものだった。
「いつのまにこんなに繁殖していたのか……おじちゃんは知りたいよ」
空を仰げば夜空を遮る薄い膜が見えた。
一見とても微弱に見えるソレは、だが実際には頑丈な作りをしているのだろう。ここ等一体を囲む強固な結界を仰ぎながら、男は最後の一服を終わらようとした。
途端、空気が激しく振動した。
「……なにごとっ!?」
背後に控えていた若造が驚愕したように声を上げる。
つい、と男が前方へと視線を向ければ、いつのまにか蟲の化け物の数が増えていた。それも夥しい数だ。
背後に立つ若造が声を荒げる。
「ちょっ、坂下さん!!」
「慌てるな慌てるな」
焦ったような若造の様子など素知らぬ顔で、暢気にも煙草の吸殻を携帯灰皿へと押し付ける男。
すっと視線を上げて目の前の光景を改めて確認した。
急激に増えた敵に戸惑っている様子の若い陰察官たち。
男の目尻の垂れた瞳が見やった先には、とうとう触手に絡めとられた一人の後輩が居た。
「まずいですよ、あれ……!」
それに背後の若造も気づいたのだろう。囚われた仲間を助けようと奴が飛び出した。だが、それは間に合いそうになく――。
「っひ……!」
化け物の口がガパリと開く。涎のような液体が顔へと垂れ、囚われた陰察官が悲鳴を上げた。
それを感慨無く観察しながら、男は指先で煙草を弾き、近くのゴミ箱へと投げ捨てる。仲間が食い殺されそうになっているのに焦った様子は無い。
「――問題ねぇよ」
投げ捨てた煙草が宙を舞う。
円を描いたそれが、ぽとりと、黒いごみ箱へと落ちる瞬間――青白い火花が散った。
「……はえ?」
青い線が地上を走る。
その異質な光景に若造が呆けるのも束の間。刹那、突然出現した幾多もの青い函が全ての蟲たちを一瞬で囲んだ。
「守るためにじゃなく、捕えるために《結界》を使ったか……粋なことするじゃねーか、坊ちゃん」
「え? え?」
突如起きた出来事に目を目を白黒させる若造。反して男は状況を理解しているのか、知ったような口で誰かへと言葉を投げかけた。
途端、こつりと後方から靴音がし、今まで狼狽えていた若造が我に返ったように後ろを振り返った。
白いブラウスに紺色のジャケット。今にも闇に溶け込んでしまいそうな濡れ羽色の髪が、青白い顔を浮き立たせている。
小宮高校の制服を着用したままの学生が、ひたりとその冷たい双眸をこちらへと向けた。
冷然と見つめる瞳に、若造は思わず背筋を伸ばす。
「つ、土御門捜査官!!」
京都本部から派遣された奇才の陰陽師。名門土御門家の次男坊にして次代の跡継ぎであり、一七歳という異例の若さで犯罪捜査官を務める青少年を相手に、二十をとうに過ぎているはずの若造が緊張を覚えた。
萎縮したようにも見えるそんな若造に、土御門春一は慣れたように指示を出す。
「蟲はこのまま俺が捕縛しておきます。すぐに霊視官を呼んできてください」
「……は、はい!」
淡々とした声を向けられ、自分よりも年下のはずの子供に軽く敬礼すると、若造は慌ただしく走り出した。
そのなんとも哀れな後ろ姿に春一が目を細めると、からかうような言葉が飛びかう。
「見事だな。これだけの蟲を一気に捕えるたぁ――流石は名門土御門のご子息様」
不意に歩道のフェンスに腰掛ける男に声をかけられ、春一は深い溜息を吐いた。
「俺がやらずとも、体力馬鹿の貴方だったら出来たでしょう」
男へと視線を向ける春一の双眸はどことなく厳しげで、非難めいている。
そんな咎めるような視線を送ってくる春一に、しかし男は肩を竦めると、悪びれも無く答えた。
「俺は不器用な方なんでね」
そうは言うが、どうせ自分の気配を感じて敢えて何もしなかったのだろうと、春一は検討をつけた。この男は何かと事を他人に任せる癖がある。それに軽い呆れを覚えながらも、春一は足を進めた。
青白い透明の函が彼方此方で蟲たちを閉じ込める中、高い咆哮が遠くから轟く。
「あのお嬢さんは良いのかい?」
「酒呑童子を先に向かわせました。それより市民の方が最優先事項です」
あっさりとまるで『彼女』を切り捨てるかのような言い方に、男――坂下は皮肉気に笑った。
「冷たいねぇ。惚れてるんじゃなかったのかい?」
「さあ、どうでしょうね」
そう答える青年の双眸に感情の色は見えない。暗い夜空のような瞳は唯、悠然と目の前の光景を見つめていた。
そんな青年の横顔に目を細めながら、坂下は口を開こうとした。
「土御門、お前――」
だが言葉を紡ごうとした瞬間、前方から悲鳴と怒号が再び轟き、言葉を遮られる。
――街が揺れるほどに、空気中の霊気が、激しい振動を起こした。
♢ ♢
――とある蟲の腹の中。
明るいとも暗いとも取れない異様な空間の中で、沢良宜《《さわらぎ》》花耶《《かや》》は、薄らと意識を取り戻し始めていた。
「……っ?」
ずきりと痛む米神に眉を顰めながら、少女はゆっくりと視線を右から左へと動かす。
背中と腰からは何やらねっとりとした感覚が伝わり、手を地面に這わせた。
触れた地面は柔らかく、だがそれとなく弾力があり、まるでクッションのようだった。手触りが良い、と一瞬、花耶は思ったが、すぐにその表面を覆うべっとりとした液体に気がついた。
液体を被った掌が痛い。ひりひりする。
怪我でもしたのだろうかと気になって、花耶は己の手を確かめてみた。
そして怯えるように唇を震わせる。
「やけど……?」
いや、違う。
どこかで冷静に働く思考がそう呟いた。
皮膚は薄らと溶け、その下から赤いものが見えた。まるで酸を被ったあとのような惨状に花耶は思わず恐怖する。そして思い出した。
(ここ、あの化け物の中……!)
即座に此処から脱出しようと起き上がるが転んでしまい、膝がまたもヒリヒリと痛んだ。
とにかく己の状態とこの空間の中を把握しようと立ち上がろうとし、花耶は無意識に何かを掴んだ。
(なに……?)
壁から突き出ているように思えるそれへと視線を移し、目を凝らす。
途端、悲鳴が漏れる。
「あっ……足?」
――人の足だ。
柔らかな断面に埋め込まれたような足。
嫌な予感がして、ゆっくりと周囲へと意識を凝らせば、壁の彼方此方から食み出ているものが、視界に映った。
「あ、あ、あ……」
足、手、首、果てには変色した悍ましい何かが見え、花耶は不覚にも腰を抜かした。
それは《《男のもの》》でもあれば、《《女のもの》》でもあり、果てには《《子供のもの》》さえも、壁から生えているのが見えた。
蟲に憑りつかれているのだろう。ピクリピクリと反応を示す、囚われた人間たちの赤黒く染まった部分が視界に入り、余りの光景に胃液が喉元へと競りあがる。
「う、ぁ……」
嗅覚が麻痺しているのかは分からない。だが、この光景を見れば異臭さえもしてくるような気がして、花耶は知らず口元を覆った。
目が、熱い。胸焼け、しそうだ。
必死に目の前に広がる現実から目を背けたくて、花耶は目を強く瞑った。
――まさに地獄絵図。
今まで色んな事件に首を突っ込んできたが、此処まで醜怪なものを花耶は見たことがなかった。
(ここ、から、出ないと……)
肩にかかる阿魂のシャツを握りしめ、よろめきながらも立ちあがる。
これ以上、此処に居てはいけない。ただ、そう思った。
だが、背中の痛みが突如疼きだし、その拍子でバランスを崩す。
そうして倒れるのを避けようとして、咄嗟に伸ばした手に当たった『何か』を掴んだ瞬間、その『何か』から花耶へと、誰かの『思念』流れ込んできた。
――許さない。
女の声がした。
女のものだけではない。老人や男、小さな子供の悲しみや憎しみまで、数えきれないほどの感情と阿鼻叫喚が花耶の頭の中で鬩ぎ合う。ガンガンと頭を叩く騒音が恐ろしくなり、花耶は咄嗟に壁から手を突き放した。
「……っ、」
唖然とした。
一気に流れ込んできたその『思念』の数も内容も、尋常なものではない。あれ以上、《《あの中》》に居たら自分は間違いなく可笑しくなっていた。それをあの一瞬で察せるほどに、流れ込んできた感情は普通ではなかったのだ。
「……これ、この人たちの?」
確かめるように花耶は呟いた。
尋常な数ではない『思念』は、恐らく此処に埋まってる人間たちのものなのだろう。
何故かは分からない。だが、花耶は呆然とそう思った。
「まだ、生きてる、の……?」
こんな姿になっても、この者たちは生きている。
その事実に気づいた途端。恐怖、同情、果てには憔悴感に駆られて、無自覚にも花耶は目前の足を掴んでいた。
どうにか此処から離してやれないか、その一心で足を引っ張るがびくともしない。
その間にも腕の中のそれは赤黒く変色し、蟲の侵食が広まっているのが解る。
「なんで……なんで、」
なんで、引っ張り出せない。何故、こんなに沢山の此処に埋まっている。何故、こんなことになっている。
疑問が埋め尽くし、苛立ちが少女の中に込み上げる。
「っふざけんじゃないわよ……!」
混乱が脳に渦巻く。
どうしてこんなに苛ついているのかは分からなかった。
力があるはずなのに結局誰も助けられていない自身にか、自身を飲み込んだ化け物にか、或いはこの現状全てにか――何に対して怒りを抱いているのか、花耶には分からなかった。
唯、ハッキリと解るのは、自分の中にある強い自己嫌悪。
「……っ」
朽木の時と言い、今回のことと言い、自分は本当に何も出来ていない。戦う術を持っていたはずなのに、力を持っているはずなのに、今ではその使い道が分からず、間抜けにもこうしている。
土御門による呪のせいで力を抑えられているのもあるのだろう。だとしても戦うには十分な程の霊力があったはずなのだ。そんな制限は、言い訳にもならない。
(泣きごとなんて、言ってる場合じゃない……!)
何か出来ることはないのかと懸命に思案し、花耶は目の前の肉壁を注意深く観察した。
「この壁をぶち破れば――」
いや、駄目だ。そんなことは出来ない。
この壁を、自分を閉じ込めている化け物、基、『誰か』の身体を突き破れば此処にいる人間がどうなるか分からない。
単純に解放されるのかもしれないが、そうでないのかもしれない。
何をどうしたら良いのか、いよいよ分からなくなった。だが、上手く回っていない今の思考に従って動くのは危険だと、花耶自身、どこかで理解していた。
(動かない方が……良いのかな?)
正直、身体は限界だ。術を扱う力も残っていなければ、動き回る体力も無い。花耶は既に此処でかなりの気力を削られていた。
(けど、この人たちを放っておけば……)
周囲の壁を確認する。其処に埋まる人間たちは――身体の一部しか見えないが――既に何人かは、人としての原型を失くし始めていた。
だけど花耶は蟲を取り除く術など持っていないし、進行を止める方法も知らない。
(どうにかしないと……)
そうして苦心に満ちた顔で、先程、自分がが掴んだ『何か』――眼前で鼓動を刻む『心臓』を見つめた。
瞬間、外から伝わってきた強烈な妖圧に反応したのか、どくりと『心臓』が一際大きな鼓動を刻んだ。
「……っ!?」
空間、いや、空洞が揺れた。
大きな震動が地面を揺らし、肉壁が一気に狭まる。
食み出ていた人間の一部が幾つか飲み込まれるのを驚然と目にしながら、花耶は状況を把握しようと神経を研ぎ澄ませた。
だけど埋まっている人間や蟲のせいか雑念が多すぎて、外の霊気を感じ取ろうにも集中できない。
――一体、何が起きてるの?
足が徐々に地面の肉へと沈み始めた。ゆっくりとではあるが、着実に進行しているそれに花耶の背筋が震え上がる。肉に飲み込まれないように何度も足踏みしながら、正気を失ってはいけないと必死に思考した。
閉じ込められた空間の中、花耶は何も出来ず、誰かの助けを待つことしか出来なかった。