1.夢
その光景を見た瞬間、すぐにわかった。
これは《《夢》》だ。それも、随分と昔の。
文化祭の準備で遅くなったのだろう。暗い夜道を一人で歩くあどけない少女は——昔の『私』だ。
青と白のセーラー服の下には色気のないジャージを着て、歩いて帰る姿は自分でも呆れてしまうほどに、実に無防備なものだった。
人通りの少ない静かな道は危険だと、小学生でもわかるのに、どうして、こんな能天気な顔が出来るのだろう。
——少し。ほんの少しの警戒心があれば、《今》と何かが変わっていたかもしれないのに。
今更、口にしても、どうすることの出来ない苦言を過去の自分 に呈してみる。
そんな無意味な行動の数舜後——黒い影が『彼女』を背後から襲った。
細い手足が暴れる。助けを求めるように足掻く手が、こちらへと向いた気がしたが、それも直ぐに突然現れた黒い靄によって、視界から遮断された。
場面が切り変わる。
次に私が立っていたのは、仄暗い空間。四方八方をボロボロのコンクリートで塞がれた部屋は、冷たい空気で満ちていて、どこか息苦しかった。
いや、実際に息苦しかっただろう。目の前で床に横たわっている『私』にとっては。
蝋燭で照らされた空間の中心に、手足を縛られ、猿轡を噛まされた状態で放られては、混乱で呼吸も乱れに決まっている。
床を這いつくばり、彼女が周囲を確認しようとすれば、似たような格好をした女性が数十人。まだ小学生のような子がいれば、成人済みの女性もいた。
手足を縛られ、口を塞がれ、全く身動きのできない状態で、皆、怯えている。
必死に状況を把握しようと『私』が目を凝らす。すると、薄暗い部屋の中心で燦爛と立つ、『祭壇』の存在に気がついた。その足元には血のような赤い墨で描かれた可笑しな陣。そこから芋づる式に、自分たちを囲う、怪しげな影たちの存在にやっと気がつく。
不安と恐怖が『私』を襲う。傍観者のように、事を眺めている私にも、微かにその感情が流れ込んできた。
――一体。どうして。ここは。私は。家は。母は。警察は。
ぐるぐるぐる。
終わりのないメビウスの輪のように、繰り返される疑問が頭を埋め尽くす。
一体なんの目的で自分たちは誘拐されたのか。その疑問は誘拐犯の奇妙な行動によってすぐに明かされた。
青い顔をした女性を一人、黒い衣を纏った男が祭壇の上へと引きずりあげる。そして。白い衣を被った一人の僧がお経のような何かを唱えはじめた。
得体の知れない恐怖に身体が震えあがる。
だけど、どうすることも出来ず、『私』は目をギュっと瞑ることしか出来なかった。そんな時だったか。蛙が潰れるような音が聞えたのは——。
それは、反射のようなものだった。思わず目を開けた先には祭壇の上に力無く横たわる女性。その前に立つ男の手に握られていたのは彼女の『心臓』。
悲鳴が上がった。声なき声を皆が皆、上げ、必死にもがいた。
いやだ、やめて、殺さないで、お願い、何でもするから。安い三文芝居で聞くような台詞を轡越しに叫ぶ女性がいた。だが、その願いも虚しく、彼女は次の餌食となる。
そうして、次から次へと丁寧に心臓だけを取り出される女性たち。一人、また一人と消え、とうとう『私』の順番が回ってきた。
恐怖に身が縮こまった。碌に抵抗も出来ず、祭壇の上へと引きずりあげられる私。
仄暗い空間の中に横たわり、背中から大理石のような冷たさが伝わってくる。
恐怖と混沌。
熱と激痛が胸を襲う中、堅い寝台の上で、『私』は心臓を取りぬかれて死んだ——はずだった。
最後の『贄』だった『私』が、生きながら胸元を切り裂かれ、痛みに叫びながら心臓を引きずり出された瞬間、一人の僧が最後の経を読み上げた。
すると、部屋の床に描かれた陣が輝きだし、光が『私たち』を包み込んだのだ。
まるで天の使いのような、光の泡。それに包まれると、胸の痛みは和らぎ、自然と意識が安らかな眠りへと落ちていった。
助かった。過去の『私』は、そう思った。これは悪い夢だったのだと。
だけど、それは間違いだ。
それは、地獄の始まりでしかない。
黒い靄が再び私の視界を遮る。
耳障りなノイズと共に、シーンが切り替わる。
次に、『過去の私』が目覚めた場所は、時代劇のような街中。行き交う人は着物を着ていた。人の形をしている者もいれば、異形の姿をした者たちが、行きかう人混みの中に紛れている。
じろじろと、不躾な視線が呆然と地べたにへたり込む『私』に注がれた。
——ここは、どこ?
掠れた声が小さな口から零れ落ちる。
空気に解けて消えた疑問に、私は答えた。
「裏吉原」
そこは、私が短くない年月を過ごした場所。
「二百四十年前の日本。吉原の裏側に存在する妖の世界よ」
目の前で呆ける『私』が聞けば、確実にパニックを起こしたであろう答えは、当然だが『私』には届かない。
そこが何時なのか、何処なのか分からないまま、『私』はそのまま、この街を彷徨うことになるのだろう。そうして、悪い破落戸たちに追いかけ回され、砂まみれになりながら走り回り、最後にある廓に辿り着く。
「——頑張れ」
意味のない激励の言葉を、なんとなく、『過去の私』にかけてみる。
みすぼらしい恰好で、今、『端廼屋』の看板を掲げる遊郭へと引きずり込まれる姿が、我ながら、哀れに思えたからだ。
「そこはあまり良い場所ではないし、理不尽なこともあるけど、まだ死ぬほどじゃないから」
続く言葉はあまり励ましにならないかもしれない。口にしてみて、気がついた。
そっと視線を上げれば、狸の頭をした男の後を追って、廓の廊下を進む自分の『背中』。今から楼主と顔を合わせ、これからの自分の処遇を知るのだろう。
もう一度、話しかけてみた。
「大丈夫だよ。たったの八年だ。大した時間じゃない」
心のこもっていない言葉が空回りして、誰にも届かず、空気に溶ける。
なんだか、空しくなってきた。
この夢はいつ、覚めるのだろう。