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天明二年、裏吉原にて

 

 ざわざわざわ。

 くすくすくす。


 耳障りな女の吐息や、男の乱暴な声が、耳元まで流れ着く。

 紅い提灯で照らされた夜の『裏町』は相変わらず賑やかだ。

 ひとの嘆きも、悲しい心情も置き去りにして、この世界の住人はいつだって悦に浸っている。


「——ねぇ、聞いた?」

「——酒呑童子だろ?」

「——あれ、本当に死んだの?」

「——土御門と相討ちだろ?」

「——女を取り合って死んだんだって?」

「——ぶはははは!マジかよ!天下の酒呑童子も落ちぶれたもんだなぁ!!」

「——いやはや、天下の酒呑童子もこんな間抜けな幕引きをしては」

「——しかし、豪傑の酒呑童子とあの土御門が女を取り合うとは?」

「——どこの女だ?」

「——たしか、土御門の宗家と……名は」

「——ああ、異能の姫君か。あれは確か、土御門と婚姻関係にあったはずでは?」

「——酒呑童子の横恋慕か。酒と女癖の悪さもあそこまで行くと、天晴だな」

「——あら? 相手があの姫君であるならば、あのお方が求めていたのは《血肉》では?」

「——酒呑童子がか? そんなもの無くとも、あれほどの力があれば、」


 ——そんな人間・・を食わずとも、あの方は強いし、必要ない。


 眼下で一つの話題を餌に、集まる魑魅魍魎どもの声に思わず、心の内で吐き捨てた。

 廓の、二階の周り廊下から眺める景色はいつもと変わらないはずなのに、どこか鬱蒼としているように思える。

 

「ねぇさん」


 背中にかけられた愛らしい声に振り返れば、しゃなりと重たい簪についた飾りが音を鳴らす。


「夜咲。どうしたの?」


 店は営業中だというのに、ここ数年で叩き込まれた廓言葉を使う気になれず、素のまま話した。

 曇った表情を見せる禿を安心させるように微笑めば、返ってきたのは気づかわしげな声だった。


「今夜は冷えます。早く中へ」

「そうね。ごめんなさい」


 鉛のように重たい着物の裾を引きずって、座敷へと歩みだせば、先ほどの会話が耳奥で何度も繰り返される。


 繰り返される会話とは別に、かの方と会った最後の夜が脳裏に浮かんでは消える。

 いつもどおり(・・・・・・)だった。

 いつもどおり、ふらりと現れて、酒を仰いで、こちらに見向きもせず、身体にも触れなかった。

 文字通り、私は彼にとっては、ただの話し相手だったのだろう。

 随分と長い付き合いになると思っていたのだが、途方もない長い時を生きてきた鬼にとっては、私は所詮もの珍しい、一時の暇つぶしでしかなかったのか。

 『さようなら』も『またな』も、別れの挨拶さえくれなかった。


『——女を取り合って死んだんだって?』


 耳奥で自分をあざ笑うかのように蘇った言葉が、胸を突き刺した。

だけど、胸を刺す痛みとは別に、あっさりと事実を受け入れる自分がいた。

 初めから、分かっていた。あの人にとって、私はただの青臭い女で、馴染みの遊女でしかない。多少の変わり種ではあるが、それだけだ。


 とうに、分かりきっていた事実だ。


 あの人が彼の姫君に惹かれていることには、随分と前から気付いていた。『彼女』と出会ってからの彼はいつも何処か上の空だった。


 それが悲しくて、切なくて、妬ましくて。いつだって彼を振り向かせようと必死だったけど、結局あの人が私を見てくれることはなかった。

 

 ――くつりと、無意識に自嘲が零れた。


半楼はんろうねぇさん?」


 後ろをしずしずと歩いていた禿の夜咲が、眉尻を下げながら、もう一度、私に呼びかけた。


「ねぇさん、今日はやはりお釈さまにお話して……」

「駄目よ。こんなことで休むわけにはいかない。間夫が亡くなったわけでもあるまいし」

「けど、」

「大丈夫。それより少し寒いわ。暖かいお茶を持ってきてくれる?」


 大丈夫だと、安心させるように彼女に再度わらいかけて、お客様が来る前にお茶を頼む。

 遠ざかる小さな禿の背中を横目に、自分の部屋へと戻れば、ほんのりと温かい空気が、冷めた頬を癒してくれた。 


 化粧を直そうかと鏡台の前に腰を下ろせば、青白い顔をした若い女の顔が鏡に映る。

 未だどこか幼い顔を視界に収めながら、ぽつりと呟いてみた。


「結局、私は一人だったのかな……」


 思い出す赤い背中。

 あの人は本当に、恐ろしく。気まぐれで。横暴で。常識など何処かへ置いてきてしまった、傍若無人な男ではあったけれども。

 それでも、私にとっては唯一の拠り所だった。この暗く、恐ろしい、未知なる場所へ放り込まれ、置き去りにされた私の、唯一の光だったのだ。


 ——それも、もう無くなってしまったが。


 足場が崩れるような心地がして、助けを求めるように鏡台の横へと手を伸ばした。

 白い指先が箪笥に触れる。決して誰にも触れることを許さなかった箱を開ければ、白と青の、セーラー服が出てきた。

 普段着る着物とは全く違う手触りの服。長年、着ることのなかったそれを抱きしめてみる。

 頬に触れる紺色のリボンからは懐かしい匂いがした気がして、心臓をぎゅっと締めつけられるような痛みが胸に広がった。


「帰りたい……」


 灰色の校舎。友達と歩いた通学路。くしゃりと笑う家族。

 空へと聳えるビル群が、街中を走る電車が、耳障りな電子音が。あの時代のすべてが、久々に恋しくなった。


「帰りたいよ……」


 数年ぶりに暗く、重苦しく、切ない感情が、胸奥でぐるぐると渦巻いた。


 だけど、私は帰れない。

 戻れない。

 あの時代に(・・・・・)あの街に(・・・・)家に(・・)人に(・・)


 その方法を、私は未だ知らない。


 


 

 ♢ ♢


 天明二年、春。

 世間が一人の鬼の死によって騒然とする中、晴れて年季明けとなった私は、吉原を去った。



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