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アサギ

本日晴天

作者: 茶々アルト

個人的趣味の話です。意味不明な話ですいません

 

 ーサーッ。

真夜中の雨音がどこかもの寂しく少年の耳に響く。朝(厳密に言うときのうになる)から雲行きはあやしかった。とうとうふりだしちゃったな。

三日後にひかえた中間テストに備えて勉強していた手をとめると、少年ー柏木文久は窓の外に目をむけた。やわらかそうな栗色の髪をかきあげると黒ブチの眼鏡の下から人の良さそうなまるっこい瞳があらわれた。後ろの髪は短くかりあげて、初々しい新入生といった感じだ。

実際、少年はこの春見事に志望校に合格し、いまは私服で登校している。中学時代の担任に言われるまま受験した私立桜坂高校は全国的にも難関といわれる名門で、そのせいか私服通学でもおおきく道を踏み外すものもいない。

自由な校風と活気ある部活動がうりものとはいっても、やはり名門としての決め手は進学率で、国公立がメインのまわりのレベルにあわせるためには、中学時代のような一夜漬けではまにあわない。

「うーん」

長時間椅子に座ったままノートとにらめっこしていたために背伸びをすると身体の節々が音をたてた。背もたれが予想外にギシッと大きな音をたて、あわてて姿勢をただす。

時刻は夜中の二時をまわったところで世間一般に眠りについてる時間だった。ベットの中にいる人物も例外じゃない。

おそるおそるベットに視線をうつすと二日前に天日干しした布団からは規則正しい寝息がきこえる。

ースヤスヤ。

まさにそんな感じだ。音をたてないように細心の注意をはらいながら、机の明かりを消してベットにもぐりこむと、既にベットの中はほのかな体温で満たされていた。ベット脇にあるスタンドに明かりを灯す。

「・・・んー」

少女が寝返りをうつと文久の腕の中にすっぽりとはいりこんだ。一糸まとわぬ生まれたままの姿。

(あのまま眠っちゃったもんな)

白い少女のうなじには小さなピンク色のアザがはっきりと残っていた。先刻自分がつけたものだというのになんだか気恥ずかしくなる。行為の後、心地よい独特の疲労感に襲われ眠ってしまった少女に布団だけかけて、文久は試験勉強をしていたのだ。今夜は泊まっていくという少女を起こすのはなんだかかわいそうでー。

「ん・・・文久くん?」

侵入者に敏感に少女が目覚めた。まぶしげに何度も目をしばたくと少女ー麻城詩織は、文久をみとめてあどけなく笑った。漆黒の瞳が薄闇のなかでも一際美しく輝いていた。文句なく美少女の部類にはいる少女は、甘えるように文久の腕に頬をよせる。

「ごめん。起こしちゃった?」

「こんな時間までお勉強?」

「もうすぐ試験だから」

「たいへんなのね。学校って」

欠伸をかみ殺す詩織は学校に通ってないのかもしれない。それどころか文久は詩織の年齢すら知らなかった。出会ってもうすぐ三年。

その間に知ったことは麻城詩織という名前と外見には不釣り合いな程度に気が強い性格。住所も電話番号も家族構成すら、彼は知らなかった。

連絡はいつも一方的でそれは文久の都合なんておかまいなしだ。いつ消えてしまうかもわからない神々しいまでの美しさと儚さとが同居した不思議な少女。

その圧倒的なまでに美しい輝きを宿す漆黒の瞳をただ文久は信じていた。

ーであいは運命だった。

口癖のように繰り返される言葉を、

ーただ信じてる。

あどけない笑みをたたえた唇にそっとキスをすると甘い果実のような香りが鼻孔をくすぐった。甘えた吐息をもらしながら詩織は文久の背中に腕をまわしてくる。

(こんなことばっかりしてたら追試かもしれないな)

少女の甘い声に背筋がぞくぞくするのを感じながら文久は、今夜三回目の準備運動をはじめるべく、スタンドの明かりを消すためのスイッチに手を伸ばした。

 梅雨というのはとても嫌なものだ。朝、目が覚めると詩織の姿はなく、ただセットし忘れた目覚まし時計が『遅刻』という二文字を刻んで枕元で転がっていた。

やはり試験前にあんなことをしていた罰だろうかとくだらないことを考えながら春休みにバイトして買った白いロードレーサーに飛び乗った。

本来、雨の日はバスで通学するのだが、この際そんなことにかまってなんかいられない。試験前の授業というのは担当教師がもらすヒントとかで色々と重要なのだ。

どしゃぶりだけどしょうがない。せめて少しでも濡れないようにとスピードをあげたところで、車のブレーキ音とともに身体が引き裂かれるような衝撃が襲った。

宙を舞う感覚。アスファルトに広がる水たまりはなぜか赤く染まっていく。

(ああ、そうか。僕の血なんだ・・・)

薄れゆく意識のなかでぼんやりとそう思ったのを最後に、視界は暗闇と化した。


 そのブレーキ音と衝突音はどしゃぶりの雨にもかかわらず大きく響いていた。逃げさる車と家から飛び出た住民が倒れている文久をみつけて悲鳴を上げるのは同時だった。

すぐに駆けつけた救急車が文久の容体を確認しようとすると、やじ馬の中からひとりの少年が現れた。

「すいません。そいつの身内の者なんですけど」

のんびりとした口調に、身内なら身内らしくあわてたらどうだと思った救急隊員は、少年の容貌にその怒りすら忘れた。

取り囲んでいたやじ馬からため息のような声がもれる。自分に見とれている救急隊員の手から、いとも簡単に少年は文久の身体を奪い取った。

「なにを」

「こいつの面倒は僕たちがみますんで」

「みますって重体なんだぞ」

「だから俺たちじゃないとだめなんだ」

やじ馬の中から少年と同じ顔をした少年があらわれた。双子?と思う間もなく、その少年たちの背後に黒いワンボックスカーがとまると中からドアがあけられて、重体の少年が運びこまれる。すべてが流れるような動作だった。

「んじゃあ、どーも」

軽く片手をあげた少年が乗り込むと車は急発進した。あっけにとられていた救急隊員は慌てて無線連絡をとると、しばらく本部からの連絡に耳を傾けていたが、やがてキツネにつままれたような顔で同僚に言った。

「おい撤収だ。うえからの連絡であの少年にかまうなだそうだ」

「なんだそれは」

「俺にだってわかるもんか。ただこれ以上首をつっこんだらー」

右手で首がとぶジェスチャーをすると何度も首を傾げながらからっぽの救急車を発進させた。道順、いろいろと憶測してみたがこの件が迷宮いりになることは長年の経験からわかっていた。

世の中まだまだ自分の知らないことがある。暖かい食事を作って待っているだろう妻のことを考えてふたりはそれ以上追求するのをやめた。


 「文久の様子は?」

自室に寝かされた少年の顔色は先刻よりも幾分かよくなっていた。その腕にはいくつもの管が通って安静を要することはひとめでわかる。救急隊員たちから文久を奪ってきた少年ー鏡塚恭は言った。

サラサラの黒髪に漆黒の瞳。どことなく目の前にいる少女とにているのはその整った顔立ちのせいだろう。詩織は振り返ると肩をすくめた。

「この程度の傷なら救急車にまかせればよかったのよ。右足と左手首、それに肋骨を二本おってるわ」

「障害の心配はない、か」

「そう。私の『力』は一族にすら強すぎるのに、なんの『力』ももたない文久くんには毒になるもの」

たとえそれで瞬間的に治ってしまうにしても、できるなら使いたくない。文久には自分たちのことを知られたくなかった。

「でもこいつ明後日からテストなんだろ」

「そう。だから、右足の捻挫程度でおさえとくの」

そう言うと少女は患部に左手をかざした。青く腫れ上がり血の気を失っていた骨折箇所がどんどん治っていく。少女が息を吐き出すと右足がかすかに腫れる程度になっていた。

「これが限界ね」

軽くため息をつく。ほんとうはもっと完全に治してあげたい。でもー。

「詩織。逃走車に乗ってた奴がわかったよ」

恭とそっくりな双子の弟、葵が姿を見せた。そっくりだけど見分けはつく。身にまとっている雰囲気がまったく違うのだ。『静』と『動』といったところか。

「やっぱり『カク』の仕業らしい。

最近、俺たち『アサギ』の活躍ばかりが目立つから嫌がらせだろう。ドライバーはひき逃げしたあとで電柱につっこみ死亡している。街のチンピラが金で雇われたってとこだな」

「馬鹿なやつ。金欲しさに命とられてたんじゃ話になんねーぜ」

「文久くんを傷つけたんだからそれくらい当然よ」

「あのな、詩織。『カク』が怒ったのはたぶんそのせいだぜ」

漆黒の光沢をはなつ髪をかきあげた少女のうなじにはゆうべ文久に愛された証しが残っている。ゆうべの外泊はこの『鏡塚』をはじめとする彼女の一族に知れ渡っていた。だからといって詩織は動じる気配すら見せずに肩をすくめた。

「だって久しぶりのデートだったのよ」

「文久は試験前だったんだぜ」

「そんなの私のせいじゃないもの」

少女にとっては相手が自分の都合にあわせることがフツーなのだ。事実、このふたりの少年たちは少女にとって『呼ぶ』と必ずくる存在だった。

彼らは生まれたときから彼女の『守護』なのだから。だから文久だって例外じゃない。文久が試験勉強してる間だって実は起きていた。

勉強の邪魔にならないように寝たふりをしていた自分の気遣いをほめてほしい。試験前におしかけるという常識はずれな行動は棚に上げて詩織はそう思った。

「恭が『狩り』なんかに一カ月もかかるからいけないのよ」

「俺だけの責任じゃないだろっ。葵がミスったんだからなっ」

「葵はいいの素直だから」

「てめー詩織っ。もとはといえばあれは『カク』の連中のもんだったんだぜ。それに勝手に首つっこんどいてなにが遅いだっ」

「だって『カク』には荷が重すぎる『狩り』だったんだもの」

「俺たちの存在を気づかれずに『カク』を助けながら『狩り』をすることがどれだけ難しいかわかってんのか?」

「大声をあげないで。文久くんが起きちゃうわ」

ぐっと恭はこらえた。いつだって詩織は自分中心で、自分たちはそれを許すしかない。どんなにそれが道を外していたとしても自分や葵は詩織の決定に従うのだ。

彼らは『鏡塚』。日本を古代より裏で支配し続けてきた一族ー『宇奈月』の中でもその直系、『真宇奈月』のなかの元帥だけに仕える特殊な一族。

詩織は間違いなく次期『宇奈月』の元帥たる姫だった。そうでなければ自分たち『鏡塚』は生まれてこない。『鏡塚』は『真宇奈月』すべてに仕えるわけではない。

『真宇奈月』の中でも『アサギ』と呼ばれる次代元帥が生まれる時にこの世に生を受ける。詩織が生まれたときに前代未聞の双子の『鏡塚』が生まれたのだ。

それだけ詩織の『力』が強いという証しでもあった。

『宇奈月』はその権力を大きく四つにわけられる。それは『北』『南』『西』『東』にわけられ、『南』と『西』を総称して『表宇奈月』と呼ぶ。

主に表舞台である政財界で活躍するからだが、『宇奈月』自体としての立場は弱い。重要なのは『裏宇奈月』と呼ばれる『東』と『北』で、『東宇奈月』は主に『見えざるモノ』の『狩り』を主とし、一族を束ねている『北宇奈月』は『見えすぎるモノ』の『狩り』をする。

その北直系から生まれるのが『真宇奈月』で、『東』と『北』の『力』を生まれながらにしてもつ者が『アサギ』と『鏡塚』なのだ。

それだけ詩織のもつ『力』は強大で、『宇奈月』が束になってもかなわない。その詩織が一族以外の人間である文久を恋人にしたので『宇奈月』では大騒ぎなのだ。詩織を狙う『宇奈月』は数多く、詩織が文久を守るためにつくった『アサギ』という組織は、『宇奈月』の若者達でつくられる『カク』から目の敵にされるなど、文久ひとりのために一族の混乱は続いている。

当の本人である文久だけがなにも知らないのだ。知ることは文久の死を意味する。詩織とであってからの数々の事故による大ケガもこんなふうに詩織が軽傷程度まで治してしまうので、自分がドジなだけだと本気で思っている。

どこまでも呑気な男なのだ文久という人間は。すっかり顔色もよくなって眠り込んでる顔をふみつけてやりたくなる。こんな思いをしてまで守っている自分たちの存在すら少年は知らないのだ。恭は軽くため息をつくと言った。

「俺たちは帰るけど詩織はどうする?」

「例の『狩り』のことでお祖父様に呼ばれてるの」

「『カク』のやつらチクッたな」

「一応『アサギ』はお祖父様の管轄下ってことになってるものね。どうして『カク』は私たちを目の敵にするのかしら?」

「わかってるくせに聞くなよ。おまえがそんなだから『カク』は怒るんだろーが」

詩織にそのつもりがなくても詩織の行動は、『宇奈月』の若者達で構成される『カク』を挑発しているのは間違いない。

なにせ『カク』は詩織の異母兄妹たちがひきいている集団なのだから。当然のように、詩織をライバル視している。頭のよい詩織がそれに気が付かないわけがない。ただ、詩織は『カク』に興味がないだけなのだ。詩織の興味対象はあくまで文久ただひとりなのだから。

「いくら文久を守るためとか言っても、そのつもりもないのに南塚圭介なんかと婚約するからこういうことになるんだ」

「私は恭か葵がよかったのよ」

「俺や葵で誰が信用するもんか」

「私は、文久くん以外に抱かれる気はないから」

「ならすこしは考えて行動しろよ。ゆうべみたいに自分の欲求だけで外泊するのはよせ。文久が大切ならなおさらだ」

「わかっていても、あいたいんだもの」

詩織は肩をすくめた。そんなことを言っていたら文久にはあえなくなってしまう。いまだって『狩り』の間や一族の意識が過剰なときは避けているのに・・・。人の恋路にけちつけないでほしい。欲求のままに行動するのが彼女、麻城詩織なのだから。

「ずるいわ。お父様はお母様のような側室をたくさんつくってたのに、私だけがいけないなんて」

「一族の人間だっただろ」

「私が文久くんに抱かれてることを知ったら一族はどうするかしら?」

「考えたくもないな」

恭ではなく葵がつぶやいた。それくらい深刻なことなのだ。一族の『女』が男に抱かれる。それは事実上の婚姻を表すものなのだから。

葵自身、その事実を知ったときはポーカーフェイスもくずれてただ頭を抱えた。すぎてしまったことはどうしようもないが、そんなことが一族に知れようものなら文久は一分後にはこの世の者ではないだろう。時が必要だ。一族の意識改革を施す時が。

でなければいくら詩織の頼みといっても文久なんか命をはってまで守るわけがない。文久を守ることーそれはひいては詩織を守ることにつながる。

すべてが詩織の思いのままにことは運び、自分たちはそれに従う。『鏡塚』に生まれたことを悔やんだことはない。

むしろ、『鏡塚』として詩織とともにいられることに誇りすら感じていた。詩織を守る。ただ、それだけの存在価値だといわれても、それ以上を望むことはない。

詩織とともに生きて、死ぬ。それが自分たちの生き方なのだ。たとえ、詩織の心が文久にあったとしても、それは彼らの障害にはならない。彼らは『宇奈月』とは違うのだから。

「とにかく文久には、試験が終わるまであわないようにするんだ」

「恭のいじわる」

「試験勉強ってのは、普通の人間には必要なんだよ。おまえみたいに問題見ただけで答えがだせる奴なんかほとんどいないんだから。文久のことが大切なら試験が終わるまでは放っておいてやれ」

詩織は不服そうに頬を膨らませたが何も言わなかった。一応、彼女も某有名女子高に通っているので試験がどれだけ他の人間にとって辛いものなのかは、クラスメート達の会話から認識していた。すっかり顔色のよくなった文久の額に口づける。

「私がこんなに気を使ってるんだから、追試になったら許さないんだから」

あくまで自分本位なセリフを真顔で言う詩織に双子の『鏡塚』は顔を見合わせる。思いはただひとつ。

ー可愛そうな文久。


 双子の哀れみをつゆ知らず。文久は目覚めるとまわりを急いで見渡した。車にはねられたつもりでいたのに、そこはまちがいなく自分の部屋でー。

「あちゃー。学校さぼっちゃったんだ」

少しの疑いももたずに寝過ごしたと信じていた。起きようとして、右足の鈍痛に顔をしかめたが気にはしない。こんなことよくあることだった。

自分は寝相が悪い。こんなに寝相が悪い自分がよくこのせまいシングルベットに一緒に寝て、詩織を蹴らないものだと感心してしまう。やはり、愛ゆえだろうか。布団にはまだほのかに少女の匂いが残っていた。その匂いを胸一杯に吸い込むと切なさが胸を満たす。

今度はいったいいつ詩織にあうことができるのだろう。きのうは一カ月ぶりだった。はやい方だ。そのまえは半年間も音沙汰なくて、本気でだめかと思った。

せめて電話番号だけでも知りたくていつだったか詩織に聞いたことがあるけれど、電話をもたないのひとことで片付けられてしまった。

もしも、『想い』というものに重さがあるのなら、絶対に自分の方が軽くあってほしい。詩織の方が重いから、あわなくても耐えられるのだと、そう信じたい。

外は雨。憂鬱な梅雨。三年前のちょうど今頃、文久は詩織を拾った。

いま思えば、両親が妹を連れてアメリカに渡ったばかりで、寂しかったのかもしれない。真夜中の公園で雨に濡れていた少女を放っておけなかった。ナンパとは違う。

でもナンパだと思われてもしかたなかったのに、詩織はついてきた。傷ついた子猫のような怯えた瞳がいまもまだ脳裏に焼きついている。

ーであいは運命だった。

その言葉が現実となるようにー。

ーただ信じている。



 このまま果てしなく続くのではないかと錯覚してしまいそうなほど、長い廊下のつきあたりに、目指す人物の部屋がある。幾重にも張り巡らされた『結界』をいとも簡単に通り抜けて、少女はその襖のまえにたどり着いた。両膝をつくとひんやりした床の感触が心地よい。

「お祖父様」

鈴のような声音で呼びかける。すぐに低い声の返事が返ってきた。

「入りなさい」

「失礼します」

型式通りの儀礼にのっとり襖をあけて中に入る。『宇奈月』元帥たる祖父ー麻城宗一の部屋。この部屋に入れる者は一族の中でも彼の血を色濃く宿した自分と宗一がもつ『鏡塚』だけ。

恭も葵もここにはついて来れない。宗一と対座して話すことは次期元帥たる詩織だけに許されることなのだ。だから、一族の者が敬い恐れ慕う宗一も、詩織にとってはごく普通の祖父にすぎなかった。

「お久しぶりです。お祖父様」

にっこりとあどけない笑顔を浮かべる孫娘に、宗一は心が和むのを感じた。

両の手では足りないほどいる孫の中で、唯一自分を祖父として慕ってくれる詩織は、『アサギ』など関係なく可愛い孫娘だった。他の孫たちは正視すらしてくれない。それもいたしかたないことではあるのだが・・・。

「今日はどんなお説教?」

悪びれることなく聞いてくる。これには、さすがの宗一も苦笑した。

「ゆうべ抜け出したこと以外にまたなにか悪さをしたのかね?」

「あら、お話ってそのことだったの?私、てっきり『カク』の『狩り』に手を出したことかと思ってたわ」

宗一は頷いた。

「その件はいたしかたあるまい。『カク』には荷が重すぎる『狩り』だったからの。あれたちにもプライドはある。『アサギ』に助けられたなんぞ口が裂けても言わんさ。ゆうべはどこに行っておったのかね」

「文久くんのところよ。一カ月ぶりだったんだから燃えちゃった」

悪びれなく詩織は言う。文久に抱かれているのを宗一は知っている。知っているから、なにも言えないのはわかっていた。宗一は大きくため息をつく。

「嫁入り前の娘がそんなことを言うものじゃない」

「あら、お祖父様って意外と古いのね」

「私はもともと昔の人間だ。とにかく一族の者たちの神経を逆なでする行動は控えなさい」

「お話はそれだけ?」

「ああ。もう下がってもよい」

「じゃあ、またねお祖父様」

去り際にその唇を髭と髪の判別がつかない頬に押し当てて詩織は出て行く。その後ろ姿が見えなくなると、宗一は表情を改めた。

「隼人」

もう半世紀以上連れ添っている『鏡塚』の名を呼ぶ。自分と同じ年齢には見えない男が風のように現れた。意地悪く隼人は口元に笑みを浮かべている。

「詩織様は相変わらず無邪気でいらっしゃる。宗一も形無しだな」

ー宗一。

隼人は宗一をただひとりそう呼ぶが、詩織に対しては『様』づけだ。そうさせるだけの『力』が詩織にはある。

「あの娘の『力』は日増しに強くなっておる。もはや私とお前が束になったとしても勝てぬだろう」

「詩織様は生まれながらに『四大聖霊』の『力』を授かりし者。我々は見守らなければならない。間違っても三年前の過ちを繰り返すわけにはいかないのだ」

隼人の言葉に宗一も頷いた。三年前の過ち。それは自分たちが犯した罪。詩織の『力』を侮り過ぎた罰。決して繰り返してはならない過去。

自分たちではどうしようもなかったことを、あの少年が可能にした。あの少年が詩織を、ひいては世界を救った。決して、あの少年を失うわけにはいかない。それは痛いほどよくわかっていた。それでもー。

「・・・我々は、あの少年の存在を認るわけにはいかんのだ」

苦い思いで宗一はつぶやいた。


 憂鬱な試験が終わった日、文久の住む街に梅雨明け宣言がだされた。本格的な夏到来である。去年は受験勉強で灰色の夏休みだったけれど、今年はアメリカから両親と妹も帰ってくるし、楽しい夏になりそうだ。ガンガンに照りつける太陽の下、あれほど水たまりだらけだったアスファルトはすっかり乾いて、気持ち良さそうに猫が眠っている。

新車のロードーレーサが悪戯されて廃車になったことは、犯人を見つけだしてぼこぼこにしたいくらい悔しいけれど、貯金をはたいて買ったこのマウンテンバイクの乗り心地もそう悪くはない。

なにしろ雲一つない晴天なのだ。多少の不快さは吹き飛んでしまう。おまけにー。 

いつものように最後の角を曲がった文久は家の前に立つ人影に満面の笑顔になった。最短記録の誕生である。

「詩織ちゃん!」

雲ひとつない青空の下、文久の喜びに満ちた声がこだました。


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