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野は一つになれない

作者: 三兎

 杉野は魔女だ。

 野球部で、デカくて、可愛さの欠片もないような男だけど、魔女なのだ。


 きっかけは些細な忘れ物だった。中学最後の夏休み明けすぐのことだ。

 何の気なしに開いたドアの向こうで、杉野は紙飛行機を飛ばしていた。風もない教室の天井付近を、緩やかに旋回する真白の飛行機。

 到底信じられない光景に、驚いて足が止まる。

「あ」

 そんな間抜けな声と共に、浮力を失った紙飛行機は床へと不時着する。

 ドアの開閉音でわたしに気付いた杉野がこちらを見て明らかに「マズイ」という顔をしていた。バッチリ視線が合う。

 金縛りが解ける。一先ずわたしは教室に入って、ロッカーに置き忘れた数学のワークを取り出した。振り返ると、気まずそうに杉野がこちらを見つめている。わたしはワークを持ち上げて、忘れ物したの、とアピールした。

「宿題あるのにね」

 そうだな、と返す声は、普段明朗に話す杉野にしてはモゴモゴとしていた。

ワークを鞄へ無造作に突っ込む。

「杉野部活いかないの」

「え、ああ、日誌書いてたから……てか俺らは引退したよ」

 からかうように杉野が笑う。そうか運動部はもう引退しているのか。文化部な上に幽霊だから忘れていた。

 視線を落とすと杉野の机の上には開きっぱなしのクラス日誌が置いてある。そういえば日直だったっけ。

鞄を背負いなおす。わたしは用事は終わったとばかりに帰ろうとする。何も無ければ本当に帰るだけだ。

 教室を出ようとすると、躊躇いがちに呼び止められる。

 焦るな、普通にしろ。自分に言い聞かせてから振り返る。

 何、と応えた声は白々しくないだろうか。

「藤野、その、見てたよな?」

 遠回しにぼかして問われる。ここで何が? と返すのは余りにもわざとらしすぎる。わたしは素直に頷いた。そして杉野に何か言われる前に先手を打つ。

「今日は聞かないでおくから」

 返事をきちんと聞く前にわたしはじゃあ、と教室を出た。杉野の声が背中にかかったが無視して歩き続ける。無心で足を動かして、気がつけば人気のない特別教室棟にいた。

 心臓が騒ぎ立てているのがわかる。壁にもたれかかって目を瞑る。ポロシャツの袖と肌の間がじんわりと汗ばんでいた。

 窓の開いていない教室。机に浅く腰掛けた杉野。彼はその節くれ立った指先で紙飛行機を自由自在に操っていた。半袖からむき出しの腕は程よく引き締まっていて、野球部であったことを思い出させた。つい、と右から左へと指を振れば飛行機はその通りに向きを変える。

 落ちることなど知らないように、優雅に紙飛行機はその身を躍らせている。

 カーテンで中和された夏の日差しの照明を浴びて、教室は小さなコンサートホールになり、杉野は指揮者であった。

 そんな杉野と彼を見つめるわたしは映画のワンシーンのようだったろう。

 深いため息を吐いて、閉じていた瞼を開いた。

 これはドラマ性なんて欠片もない毎日というレールから外れられるチャンスだ。

 間違いなく杉野には何かある。いい奴だからわたしの質問にも答えてくれるだろう。そう、彼は分け隔てのない「いい奴」なのだ。

「……帰ろ」

 わたしは部活に熱心ではないのだ。



 次に話しかけられたのは二週間近く経ってからだった。

 基本的に杉野と話す機会はない。そもそもクラスの人間と必要最低限以外の話をしない。別に寂しくもなければ可哀相なやつと同情される謂れもない。

 つまり、「今日は聞かない」と言ったが次が早々あるものではないということだ。わたし自身、自分から話しかける気は更々なく、話しかけられるのを待っていた。

 無かったことにしたいであろう杉野が話しかけてくることはなかったけれど、あの日から数日の間は何か言いたげな視線を何度か感じた。

 そんな訳で、しばらくは普段どおりの毎日を送っていた。

 ようやく訪れた二回目はわたしが日直で、杉野が忘れ物を取りに来るというあの日の逆であった。

 野球部の練習着で教室に入ってきた彼をわたしは一瞥して、視線は日誌へ戻した。ロッカーから何かを取り出そうとしている背中に、杉野、と呼びかけた。

「引退したんじゃなかったの」

「たまに顔出してるんだよ」

 ふうん。短いやりとりはすぐに終わり物が擦れる音が響く。遠回しはまどろっこしい。あのさ、と口を開いた。

「あれ、何だったの」

 杉野の動きが止まった。気配でわかる。

「言わなきゃだめか?」

 そう答えてから、またロッカーを漁り始める。何を探しているのだろう。普段教科書やノートを置き去りにしているのか。

「あの時は聞かないって言ったから、今日聞く」

 後ろから小さく、あったと声がする。目当てのものを見つけたらしい。その時、ひらりと風に吹かれてきたようにプリントがわたしの机に乗っかった。今度はわたしの手が止まる番だった。振り返ると指揮者のように杉野が立っていた。わたしの驚いた顔を見て満足したのか、楽しそうにニヤ、と笑った。

「俺、魔女なの」

 魔女? 魔法使いではないのか。真っ先にそんな疑問がわたしの頭を占めた。魔法が使えるのかどうかは些細なことであった。だって実際に彼はやって見せたのだ。

「魔女なの?」

「おう、ばあちゃんが魔女だったから」

 事も無げに杉野は言い、戻っていい? と扉に手をかけた。

 よくない。聞きたいことが山のようにある。しかし杉野にも部活があるし無理強いは出来ない。それでも、ここで話を終わらせるのはわたしにとって得策ではないのだ。たかが十五年の人生、されど十五年。これからのわたしの人生がここで変わるかもしれないのだ。

 ならばどうする。わたしは反射的に「待って」と声を出していた。

「今日じゃなくていいから、わたしに魔法を教えて」

 杉野はキョトンとした顔で目を瞬かせた。口に出さずとも何故と考えているのが伝わってくる。彼の立場ならわたしも同じ事を思うだろう。

 何か理由をつけた方がいいことは分かるのだが、思うように口が動かない。こういうときは流れるように言葉が出てくるものじゃないのか。

 背後のカーテンが少し膨らむ。今日は窓を開けていたのだ。空気が揺らぐ。杉野の呼吸音さえ聞こえそうな静けさ。

「――いいよ」

 ややあって杉野は答えた。凪いだ水面に小石を投げ込んだようであった。わたしは思いもよらない返事に反応が遅れた。

 目を白黒させるわたしを尻目に、杉野は忘れ物をポケットにいれ、じゃあ水曜日な、と軽く手を挙げて教室を出て行った。

 取り残され、すとんと椅子に落ちる。いいって言った? 言葉に詰まったわたしを、茶化すことも突っぱねることもせず、ただ頷いた。

 変わった奴だ。だが、彼はいい人である。


 水曜日はいつもより早く授業が終わる。下校時間も普段より早くなる。

 月に二、三度、二十分足らずの魔法講座ではあったが、杉野はわたしに付き合ってくれた。人気の無い教室は秘密を話すのにちょうどよかった。時々見回りに来た先生に注意されたが、ノートを広げて苦手な教科を教え合っていることにすれば、遅くならないようにと言われるに留まった。たまに杉野が野球部に顔を出す時は終わるまで待っていなければいけないが、宿題を片付けておけば問題はなかった。美術部に顔を出す気は起きなかった。

 以前にも話していたが、元々杉野のおばあちゃんが魔女だったのだという。彼のおばあさんは亡くなる前に会いに行った杉野の手を握り、実は魔女だということを明かしたそうだ。

「びっくりしたけど、思い返すと確かに不思議なところがあったんだよな」

 緩く握られた手からふわりと風が起こり、おばあちゃんは力をくれた、と杉野は話してくれた。

 実際に魔法を使って見せてもくれた。

「風ちょっと操れるだけなんだけど」

 そう言いながらいつぞややったように、教卓に残ったプリントを風で浮かせた。他にも窓を開けずにカーテンを揺らしたり、少し強い風を起こしたりしてみせた。

「何で魔女なの。魔法使いじゃない?」

「ばあちゃんが魔女だったから?」

 一度疑問に思って質問してみたら、そんな返事が返ってきた。特に考えたことは無かったらしい。ドイツなら男も魔女になれるんだ、と余計な豆知識を得意げに披露された。

 抜けているというか、考えなしの馬鹿というか。勉強はそんなに得意ではないとクラスメイトとの会話で言っていたことを思い出した。そんな杉野はモノを人に教えるのも下手くそであった。

「こう、手から風を沸き起こす感じで……え? わかんない?」

 感覚的かつ抽象的。どのようにして使っているのか、わたしにも使い方を教えてもらおうと思ったらこれだ。

 杉野は身振り手振りを加えて一生懸命説明しようとしてくれるが如何せんよくわからない。勉強は出来ないけど、こういったことの説明は上手いものではないのか。

 がっかりはしたが、わたしの押し付けがましいお願いを懇切丁寧に応えようとしてくれる姿は健気に感じられた。

 放課後二十分はわたしと杉野だけの秘密が潜んでいた。

 劇的な変化の訪れではなかったけれど、わたしにはこの時間がとても有意義なものであった。わたしが魔法を使えるようになる気配は一向にないのだが。



 学校はとかく噂が流れる場所である。理科室に幽霊が出ただの、休職中の先生は教育委員会に怒られたからだとか、誰と誰が付き合い始めたとか。

 その噂の真偽は重要ではない。噂をみんなで共有して楽しめていることに安心しているのだ。当然その中に混ざれない奴は疎外される。だからといって気に病むこともなにもないのだ、少なくともわたしにとっては。

――杉野と藤野が付き合っている。

 どこから沸いて出たのか気がつけばそんな噂が教室で実しやかに囁かれていた。制服が秋服へと衣替えしていた。

 出処に思い当たるものが一つあった。以前見回りで会った体育の先生が、藤野と杉野は放課後も残って勉強しているんだぞ、みんなも見習えよ、などと言ったことがある。恐らく、いや、確実にこれが原因だろう。

 はじめはどうでもいいので放っておいたら、全員に聞こえるように杉野をからかう奴が出てきて鬱陶しくなった。

 しかし否定するのも面倒だし、大体わたしの話をすんなり受け入れるのはよっぽどのお人好しか杉野くらいだ。その杉野はいつもからかわれると、いつもの調子で「んなわけないだろ」と返していた。

 水曜の放課後、いつものようにご教授願っていたところ、何故か申し訳なさそうに杉野は悪いな、と言った。即座に別にと返事をする。わたしはこの時間が無くなりさえしなければいいのだ。

「杉野は嫌かもしれないけど」

「いや、俺も気にしてないよ」

 構わないが、そこまできっぱり言われるのはなんだか腹が立つ。

 この質問以降、彼は素直に納得したようで自分から何か言い出すことはなくなった。わたしもその話題を口にすることはせず、いつものように分かりにくい魔法の使い方を教えろと迫った。

 しかし、当事者にとってはどうでもいいことであっても他人にとってはそうでないこともあるのだ。

 自分がクラスの中心にいるタイプの人間から気味悪がられていることは自覚していた。わたしはわたしであの手の粋がった奴は嫌いだった。なので、わざとらしいくらいねちっこい、藤野さん、を聞いた時には、またか、と思っただけであった。

 昼休みに入りちょうど鞄から弁当箱を出したところへ、机の前に女子が一人立った。後ろにも二人ニヤニヤとこちらを眺めているのがいる。正面のやけにテカテカした唇が動く。

「藤野さん、最近放課後なにしてるわけ?」

 語尾が間延びしているのが耳に障る。

「何が」

 こいつらに許可を得なければいけないことも、口を挟まれるようなこともしていない。簡潔に返事をして、弁当の包みを開き中身を取り出した。今日も揚げ物だろうか。

「あんたさ、調子乗ってんの?」

「はあ?」

 思わず顔を上げてまじまじと相手を見つめてしまった。何をどう解釈すればその答えに行き着くのだ。自分の見下している生き物が何かしていていれば調子に乗っていることになるのか。到底理解できない。人を見下すのは勝手だが巻き込まないで欲しい。

 ちらりと視線を教室内に巡らせる。周りの奴らは異様な空気を察しているだろうが遠巻きに状況を見ている。一瞬杉野と目が合った。何でちょっと気がかりそうな顔してんだ。

 まともに取り合わないわたしに痺れを切らしたのか、舌打ちが一つ聞こえた。実に短気だ。同じ中学生とは思えない。

「杉野の迷惑考えたことあんの?」

 あんたは杉野なのか。本当に、中学三年にもなって頭の悪い。彼女らの発言をいちいち気に留めることなどないと分かっていてもいい加減に腹が立つ。

「……うるっさいな」

 小さく息を吐くように呟く。こんなことの為にわたしは生きてるんじゃないんだ。

「うるさいって言った? こいつ自分のこと棚に上げてんだけど」

 最悪だ。さっきの言葉が聞こえていたようで、正面の女子は後ろの二人を振り返りながら笑った。同調したように笑い声が起こる。うるさい。漫画みたいに低俗で真性の馬鹿だ。何でこんな奴らに昼ごはんの邪魔をされているんだろう。本当に、鬱陶しい。しかも杉野に見られているのかと思うと恥ずかしくて仕方なかった。

 ガタン、と音を立てて椅子が後ろに傾いた。気がつけばわたしは勢いよく立ち上がっていた。何をするでもない、ただ衝動だった。前の三人が不意をつかれて動きを止めていた。僅かだが溜飲が下がった。

 でもここからどうするつもりだったんだ。わたしは俯く。やり返すのはあいつらと同じでみっともないし、逃げるのも子どもじみていて嫌だ。

 水を打ったように静まり返っていた教室は、先程よりもざわつき始めている。それでも誰かが動くことは無い。

「なんなの、キモ」

 驚きから立ち直ったらしい正面の女子が上ずった声で言う。彼女らの「キモい」は挨拶をするのと同じくらい軽々と使われる。わたしが傷つかないとでも思っているのだろう。

 何も言い返したくない。でもこの場からは消えたい。瞬間移動の魔法でも使えればいいのに。杉野でもそれは無理か。

「どうかしたのか」

 その時、急に教室のドアが開かれ担任の先生が顔を出した。

 一斉に生徒がそちらを向く。クラスの誰かが出て行ったのは見ていないから、元々外に出ていた人か、他のクラスの人が先生を呼んだのだろう。

「何かあったのか?」

 担任はすぐ近くにいた男子に話しかける。言いにくそうにしながら、彼はわたしたちの方を見た。担任の視線も自然とこちらを向く。

「なんもないし」

 すぐさま否定の声が飛ぶ。担任はわたしを呼んで、そうなのか、と確認してくる。こんなやり方をしているのでは、永遠にいじめは無くならないだろうなと思いつつ頷いた。もう今はただこの場から離れたかった。

 何かあったら呼ぶように、と言い残して担任は教室を出て行った。彼女らもさすがに注意された後すぐに続ける気はないらしく、自分たちの机まで戻っていった。わたしはそのまま教室を出ると人のいない特別教室棟へと向かった。

 五時間目をサボった。


 この一件以来、からかわれることは減っていき、くだらない噂はすっかり立ち消えたようであった。

 わたしは直後の水曜日の放課後、杉野とは顔を合わせずに図書室に閉じこもった。そんなことをしたのはこの一回だけで、次の週からは何事も無かったかのように再開した。杉野も何も言わなかった。気を遣ったのか、単に鈍かったのかはわからない。



 十一月も半ばの水曜日。いつものように過ごしながらも、そろそろ受験勉強に専念しようということになって一旦今日で区切りをつけることになった。

 カモフラージュに出していたノートを片付けながら、ふと気になって杉野へ声をかける。

「何で魔法あんまり使わないわけ」

 風を軽く操れるくらいだし、もっと積極的に使ってもいいんじゃないだろうか。杉野は一人のときに手遊び程度に風を起こしているか、わたしに教えるために少し使うくらいだ。

 帰り支度が特に必要の無い杉野は机の上に行儀悪く座っていた。

「これといって理由はねえけど……必要ないから?」

 また疑問形だ。杉野の返答は断定形だったことのほうが少ない。日常生活を送る上で欠かせないと言うわけではないから、というのが彼の主張らしい。

「そりゃたまに意味もなく遊びたくなるけどさ。けど別になくても問題はないからなあ。ばあちゃんは結構色々出来たらしいけど」

 言葉に合わせてぴんと立った人差し指が動く。魔法は使っていないようで風は起こらない。

 わたしは鞄のチャックを閉めた。顔を上げると杉野がじっとこちらを見ていた。

「逆に、藤野は何で魔法使いたいわけ?」

 そしてそんな質問をする。

「昔から魔法とかオカルトみたいなのが好きだったから。使ってみたくなるものでしょ。ファンタジー物とか結構読むし」

 半分嘘で、半分本当だ。実際はそんなに幼稚ではない。

 何事も起こらない敷かれたレールの上を歩くのが嫌だからだ。もし、魔法が使えたのが杉野じゃなくても、魔法じゃなくて霊能力や超能力でも、わたしはそれを手に入れようとしただろう。しかし、本音を杉野に晒す気は毛頭ない。きっと理解されないか、額面どおりに受け取られておしまいだ。彼らに危機感なんてありはしない。

 予想と違わず杉野はわたしの返事に、なるほど、と頷いた。

 

 お互い頑張ろうと当たり障りのないことを言って別れた。

 わたしは家から左程遠くない公立の高校を志望していた。成績も数学が苦手なだけで、悪いわけではなかったから担任にもこのままなら問題はないだろうと言われていた。公立を選んだ理由は特に無い。私立に通わせることなど親は想定していないからだった。強いて言うなら偏差値も悪くなく、通学も困難ではないのが理由であった。

 一方杉野はそこまで成績がよくないので、苦労しているようだった。担任に何度か呼び出されていた。隣の市のそれなりに有名な野球部がある高校を目指しているらしかった。

 卒業したら杉野と定期的に会うことはなくなるな、と思った。何故か全く会わなくなるという考えはなかった。

 秋から冬へはあっという間に変わり、十一月の最後の合唱祭は銀賞に終わり、期末試験も無事に済んだ。

 そのまま冬休みに突入し、冬の日はよく言うように矢の如く過ぎ去っていった。

 最後の模試の結果はまずますであった。勉強をする傍ら、今まで杉野に聞いたことを書き込んだノートを見返した。

 魔法はわたしじゃ使えない。それでも何か目に見える力が欲しかった。勉強が出来るだけじゃ駄目だ。わたしの全部を根底から変えられるものじゃないと。

 二月に入って卒業式の練習が始まった。立ったり座ったりを繰り返し、校歌を歌う声が小さいと怒られる。

 三月が近づくにつれ、卒業証書を一人ずつ受け取る練習もやるようになった。わたしのクラスは四組で、ちょうどみんながだれはじめる頃に順番が回ってくるのだ。

「杉野隆史」

 担任の声にしっかりと返答する声。野球部にいただけはある。登壇した杉野を見て、わたしの感覚より背が高いのだなと思った。このとき初めて杉野の下の名前がたかふみ、ということを知った。

 練習と受験勉強をこなす日々が続き、気がつけば卒業式が前日まで迫っていた。

本番に近い予行練習を終え、ぞろぞろと教室へ戻る。三年生は予行だけでもう帰宅だ。ぼんやりとただ足を進めていると背後から肩を叩かれた。振り返ると杉野がぬぼーっと立っていた。

「明日さ、終わった後で教室来れる?」

 何だこいつ喧嘩売ってるのか。わたしよりお前が大丈夫なのか。――というようなことをオブラートに包んで聞くと、彼は部活で集まる前に行くと答えた。

「じゃあ明日」

 どういう用事なのかについてはお互いに触れなかった。わたしはこれからについてまだ踏み込みたくなかった。明日が最後なのは分かっているけど、わたしは変なところで臆病だった。



 卒業式は滞りなく終わり、わたしたちは在校生に見送られながら一旦教室へと戻った。担任から再び卒業証書を手渡され、最後の話を聞く。時々誰かのすすり泣きが混ざった。

 泣くほどではなかったが、雰囲気も相俟ってほんの少しだけ感傷的な気分になった。解散を告げられ、外へ出て行く生徒や、教室に残って写真を撮ったりする生徒などの騒ぐ声が響き始めた。

 わたしは一旦外へ出て、待っていたらしい母親と顔を合わせた。中庭は抱き合う生徒や保護者であふれかえっていた。

 アルバムや花などいくつかの荷物を母に預ける。母は重いと文句を言いつつも持ってくれる。母はお昼ご飯をどこかへ食べに行こうと笑った。

 父も休みをとって卒業式を見に来ていたそうだ。今は車を取りに戻っているという。わたしはどこそこのレストランへ行きたいと返しつつ、意識は全く別のところにあった。どの位経ってから教室に行ったほうがいいだろうか。まだ結構な人数が残っていたからしばらくは駄目だ。

 母が何か話しかけてくるのに生返事をしていると、何人かの男子が集まって出てくるのを見つけた。確か野球部のはずだ。

「お母さん、ごめんちょっと忘れ物してきた。取ってくる」

「そう。じゃあそのうちお父さん近くに来るはずだから、校門の所に行ってるね」

 わかったと頷いて、わたしは教室へと戻った。

 他の教室ではアルバムの空きページに寄せ書きをしている人を見たが、四組の教室には杉野がいるだけだった。

 いつかの日のように、机に腰掛けて紙飛行機を飛ばしていた。

「見られるよ」

「いいんだよ別に」

 力を失った紙飛行機を杉野は掴んで、折りたたんだ。そして机から降りる。わたしは教室に入って杉野へ近づいた。

「前さ、魔法使いたいって言ってたじゃん」

 唐突な感じに杉野は話を始めた。わたしは少し面食らいながら肯定した。杉野は手ぶらだ。誰かに預けたのか、置いてきたのだろう。そんなことを考える。

「で、俺考えてみたんだけど」

「何を」

 遠回しに喋られると何を言いたいのか分からない。今まで通り、わたしに魔法を教えてくれればいいだろう。会う頻度は減るだろうし、わたしは杉野と同じ力を持てないだろうけど、まだそれで十分だ。

 杉野がわたしの前に立った。大きな節くれだった、豆の少し減った手が差し出される。頭を持ち上げて見上げる。杉野は何か期待に満ちた目をしていた。逡巡して、そうっと彼の手をとった。手の皮が分厚いと思った。

「ばあちゃんに出来たなら俺にも出来ると思って」

 そんなよくわからないことを言う。手を離すまでをとてつもなく長く感じた。実際は五秒にも満たないだろう。する、と握られていた感触が抜け出ていった。

 手の平を見つめる。人の体温が残る、ということを初めて知った。

「藤野、空気をつかんで持ち上げる感じで手、振って」

 勢い込んで杉野が言う。いつもよりかは分かりやすい説明だ。どういう意図か読みきれないが言われた通りに手を動かした。

 次の瞬間、下から僅かだが風が沸き起こった。

 杉野ではない。彼は隣でじっとしていた。窓は開いていない、廊下のものも同様だ。そもそも地面から風が起こるわけがない。

「……なに、今の」

「やった! こういうのはやってみるもんだな」

 わたしの困惑を他所に杉野は喜びの声を上げた。おばあちゃんが出来たこと、を杉野はわたしにした。つまり――魔法を移した?

 わたしは暑くもないのにじんわり汗が浮かんでくるのを感じながら、今まで杉野に教わってきたように指を動かした。

 カーテンが風にはためく。隣から杉野が紙飛行機を差し出してきたので、それにも風を向けた。浮力を受けて不恰好に飛行機は宙を舞った。

 心臓の音がうるさいくらいによく聞こえる。

 魔法が使える。杉野が力をわたしにくれた。望んでいたものが今わたしの手の中にある。

 そのはずなのに、わたしの胸に起こったのは喪失だった。

 杉野は無邪気に成功したことやわたしがきちんと魔法を使えたことを喜んでいる。

「ねえ、これいいの」

 声が震える。わたしはよくない。これじゃ、わたしは。

「だって欲しい人が持ってたほうがいいだろ?」

 杉野は力を渡してよかったのか、という意味にとったらしい。何の裏も無い顔で頷く。彼にとっては全て善意でしかない。そして余りにも鈍い。

 わたしが言葉を探していると、廊下から杉野を呼ぶ声がした。杉野も時計を見て、やべ、と口にした。

「そろそろ行かなきゃ」

「あ、ま、まって」

「まだ上手く使えないかも知れないけど、藤野ならすぐ慣れると思う」

 違う、わたしが欲しいのはそんなことじゃなくて。

 もう一度杉野の名が呼ばれた。彼は今行く、と大声で返しわたしを正面から見た。

「半年もなかったけど、楽しかった。最初は藤野のことよく知らなかったけど、いい奴だなって思った」

 それは嬉しい、でも今言わないで欲しかった。

「じゃあ俺行くわ。お互い受験頑張ろうな」

 小さく手を振って杉野は教室を出て行った。

 わたしは立ち尽くす。後を追う勇気もない。そもそも「待って」という資格もないのだ。

 はじめは本当に普通と違うものに憧れていただけだった。杉野はあくまでもその手段に過ぎなかった。けど、今はもう違う。杉野と一緒にいることに意味を求めている。

 魔女の杉野と何かになりたいわたし、ずっとこの関係でいたかった。そうすれば、わたしはずっと杉野に憧れていられた。何もかもが遅い。

 確かに杉野は鈍かった。でもそれ以上に、自分の心にわたしは鈍かったのだ。

 教室の出口にゆっくり近づき、ドア枠に掴まる。廊下にはもう誰もいない。遠くから微かに「おめでとう」とはしゃぐ声がする。

 目頭が熱い。瞬きをすれば頬を水滴が零れ落ちた。卒業式ではそんなことなかったのに。

 ずるずるとその場に座り込む。声を上げた。こうやって人は大人になるのだろうか。

 水滴が重力に逆らって飛んだ。無意識に風を起こしたらしい。髪も、スカートも揺れる。

 欲しかったはずのものは、色々なものを同時に失うことで手に入れられた。でも、なりたかったわたしにはなれた気がしない。

 中学校最後の日、わたしはただひたすらに声を上げて泣いた。まるで、生まれたての子どものように。


ドイツでは男性でも魔女になれます(マジ)

死ぬ前の魔女の手を握るとその力が移る、という迷信から生まれた話です

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