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抱き上げられて

2017/05/03 誤字脱字の修正をしました。

 麗景殿(れいけいでん)を抜け出した百合姫は、慎重に周囲を見回したが、人はいないようだった。もう間もなく演奏の宴が始まるため、多くの貴族や女房は場所取りにと弘徽殿(こきでん)に詰め寄せていると思われる。


 桔梗(ききょう)の君が姿を消してしまったと聞いてから、嫌な予感がしてしようがなかった。目立たぬよう弁えていなければ、身の破滅に成りかねないことは分かっていたが、どうしても不安が拭えず、自ら探さずにいられなかった。


 まずは注目の百合姫であることを悟られぬよう、慎重に扇で顔を隠しつつ重い絹の唐衣裳(からぎぬも)と長い黒髪を引き摺って、麗景殿(れいけいでん)の東向の梨壺北舎(なしつぼきたしゃ)に向かう。桔梗の君の主である女五の宮様のお住まいである。


 近付くなり、何やら中で女房達が不安に満ちた声で騒いでいるのが分かる。声からすると、年寄りの女房達のようだった。

 

 麗景殿(れいけいでん)の女房だと偽って御簾内(みすうち)へと声を掛けると、年寄りの女房が半泣き状態で、桔梗の君はまだ戻っておりませんと言う。このままでは一大事に、東宮(とうぐう)様に何と申し上げれば良いのか、と泣いている。


 名指しで演奏を任された童が無断で消えたとなれば、弘徽殿(こきでん)女御(にょうご)と右大臣の面目は丸つぶれとなり、盛大に人集めをしただけに、恐ろしいほどの怒りを買うことになってしまう。一大醜聞になり、女五の宮様も東宮様もその童を罰しないわけにはいかなくなるだろう。


 百合姫の中で嫌な不安がますます大きく膨らんできた。


 女房達への礼もそこそこに、桔梗の君を探すため、梨壺北舎を去り、北側渡殿(きたがわわたどの)から桐壷(きりつぼ)へ向かう。


「桔梗の君! 桔梗の君! どこにいる?」


 住まう人のいない桐壷(きりつぼ)は、ほとんどの御簾(みす)が降ろされており、中はすでに薄暗い。帝や東宮は南側に住んでいるため、一番北側にあって遠いこの桐壷(きりつぼ)宣耀殿(せんようでん)に女御達は住みたがらないため、人目が無く埃っぽい。


 百合姫は何か物音がしないかと耳を澄ませながら、桔梗の君を呼んでみた。だが、誰か人がいるような気配はない。そのまま桐壷(きりつぼ)北舎へも足を運んだが、やはり誰もいない。埃っぽい香りが鼻に就く。

 

 さて、どうしたものかと考えていると、西隣の宣耀殿(せんようでん)の側で成人前の殿上童(てんじょうわらわ)姿の少年達が数人集まっていた。何やらヒソヒソと怯えを含んだ声で話し、疚しいことをしていることを表しているかのように、前屈みで顔を寄せ合っている。

 ピン! ときた。


「そなた達、このような人気の無い御殿で何をしているのですか?」

「あ、あの……?」

「私は麗景殿(れいけいでん)の女房です。桔梗の君を探しています。この辺りで見かけませんでしたか?」

「ぼ、僕たちも命じられて桔梗の君を探しておりました! この宣耀殿(せんようでん)は僕たちが探しました! 誰もいませんでした。本当です!」


 誰も疑ってなどいないのに、本当だと主張するところが百合姫には怪しく思われた。

 仮に誰か大人が探しに来ても、このように先に調べたと言われれば、調べもせずに去ってしまうだろう。それにこの宣耀殿(せんようでん)梨壺北舎(なしつぼきたしゃ)麗景殿(れいけいでん)の隣で近すぎる。子供がいたら誰も気づかぬはずは無いと思い込んでしまうかもしれない。

 

「そうですか。では他所も探しにお行きなさい! 急いで! 弘徽殿(こきでん)の女御様や右大臣様は、桔梗の君が見当たらないので、非常なお怒りですよ!」

「はい!」


 百合姫は態と脅すように命じて、探すのに邪魔な少年達を宣耀殿(せんようでん)から追い払った。


 暗闇の中、桔梗の君は疲れてぐったり横たわっていた。

 腕を胴ごと帯でぐるぐる巻きにされていて動かせず、しようが無く両足で床を打ち付け音を出していたが、誰も気付いてくれないようだった。


 両足も一緒に縛られているので、両足一緒に何度も振り上げなければならず、これが結構疲れるのだ。


 最近、紅葉(もみじ)の少将会いたさに出歩くようにはなっていたが、これまでの人生、ほとんど座って過ごしていた。出歩いた範囲も、せいぜい隣の麗景殿(れいけいでん)の付近で、運動も素振り程度である。その木刀の素振りだって、初めてした晩は体中が痛くなり、梨壺北舎(なしつぼきたしゃ)に戻ってから呻いて寝たのだ。今度は捻った足首だけでなく、運動の痛みが足にきそうだった。

 

 攫われた最初は、心細さに桔梗の君も泣いた。でも何もならなかった。

 なので、次は助けを呼ぶ音を立てるため、暴れてみることにしたのだ。こんなことに負けたくない!と思い返したのだ。

 

 殿上童(てんじょうわらわ)姿の男装をしなければ、こんな恐ろしい目には会わなかった。けど、紅葉の少将と親しくなるほど側に行けたことを桔梗の君は絶対に後悔したくなかったのだ。何故なら、どうしても自分を見て欲しくて、憧れの君に近付きたかったから。

 

 あの紅葉の少将も毎日のように鍛錬されているし、雅やかな桂木(かつらぎ)の少将だってこっそり剣術の訓練をしていると言われていた。自分だって真面目に続けよう、誰かが助けにくるまで頑張るの!と己を励ます。

 

 けれど、さすがに動き疲れたので、しばしじっと横たわり、休息をとる。

 

「桔梗の君! いないのか! 桔梗の君!」


 誰かの呼ぶ声が桔梗の君に聞こえてきた。横たわって耳を付けている床に、ズリズリと衣装を引き摺る衣擦れの音が響いて来た。

 助けが来たのよ! と、気付いた桔梗の君は、再度、音を出すべく両足を何度も床に打ち下ろし始めた。


 何かがドンドンと叩くような音が奥の方から聞こえたのは、呼び掛けに返事が無く外れか、と百合姫が宣耀殿(せんようでん)から出ようとした時だった。


 ここにいる! と確証を得て、片っ端から襖を開けたり、取り残された几帳(きちょう)をどかしたりと調べる、そして薄暗の中、とある奥の襖を開けると、そこは壁で囲まれた塗籠(ぬりごめ)の部屋だった。日も差さない暗闇の中、何か布の塊のようなものがある。

 

「桔梗の君! 桔梗の君か?」

「むぐぐぐ! うごうご!」

「ここか!」


 誰かが桔梗の君に掛けられていた上衣らしき布を取り払った。薄暗くてよく分からないが、大柄な女房のようだった。


「よかった! 見つかった!」


 その女房は、急ぎ、桔梗の君の口に無理矢理くわえられていた布を取り除き、手足の縛めを解いてくれた。

 そして怪我が無いか身体の様子を確かめるためなのだろう、桔梗の君の頭から首、肩、背、腕、足などを労わり撫でながら検め始める。左肩と右足首に触れられた時、思わず痛みに身体がビクッとなって小さな声を上げてしまった。

 女房は慰めるようにそっと抱き起こしてくれた。


「大丈夫、もう大丈夫だよ、桔梗の君。さあ、ここから出してあげようね」


 とても自力で歩けないかも、と足首の痛みに桔梗の君が思った時、意外にもその女房は、桔梗の君を軽々と赤子のように横抱きにして、宣耀殿(せんようでん)から日が差す外の簀子(すのこ)へと運び出した。


 嘘みたい! こんな怪力の女房、見たことが無いわ! と桔梗の君は内心非常に驚いた。


 夕方の日を浴びて、桔梗の君は少し正気付いた。暗闇ではない光に包まれ、やっと安心感が湧いたのか涙が再び流れ出した。あるいは、赤子のように温かい腕に抱かれたからかもしれない。


「うえっ! うううう……」

「ああ、可哀想に、怖かったのだね。だが、よく一人で頑張った。君は本当に頑張り屋さんだ」


 ようやく自由になった体と声で、思うままに泣く。誰かが優しく温かい胸に抱きしめ、そっと後頭部や背を撫でて慰めてくれている。もう大丈夫なのだと、助かったのだと優しく言ってくれているのが分かった。

 

「さあ、梨壺北舎に連れて行ってあげよう。皆心配しているよ。立てるかな? ……ああ、やはり足首を痛めているようだね。では、このまま運んであげよう」


 夕方の薄暗闇の中、助けてくれて優しく労わってくれたその人をようやく桔梗の君は見た。


 まさしく月の天女のように美しい人だった。白銀の月のように強く凛とした雰囲気なのに、月が陰るように不意にどこか消えて無くなりそうな妖しさ。だが、眼差しは労わりに満ちて優しい。だが、その姿とは裏腹に、女にしては低めの声が不似合いだった。優しく響いてはくるのだが。

 それにどこかで会ったような、見たことあるような美しい顔。


 長い袴に(うちき)()を引き摺りながら、華奢に見えるその腕で桔梗の君を横抱きにし、軽々と運んでいる。儚げな姿とは逆に不思議なほどの力持ちだった。


「あの、助けてくださって、ありがとうございます。お名前を伺っても良いですか? 我が主(私だけど)がきっとお礼を……」

「そこにいるのは桔梗の君か!」


 麗景殿(れいけいでん)の南の方から、聞き慣れた憧れの声がした。

 焦った様子で束帯(そくたい)姿の公達(きんだち)が、一人速足で近付いて来る。


「紅葉の少将様!」

「やはり桔梗の君か! 姿が見えないので、心配したぞ! 皆で探していた。どこにいたのだ?」


 紅葉の少将が近づいてくると、桔梗の君はそっと床に降ろされた。咄嗟に片足立ちで怪我した足首を庇う。

 抱いていてくれた女房らしき人が簀子(すのこ)に腰を下ろし、扇と袖を広げ、隠すようにその顔を覆い、少将に深く礼を取る。


「ご心配かけて、申し訳ございません。ええと、その、あ、あの……」


 自分を捕らえた少年達の事を話そうかどうしようか迷って、桔梗の君は視線を少将から反らし、もじもじしてしまう。そこへすかさず、助け船が出された。

 

「桔梗の君は、宣耀殿(せんようでん)の隅で倒れておりました。何か事故があって、しばらくの間、気を失っていたようです。肩と足を怪我しており、歩けぬようでございます」

「おお、そうであったか、可哀想に! それにしても女房殿、礼を言わせてもらおう。桔梗の君を助けてくれて感謝する。親友が可愛がっている童なのだ」


 親友が可愛がっている童、の言葉に桔梗の君の胸は少し傷んだ。せめて自分が可愛がっていると言ってほしかったのだ。

 落ち込んでいると、桔梗の君はグイッと紅葉の少将に横向きに抱き上げられた。小さな子供のように。


(いや~、恥ずかしい! 夢ではないかしら? 今度は紅葉の少将様に抱かれてる? 何か、私を攫ったあの子達に感謝したくなったわ! 良くないけど!)


 憧れの紅葉の少将の腕に抱き上げられて、桔梗の君は顔が紅くなるのが分かった。

 

 怪我していても琵琶(びわ)を弾けるかと問われたので、座っている分には問題ないと返すと、少将はこのまま弘徽殿(こきでん)へ連れて行くという。これ以上、弘徽殿(こきでん)の女御様や右大臣を待たせると、政治的に非常に大きな問題となる。東宮様や女五の宮様にも大きな影響が出かねないと説明された。


 憧れの少将様の腕に抱かれつつもチラリと後ろを振り返ると、天女の君は扇で顔を隠しつつも目で微笑み見送ってくれた。桔梗の君もペコリと頭を下げて感謝を伝えた。


 弘徽殿(こきでん)に可愛らしい童を抱いて紅葉の少将が現れたので、宴の会場は驚きと黄色い歓声が上がった。紅葉の少将様ってやはり? やっぱりそうだったのよ! とあちらこちらで女房や女官が囁き合う。


 琵琶を弾く少年を定位置に降ろし、男なら、痛みに耐えて主のために頑張れよ、と頭を撫でている。その姿に御簾内(みすうち)のあちらこちらから、黄色い声と熱の籠ったため息が零れた。


 山吹(やまぶき)の君も定位置について、元気な姿が見れられて安心したと桔梗の君に微笑んでくれた。相当心配していたようだった。不謹慎とは思うが、心配してもらえるほど親しくなったのが嬉しかった。

 

 周囲は想像以上の人出だった。これのどこが右大臣家の内々の演奏の宴なの? と、思った以上の宴の規模に、桔梗の君の緊張が高まっていく。自慢の琵琶とは言え、間違わずに弾けるか、思わず不安になった。


 そして桔梗の君の近くの孫廂(まごひさし)に、几帳(きちょう)の陰に隠れるように、噂の天女、百合姫が座した。


(あ! あの姫様は!)


 几帳の向こうに垣間見えたのは、先程桔梗の君を助けてくれた怪力の天女の君だった。

 

 ああ、噂通り天女のように美しいというのは本当だったのね、と桔梗の君は驚く。そして、いくら兄の桂木(かつらぎ)の少将と親しいと言っても、何故会ったこともない、文遣いの童である自分を助けに現れたのか、今更に不思議に思った。


 チラリと妖しくも美しい視線が、几帳の隙間から桔梗の君に送られてきた。助けてくれた時と同じ、励ましが込められている。桔梗の君の緊張を察したのか、大丈夫、あなたならやれると言ってくれているようだった。


 その視線をより捕らえられる様に、桔梗の君は体を少しばかり百合姫が座す几帳の方に向ける。床に打ち付けた左肩がひどく痛むが、琵琶を支えられない程ではない。痛みをこらえて、合図の視線を送る。


 百合姫と呼吸と視線を合わせて、桔梗の君は琵琶を、百合姫は箏を爪弾きだす。誰もが知る名曲だった。

 弱く儚げかと思いきや、以外にも月光のような凛とした強さと涼しい清らかな夜風のような箏の音。童の優しく無邪気さを含む甘く響く琵琶の音、そこに山吹の君の青年らしい熱意溢れるしっかりとした横笛の音が重なる。

 弘徽殿(こきでん)にいた誰もが、目を閉じたり耳を澄ませてその素晴らしい音色に聞き入った。


「あの琵琶の音色……。まさかあの童……」


 御簾内で、美しい雅楽にうっとりする麗景殿(れいけいでん)の女御の手を握りながら、東宮は訝し気にポツリと呟いた。

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