姫宮のための対策
2017/05/03 誤字脱字を修正しました。
後宮の最も奥まった御殿である宣耀殿は、完全に人払いがされていた。今の所、住まう主がいないため内密の話をするには打ってつけだ。そこに東宮は信頼できる臣下二人を密かに呼び寄せたのだった。
御簾をくぐり宣耀殿の内奥に現れた東宮が上座に座すまで、二人の若い公達が揃って伏して礼を取る。一人は桂木の少将、もう一人は陰陽師の君である。
この宣耀殿にいる三人の周囲に完全に人の気配が無いのをそれぞれが再度確認した。
「どうだ、状況は掴めたか?」
宮中二大貴公子の一人である桂木の少将は人脈も広く様々な貴族の裏事情に通じている。殊に後宮の女房達は雅やかな桂木の少将に夢中な者が多いためよく話を零してくれるのだ。
陰陽師の君は東宮の信頼できる幼馴染であり、上位下位それぞれの貴族からも力を認められているほどの者である。宮中の様子を探らせるには適任な二人だった。
「大胆にも、私の妹宮に結婚を勧めるよう帝に助言したのは、やはりあの者か?」
「大納言様で、間違いないようですね。帝に奏上できるほど親密になられたのは、最近、帝がご寵愛されている新尚侍を通してのことです。こちらは女房達の証言を得ております」
桂木の少将が得られた情報に、東宮は嫌悪の表情を浮かべた。
「今回、女五の宮に求婚してきたのは二人。一人は大納言家の長男、頭の弁。もう一人はよりにもよってあの『橘の宮』だぞ! あの馬鹿、どの面下げて私の同腹の妹宮に求婚などしてきたのか! 私とは東宮位を争った仲だぞ! 表立って罪は犯していないので野放しにしておいたら図に乗ったな! そこはどうなっている、桂木の少将?」
「畏れながら申し上げます。橘の宮様の保身安泰が目的の一つ。更に今回の求婚騒ぎには、もう一つ別の目的がございます」
コッソリ聞き耳を立てていた女房から桂木の少将が聞きだした話は、女五の宮の事だけではなかったのだ。
まず、帝はたった一人の親王である橘の宮が東宮位争いに負けただけに、その行く末を気にかけている。
橘の宮が唯一人迎えた愛しい妻の実家は血筋は良くとも高位貴族では無いため、後見も財産も親王にはふさわしくないほど貧弱だった。それならば、将来の帝の同腹の妹宮を正妻に迎えることで、橘の宮の身の安泰を図ってはいかがと、大納言家が奏上した。
当て馬として身分の劣る大納言家の長男も求婚すれば、女五の宮は一番身分の高い親王を婿に選ぶに違いないと大納言は帝に吹き込んだ。同腹の妹宮の婿を東宮が粗略に扱うはずがない。帝はこの案にいたく感心したらしい。
しかし、実際のところ橘の宮を毛嫌いする東宮が、妹宮の婿として認めるはずはない。結局、大納言家の息子が婿に選ばれ、東宮の近しい親戚になると見込んでいる。それこそ帝の妹宮の婿となれば、大臣になるのも夢ではなく、妹宮との間に姫が生まれれば妃にもでき、帝と血の繋がった外戚にもなれる。
「それで、もう一つの目的とは何だ? そちらが強引な求婚騒動の原因か?」
「帝の姫宮、東宮様の姪に当たられる女三の宮様です。確か、女五の宮様と同じ15歳。お母上は女御様ではなく尚侍であられましたが、去年お亡くなりになられております。帝と、腹違いの兄の橘の宮様の庇護の下、本来なら生涯独身であられるはずが……」
「母親も亡くなり、頼りとなるたった一人の男兄弟である橘の宮は、東宮位から落とされ、腹違いの妹宮の後見どころではなくなったからか……」
後宮育ちではない東宮のために、桂木の少将が後宮の人間関係を説明する。だが、兄帝の寵愛を受けた女性の数とその子供たちの数に東宮は頭が痛くなる。更に生まれたのは姫宮ばかりだ。また、そうまでしても、男の御子が欲しかったのかと思うと、兄帝を哀れにも思った。
「はい。それ故、密かにこちらの姫宮様もご降嫁先を選定中とのことです。白羽の矢が立つのは、おそらく同世代の左大臣家の紅葉の少将と、右大臣家の山吹の君、そして式部卿の宮の子息の私です。未だ我が家には打診はございませんが」
続いて、陰陽師の君が伏して東宮に報告する。
「畏れながら、密かにある陰陽師に、相応しいお相手とご降嫁の日などを問いかけているとの話もございます。橘の宮様のご結婚の際の騒ぎから、帝は相性などもとても気にされておられるので」
「春先に、右大臣家の弘徽殿の女御がお産みになられたのも姫宮だった。左大臣家の承香殿の女御のところも姫宮がおられる。兄帝も、もう男の御子が生まれるとは期待されていないのかもしれない。そうなると、後見の無い女三の宮には一番良い婿を探してやりたいのであろう。それで、私の妹宮にはあの『軟弱の宮』か身分の劣る頭の弁をか? 無礼な! だったら無理に結婚しなくて良い!」
苛立ち紛れに東宮はパシンと扇で膝を打つ。
これまで、妹宮とは離れて暮らしていた時期もあり、あまり構ってやれなかった。だが、東宮にとっては母親を同じくする可愛い妹だ。上手く伝わっていないかもしれないが、やはり大事に思っている。
大貴族の後見が無くとも、東宮である兄がおり、また天下の権力者の右大臣家の麗景殿の女御と姉妹のように親しくさせたので、行く末に心配は無いはずだった。気楽に幸せに生きてほしいと願っている。
「畏れながら、貴族達も将来を考えれば、やはり帝の姪宮様よりは、同腹の妹宮様の婿になる方が得策と考える者が多いはずです。なので、こう申しては何ですが、女五の宮様に婿を決めておかないと、女三の宮様には婿が決まりにくいかと……」
桂木の少将が述べる宮中の貴族たちの思惑に、ますます東宮は不機嫌になってきた。
「とんだ、玉突き結婚騒ぎだ。妹宮はこの求婚騒ぎに動揺し嫌がって、鶏のようにギャーギャー騒いでいる。あれは15歳とは言え、まだ胸も大して膨らんでいない童女だ」
「お胸の方はともかく、お年から言えばご結婚されても何も問題は無いと世間は思います。間近にお会いするまで、胸は分かりませんし、胸が小さい方が好きな殿方もおりましょう。東宮様は如何様されるおつもりですか?」
「五の宮の胸は何もしなくても、いずれ大きくなる。良い物をたくさん食べていれば、大丈夫だ。私はそう信じている」
自らに言い聞かすように、東宮は小さく何度も頷く。
「いえ、お胸対策ではなく、ご結婚対策について、東宮様のご意向を伺いたいのですが……」
東宮と桂木の少将の論点のずれた遣り取りに、陰陽師の君は頬を紅く染めて静かに申し上げた。
ゴホン、と気を取り直すように扇の陰で東宮は小さく空咳をした。それを受けて、同じく桂木の少将も陰陽師の君も空咳をする。
「取り敢えずは、返事を引き延ばしの時間稼ぎをする。帝の御許しを得た求婚だ。すぐに断るわけにはいかない。逆に女三の宮の婿が先に決まってしまえば、問題は無い。それまでお文の遣り取りでもさせるさ。代筆で対応させる」
ふと東宮が何かを思いついたらしく、真剣な眼差しになった。
「ただ、橘の宮や大納言家が強引な策に出ないとも限らない。桂木の少将、後宮の警護を一層厳重にせよ。間違っても梨壺北舎に変な虫が寄り付くことの無いように! 庭にもこまめに巡回させろ」
「畏まりました。厳重警戒は紅葉の少将にも伝えます。間違っても女五の宮様が恐ろしい目に会うことが無いよう努めます」
「私もいつも梨壺にいる訳ではない。私が麗景殿にいる時は特に気を付けてくれ。女御を梨壺に召せばよいのだが、いつもそうとは限らないのでな。あと、陰陽師の君は、怪しい者の出入りや呪詛などに気を付けてくれ」
「畏まりました。女五の宮様も麗景殿の女御様のように、邪気を撥ね除けるお強い『気』をお持ちなら心配ないのですが。お札などご用意しましょう」
陰陽師の君は伏して東宮の命を受けた。
麗景殿の女御様の分は十分用意してあるが、それ以外の強力なお札をこれからたくさん作らねば! と頭の中で作成計画を立てる。関わる貴族も多そうなので、いくらあっても足りない気がした。
「怪しい者……」
ぽつりと桂木の少将が呟く。思わず、女五の宮様のお文遣いの殿上童姿の少女の事が頭に浮かんでしまったからだ。
この手に感じた胸は小さくとも、確かに少女だった。なぜ後宮でわざわざ男装しているのか? 明らかにあの者は怪しすぎる。もう一度、誰の手の者かを確かめる必要性を感じた。
東宮はその桂木の少将の怪訝な表情を違うものとして捉えたようだ。
「そうだ。後宮事情を知る桂木の少将なら分かるだろう! 浮かれた女房や側仕えの者が、梨壺北舎に男が忍び込む手伝いをするかもしれない。不埒な男とは、どこにでもいるものなのだ。決して妹宮に近付けるな! 油断してはならぬ! ……何だ、二人ともその目は? 私に何か言いたいことがあるのか?」
「いえ……」
「何も……」
東宮妃として入内する前から麗景殿の女御の所に密かに通っていた、不埒な自分のことは棚に上げている東宮だった。それは一部の親しい者だけが知る秘密。思わず冷たい視線を東宮に送ってしまった二人だったが、東宮から睨まれてすぐさま二人そろって視線を反らせた。
娘が生まれ育ったら、やはりまたこうして騒ぐのだろうな、と東宮の将来の姿が二人の目に浮かんだ。
「今回の表向きの警護は紅葉の少将に任せ、若い山吹の君にも補助させよう。両大臣の動きにも注意したいしな。桂木の少将と共に、特に紅葉の少将は強力な婿候補だ。どのような働きかけがあったか報告せよ。そなた達二人の動き次第で、政局も変わる可能性がある。気をつけて動いてほしい」
そう言い残して、東宮は静かに去っていった。後には東宮のお気に入りの香だけがかすかに残る。桂木の少将と陰陽師の君は伏して東宮を見送った。
その頃、求婚の文を送って寄越したのが兄の政敵だった橘の宮とよく知らない大納言家の息子の頭の弁であることに、女五の宮である桔梗の君は動揺していた。無理矢理に結婚させられたらどうしよう! と恐ろしくなる。
橘の宮は妻の咲耶の方のみを愛し、他の妻はいらないと公言している人である。帝の命で結婚させられても大切にしてもらえるとは思わないし、あの兄の同腹の妹として貶められるかもしれない。
大納言家の息子の頭の弁は、よく知らない。少なくとも女房の噂にもならない公達なので年齢すら分からず、つかみどころが無く、不安ばかりが増す。
いずれにしても、降嫁により後宮から去り、兄東宮とも姉とも慕う麗景殿の女御とも引き離されて、寂しい思いをする。暗い将来像だった。
優しく笑う、恋しい紅葉の少将に会いたくてたまらなくなった。どうして求婚者が紅葉の少将ではないのかと悲しくなる。
あの凛々しく木刀を振るお姿を見つめるだけで幸せだった。まだ想いも伝えていないうちに引き離されて、姿も見られなくなってしまうのかと思うと、桔梗の君は辛さばかりが増した。
たまらなくなって、桔梗の君は松の式部と竹の式部を急き立てて、兄東宮の衣で殿上童姿になり、梨壺北舎を一人で抜け出した。もちろん姉妹の女房はせめて誰か女房をお共にと止めたが、身軽になった若い娘の素早さに年寄り叶うはずもなかった。
きょろきょろしながら麗景殿横の簀子を紅葉の少将の姉上様がいる承香殿に向かって、できるだけ静かに進む。走ったりしたら、怪しい者と咎められてしまうからだ。すると、またまた運良く、紅葉の少将が誰か少年と一緒に庭で素振りしていた。
どうしてこうも頻度高く麗景殿の近くにいるのか? さすがの桔梗の君も不思議に思うほどだった。
「おや? そなたは確か女五の宮様のお文遣いの……ええと、桔梗の君だったかな? 桂木の少将と知り合いの」
「紅葉の少将様!ご無礼致しました」
一度会っただけなのに、覚えていてくれて、しかもあちらから声を掛けてくれた。会えて緊張のあまりただでさえ紅かった顔が、更に嬉しさに紅くなった桔梗の君だった。胸がどきどきしてうるさいほどだ。
「元気にお仕えしているようだな。……ああ、紹介しよう、こちらは右大臣家のご長男の山吹の君だ。山吹の君、東宮様の妹君、女五の宮様のお文遣い、桔梗の君だ」
「山吹の君様、初めてお目に掛かります。突然のご無礼、お許し下さい」
幼げな桔梗の君が簀子で慌てて伏して礼を取るのを見て、山吹の君はその一生懸命な拙さに思わず微笑んだ。姫宮様のお遣いを笑ってはいけないと思ったのだが、可愛く見えたのだ。
「桔梗の君、今日はどうしたんだい? またお遣いか?」
「あ、はい。そ、その帰りでございます。少将様をお見掛けして、その、私も……」
半ば伏しながら視線も合わせられない程、恥ずかし気にもじもじする桔梗の君を見て、紅葉の少将は違う方向に察した。
「ああ、君も素振りをしてみたいのかな? 雅な公達には相応しくないとか思われるのだが、案外、そなたみたいにやってみたいと言う子弟も多いのだよ。遠慮せず、こちらへおいで。教えてあげよう。帝と姫宮様をお守りする貴公子を目指すなら、強くあらねば」
「はい、ありがとうございます! 実は、ずっと少将様にお願いしたかったのです。嬉しいです!」
誘われた嬉しさから人目も気にせず慌てて梨壺北舎に戻り、庭にでる履物をもって駆け戻る。
「さあ、私の木刀を貸してあげよう。まずはこう持って。……山吹の君、お手本を見せてあげなさい。小さな手だが、握って振るくらいならできるはずだ」
「こうだよ。では私の横に並んで……、こう振る!」
二人が親切に握り方や振り方を教えてくれる。だが、山吹の君の横で同じように木刀を振ろうとしても、握りは太いし重いしで、桔梗の君は二・三度振っただけで体がフラフラする。ただでさえ、高貴な姫宮として重い物など持ったことが碌に無かったので、無理もない。
「ははは! フラフラだな! 子供にはこの木刀は握りにくいかな? 私の手に合わせてあるのでね」
「なら、私のこの木刀を貸してあげよう。少し細くできているんだ。その代り、少将様の物をお貸しいただけますか?」
「まるで山吹の君が桔梗の君の兄のようだね。もちろん私のを使いなさい。さあ、桔梗の君、もう少し頑張ってごらん」
「はい!」
一、二、一、二、と横にいる山吹の君の動きに合わせて、一緒に木刀を振る。なんだか、夢に見たように紅葉の少将の仲間になったみたいで、桔梗の君は嬉しくなった。
先程の暗い気持ちまでがスッキリ振り切れた気がする。にこにこと零れる笑顔の山吹の君に合わせて、桔梗の君にも笑顔が浮かぶ。凛々しい紅葉の少将の掛け声に合わせて、心も軽くなっていく。
「そう、もう少し脇を締めて、真っすぐに……」
「そのような所で、何をしている! そなたに、このような物は相応しくない!」
怒りに満ちた若い公達の声が、和やかな指導の声を遮った。少し怒った顔の桂木の君の突然の登場だ。
訓練をしていた桔梗の君を例の細目で睨み下ろし、有無を言わせず木刀を取り上げた。
桔梗の君は美形に睨まれて、また、恐ろしい展開になりそうな嫌な予感がした。