番外編 東宮の受難6 ~竜胆の花~
2017/06/21誤字脱字を修正しました。
目の前の直垂姿の男は、単なる家人ではない。左右大臣家でもそうはいない、剣の遣い手だ。東宮の制止の声が聞こえてはいたが、桂木の宰相は一瞬たりとも気を抜くことができず、太刀を握る手に力がこもる。
「頼む、私のために争わないでくれ! 皆、大事なのだ! 傷ついてほしくはない!」
邸の陰から現れた東宮は、白梅の君に寄りかかるように支えられている。その姿を横目で認めつつ、桂木の宰相は内心酷く驚いた。かつては長身で張りのある引き締まった凛々しい姿だったのに、細く痩せて弱々しい儚げな風情だったからだ。
「東宮様、ご無事ですか?」
「桂木の宰相、ここまで来てくれて感謝する。……山丸、それにどこからか矢で狙っている海丸、二人にも私は感謝しているのだ」
「何を仰せですか、東宮様! この者共は、あなた様を捕らえて縛めていたのですよ!」
そう言いながら、そっと少しずつ、桂木の宰相は東宮を背後に庇って守れるようにと立ち位置をずらす。
「大丈夫だ。いろいろ大いなる問題はあったが、それでも山丸と海丸はこの邸で私の世話をしてくれていた。おかげで私は怪我を負い、弱って寝込んだりしたが、こうして生き延びることができた。だから、皆に争ってほしくなはい」
不意に、山丸が不満げではあるが、構えていた太刀を鞘に納めた。それに合わせるように邸の柱の陰から二十代の若者、海丸も弓矢を構えることなく手に持って姿を現す。
「若さん、恩返しならご主人にしてくれって頼んだよな」
「済まない、山丸。私はこれ以上ここにいることはできない。いるべき所に戻らねばならない。前も言ったように、妻が、幼い(?)妹が私を待っているのだ」
「あ~、嫁さんと妹さんね。どうする山丸? 帰るって! やっぱり無理があったよな」
「まあ、最初からな。まあ、人助けは出来たんだし……」
海丸が深いため息をついた。山丸も腕を組みつつ、困り顔になる。どうやら本当に悪意は無いようだった。二人から殺気が消えたことを認め、桂木の宰相も緊張を解いて太刀を納める。
チラリとこちらを伺いながら、山丸と海丸が小声でボソボソと相談を始めた。そして二人の顔に決意が表れた。
「ここに留まる以外の事なら、恩に報いたい。望みを言ってみてはくれないか?」
「なら、正直に言わせてもらおう。見ての通り、俺達は貧乏だ! ご主人を養うのは大変なんだ。十分な謝礼金をくれ!」
「勿論だ。仮にも命の恩人だ、十分な金を毎月十年間は、届けよう。三人で暮らしてゆけるように」
東宮はあっさり応じたが、それだけでは無いらしいことに気付き、海丸が言い難そうにしているのを促す。
「実はご主人は、昔の恋人が戻って来るのをずっと待っていたんだ。あの若さんが襲われた日、あそこで再会できるっていう、夢のお告げがあったらしい。それで夜明け前からその恋人を待ち構えてたんだ」
「あの賊に攫われてた状況で、『再会』とは、普通思わんだろう?」
網で巻かれ、縛められて荷物のように馬に乗せられていたのだ。誰がどう見ても『再会』のためにやって来たようには見えない。東宮はその女の思い込みの強さに驚く。
だが、思い起こせば、目隠しで嫌がる相手に平気でべたべたしてきたのだ。普通の姫君とは違うらしい。
「本人がそう思えたんなら、俺達はそれでいいんだ。まさか本当に妙齢の男が来るなんて、こっちも驚いた。だが、女の夢なんだ。だからもう一度だけ、ご主人に恋人として会ってやってほしい。別れの挨拶と思って」
なんとも夢のある、女主人想いの思いやりの言葉だった。強いるのではく、お願いでこう言われては、嫌とは言い難かった。
何やら外が騒がしかった気がしたが、ようやく治まったらしい。こんな古い邸でも盗賊が来ることがあるので、若菜の君は怯えていたが、静けさが戻ってホッとした。山丸と海丸が、いつもの様に何とかしてくれたのであろう。本当に頼りになる二人である。
不意に、古びた外廊下の簀子の床板がギシギシ音を立てた。誰かがこの部屋にやって来たらしい。
「若菜の君。私だ、東宮だよ。目隠しで姿は見えなくても、側には来てくれるだろう?」
「まあ、東宮様! また会いに来て下さったの?」
何処からか、再び雅やかな箏の音が響いて来た。優しく甘い調べに満ちた宵。かつて憧れたように、恋人が訪ねて来てくれたのだと思うと、若菜の君の心が躍った。
ズリズリと古びた袿を引き摺って、若菜の君は簀子との境まで身を進めた。すでに御簾もあちこち破れているので、姿は丸見えになるが、東宮は目隠しをしているはずだった。
若菜の君は驚きに目を瞠った。
辺りはすっかり暗闇になっているのに、複数の手燭の明かりが簀子を幻想的に照らし出している。そして、東宮はいつもの古びた夜着ではなく、立派な艶やかな織物の直衣を纏っている。目は布で覆われているが、いつもはきつく結んでいた口元が緩く甘く笑みを浮かべている。緊張に力んで張り詰めていた体は、今はゆったりと寛いだ様子になって、優雅に床に腰を下ろしていた。
その風情はかつて二人で会った時の、あの日の愛しい人の姿、そのままだった。
桂木の宰相から借りた直衣を東宮は身に纏っていた。さすが式部卿の宮家の若君の衣装なだけに素晴らしい物だった。久しぶりのまともな衣装の感触と温もりに、東宮は感激していた。ずっと夜着一枚しかなくて、布団から出ると寒くてしようがなかったのだ。
それにこの女御の手縫いの単によって、力を注ぎこまれて護られているかの様に感じられる。身も心もシャッキリした気がし、心に余裕も出来た。
「ああ、東宮様! なんて素敵なお姿! あの日の憧れたお姿そのまま!」
「若菜の君、長い間、世話になった。私は御所に戻らねばならない。とうとうお迎えが来てしまったのだよ」
「そんな!」
若菜の君はギュッと東宮の直衣の袖を掴んだ。離さない、とばかりに剛力を込めて。その力む拳を東宮はそっと優しく手で包み込んだ。
「ねえ、君は東宮はどこにいるべきだと思う? 御所にいない東宮は、東宮でいられるのかな?」
「ああ、そうですね、東宮様は御所におられるから、東宮様なのだわ。東宮妃が後宮にいるべきように……。ならば、もう若菜をお忘れにならないと誓って! 絶対に忘れないと」
「これほど強烈な姫を忘れるはずがない。(恩は)絶対に忘れはしないよ」
ふっと袖を強く引く力が無くなったので、静かに優雅に東宮が立ちあがると、どこからか海丸が現れ、東宮の手を取る。
「東宮様! ずっとお待ちしてますわ!」
「分かっているよ、若菜の君(謝礼金は忘れないよ)」
海丸に導かれるまま、東宮は簀子をしずしずギシギシと歩み進んで、若菜の君と別れを済ませた。
東宮は目隠しを自らの手で取ると、縛めの全てから解き放たれた気がした。
懐かしい友と、片膝を付いて恭しく傅く家人や武士達に迎えられる。式部卿の宮家の牛車に乗り込むと、ゆっくりゴトゴトと朽ち落ちそうな門を抜け出た。自由への門も開いた気がした。
「謝礼金の約束、頼むぞ! 忘れるなよ、恨むからな~!」
「待ってるからな!」
山丸と海丸が、女主人と同じ言葉と笑顔で見送ってくれた。
兄宮、桂木の宰相、そして白梅の君の話を聞いて、桔梗の君は、若干拍子抜けした気がした。都から遠く離れた鄙の地で、苦労を重ね、もっと血沸き肉躍るような冒険や戦いがあったのではないかと期待していたのだ。そう思い、ずっと心配していたのに、実は目と鼻の先の都の外れに三人共いたのだ。あの心配は何だったのかと。
「都におられたのなら、もっと早くお戻りできたのでは、兄宮?」
「そう嫌味っぽく言うな。そう簡単ではなかったのだ。解放されたのは良いが、気が抜けたせいか、冷えたせいか分からないが、その後、再び高熱を出してしまったのだ」
「ああ、そんな! それならば、それこそ右大臣邸へお越しくだされば良いのに! 私、御看病して差し上げたかった……」
女御がジワリと涙ぐんでしまった。零れる涙をそっと袖口で押し拭う。
「もう大丈夫なのだ、そんなに泣かなくても良い」
居たたまれなくなったのは柊の宮の方だった。再び身を寄せ、優しく肩を抱いて妊娠のため涙もろい女御を慰める。
「生還されたことが柊の宮様のお命を狙う者に知られると、弱った体では対抗できません。実は女御様のお体のことも、占いで私は気付いておりました。お二人そろって危険な目に遭われる訳には参りません。そこで、畏れ多くはございますが、私の家にお連れしました」
白梅の君と柊の宮は幼馴染でもあるので、気楽に養生できるだろうと桂木の宰相も同意した。また、桂木の宰相だけで公の場に戻ることも出来ないので、怪我の養生を兼ねて、二人そろって世話になったという。
二人そろって元の身体に戻るまで、それなりの日数が掛かってしまった。特に柊の宮は痩せていたこともあり、体力も落ちていたため時間が掛かった。
その間、東宮位を守るため、桔梗の君が女東宮になったり、政敵と対立したり、命を狙われたりと大変な目に遭ってしまったのだった。
「とにかく散々な目に遭ったが、こうしてここにいる。これもそなた達の力によるものだと言う事も分かっている。改めて礼を言う。特に女御、そなたには辛い目に合わせたな」
「いいえ、あなた様がお戻りになって下さっただけで、幸せでございます」
人目を憚らず、柊の宮は愛しい妻をムギュッと抱きしめた。女御の胸の温かく柔らかくも弾む手応えが、生きている事を実感させる。
「ちょっと、兄宮! 私だって死にそうな目に遭ったのですよ!」
「まあまあ、桔梗の君、分かってあげなさい」
目の前でいちゃいちゃする兄夫婦の姿に、桔梗の君は馬鹿馬鹿しくも少し腹が立った。もう少し、頑張った自分も褒めて欲しいのにと。それを察したのか、桂木の宰相が愛で慰めるように頭を撫でてくれたが。
「最愛の妻とこうして暮らせて、幸せだ」
にこやかに微笑んで、柊の宮は言った。その時だった。
「私も妻です! 忘れるなんて、酷い! 東宮様!」
突然、桔梗の君が甲高い大声を張り上げ、女御を抱く柊の宮へと、殺気立ち爪を尖らせた野良猫のように飛び掛かった。
「桔梗の君!?」
「柊の宮様、危ない!」
豹変した桔梗の君に驚き、桂木の宰相と白梅の君は一瞬出遅れ、その華奢な体を掴みそこなった。
野良猫だったら、シャーッ! と唸り声を上げるかのような鋭い眼光の桔梗の君の手が、柊の宮に届く直前だった。
「下がれ、無礼者! 私の夫に近付くことは許さぬ!」
女御の一喝と共に、バシャッ! と水音がしたと思うや、ヒ~!という火傷を負ったかのような悲鳴が桔梗の君から上がった。
先程の弱々しい風情から掛け離れた、細くも鋭い眼差しで女御が目の前に立つ桔梗の君を睨み上げている。その手には、悪阻を抑えるために飲んだ水盃が握られていた。
桔梗の君は目をパチクリとした。目の前には、とぐろを巻く威厳に満ちた天竜のような女御が座している。だが、殺気立った恐ろしい眼差しで、自分を睨み上げている。いつもののんびり優しい女御ではなく、後宮を支配下に置く恐ろしい弘徽殿の姉女御そっくりだ。
それこそ正しく女御の逆鱗に触れるような事を自分はしてしまったのかと、桔梗の君は恐ろしくなった。
兄宮は驚愕の表情で、半ば腰を浮かせつつ固まっている。
そして桔梗の君の頭から髪から滴る水。顔も濡れて冷たい。どうやら水を浴びせられたらしい。何故かは分からない。
「う、うえ~ん! 怖い~! 怖いよ~!」
結婚もできる15歳になっているにも関わらず、理解不能な状況と恐怖から、桔梗の君は幼子のように思わず泣き出してしまった。
「桔梗の君! 元に戻ったのだね、良かった! ああ、可哀想に、こんなに濡れて……」
慌てて駆け寄った桂木の宰相に、桔梗の君は取り縋った。恐ろしさの全てから逃れたくて、ギュッと直衣を握って絶対の味方である頼もしい胸に顔をうずめて泣く。
あわあわと動揺している桂木の宰相に水気を拭われるや、香り良い袖に覆われて、護るようにしっかり抱き込まれた。
「女御、いくらこの場では桔梗の君と名乗っているとはいえ、あまりに無礼なお振る舞いです! いたいけな桔梗の君に水を浴びせるなど、なんて酷い。悪鬼のような所業だ! ああ、可哀想に、桔梗の君、こんなに怯えて……。護ってやれなくて済まなかった」
「うえ~ん、桂木の宰相様!」
怒りに目を吊り上げる桂木の宰相を女御は気にもせず、愛らしく泣く桔梗の君の姿を見て、フウと息を吐いて緊張を解いた。
おずおずビクビクと、桔梗の君が桂木の宰相の腕の中からその女御の様子を見ると、もういつもの優し気なのんびりとした雰囲気に戻っている。
「元に戻られて、お怪我も無いようで、良かった。力尽くで取り押さえる訳にはまいりませんもの。お怪我されますから。……それにしても、これの繰り返しでは困るわ。何とかならないかしら、白梅の君?」
「おい! それだけか? 今、そなたが高貴な妹宮に何をしたか、分かっているか?」
「……まだ憑りつかれておられるようです」
たった今目にした恐ろしい所業、仮にも女東宮に水を掛けた女御に驚く柊の宮を白梅の君は軽く受け流す。
「もっと正確に若菜の君の言葉を聞きましょう。どうも『妻』として扱われたいのに、ご不満があるようです」
「約束通り、きちんと謝礼金は届けているのだが。着服されていない事も確かめてもいる。ある意味、妻のように養っているのだぞ。何が不満なのか?」
「そう扱われていない、と言いたいようです。執着の元を聞きましょう」
白梅の君は懐から幾枚ものお札らしき物を取り出し、抱き締め合う桂木の宰相と桔梗の君の周囲に円状に置き出した。
そんな物が有るのなら、もっと早くから出せば良かったのに、と桔梗の君は恨めしく白梅の君を見つめる。
帝の次の位の女東宮になったのに、恐ろしくも怒鳴られ、水を浴びせられた。本当に、右大臣家に関わると酷い目に遭う、と桔梗の君は実感した。




