番外編 東宮の受難2 ~若菜の花~
兄宮とその妻の女御が住まう右大臣家の棟へと、桔梗の君と百合姫は女房に先導されて外廊下の簀子をしずしずと進む。
まさか女東宮がお忍びで訪ねて来たとは公には言えないので、表向きは女御の親友の百合姫が、『紅梅の宴』に招かれたことになっている。そのため、桔梗の君は、その百合姫にお仕えする文遣いの童、ということで、すっかり慣れた殿上童の狩衣姿になっていた。
一応、主として前を百合姫が歩いている。この天女のように美しい袿姿の姫君が、まさか男君とは右大臣邸の誰も思ってはいないようだ。女御様が百合姫様にお会いするのを心待ちにしていらっしゃいます、などと慣れ親しんだ様子で、先導女房が世間話を振っている。
澄んではいても低い男声を隠すように、百合姫は言葉少な気に返答していた。
こうしてよくよく見てみれば、いくら優美な姫君らしい仕草をして、つつましく扇で顔は隠せても、スラリとした長身に広い肩幅は姫君にはあまりにも不自然だ。だが、かつては桔梗の君も騙されてはいたのだ。
招き入れられた部屋で二人は仲良く並んで座し、桔梗の君の兄宮である柊の宮と女御に、几帳越しに挨拶した。女房などの人払いがされて、気楽な者同士だけになると、途端に、女御が遠慮なく愉快そうに笑いだした。
「ほほほ、まあ、なんて愉快な組み合わせなのでしょう! 稀に見る可愛らしい幼い公達と美しい天女! こうして見ると、『普通』って滅多にないものなのかもしれませんね!」
「訳分からぬ事を申すな、女御。ここは姫君らしくせよ、と年長者は説教するべきであろう! ……相変わらず殿上童姿か、そなたは。いや、女東宮様。その御位に相応しいように、百合姫殿を見習って姫君らしくなされよ!」
桔梗の君の兄宮は未だ『女東宮』と呼び慣れず、自分より高位になってしまっている妹宮に説教がしにくくて、苦々しい表情だ。
「まあ、笑わせないで下さいませ、柊の宮様! 百合姫様を見習え、などと! ほほほ!」
「何が可笑しいのだ、女御! 私は当たり前のことを言ってるのだぞ!」
やや不機嫌な柊の宮とは反対に、全ての正体を知っている女御は笑いを堪えきれずにいた。無礼とは思いつつも扇の陰から笑い声を上げてしまう。
美しき百合姫の正体が男の桂木の宰相だという事を知らずに、女らしさを見習えと言う夫が可笑しくて堪らない。姫君に男を見習えなどと言われると、あべこべに思えて笑ってしまうのだ。
姿を隠す几帳と扇の陰で、女御の笑いに対し百合姫は澄ました顔で、知らん振りしている。いずれ桂木の宰相が仕えることになる、次期東宮の柊の宮は、百合姫の正体を知らずにいる。いや、知られる訳にはいかない。上流貴公子の沽券に関わる。
女御の陽気な笑いに、畏まった雰囲気が解けて、桔梗の君も楽し気な笑みが浮かぶ。
一応、高貴な姫君の嗜み上、女御と百合姫はそれぞれ几帳を前に置いて姿を隠してはいるが、陽気な笑い声を上げる女御の元気な様子は見て取れた。妊娠中でも体は辛くはないようだ。
「女東宮様、思ったよりも御顔色が良さそうで、宜しゅうございました。陰陽師の白梅の君から、夢見が良くないと聞いております。心配しておりましたのよ」
「ご心配、ありがとうございます。お忍びですので、どうぞ桔梗とお呼び下さい。このところ毎晩怖い夢を見ていますが、百合姫が起こして下さるので、大丈夫です」
「そうか、百合姫殿、兄として礼を言う。妹宮は既に母親も亡く、兄たる私も側にいてやれずにいる。……下手な公達を夫にするわけにもいかない高貴な姫宮だ。身近に熱心に仕えてくれる、そなたの忠義に感謝する」
「畏れ多いことでございます」
柊の宮からの労いの言葉に、百合姫は低く掠れた声で言葉少なに返事をした。そこへまた女御が笑いを堪えず吹き出した。
「ぷっ! 可愛らしい公達の桔梗の君様には、夫ではなく、天女の妻がおられるようですね。寝起きに付きそう程の愛妻ですわ! ほほほ!」
「女御様、それくらいにして下さい。私、居たたまれない気持ちです。……ところで、私より、兄宮様の方が御顔色がお悪いようですが? お具合でもお悪いのでは?」
「心配させて済まない。実は、私も最近夢見が悪くてな。寝ている途中で起こされてしまうのだ。そこで同じように、あの陰陽師の白梅の君に相談したら、そなたもそうだと言う。ならば、この右大臣邸に集まるか、ということになったのだ」
兄宮も『女の霊』に悩まされているのかと思い、桔梗の君はぞっとした。すると、隣の袿の袖下から伸ばされた、繊細で温かい大きな手が、力づけるように桔梗の君の手を握った。そっと握り返す。
そこへ、陰陽師の白梅の君が外廊下の簀子に姿を現し、伏して御簾内の貴人達に声を掛けてきた。
「ああ、やっと来たか、白梅の君。直に話すことを許す。そなたに言われた者は、皆ここに揃っているぞ。それで、この騒ぎの元は判明したか?」
「畏れ入ります。女東宮様の梨壺北舎、柊の宮様がお住まいだった梨壺、そしてこの右大臣邸で調査を致しました。やはり、女の霊らしきものが彷徨っております」
「ほほほ! 霊ですって! そんな、馬鹿馬鹿しい! あら、ごめんなさい、白梅の君。私、見た事も無いので」
「いえ、右大臣家の皆様は守護のお力がとてもお強いので、霊など近寄れません。ご無理もないことでございます」
真面目に語る陰陽師の君を前にしてはいるが、霊や鬼などを女御は信じていないようだ。だが、桔梗の君は自分だけでなく、兄宮までも同じように悩まされている事から、やはりそうなのねと恐ろしく思った。
「しかし、随分あちらこちらと、広範囲を彷徨っているな。しかも私と妹宮の両方か? ある意味、熱心な頑張り屋だな」
一方、柊の宮は恐ろしさを通り越して、兄妹の両方と、あちこち彷徨っているその女の霊の執念に呆れた。
「本命は、柊の宮様のようです。ですが、どうもあちらも思うようにいかないようで、お血筋が一番近い女東宮様の所に迷い出ているようですね」
「原因は兄宮様だったのね! 迷惑よ! なぜそのまま兄宮様の所に留まらないの!」
「おい! それはないだろう! 私の所に来ても迷惑なのだぞ!」
兄宮のとばっちりで苦しめられていたのかと思うと、桔梗の君は不満の声を上げた。柊の宮も不本意そうだ。兄妹で迷惑な存在を押し付け合うように、睨み合う。
「宮様方のこれまでのお話から推察すると、その霊はまず、本命の柊の宮様の所に現れるようです。ですが、おそらく、守護とお力のお強い女御様がお側におられる事によって、無理矢理退けられているのです。お心当たりがおありなのでは、女御様?」
白梅の君は、奥御簾内の女御に問う。
「……ひょっとして、毎晩、柊の宮様が夜中に唸り声を上げているのを『お諫め』しているのが、そうなのかしら?」
のんびりした様子で女御が言うと、若干、柊の宮は不満げな顔になる。
「あれは『諫める』などというものではない。うるさいと、私を怒鳴り起こしているではないか」
「あれは『お諫め』なのです! お側にいる者の身にもなって下さい! ただでさえ、悪阻で寝苦しいのです。我慢なりません」
よほどうるさかったのであろう。女御は扇で隠しつつも、これ見よがしに不快気にツン!と顔を反らした。
「本命が兄宮と言う事は、兄宮はその女の霊に何か恨まれるような事をしたのかしら? お心当たりは? ……戯れの浮気とか?」
「おい! 女御を前に、これ以上、変な事を言うな!」
「どういう事でございますの、柊の宮様? 行方不明の間、ずっと心配していた私を放って置いて、どこかの姫君と戯れておられたのですか?」
『浮気』の言葉に鋭く反応した女御が、扇越しに鋭く細い目つきになり、脅しを込めた低い声で隣の夫に問う。普段ののんびり可愛げな雰囲気とは雲泥の差だ。妊娠中ということもあって、過剰に反応したらしい。
その霊を越えるほどの威圧感に、柊の宮だけでなく、関係無いはずの桔梗の君を含めたその場の誰もが、一瞬ビクッ!と身を震わせた。
「知らない! 私には恨まれるほどの覚えはないぞ! 私には、女御、そなただけだ! 信じてくれ!」
「真ですか? 本当は戯れの恋のお相手がいて、泣かせたことがあるのでは?」
「無い! ……と思う!」
我が兄宮ながら、目の前のこの公達は男の色気に満ちた、実に美形な貴公子だ。程よく引き締まった長身で、頼りがいのある凛々しさと、高貴な上品さがある。以前、東宮として後宮に住んでいた時は、あちこちの女官や女房が、胸をときめかせて熱視線を送っていたのを桔梗の君は知っている。
愛しい恋人の桂木の宰相のおかげで、桔梗の君も男の色気というものが最近分かりだしたため、女御の疑う気持ちはよく分かる。だが、兄宮の恋人への一途さも、妹としては知っているつもりだ。信じたい。
「あの、柊の宮様、ならば直接その女の霊に尋ねてみたいのですが、宜しいでしょうか? 何か不都合な事が判明するかもしれませんが……」
「白梅の君まで何だ! 不都合な事など何も無い! 手っ取り早く、やってみよ! これ以上、身に覚えのない疑いを掛けられてはたまらぬ!」
「では、庭先に待機させておりました巫女をこの御前に呼びますのでお許しを。その者に霊を依り憑かせます。私の自己流でやらせて頂きますので、やり方はお気になさらないようお願い致します」
「……何をする気なのだ、そなたは?」
疑わし気な柊の宮の問いを軽く流し、白梅の君が外廊下の簀子から庭に向かって声を掛けると、巫女装束の女が階から外御簾の前に現れ、伏して挨拶した。
「あ~、彷徨いし美しい姫君。そなたの愛しい男が、ここでそなたを待っている。いるのなら、その姿を現しなさい。さもなければ、男は逃げてしまうぞ」
まるで、その近くの柱の陰にでも隠れている、気軽な浮気相手に向かって語り掛けているかのような白梅の君の口調に、御簾内の皆がギョッとする。
「おい、大丈夫か、白梅の君? 恋人の斡旋でもしているかのようだが?」
「ほら、恥ずかしがってないで応えて差し上げなさい。他の姫君もここにおられる故、盗られてしまうぞ」
バタッ! と簀子にいる巫女が倒れた……のではなく、何故か桔梗の君がその場に伏し倒れた。
驚いた百合姫が倒れた華奢な恋人を抱き起そうとする。
「ああ! 桔梗の君、どうしたのだ? しっかりしなさい!」
「う~ん、東宮様……」
桔梗の君は目を閉じたまま、うわごとの様に小さく呟く。しかも、今は自分が女東宮であるのに、兄宮を『東宮様』と呼び掛けているようだ。
「あれっ!? ひょっとして、そちらのお方は、巫女よりも憑かれやすい?」
よもや女東宮・桔梗の君の方に霊が取憑くとは思わず、白梅の君もギョッとした。
「……お年も一番お若く、お血筋も近いだけに、既に霊と繋がっておられたのでしょうか?」
「愛しい東宮様、どうして私の所に来て下さらないの? この若菜のことは一生忘れぬ、と誓って下さったのに……」
「わ、若菜の君(誰?)、私にはそなたの居場所が分からないのだが? どうか、教えてくれないか?」
とりあえず話を聞きだして欲しいと言う白梅の君からの頼みを受け、柊の宮は妹宮に取憑いた女の霊を宥めるように優し気に微笑みつつ問う。
「我が邸で、婚儀と同じく、三日以上私と共にお過ごしになられたからには、若菜は東宮様の妻でございます。その私を忘れるなどと……。悲しゅうございます。思い出して下さいませ……」
ムクリと桔梗の君は百合姫の腕の中から起き上がり、袖を掴んで止めようとする百合姫を振り払った。怪し気な焦点の合わない目つきで、フラフラと柊の宮に近付く。
「思い出して……。思い出せ!」
恋の深い恨みをぶつけるかのように、桔梗の君は兄宮の胸に取り縋り、狩衣を掴んで怒鳴りつける。その恨みに満ちた必死な姿は、普段の無邪気で愛らしい桔梗の君とはまるで違う。その場にいた男達は、女の執念の恐ろしさに思わず恐怖を感じた。
「妻を思い出せ! 思い……」
「おのれ、うるさくも忌々しい! 我慢できないわ、お黙りなさい!!」
女御がその場に座ったまま、女の霊に向け、気合を込めた大声で力強く一喝した。妻は自分であると、宣言するかのように。
妹宮の姿を借りた他の女が、図々しくも自分の夫に縋っているため、大いに腹が立ったのだ。
悪の鬼姫のような女御の迫力に、その場にいた全員が再びビクッ!と身を震わせた。
不意に、くにゃりと桔梗の君の華奢な体から力が抜け、そのまま崩れ落ちる。それはまるで、女御の力強い一喝に、身体の芯を粉々にされたかのようだ。慌てて柊の宮は、妹宮の身体を床に落ちる前に抱き受け止めた。
「桔梗の君!」
「大丈夫よ、百合姫。落ち着いて。桔梗の君様は、ほら、もうお目を覚ましそうよ」
慌てて几帳の陰から膝立ちで半ば飛び出していた百合姫を女御は制する。仮にも式部卿の宮家の姫が、実は男の桂木の宰相であるとこの公達達に分かってしまうのは非常に不味い。違う意味で大騒ぎになってしまう。
今、柊の宮の腕の中の華奢な少女は、尊い身分の女東宮ではなく、恐ろしい霊でもなく、可愛い妹宮だ。頼りなげな様子で目を閉じている。心配でならないが、瞼がピクピクし出し、呼吸もしっかりしてきたので、柊の宮はホッとした。
「……あれ、兄宮? 私、どうしたのですか?」
「良かった、気が付いたか。そなたは女の霊に取憑かれたらしい。気分は、身体の具合の悪いところは無いか?」
怪我した子供をあやす様に兄宮が頭や肩を撫でるが、もう成人した15歳ともなると恥ずかしい。桔梗の君はそっと身を離し、不安そうな百合姫の隣に戻った。すると今度は百合姫が肩を抱き、身体の具合を確かめるようにあちこち検め始めた。
「大丈夫ですよ、兄宮、百合姫。……それにしても、ああ、毎晩の夢と同じように、何かとても恐ろしいものに怒鳴られた気がします。百合姫、昨夜と同じなの、怖さだけが残って……」
慰めを得るように、桔梗の君は、そっと百合姫に身を添わす。袿の下の逞しい腕に優しく肩を抱かれて、温もりが伝わってきた。
「ああ、桔梗の君(怒鳴ったのは)……」
「ご心配しましたわ、ご気分はいかがですか? 霊が離れたようですね、宜しゅうございました」
百合姫の言葉に重ねて労わりの言葉をかけ、迫力満点に女東宮を怒鳴りつけた者が誰なのかを女御は誤魔化した。仮にも東宮妃ともあろう高貴な姫が、苛立ちのあまり思わず殿方を前にして、はしたなくも大声で怒鳴りつけた、と言われたくはない。
「ところで、柊の君様、女の霊が言っていた『若菜』とは誰ですか? 妻になったと言っておりましたが?」
「妻にした覚えは、全く無いのだが……?」
柊の宮は本当に覚えが無いようで、首を傾げて考えている。その姿に女御も疑いの眼差しから呆れに変わる。
「畏れながら、申し上げます。もしや、『東宮様』が賊に襲われて、行方不明になられていた時に、お身を寄せていた邸の女主人のことではないでしょうか? それ以外に三日以上お過ごしになられた、怪しげな場所は無いと思われるのですが」
「ああ、あそこか!」
白梅の君の言葉に、思いついた! とばかりに柊の宮は、手にした扇で膝を打った。




