番外編 東宮の受難1 ~桔梗の花~
東宮様の行方不明事件がらみのお話です。
桔梗の君と恋人の、らぶらぶ・いちゃいちゃ話も書いていきたいです。
夜中になると、耳障りな唸り声が室内に響き渡る。もう毎晩のことである。いくら几帳や御簾を隔てているとはいえ、どうして女房達の誰も、この唸り声に起こされないのか? 自分だけが起きてしまうのが腹立だしい。
これまで蓄積されてきた寝不足が祟ってか、我慢の堪忍袋の緒がブツリと切れた。ムクリと起き上がり、燈台の灯も無い暗闇の中、忌々しい唸り声の元を睨みつけた。いつもなら可愛いと言われている優し気な眼差しも、さすがに怒りに細まり吊り上がっている。
「おのれ、うるさくも忌々しい! 我慢できないわ、お黙りなさい!!」
「ひえ~!!」
最大限の怒りを込めて、大声で一喝。すると唸り声は悲鳴に変わり、ピタリと治まった。
これでようやく安眠できると、大きく息を吐き出して気を取り直した。吊り上がった目も、元の優し気なものに戻る。
やれやれ、これでようやく静かになった、と部屋をキョロキョロと見回した。再び二人の布団に身を横たえると、温かい身体に抱き寄せられる。今度は気持ち良い眠りに落ちることができ、安らぎの笑みが浮かんだ。
「はっ!」
ガバリ! と桔梗の君は夜中に飛び起きる。怯えて辺りを見回していると、傍らに寝ていた恋人も起き上がり、そっと抱き締めてくれた。大きな温かい手が、怯え震える背を優しく撫で慰める。
後宮で、桔梗の君が女東宮として住まう梨壺北舎は、何事も無く静まり返っている。なぜ目が覚めたのかも、桔梗の君には一瞬分からなかった。
「桔梗の君、大丈夫ですか?」
低く澄んだ優しい声、縋っている小袖からのいつもの上品な香りが、恐怖にドキドキ胸を高鳴らせていた桔梗の君を落ち着かせた。
「ああ、怖かった! 桂木の宰相様! 何やら分からないとても怖いものが、私を怒鳴りつけたの!」
「酷くうなされていたよ。あまりに辛そうだったから起こしたんだが……。可哀想に、こんなに震えて」
「大丈夫です、助かりました。あなたはいつも私を助けてくれる。それにしても本当に鬼に会ったみたいに怖かったわ。一体何なのかは覚えていないけど。とても怖かったの!」
「私がお側にいるよ。あなたを護るのが私の務めだ。……まだ夜明けは遠いな。ぐっすり眠れるようにしてさしあげよう」
「ちょっと、桂木の宰相様、何をなされるのです! 恥ずかしいです!」
恥ずかしいと言いつつも、帯を解き、優しく宥める恋人の手の動きを桔梗の君は止めはしなかった。
静かな後宮の一角、梨壺北舎の奥御簾内で、桔梗の君は朝餉を食べている。高貴な女東宮の食事のため、毒などが盛られないように側仕えの松竹の式部達が、二人掛かりで厳重に確認済みの御膳である。
だが、何故かどうしても毒見をするのだと言い張る熱心な者がいて、女東宮・桔梗の君は居たたまれない気持ちだった。いや、そうでは無く、恥ずかしくて逃げたくなっている。既に頬は紅く染まっていた。
「女東宮様、さあ、あ~んして下さい。これも美味しいですよ」
まず、美しく御膳に盛られたおかずの一つを上品に側仕えの女房、百合姫が一口食べる。そしてそのまま同じ箸で桔梗の君に食べさせようとするのだ。まるで熱々の恋人同士のように。
だが、二人は共に美しい袿を纏った高貴な姫君達である。少なくとも、梨壺北舎に仕える女房達にはそう見えている。月の天女のような百合姫に可愛らしい女東宮の二人が、べったりなほど仲良く寄り添っているのは少々不思議な光景だが、恥じらいつつも女東宮が受け入れているため、誰も咎めない。
「……百合姫、あの、毒見ならば、一回すれば十分なのでは?」
「いいえ、万が一と言う事もありますので。私が確かめたものを女東宮様には召し上がっていただきます。さあ、その可愛いお口を開けて下さい。あ~ん、です」
「あ~ん」
パクリ、もぐもぐと、一口食べる。女房達の視線を受けて、桔梗の君は頬を紅く染めた。まるで雛鳥が食事を口にしているように見えるのが、百合姫には可愛いく思えて堪らないらしい。ふふふ、と満足気に上品な笑みを浮かべている。
「ああ、少しは食欲があって良かった。ここのところ、夢見が悪くてお疲れのご様子ですから」
「疲れる原因は夢見ではないと思います。それに、皆の手前、恥ずかしいのだけれども……。こんな事してもらわなくても、私、一人で食べられます。これでは赤子ではありませんか」
「ご遠慮なさらず。大事な可愛い女東宮様のお役に立ちたいのです」
百合姫は怪し気な笑みを浮かべながら、スッと広げた扇の陰で桔梗の君の耳元にひそひそと囁く。
「……それに、いつか姫宮のお婿様にして差し上げる練習と思って下さい」
「桂木の宰相様、それはつまり……」
(いつか私に食べさせてもらいたい、と言う事?)
ただ食事をしているだけなのに、側にいる女房達は女東宮の頬が更に紅く染まるのを訝しげに思う。そんなに熱い食事でもないのにと。
女東宮の一番の側仕えになった新女房の百合姫は、かつては最大の恋敵だったが、今では最愛の恋人になっている。実は、天女と言われる美しき百合姫の正体は、桔梗の君が恋い慕う貴公子、桂木の宰相だったのだ。
何故か、この桂木の宰相様は、姫君の装いをしたがるのだ。宮中二大貴公子とまで言われるほど、元々が爽やかな線の細い美しい殿方のため、こうして袿を纏った女房姿になっても誰も男とは疑わない。それどころか後宮一の美女に見えるかもしれない。それを良いことに、恋人になった女東宮に人目を憚ることなくピッタリ寄り添って、可愛がっているのだ。
(ううう、桂木の宰相様の時と百合姫の時では、性格が変わっていらっしゃるわ。どちらのお姿でもお美しくて優しいけど、何か違うような気がする!)
女房達からの視線を避けるように、桔梗の君も扇を広げて紅く染まった顔を隠す。
「十分召し上がられましたか? 今少しお元気が無いようですから、女東宮様は、また寝所でお休みになられた方が良いかもしれませんね。私が看病致します」
笑みを浮かべる美しい百合姫の眼差しが、男の妖しい視線に変わったのに気付き、慌てて桔梗の君は躱すように話を探す。このまま二人で寝所になどいってしまうと、恐ろしいことになってしまいそうな気がしたからだ。いくら恋人同士になったばかりとは言え、朝昼からそれは不味い。あまりに恥ずかしすぎる。
桔梗の君を抱き支えるように奥へと進もうとする百合姫の腕を抑え、少し想いを冷却しなくては、と小声で諫める。
「大丈夫、元気です! そ、そう言えば、先程、お文を読まれていたようだけれど、急ぎの御用でもあったのではなくて? 百合姫は、お返事をお出ししたの?」
「ああ、あれは親しくしている陰陽師の君からのお文です。このところ女東宮様の夢見がお悪いことを相談していたので、そのお返事ですよ。ご相談したいことがあると言うので、この梨壺北舎の私の部屋である局に来てくれる事になりました。夢見の事で、何か分かったのでしょう」
「ならば、私も会いたいわ。だって、夢見に苦しんでいるのは私だもの!」
「そうですね。その方が良いかもしれません。では、畏れ多いですが、女東宮様の御前にご案内いたします。私もお側にいますね」
身分低い陰陽師が女東宮の梨壺北舎を訪問するなど、何事か不吉な事でもあったのかと疑われてしまう。それは、やんごとなき高貴な姫宮としては外聞が悪い。そのため、百合姫の私室である局で女東宮も臨席すると連絡した。
桔梗の君の女東宮としての神事や政務が終わった頃、約束通り外廊下の簀子に陰陽師の君が現れた。御簾と几帳の向こうに座する女東宮と百合姫、側仕えの松竹の式部に、恭しく伏して礼を取った。
「面をお上げ下さい、陰陽師の君。女東宮様は、前置きなど気にせず、親しくお話することをお許しになられました。お言葉は、私、側仕え女房、竹の式部がお伝え致します」
わずかに緊張気味の桔梗の君を心配して、百合姫は隣の几帳の陰で扇で顔を隠しつつ、桔梗の君の側に侍る。
「ありがとうございます。先日、百合姫様よりご相談頂いた女東宮様の夢見について、ご報告申し上げます。今後のためにも包み隠さず、ハッキリと言わせて頂きます。強力な女の霊のようなものが憑りついているご様子です」
「いや!! 怖い!」
「女東宮様! 大丈夫、私がお護りしますよ」
悲鳴を上げ、桔梗の君は奥御簾内の几帳の陰で、怯えて百合姫に縋りつく。するとそっと広い胸に護り抱かれた。
「陰陽師の君、その無礼な霊はいかにして取り除いたら良いのでしょう? このように女東宮様を怯えさせるなど!」
女東宮が怯えたのを見て、竹の式部も憤った。
「そうですね、ここに念のためのお札もお持ち致しておりますが……。いかがでしょう? お住まいを少しの間だけでも変えられては? そうしていただければ、お留守の間に、この梨壺北舎をお清め致しますが」
「お住まいを移すと言っても……。女東宮様の御殿を違う所にするとなると、格式からいって、隣の麗景殿か宣耀殿か? 空いてはいるが、霊を恐れて、とは外聞が悪いな」
小声で百合姫が案を呟くが、桔梗の君はいまいち同意できない。なぜなら麗景殿はもうじき兄宮の妻として、右大臣家の女御が再入内して住む予定だ。妊娠中でもあるので、何か障りを持ち込みたくは無かった。
宣耀殿も恋人との大事な思い出(二人のときめきの出会い)の場所なので、霊などに汚してほしくないのだ。
困っている御簾内の貴人達に陰陽師の君から声が掛けられた。
「失礼ながら、ご提案申し上げます。女東宮様の兄宮様のおられる右大臣邸に、しばしお出掛けになられてはいかがですか? 近々、右大臣家で『紅梅の宴』を行うと聞いております。それにご参加される名目で、お忍びで行啓されてはいかがですか?」
「そう言えば、『桂木の宰相』も招待されていた。先日、是非とも参加してほしいと、山吹の君からのお文にあったな」
百合姫(桂木の宰相)は、桔梗の君にだけ聞こえるように扇の陰で呟いた。
宮中に復帰してからの桂木の宰相は、相変わらずその美しさと優れた才知から人気も復活してきており、再び宴に招きたがる貴族も増えてきていた。才気かん発な美形貴公子の参加者が多いと、宴は盛り上がり、邸内の女達も大いに喜ぶだからだ。
特に、左大臣家の紅葉の中将、右大臣家の山吹の少将、そして式部卿の宮家の桂木の宰相の人気が高い。皆がこぞって招きたがっている。誰が参加してくれるかで、家格と宴の価値が変わるからだ。
「桂木の宰相様は、その宴に参加されるのですか?」
「私も謹慎が解け、晴れて宮中への出仕も再開したばかりだ。将来のため、貴族間の付き合いも、また大事にしなければならない。その始めが、個人的に親しくもあり、次期東宮様がおられる右大臣家の宴ならば気兼ねなく行ける。良い機会だから、参加するつもりだ」
「殿方のお付き合いも大変ですね。……それにしても、その紅梅は、きっととても綺麗なのでしょうね。私も右大臣家ご自慢の紅梅を見てみたい。一緒に行きたいわ! そうよ、一時的に右大臣家に身を寄せましょう!」
女東宮という高貴な立場にありながら、気楽な物言いに百合姫はぎょっとした。
「とんでもない! あなた様は女東宮様です。この後宮を離れ、行啓されるなど危険です!」
「女東宮としてではなく、文遣いの桔梗の君として行けば、大丈夫よ。兄宮様の時と違って、今更私を脅かす者がいるとは思えないわ。仮に私がいなくなったって、兄宮様が東宮になる立太子が早まるだけだもの。意味が無いわ」
「そ、それは確かにそうですが……」
「それに……」
桔梗の君は扇の陰からチラリと上目遣いで、長身の恋人を見やる。もじもじと恥じらうことで、できるだけ可愛く見えるように。
「たまには百合姫ではなくて、『桂木の宰相様』と気楽なお出掛けがしたいの。二人で……」
「!!」
内心の葛藤を押し隠しているようだが、わずかに桂木の宰相の頬が染まった。できたばかりの可愛い恋人からの上目遣いでのおねだりに、『百合姫』ではなく『桂木の宰相』の方が負けたらしい。
は~、と扇の陰でため息をついて了承した。その代り、霊のこともあるのだから、桔梗の君は桂木の宰相の側から離れてはいけないと約束させて。
久しぶりに、兄宮とその妻で姉とも慕う右大臣家の姫に会えることになり、また、愛しい恋人との気楽な外出に、桔梗の君は心が弾む。
だが、右大臣家に関わると、碌な目に遭わない事を忘れてしまっていたことが失敗の始まりだった。




