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幸運の手

2017/05/04 誤字脱字を修正しました。

 桔梗(ききょう)の君と桂木(かつらぎ)の宰相は大社の内廊下を小走りに進んでいた。あちこちの御簾(みす)の陰から、慌てる二人の姿に女房や女官達の驚きの声が漏れる。

 

「桔梗の君、そう急がなくても、女東宮(にょとうぐう)様はきっとご無事だ。もし仮に女東宮(にょとうぐう)様の御身に何かあったら、大社の中はもっと騒がしくなっているはずだ」

「それはそう思うのですが、どうしても嫌な予感というか、何というか……」


 とにかく急がねばならない。面倒な三の宮が女東宮(にょとうぐう)の観覧部屋を訪れるのを知っていて、桔梗の君は抜け出してきたのだ。今頃、身代わりをしてくれている楓尚侍(かえでのないしのかみ)は、さぞ困っていることだろう。早くすり替わらねば! と思うと、どうしても不自然な足早になってしまったのだ。


 たどり着いた女東宮(にょとうぐう)の部屋は、不自然過ぎるほど静まり返っている。あの迷惑なほど騒がしい三の宮が訪問していて、こんなに静かなはずはない、と桔梗の君は嫌な予感が強まった。

 そっと中を伺うように、端から御簾(みす)を上げて入り込む。だが、警戒したのが無駄になるほど、何故か人の気配がほとんど無い。


「姫み…、いえ、桔梗の君様! ああ、ご無事で良かった! お待ちしておりました!」

「竹の式部! 何なの?どうして誰もいないの!」


 キョロキョロしていると、奥の几帳(きちょう)の陰から慌てふためいた竹の式部が、転げるように桔梗の君の下へと駆け寄ってきた。

 

「お急ぎ下さい! 皆様、帝の下へとお行きになりました!」

「どうして!? 女東宮(にょとうぐう)は、静かに観覧したいと伝えてあったはずよ! 何故、一番賑やかな帝の所へ行くのよ?」


 あわあわ動揺しながらも、竹の式部は桔梗の君の腕をとり、奥御簾内の几帳の陰へと引っ張って行く。普段なら複数の女房達でする着替えも、さすが手慣れた熟練の技で、たった一人でテキパキと桔梗の君を着替えさせ始めた。


 シュルシュルと絹の滑る音が始まる。その途端、一緒に来ていたはずの桂木の宰相の気配が外御簾の向こうから消えたことに、桔梗の君は気付いた。

 身内の女房に桔梗の君を託せたことが分かって、姿を消したらしいと桔梗の君は思った。一応、謹慎中である存在が、目立たぬようにしたのかもしれない。


「お早く、お着替え下さい! あの三の宮様が駒競(こまくらべ)に夢中になられまして。そこを、調子の良い(とう)の弁に唆されました。外で事件があったので、安全で、もっと良く観える帝の下へと行くことになってしまったのです」

「事件……。ええ、そうね。私、外で矢で射られたわ。……でもこうして無事だけど! あなたも見ていて、わかるでしょう?だから、心配しないでね」


 まあ! と怯えた声をあげた竹の式部だったが、袴を裾の長い女性用の物に履き替えさせ、さほど時間を掛けずに、桔梗の君を唐衣裳(からぎぬも)姿にしてしまった。

 

「しようがないわ! 急いで帝の御部屋へ向かいましょう! 私の事は、竹の式部のお手伝い女房と言う事にして、端っこから女東宮(にょとうぐう)の座に忍び込むのよ!」

「はい! 心得ております。姉上も、忍び込みやすい様に、奥御簾の端で待っているはずです!」


 二人は、桔梗の君の支度が整うや、部屋を出る前に、まずは外御簾の陰からキョロキョロと辺りを伺う。幸い、誰もこの部屋の近くにはいないようである。それに、部屋の前まで送ってきてくれた桂木の宰相の姿は、やはり見えない。自分が女東宮(にょとうぐう)であるという正体を隠すためにも、桔梗の君にとってはその方が好都合で良い。

 

 上級の女房と同じく、長い裳裾(もすそ)と袴を引きずり扇で顔を隠しながら、怪しまれない程の速さで二人は先を急いだ。


 二人が外簀子(そとすのこ)の角を曲がろうとした時、突然、目の前の横の板戸から、背の高い、内着の小袖に袴姿の女が、弾かれたように飛び出してきた。その白い小袖の袖から出ている手には、不似合いな太刀が握られている。


「!!」

「姫宮様!」


 不吉な太刀に桔梗の君が身構える。何するつもり? 一体誰? と確かめる間もなく、その女は桔梗の君達に背を向け、太刀を鞘から抜き放った。

 

 ガキンッ! と激しい鉄と鉄のぶつかり合う音が、内廊下に響き渡った。ガキン! ガキン! と何度も打ち付けられる。


 その女房は、まさに桔梗の君達が進もうとしてした角から襲い掛かってきた男と、突如戦い出したのだ。

 

 襲って来たのはどこかの貴族の従者風だが、顔を布で覆い隠し、太刀を操るその姿には、殺気を秘めた荒々しい雰囲気が漂っている。だが、女も負けてはいない。繰り出される攻撃を太刀と鞘で受け止め流している。女も相当な技量を持つ強さだった。

 

 このような身分低い者が、どうやって女官や女房が通るこの内廊下に入り込めたのか。またもや誰かの手引きがあったとしか桔梗の君には思えない。明らかに桔梗の君を女東宮と知っての暗殺者だ。


 更にもう一人の男が、頃合いを見計らったように角向こうから現れた。


「柱の陰に隠れて!」

「その(掠れた)お声は、百合姫様!?」

「姫宮様、危のうございます! こちらへお隠れ下さい!」


 突然、現れた百合姫の姿に驚く桔梗の君をまたもや竹の式部が引っ張り、急いで二人は傍の大きめの柱の陰に隠れる。ここは中の内廊下とは板壁で遮られているため、部屋の中には逃げ込めないのだ。


 動きずらい裾長い袴のためか、百合姫は大きく動けずにいる。だが、利き手に太刀、反対の手に鞘を持って、まるで天から降り立った天女の艶やかな舞のように軽やかに身を動かし、桔梗の君へと襲い掛かろうとする二人の激しい攻撃を受け止め躱す。

 

女東宮(にょとうぐう)、覚悟!」

「逃げて!!」


 そう言われても、こんな危険なところに百合姫を置いては行けない! と躊躇した桔梗の君の腕を引いて、竹の式部は逃げようとする。だが、元来た方へと戻ろうとしたところ、更にもう一人の男が行く手を阻むように現れた。


「本当に、この娘が女東宮(にょとうぐう)だと? このような小娘が?」


 狩衣(かりぎぬ)姿の橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮だった。信じられない、という顔つきで桔梗の君の顔や姿をじっと見つめる。ずっと桔梗の君の命を狙っていた一味と仲間のようではあるが、本当に女東宮(にょとうぐう)なのか半信半疑らしい。


「その女だ! 女東宮(にょとうぐう)だ! その女さえいなければ、あなたが東宮だ! ここでなら、怪しい文遣いが消えるだけだ! そして、女東宮(にょとうぐう)は行方不明になる」


 暗に桔梗の君を殺すようにと、覆面をした男が、何故か橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮に命じるように戦いながら怒鳴りつけた。


 覆面男が言うように本当に女東宮(にょとうぐう)なのかと、確かめるように桔梗の君へと近付いて来る橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮から、桔梗の君は逆に離れるように後ずさる。


「この娘が女東宮(にょとうぐう)だと? だが、先程、父帝の下へ向かったはずだ、ここにいるはずがない……」

「姫宮様! お逃げ下さい!」


 そこへ竹の式部が橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮へ体当たりを食らわし、行く手を阻もうとした。しかし、反ってそれが、呆然としていた橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮へ火をつける刺激になってしまった。

 力づくで橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮に振り払われ、ああ! と痛そうな悲鳴を上げて、竹の式部は簀子(すのこ)へと倒れ伏す。

 

 橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮は、護る者が一人もいなくなった桔梗の君へじりじり迫る。そして細い白首へと両手を伸ばし、容易に捕らえる。まさしく、この手は東宮位を掴んだんだ! と思った。


 恐怖に震え、首を絞めようとする手に逆らいながらも、桔梗の君は橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮を睨みつける。そして、東宮位という欲に溺れつつも、自分と同じ恐怖を浮かべている眼差しに気付いた。

 

「ならば、お選びなさい、橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮! 命を狙われ続けるか、安泰な人生か……」


 息苦しさに耐えながら、桔梗の君は囁く。


「今さら何を言われるか、女東宮(にょとうぐう)! あなたはもうお終いだ!」

「わ、私は、お、お終いかもしれない。でも、あなたも同じよ。私の次は、あなた……」

「そうだ! 次は私が東宮だ!」


 躊躇いながらも首を絞めようとする手に爪を立てる。


「次に、こうやって首を絞められるのは、あなたよ。そして、私と同じように死ぬの……」

「死なぬ! 私は死なぬ!」

「本当に? 毒も、も、盛られるかもしれない。矢で射抜かれ、た、太刀で切られるかも……。いつ殺されても、良いのね?」


 死に際の娘が囁く呪いのような言葉に、橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮は恐ろしくなってきた。ただでさえ、己が手で、細首を絞めるのも恐ろしくて堪らないのだ。だからと言って、この大社内で血を流すのも、祟られそうで怖い。

 苦し気なのに、娘の眼差しの強さに魂が射貫かれそうだった。身体から、手から力が抜けてくる。


 毒と太刀。幼い頃、何度も体を壊して寝込む度に、毒で命が狙われたに違いないと泣いていた母の姿を橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮は思い出す。また、命狙われる日々が始まるのか、と。

 

「お選びなさい、橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮。暗殺の恐怖か、安泰か……。今ならまだこの無礼を黙っていてあげる、兄帝と前斎宮(ぜんさいぐう)様のために……」


 大納言家の姫と結婚してからの裕福で安泰な生活を思い起こし、細首を絞めていた手から力が抜けた。がっくりと膝を着く。

 

 息苦しさから解放され、桔梗の君は何度も咳き込んだ。慌てて竹の式部がずりずりと這いより、泣きながら桔梗の君の背を撫でて介抱してくれる。

 

女東宮(にょとうぐう)! あなたは恐ろしくは無いのか? 命狙われることが……」

「女はね、好きな人のためなら何でもできるの。そのために毒も口にしたし、矢を受けたり、こうして襲われもしたわ……。あなたはできるの? 死んでもいい程、好きな人のために何でもできる?」


 橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮は、無力感を漂わせながら首を横に振った。ようやく裕福でもてはやされ、安全な生活を掴んだばかりだった。兵部卿(ひょうぶきょう)の宮でいれば、今後、恐ろしい目に遭わず、安泰な人生になるのだと悟ったのだ。そのために、大きな夢だった東宮位、その後の帝位は諦めることになった。


 女に攻撃をことごとく受け流されて苛立った男が、力任せに切り捨てようと大きく太刀を振りかぶった。その一瞬の隙を百合姫は逃さない。無駄の無いしなやかな動きで、素早く男の体を肩から斜め切りにした。

 

 痛みに満ちた悲鳴を上げて、襲撃者の一人は床に倒れ伏し、苦しみに呻いた。

 これではもう戦えそうに無い、ともう一人の襲撃者は思ったのか、さっと踵を返して逃げて行ってしまった。


 周囲の気配を探り、もう襲撃者は現れないと判断して、百合姫は太刀を鞘に納めた。そして咳き込む桔梗の君に駆け寄った。


「桔梗の君! 大丈夫ですか?」


 またもや助かった安堵感の余り、桔梗の君は天の遣いのように現れた百合姫に飛びつく。怯えて震える桔梗の君を百合姫は覆うようにそっと抱き止めた。


「百合姫様! ああ、あなたは、いつも私を助けに来て下さるのね!」

「あなたはいつも危険な目に遭うのですね。助かって良かった。それにしても、この橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮をどうします? 仮にも、あなたを殺そうとした者。『女東宮(にょとうぐう)』たるあなたを……」

「そのことを黙っていて、ごめんなさい。いろいろあって……。ただ、橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮は助けてあげて! 約束したの!」


 桔梗の君の甘さに呆れてため息をこぼし、百合姫は膝を着いてがっくり項垂れている橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮を睨み下ろした。


「ならば、こうしましょう!」


 ドガッ! と強烈な一蹴りが橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮の鳩尾に入った。ぐあっ! と痛そうな苦しそうな悲鳴が上がる。更にダメ押しとばかりに鞘に収まったままの太刀を脳天に叩きつけた。

 

「な、何をされるのです、百合姫様!」

「桔梗の君を襲ったお仕置きです。甘すぎるくらいですが……。ここで不審人物に襲われたのは、橘兵部卿(たちばなのひょうぶきょう)の宮ということにしましょう。単なる女房が襲われる事より、高貴な公達(きんだち)が狙われた方がもっともらしいですから」

「はあ……?」


 こじつけ感たっぷりな理由だが、お仕置きも自然にできて百合姫が責められないなら、それで良いかと桔梗の君も納得した。


「それより、帝の下へ急ぐのでは? 兄に言われて、ここでお待ちしていましたの。来て良かった。私もご一緒に女房として参ります。お守りしますわ」

「ああ、百合姫様!」

 

 しみじみと再会を味わっていたいが、桔梗の君はゆっくりしていられる状況ではなかった。百合姫が板戸内に太刀を入れ隠し、脱ぎ捨てていた(うちき)(ひとえ)の塊を纏うや、三人は再び先を急いだ。


 先導を竹の式部が、桔梗の君の背を守るよう後方に百合姫が付く。

 

 真っすぐな外簀子(そとすのこ)を小走りに急ぐ三人の背に、弓に番えられた矢が向けられた。先程逃れた襲撃者は諦めてはいなかったのだ。

 用意周到に準備しておいた弓矢で狙いを定める。ギリギリと弓の弦が弾き絞られた。

 

「これで終わりだ……」

「そう、これで終わりだ」


 バイン! と狂った箏の音のような音を立て、まさに矢を放つ寸前に張り詰めていた弦が切られた。背後から襲撃者の首をかすめるように突き出された太刀のせいだった。


 太刀の刃は、そのまま襲撃者の首に当てられている。そのため、襲撃者は身動き一つできなくなった。暗に、動くなと言われているのだ。下手な事をすれば、首を切られて死んでしまう。


「そのお声からすると、お元気なご様子で。本当に諦めが悪く、幸運なお方だ」

「お互い様だな。だが、もうそなたは諦めよ。時勢は再び変わった」

「そのようですね。諦めねば、今度は私が危険だ。もう手を引きますよ。ここであの娘を殺しても、もう意味は無いことが分かりましたから」


 襲撃者は、諦めのため息をついた。


「ここでそなたを殺しておいた方が安全かな?」


 太刀の刃が反され、刃の無い方で軽く首が叩かれる。切るならここかな? とでも言うような揶揄いで。


「止めましょうよ、ここは大社です。血を流すのはできるだけ避けた方が良いですよ。今後のお互いのために。ただでさえ、悪運強い方々に、私は負けたんです。憎くてしたわけではありませんし」

「大胆にも、弓矢や太刀で狙っておいてよく言う……。だが、確かに幸運だった。神に感謝し、流血は避けねば。それに憎しみが無いのは分かる。これから、お互いに安泰に過ごしていきたいものだな」


 すっと太刀はどこも傷つけることなく引っ込められた。


 二人は視線を交わすことも無く、ただ偶然すれ違っただけのように、それぞれ背を向けて何事も無い顔で歩み去っていった。


 桔梗の君も幸運だった。だがまだ幸運が続くとは限らない。とにかく次は、帝の目をごまかして楓尚侍(かえでのないしのかみ)とすり替わらねば、左右大臣家まで巻き込む大事になってしまう。

 何故か、箏でも剣術でも、何でもできる百合姫を引き連れて、桔梗の君は帝の下へと急ぐ。

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