再戦
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
お願い、私を助けて。あなただけが頼りなの。
そう言って、その人は自分を友と見込んでそれを託した。
身分や地位による隔てがあるため、二人はこれまで親しい間柄とは言えなかったのに。ならば、とその願いに彼女は応えてあげたくなった。
奥御簾内に向かって伏して礼を取りつつも、男は女東宮がこの場にいることに納得がいかない。絶対にあの矢を受けた桔梗の君が女東宮だからだ。それは間違いないはずだった。
(ならば、身代わりを置いて我々を誤魔化しているということ。一体誰だ? 奥御簾内に入り、女東宮に成りすませるほど、威厳のある若い娘は?)
そして、思いつく。バレたら命が無くなるかもしれないほど危険な身代わりを女東宮が頼める、恐れ知らずな高貴な姫君が一人いたことを。
「三の宮様! 三の宮様は何処におられますか? こちらにお出でと伺っています。帝がご心配なさっておられますぞ、ご無事ですか? 三の宮様!」
頭の弁は意を決し、今度は帝が寵愛する姫宮を探すように、わざとらしく室内をキョロキョロ探し出した。それに乗るように他の者達も、そう言えば三の宮様もご無事かと呟いている。
帝がいろんな意味で頼りない三の宮を常に心配している事は、家臣の中でも知れ渡っている。この姫宮に何かがあっても一大事だ。
この騒ぎには誰がどう返事するのか、頭の弁は楽しみだった。姫宮に相応しい身代わりの身代わりなど早々いない。視線だけチラリと奥御簾内に向けつつ、そこに静かに座している偽者の女東宮の反応を静かに伺う。
女東宮の親しい友人と噂される三の宮が身代わりで奥御簾内にいるのなら、何らかの動揺があるはずである。
だが、頭の弁の期待は外れた。
「何よ、犬じゃあるまいし! 仮にも帝の姫宮の名を連呼するなんて、無礼よ! お下がり、と言っておやり!」
若い娘の甲高い癇癪声が、奥御簾内ではない部屋の隅から響き渡った。突然の狼藉に狼狽したその声は、姫宮に相応しいと期待される、威厳から大きく外れていた。
思わずその場にいた文官武官が「誰?」と一斉に声のした方に視線を移した。
部屋の隅で塊になって怯える女房達も姫宮の声に叩かれたかのように、慌ててその周囲の几帳を正面にと置き直し、体裁を取り繕いだす。
「ひ、姫宮様におかれましては、こちらに無事でいるので心配ない、と仰せです」
側仕えの誰かが姫宮の返答の取次をしたようだ。だが、もう遅い。はしたない大声は直に周囲に聞こえてしまっていた。
「お姿が分かりませんが、真に三の宮様、ここにおられますか?」
「だから、ここにいると言っているのに、何を疑っているの、あの者は!」
またもや大きく響く、高貴とは言い難い若い娘の声。突然の大人数の押しかけに、ビックリして動揺し、怯え隠しに声が大きくなっていると推察される。
いや、まさか、帝のやんごとなき姫宮があんな大声出すはずがない、と誰もが姫宮の正体を内心疑った。再確認する頭の弁の問い正しに、三の宮の女房達の方も、ばつが悪くて咎められない。
「ひ、姫宮様、そのような大声、はしたのうございます。どうか、落ち着いて、小声で。お言葉は、私が取り次ぎますから……」
「あの無礼者達をここから追い出して! 私は女東宮様と同じ衣を纏うことを許された、高貴な姫宮なのよ! その私に向かって、何なの、あの者達は!」
自慢げに三の宮は几帳の裾下から、女東宮とお揃い模様で、色違いの表着の裾をバサリとこれ見よがしにはみ出させた。
まるで女房が衣自慢をするかのようなはしたない三の宮の仕草に、側仕えの女房が慌てた。高貴な姫宮は衣装すら公達に見せるものではないからだ。
「お揃い……。高貴な姫宮様に相応しい、素晴らしいご衣裳で」
とりあえず、場を繕うように誰かが誉め言葉を口にした。
「この高貴な私が、女東宮様以外の誰かと同じ衣装を纏う事などあり得ない、と言っておやり!」
三の宮が扇を手に打ち付け、不快の念を示す。
「女東宮様より特別に下賜されたご衣裳でございます。これを纏うことが許されたのは三の宮様のみ。このご衣裳をお目に掛けることが、三の宮様がここにおられる証拠でございます。三の宮様のご無事、ご納得いただけましたか?」
取次役の女房に促されて、頭の弁がチラリと奥御簾内を見ると、同じように女東宮の身代わりも、色違いの表着の裾を御簾下よりほんの少しだけ出していた。暗に、これで確認するようにと言っているかのように。
他の文官武官達は、すっかり落ち着きを取り戻し、女東宮と姫宮の無事に安堵してしまっていた。
いつの間にか、女東宮が偽者である証拠を突き詰めるはずだったのが、はしたない三の宮が本物かに論点がすり替わってしまった己に歯ぎしりする。
てっきり、足繁く梨壺北舎を訪問するほど仲の良い三の宮が身代わりをしているものと、決めつけてしまったのが失敗だった。三の宮なら仮に身代わりがバレても帝に言い訳し易いから、と思い込んでしまったのだ。
残る身代わり候補はただ一人。東宮妃になるべく育てられた左大臣家の姫、楓尚侍のみ。左大臣家の権力を得るため、その東宮妃候補から無理矢理降ろさせたが、女東宮に横やりされてしまった因縁のある姫君だけだった。
大胆な左大臣家の雌狐と悪運強い女東宮などに、負ける訳にはいかない。頭の弁は作戦を練り直す。今度は、女東宮は本物かを自分で露見させる手は使えなくなったからだ。取り敢えずはここで頭を下げて、油断させることにした。
「女東宮様におかれましては、皆の心配は最もでありがたいと思うが、姫宮様もおられるので、無礼な態度は残念である、との仰せです」
「そうよ、無礼よ!」
奥御簾の前で落ち着きを取り戻した松の式部が、押しかけた者達を睨みつけながら述べる。はしたない若い娘の憤りの声がその語尾を飾った。
その場にいた文官武官は三の宮の同意の声は聞こえなかったふりをして、改めて、女東宮のいる奥御簾に向かって一斉に謝罪の礼を取った。
「特に、大納言家の頭の弁殿、女東宮様だけでなく三の宮様にまでの無礼。女東宮様は大変ご不快であるそうです」
「大変申し訳ございません。外の騒動の大きさに動揺致しました。お二方をご心配するあまり、女東宮様、三の宮様にご無礼をしてしまいました……」
大勢の前で名指しで不快を伝えられ、頭の弁は偽者の女東宮に頭を下げねばならない事に、悔しそうに唇を噛む。
その姿を奥御簾内から嘲りの笑みを浮かべつつ、扇の陰から見下ろしている者がいた。
(ククク、さぞ悔しかろうな、己が策を台無しにされて。頭を下げさせられて! だが、我が赤っ恥の恨み、これで晴れたなどと思うな! まだまだよ!)
大胆にも、姫宮とお揃いの衣装を纏って身代わりになっているのは、東宮妃となるべく威厳をもって生まれ育った、左大臣家の楓尚侍だった。
無残にも悲劇に終わった初恋を、己が野望を叶えるために世間に面白おかしい噂話として言い広められた恨みは深い。それだけに几帳越しとはいえ、あの頭の弁が謝罪する姿を見られて、黒い笑みを浮かべてしまうほど嬉しくてたまらないのだ。
(クククッ! 笑いが止まらないわ! 噂話で聞いているのよ、普段、あなたが三の宮様を間抜け扱いしていることも。あの愉快な三の宮様のせいで、このようになるとは思わなかったでしょうね! ハハッ! 屈辱に歯ぎしりするが良い!)
大勢の前で叱責されて頭を下げさせたくらいでは、とてもこの恨みは収まりきらない。楓尚侍はバレたら命の危険すらある、女東宮の身代わりしても構わない程、怒っていた。
まさか公の場でこんなに早く三の宮がやって来るとも、自分がこんなに遅く戻ることになるとも思わず、桔梗の君は文遣いの童姿でこの部屋から抜け出す寸前だった。
「女三の宮様が女東宮様をお訪ねになられるそうです。……さすがに公の場のためか、珍しく先触れが参りました」
楓尚侍からもたらされた連絡に、奥御簾内の桔梗の君と、御簾前の松竹の式部は固まった。
「お二人とも、いかがなさいました? ……それに、気のせいか、女東宮様、表着の袿が見えないようですが、お着換え中ですか? 何か問題でも?」
三の宮がやって来ると聞いて、年寄り女房が顔を青冷めさせた事に鋭い楓尚侍は気付いた。
「あああ、姉上! 三の宮様が来られます! 追い返せません、どうしましょう! 女東宮様、お迎えを!」
「ででで、でも! 楓尚侍様がおられます! 追い出せません、どうしましょう! 女東宮様、お話相手を!」
「ダメよ、一度話し出したら、あの人、話にいちいち相槌を打たないと、すぐに怒るのよ。抜け出せないわ!」
三人の常にない慌てぶりに楓尚侍は首を傾げた。これまでも何度も梨壺北舎にお迎えして、散々話相手してきた三の宮なのだ、不慣れな事があるとは考えにくい。
「皆様、何を言われているのです? 正直におっしゃって! 私とて、女東宮様に仕える者です、正直に言って頂ければ、悪いようには致しませんわ。信じて下さい」
左大臣家特有の権威と威厳に、桔梗の君と老女房も珍しく負けた。
こんな若い姫に威厳負けする事などそうそう無いが、それだけ老女房二人は危機感から切羽詰まっていたのだ。
意を決して、桔梗の君は奥御簾内から文遣いの童姿を現し、それに驚く楓尚侍の手を勇気を込めてギュッと握った。
「お願い、私を助けて。あなただけが頼りなの」
奥御簾前で四人コソコソと寄り集まり、桔梗の君は秘密を楓尚侍に告げた。
実は巷で噂の桔梗の君は女東宮であり、今は奉納楽の手順を確認しに出かけなければならない事を。女東宮の仕事ならば人任せにできるが、文遣いの桔梗の君の事は、自身でやらねば何事も進まないため、どうしても行かねばならなかった。
「何となく、そんな気がしていました。だって、女東宮様にお仕えしている有名な文遣いの童なのに、私は一度も会ったことが無いのですもの。一体どこの者かと不思議に思っておりました」
「ごめんなさい。女東宮の権力維持のため、私は右大臣家に後見をしてもらっているし、派閥の違う左大臣家の姫君の楓尚侍には、言い難くて……。事が露見すれば、東宮位から降ろされてしまうかもしれないから」
友人になりたいと思いつつも、秘密にしていた申し訳なさに桔梗の君はシュンと落ち込む。
「理由は分かりました。で、女東宮様はまさにお出掛けになり、不在にされるところだったと?」
「は、はい。女三の宮様がいらっしゃると言うのに、一体どうしたら? 女東宮様、ご不在とは言えませんでしょう?」
怯えた竹の式部に微笑んでから、ギュッと女東宮の手を楓尚侍は励ますように握り返した。
「ならば、こうしましょう」
楓尚侍は奥御簾を上げて中に入り、大胆にも女東宮の座に腰を下ろし、扇で顔を隠した。
「あなた、私の身代わりになるおつもりなの? もし事が露見したら、赤っ恥どころか、首が飛ぶかもしれないわ!」
「構いません。あの大恥のせいで私は一度死んだも同然。ならば、女東宮様に恩を売って差し上げます。一度、女東宮になってみるのも楽しいでしょうね」
桔梗の君を安心させようとしているのかクスクスと楓尚侍は笑っているが、緊張感は消しきれていない。ならば、と桔梗の君は友となった人のために、あるものを出した。
それを目にした楓尚侍は驚愕した。
「これは、……三の宮様とお揃いで仕立てた表着ではありませんか! それはあまりに畏れ多いことでございます! 身分も地位も違う私が、帝のお血筋の方々と同じご衣裳を纏うなど!」
「いいえ、大事な友に、これを纏っていただきたいわ。これが、きっとあなたを護ってくれる。これを纏った者が女東宮なのよ! だから、私が女東宮に戻るまで、これをあなたに託します」
その信頼を込めた桔梗の君の瞳を見た楓尚侍は、女東宮たる身分に相応しい表着を恭しく受け取った。
女東宮の部屋から初めて見る駒競に、女三の宮は夢中になった。父帝に似て馬の競い合いがとてもお気に召したらしいわね、と背後の女房達は囁き合った。
半ば公の場と言う事もあって、女東宮と同じ奥御簾内には座すことが許されなかった女三の宮は、ならばいっそと良く見える廂に座した。几帳の陰から、早く次の馬が出てこないかと、ワクワクしながら御簾の外を見つめている。
「女東宮様は、次は右方と左方のどちらの馬が勝つとお思い?」
「……左方」
短く一言で女東宮から返答があった。いつも通り、物足りない返事である。
「あら? 私は何といっても右方ですわ。確か、次は私の従兄弟が疾走するはずですの。ああ、はやく始まらないかしら? やはり父帝の所で観覧すれば良かったかしら。勝敗がつく所は、あの席が一番見やすいのですもの。でも、他の貴族達がいて奥御簾内に引っ込んでいなければならないなら、見えないも同然だし。一番の悩みどころですわよね」
「ええ」
本当なら身分のしきたりで、三の宮はもっと末席で観覧するはずだったのだが、勝手に決めた『女東宮の相談役』の名目で、より観覧しやすい女東宮の所に、いつも通り意向も問わず押しかけてきたのだ。そして女東宮の前の一番見やすい位置を陣取っている。
「あら、なにか外が騒がしいわね。さっきからちっとも次の駒競も賭弓も始まらないし。かと言って、舞がある訳でもないし。詰まらないとお思いでしょう、女東宮様?」
「ええ」
俄かに、女東宮の観覧する部屋は大混乱になった。
「ご無礼、失礼致します!」
外御簾が荒々しく巻き上げられ、男達が内廊下の廂になだれ込み、奥御簾のすぐ近くまで押し寄せた。突然の狼藉に、怯えた女房達が三の宮の周囲に身を寄せ、塊になってキャーキャー悲鳴を上げた。
何が始まったのか分からず、三の宮は固まって目をパチクリさせる。
だが、女東宮の一喝により、踏み込んだ男達は一斉にその場で伏して礼を取った。女東宮の威厳が発揮されたらしい。
しかも、何故か、そこにいるのは本当に三の宮かと、疑われてしまった。怖い思いまでさせられた挙句、非常に不愉快である。しかも皆が伏して謝罪したのは、女東宮に向けてだった。三の宮に対してではない。
「全く、もう、こうも無礼者が多いなんて! 安心して駒競も賭弓も観られないわね!」
プンスカと怒って不満を三の宮が口にする。その三の宮の几帳側に身を寄せ、頭の弁は改めて伏して謝罪した。自然に。
「重ね重ね、ご無礼、申し訳ございません。いかかでしょう? 女東宮様も三の宮様も帝の御側で、駒競と賭弓をご覧になられては? 女東宮様は、寛げる部屋をご希望でしたので、この部屋をご用意致しました。ですが、騒動もあった事ですし、高貴な姫宮様方の安全のために、良く観覧できるあちらに座をご用意致します。それくらいなら、大納言の父が手配できますので」
お詫びのつもりなのか、頭の弁が三の宮に提案してきた。大好きになった駒競と賭弓の特別な観覧席だ。
「駒競も賭弓も、良く観えるの?」
「はい」
「ならば、参りましょう、女東宮様! やはり女東宮様は、我が父帝のお側に控えるのが普通ですわ。高貴な姫宮の相談役としては、女東宮様に座を移すことを提案致します。さあ、早く!」
もはや、直に頭の弁と言葉を交わす三の宮を、呆れて誰も咎める気にもならなかったのが、仇になった。
(ちょっと、余計なこと言わないで! 誰が行くって決めたのよ! 帝のお側になど、行くわけにはいかないのよ!)
身代わりをしている楓尚侍と松竹の式部の三人の心の叫びは、駒競と賭弓に夢中な三の宮には全く届かない。
周りの文官武官も、その方がやはり安全ですと言い出し、移動は既に決定事項になってしまった。さあさあ、と急かさせる。
女東宮に無礼をしてしまい、さも申し訳なさそうに頭の弁は扇で顔を隠していたが、思わず口の端を意地悪気に少しだけ釣り上げてしまった。
ここで仕留められないなら、帝や他貴族の大勢いる場に変える。楓尚侍と女東宮が、すり代わる事だけは絶対にさせない。
絶対に逃れられない場で、帝にその身代わりになった姿を晒して断罪されるがいい、楓尚侍!そして帝を騙そうとした女東宮も、生きていようが死んでいようが、廃嫡されて罪人になるがいい!
まずは、桔梗の君の遺体を確認。もし、生き延びているのなら、再度狙うまで、と手順を頭の弁は頭の中で一つずつ確認していった。




