獲物を仕留める
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
少し離れた柱の陰から、その男は桔梗の君を見つめていた。確実に矢が刺さっているのがここからでも認められた。間違いなく胸だ。まず無事では済まないはずである。獲物を仕留める最後の仕掛けに取り掛かるため、次なる目的地へ音も無く移動した。
「桔梗の君!」
飛びつくように簀子に駆け上がった山吹の少将が、矢を受けた桔梗の君の身体を抱き上げようとするや、更に矢がヒュンヒュンとこちらに飛んできた。そのいくつかが階の段に刺さった。
「次が来るぞ! 何でもいい、物陰に隠れるんだ! 急げ!」
紅葉の中将の危険を知らせる怒声が辺りに響き渡る。その声に押されるように慌てて、山吹の少将は桔梗の君を大社の建物の屋根下へ、太い柱の陰へと身を低くしながら抱いて移す。その間、まるで小奇麗な人形のように、胸に矢を受けた桔梗の君は目を閉じてだらりと力が抜けてしまっている。
「うああ! しっかり、しっかりしてくれ! 桔梗の君!」
「桔梗の君を守れ、少将! ……おい、そこの者! その太刀を私に寄越せ!」
駒競に参加していたため武器を持っていなかった紅葉の中将は、側に控えていた従者から太刀を受け取るや、年下の若者たちを守るため矢面に立った。そして敷地内の木の上から次々と放たれる矢を次々と叩き落とし始める。だが、二人掛かりで放たれるため、きりが無い。
先程の暴れ馬騒ぎは、この弓矢攻撃をするために多くの従者を引き離す策であったかと、まんまと乗せられた悔しさに紅葉の中将は歯を喰いしばった。周囲の者は皆、突然の弓矢に驚いて物陰に隠れたり、逃げ出したりして辺りは大騒ぎだ。
紅葉の中将は、わらわら集まってきた従者の一人に更に命じる。
「おい、その弓矢を少将に渡せ! 山吹の少将! そなたはあの木の上にいる射手を射落とせ!」
「あ、でも僕の腕では……」
「そなたならできる!」
背後から、懐かしい男の声がして、怯える山吹の少将の肩を誰かが掴んだ。その大きくも繊細なしなやかな手は良く覚えている。
「射手は二人いる。私が左、そなたは右を狙え!」
「桂木の宰相様! でも、でも……!」
「!?」
待ちわびた忘れもしない親友の声に、紅葉の中将は振り向きたかったが、そうもいかない状況だった。二人の射手は戦い慣れているらしく、交互に次々と矢を射る。背後の仲間を守るため、その矢の軌道を優れた眼力で見極めながら、紅葉の中将は凄まじい勢いで叩き払い落す。
矢を避けながら、従者が柱の陰にいた山吹の少将に弓矢を手渡した。
「やるんだ、山吹の少将! 私がそなたを守るから、やれ!」
「私がついている! さあ、私に呼吸を合わせろ! 深呼吸して、その弓に矢を番え! そなたならできる!」
一人で皆を守って太刀を振るう紅葉の中将のあの力強く頼もしい背に、励ますように隣で共に矢を番えている桂木の宰相に、山吹の少将は力を分けてもらった気がした。
山吹の少将は初めて人に矢を向ける恐怖に震えつつも、矢を手にする。これまで訓練してきたように、心落ち着かせるために一度深呼吸をした後、弓に矢を番う。桂木の宰相と並んで狙いを定め、呼吸を止める。
「射て!」
紅葉の中将の号令に合わせ、二本の矢が放たれた。びゅんっ! と切り裂くように飛んだ矢は、枝葉に隠れていた射手に大鷹のように襲い掛かり、的確に獲物を捕らえた。
一本が一人の肩を、もう一本がもう一方の太腿に刺さる。まさに、一発必中だった。襲撃者達は衝撃で木から落ち、そこへここぞとばかりに警備の武士達が駆け寄り、逃げ出す隙も与えずに囲い込み取り押さえた。仮にも大社敷地内なので、無暗に血を流すような事はできない。
ううっ! という苦し気な声に、未だ周囲に警戒していた三人が振り向くと、桔梗の君が身をよじって苦しみの声を漏らしていた。矢で胸を射貫かれていたはずなのに、気が付いたらしい。
「桔梗の君! 大丈夫か?」
さっと桂木の宰相が桔梗の君に駆け寄り、背に手を回して側の柱に桔梗の君を寄り掛からせる。山吹の少将も心配げに手を貸してくれた。
「……桂木の宰相様、お帰りになられたんですね? 私、死んで、夢を見ているのではありませんよね? 生きている……?」
「ああ、帰ったよ、遅くなって済まない。君は生きて、私と話をしているんだ」
「桂木の宰相様!!」
桔梗の君は涙を流しつつ、桂木の宰相に手を伸ばす。桂木の宰相はその腕を受け止め、そっと自分の身体に寄りかからせるように抱き寄せた。
呼吸が苦し気ではあるが、話せているので、肩を後ろ手で抱き押さえつつ胸の矢をそっと抜いた。怪我の様子を調べながら、桂木の宰相はその華奢な体を抱き、ようやく安堵の息を漏らした。温もりに互いが生きていることを実感し合う。
「血も出ていないようだが、何故だ? 胸の何処に刺さったんだ?」
何処? と紅葉の中将に問われ、桔梗の君は手で自分の身体を検める。確かに血は出ていないようだが、胸のとあるところが突かれたように激しく痛む。そこをゴソゴソと探ると、狩衣の中、内着の袷の所からある物が出てきた。それはとても大事な物。
桔梗の君の手の中の見覚えのある物を見て、桂木の宰相が小さく呟いた。
「檜扇。胸元に入れていたこれに矢が刺さったから……」
それは大切に胸の内にしまい込まれていた。
檜の薄い板を糸で繋がれ造られた檜扇は、広げていないと厚みがあるため、それなりの木板の硬さになる。式部卿の宮家の子息が持つに相応しい上等な檜だったため、板のような硬さで桔梗の君の身を護る鎧になったらしい。
紅葉の中将が確かめると、扇は矢の刺さった所にヒビが入って砕けてしまっている。
「運が良すぎるぞ、そなた。奇跡に近い! この上等な造りの扇はひょっとして……」
「はい、旅立たれる桂木の宰相様から頂いた扇です。ずっと護られていたんですね、私」
「これが君を護る物になって良かった」
桔梗の君はこの扇から、桂木の宰相の強い想いを感じて、思わず涙を零す。どんなに遠くに離れていても、ずっと護ってくれていたのだと。
血も流さずにいるし、受け答えもしっかりしている桔梗の君の様子に、山吹の少将もホッとした。
「ああ、大怪我にならなくて良かった。胸に矢が刺さったのを見た時は、肝が冷えたよ。これまでも色々あったけど、君、本当に不死身だなぁ。普通なら、もう三回ぐらい死んでるよ」
「運が良いのか、悪いのか……。普通、そうそうそのような目には合わないが……。とにかく生き残ったのだから、大したものだ」
山吹の少将も気持ちに余裕ができたのか、紅葉の中将と冗談を交わす。
「息するだけで、もの凄く痛みますけど……。ともかく、助けていただいてありがとうございます」
「いや、無事で何よりだ。それよりも油断しない方が良い。そなたは急ぎ女東宮様のお側へ行きなさい。その方が安全だし、主も守れる。館の中で、謹慎中の私が付き添うのもなんだが、この騒ぎだ、何とかなるだろう」
言われてみれば、桂木の宰相は一応謹慎中だった。だが、紅葉の中将と同様に駒競に参加するような、動き易いような短い袖に、袴も絞った騎手姿だった。供人にありがちな姿なので、童の付き添いで通りそうだった。
「外は危険だ。邸内ならさすがに曲者も狙いにくいはずだ。この騒ぎが広まってきているから、警備も固くなる」
「ああ、そのように進言してくる。後は頼んだぞ、宰相。少将は私と報告に行こう」
紅葉の中将と山吹の少将は、桔梗の君と桂木の宰相が安全な内廊下の廂の所に入るまで見送ると、先程の襲撃騒動の報告と警戒を促しに庭を走って去った。
ザザザと絹擦の音と足音が御簾の外から聞こえて来る。誰か、それも数人が急ぎこの女東宮の観覧部屋にやって来るらしい。奥御簾の手前で、松竹の式部は不安に視線を交わし合った。
すぐに戻ると言っていた桔梗の君が未だ戻っていないのだ。何か間違いでもあったのか。それとも女東宮の不在が、誰かに漏れてしまったのではないかと心配と不安が募る。
「女東宮様に申し上げます! 大社敷地内で、曲者による襲撃がございました! 女東宮様は、ご無事でいらっしゃいますか?」
御簾の外、簀子に数人の束帯姿の文官武官が現れた。警護の供の者まで連れているのか、総勢十人以上はいるようだ。松竹の式部の両名は女東宮を守るべく、奥御簾前に侍る。
「こちらは何も問題ございません。見回り、ご苦労様です。女東宮様も帝をご心配されております、お早く帝の下へお行き下さいませ、とのことです」
「ご配慮、感謝致します。ですが、まだ逃げおおせた曲者がおり、文遣いの童一人が矢で射貫かれる非常時でございます! 検めをお許し願います!」
恐ろしい事態に女房達からキャーと悲鳴が上がる。松竹の式部達に至っては息を飲み、もしやその射貫かれた文遣いの童とは!? と心臓が止まりそうになった。
桔梗の君が未だ戻らないことで不安が一層強まる。だが、ここは何としても不在を隠さねばならない。
「ぜひとも女東宮様より直にお言葉を賜り、ご無事を確認させていただきとうございます! そうでなければ、我らも帝に確かな事を申し上げられませぬ!」
「何を言われるか? 我ら女東宮様にお仕えせし女房が嘘を言っていると? 女東宮様にもご無礼ですぞ! お下がりなさいませ!」
桔梗の君がまだ戻らず、女東宮不在を知られる訳にはいかない。竹の式部は几帳をできるだけ多く並べて奥が見えないようにし、松の式部も言葉荒く言い返す。
「我らは警護のため、ただ、お言葉を頂きたいだけです。女東宮様はそこにご無事でいらっしゃるのでしょう? 東宮様として、家臣に一言お言葉をお願い申し上げます!」
「あまりにもご無体な! お引き取り下さい!」
外御簾の裾に手が掛けられ、無理矢理押し入ろうとするかのようなただならぬ乱暴な態度に、室内の女達は怯えた。キャーキャー言いつつ、姿が見られぬようにそれぞれ几帳を持ちながら、より奥へと逃げて身を寄せ合う。
「ご無礼、失礼致します!」
外御簾が荒々しく巻き上げられ、男達が内廊下の廂になだれ込み、奥御簾のすぐ近くまで押し寄せる。
女東宮はあの奥御簾内になどいるはずがない。先程、矢を胸に受けて崩れ落ちたのをこの目で見たのだ。あの矢では、その場で死んだか大怪我を負っているから、この部屋に戻れはしない。
襲撃騒ぎに興奮している多くの文官武官に囲まれ紛れて、男は思わず浮かべそうになる笑みを押し隠した。
この目の前にいる老練な女房達は、女東宮の不在をどう言い訳するつもりか。御簾や几帳など隠す役には立たない。もう亡き者となった女東宮を庇っても仕方ないであろうにと、少々哀れにも思う。
右大臣家の姫が隠している事が公になる前に、なんとしても東宮をすげ替えて、政権の流れを変えねばならなかった。女東宮の死で、もう左右大臣には打つ手が無くなる。屁理屈上手な女東宮に従い、一年待ったらこちらの負けだ。ここで橘兵部卿の宮が東宮になることで、権力の座は左右大臣からこちらに移るだろう。男は罠の仕掛けを最後まで見届けるつもりだった。
「女東宮様、ご無事でおられますか!!」
あの女東宮も、死んでまた忘れられた姫宮になるのかと内心笑う。あの兄宮と同じように我儘を通すから、このような事になる。まだ十五歳なのだから、姫宮らしく大人しくしていれば、長生きもできたであろうにと思う。
「女東宮様! どちらにおられますか? お返事を!」
勢いに煽られた文官武官がそれぞれ女東宮を確かめようと、奥御簾内に向かって呼び掛けた。奥御簾にいよいよ近寄る。
後はご無事かと確かめるため奥御簾を覗き、おや、女東宮様はおられないのか? と男が声を上げようとした時だった。
「無礼者! 下がれ!」
権威と威厳に溢れる若い娘の声が奥御簾内から響き渡り、その気迫に押され、踏み込んだ男達は一斉にその場で伏して礼を取った。
ここにいるはずのない、女東宮に相応しい声に男は愕然とした。




