襲撃
長くなったので、2話に分けました。本日の分は、前話よりお読み願います。
3/21 サブタイトルを変更いたしました。
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
吐く息が白くなる頃、帝の輿、女東宮や姫宮を乗せた牛車、多くの随行が都の通りを進んだ。
まるで祭りのような豪華絢爛な行列を一目見ようと、大路は見物用の牛車が立ち並ぶお祭り騒ぎになった。特に、煌びやかで美形の左右大臣家の紅葉の中将と山吹の少将が、凛々しく武官束帯姿で馬に乗って現れると、通りは女の声で大騒ぎになった。
多く立ち並べられた女車の中からは、御簾越し扇越しの想い込めた熱視線だけで済んだが、特に身分低い女達から、良い男! こっちむいて~! とあちこちで悲鳴のような黄色い歓声が上がる。
もしここにあの桂木の宰相と前東宮様がいたら、この倍以上の警備の人手が必要だったろうな、と行列に付き従う従者達は歩きながら呟き合った。
大社敷地内に慌てて新増設された観覧席に桔梗の君が落ち着いた頃には、駒競が始まる熱気に殿上人達は盛り上がっていた。コッソリと、どの馬が一番速いか、乗り手は誰が一番かについて、賭けも行われている。
皆、神事よりそれを楽しみにしているらしい。一番人気は、もちろん紅葉の中将だった。双璧を為す桂木の宰相の不在を惜しむ声も聞こえている。
御所を離れた解放感に浸りつつ、公達間ではこの裏賭け事で、付き従ってきた女官や女房達の間では、普段とは異なる凛々しい公達姿の観賞で、会場は大盛り上がりだった。
日も高くなるにつれて暖かくなり、熱気で初冬の寒さも吹き飛びそうだ。
大掛かりな会場内で、桔梗の君は奏者が集まる控え所に挨拶し、手順を確認した。一試合ごとの合間に笛や太鼓などが演奏されるので、奏者は帝の行幸で失敗できないと気が立っていて怖いくらいだ。
非常に大勢の随身、供人、従者や馬が歩き回る境内で、人ごみに紛れて攫われないよう、気を付けねばと桔梗の君は心する。
だが、事態は『攫う』などといった生易しいものではなかった。
「桔梗の君、危ない!」
不意に男の腕に体を抱え込まれるや、桔梗の君は臨時観覧席の建物から引き離された。すぐさま長く厚い建築用の板が、数枚ガラガラと足元に倒れ掛かってきた。
間一髪で、助けられたらしい。一瞬の恐怖から解放され、誰かに抱えられたまま、桔梗の君は思わずごくりと唾を飲み込んだ。
「大丈夫かい、桔梗の君? 間に合って良かった、怪我は無いようだね、ああ、びっくりだ」
運良く通りかかった山吹の少将が、桔梗の君を咄嗟に引き寄せて助けてくれたらしい。大人数の参加の催しで、てんやわんやしている建物の裏側で、何故か倒れてきた板を前に心配顔だ。
「あ、ありがとうございます。びっくりしました、なんで板が?」
「慌てて建物を新増設したから、資材の片づけができていないのか? でも、危ないなあ、当たったら小柄な君ではただでは済まないところだったな、運が良いよ、君」
板の倒れた音を聞きつけてきた従者家人達に、山吹の少将は辺りを片付けるよう命じる。
「随行の行列で君を探してたんだよ。やっと見つけた。けど、どこにいたんだい? 分からなかった」
「女東宮様のご祈願のご用で、行列とは別に来たんです。山吹の少将様も駒競にお出になられるのですか?」
「いいや、違うよ。何故か併せて弓の腕を競う賭弓も催すことになったんだ。帝は弓もお好きだから、合同開催されることにしたらしくて。私はそちらの賭弓に出るよ。こう見えても弓にはちょっと自信があるんだ。これなら紅葉の中将様に勝てるような気がするんだ」
実は、武術に秀でた左大臣家の紅葉の中将にばかり称賛が集まらぬよう、可愛い一人息子の得意な弓競べを右大臣が無理矢理開催させたのだった。馬だけなら、前東宮や桂木の宰相が不在の今、もう公達の誰も敵わないのは目に見えているからだ。
この賭弓の方が、裏賭け事の注目度が高い。密かに帝も代理を通して、小銭を賭けている。こちらもやはり一番人気は紅葉の中将だった。次点には山吹の少将と他にも一名上がっている。
「賭弓、頑張って下さいね! 武術は何でもお上手な紅葉の中将様もいらっしゃいますが、山吹の少将様もお強いですよ!」
「ありがとう! でも、馬やら弓矢やらで境内は大騒ぎだ。桔梗の君は小さいから、怪我しないように気を付けるんだよ。君に何かあったら、桂木の宰相様に申し訳ないよ」
「はい、気を付けます!」
女東宮の下へ戻ると桔梗の君が言うと、踏み潰されそうだと心配した山吹の少将が送ってくれることになった。さすが右大臣家子息の少将ともなると、前にいる人々が衣装から官位に気付くや、黙って道を譲り開けていく。先程まで人波にもまれて歩いたのが嘘のようだ。
帝や女東宮の観覧席は、駒競と賭弓のどちらも良く見える特等席だ。反対に、従者達が歩く所は馬もいて荒々しい雰囲気になっている。こんな時は山吹の少将が側にいてくれて安心だった。
「お~い、山吹の少将、桔梗の君!」
明るい活気に満ちた声が、二人の足を止めた。
人垣が割れて姿を現したのは、想像通り、紅葉の中将だった。やや鼻息の荒い黒馬の手綱を引いてやってくる。
「紅葉の中将様!そのご様子からすると、駒競の第一戦目は楽勝だったようですね!」
「当然だ、そこら辺の軟な者達に負ける気は無い。私もこいつもな!山吹の少将も参戦すれば良いのに。桂木の宰相もいないし、張り合いが無くて残念だ。桔梗の君も元気そうで何よりだ。競技後のそなたの奉納楽を楽しみにしているぞ!」
大きな手が馬を宥めるように撫でる。全力疾走後でやや興奮気味の馬はよく中将には懐いているのか、鼻づらを押し付けて何かを急かしている。若駒なのか、まだまだ走り足りないのかもしれない。
「ありがとうございます。中将様は、駒競と賭弓のどちらにも参加されるのですよね」
「ああ、普通は従者がする催しだが、珍しく殿上人が参加できる催しだからな。張り切って……危ない!」
突然、馬がヒヒンッ! と嘶くや暴れだした。興奮のまま後ろ足立ちし、鋭く前足が目の前にいる桔梗の君と山吹の少将目がけて振り下ろされる。
激しい衝撃を受けて、桔梗の君は横向きに吹っ飛ばされた。紅葉の中将が体当たり同然で、桔梗の君と山吹の少将の二人を抱きかかえつつ固く鋭い蹄から遠避けたのだ。三人共に飛びつかれた勢いのまま、土の地面へと倒れ込む。
「中将様!」
「誰か馬を抑えろ!」
中将の従者が馬の暴れように驚きつつも、必死に轡を捕らえた。
目の前で人が倒れ込んだことに驚き、再び馬が嘶く。慌てて従者が暴れないようにと轡を抑え込んだ。下手すれば、この馬に三人とも踏まれるか蹴り飛ばされるところだ。
「大丈夫か、二人とも!? 間に合って、運が良かった。警戒しろ! 何があったか報告!」
「中将様、誰かが馬に石をぶつけたようです! あちらの方から!」
従者の一人がとある方向を指差す。既に事件に気付いた大勢の人垣ができており、不審人物が誰かは分からない。
「足音がした! 走って逃げた者を追え! 事故ではない! 曲者が紛れ込んでいる!」
敏捷な動きで紅葉の中将は立ち上がるや、付き従っていた従者に大声で命じた。バタバタと数人の男達が走り去ってゆく。その足音は追った者なのか、追われた者なのか。
「怪我は無いか、二人とも?」
「はい、私達は大丈夫です。ですが、桔梗の君が……。呆然としているようです」
「童だ、無理もない。男の主ではなく、お静かな姫宮にお仕えしているのだ。このような危険な目には会ったことが無いのだろう」
桔梗の君は二人に支えられるように抱き起され、突然の危険に呆然としていた。
大怪我を負うどころか、命が狙われたのだ。これまでの危険とはもう度合が異なっている。もはや人目を避けることなく、できれば事故に見せかけて殺すつもりなのだ。
死を目の前にし、恐怖に身体が震え出した。
その間、紅葉の中将は辺りの殺気を伺うように、周囲に厳しい眼差しを向けて己が体で若い二人を護る。残った従者達も、主達を取り囲んで警戒していた。帝のおられる敷地内ではそうそう抜刀できず、中将は太刀を抜かずに鞘ごと持ってどんな攻撃が来ても良いように身構える。
怪しい者がいないかキョロキョロ視線を走らせながら、山吹の少将は桔梗の君の背に腕を回し、小さく震える華奢な体を抱き支えて起こしてくれた。思わずその束帯の袖を桔梗の君は握ってしまう。
「おかしいよ、変だよ。さっきも桔梗の君は倒れてきた板で危ない目に遭ってる。安全な後宮に戻った方が良いよ」
「狙われたのか? 先日も攫われそうになっているな。こんな誰がいるのか確かめられないような所にはいない方が良い。だが、まずは館の中に連れて行こう、すっかり怯えている。休ませてやらねば」
力強い紅葉の中将の腕に桔梗の君はそっと抱き上げられた。怯えるあまり、足に力が入らないのを知っているようだ。
「右大臣家の従者に後宮まで送らせましょう。弘徽殿と麗景殿の女御様方からのお手伝いの名目で、女房が数人、右大臣家から派遣されてきています。その者達に世話させるから、桔梗の君は右大臣家の牛車に乗って後宮に戻るんだ」
自分と同じように蒼白な顔の山吹の少将の言葉に正気付いて、桔梗の君は更にその袖をギュッと握る。
「だ、ダメです、山吹の少将様、紅葉の中将様。私は女東宮様(自分)のお側を離れる訳にはいかないのです」
「だが、危険だ。そなたは身を守る事すら出来ないではないか! 山吹の少将、牛車を……」
桔梗の君が女東宮の席に戻らねば、今度は女東宮が神隠しにあったと言われてしまう。不在を上手く誤魔化したとしても、文遣いの童の怪我など口実にもならない。
帝が楽しまれているこの催しを理由無く途中退出するなど、帝への不満を示したと言われかねない。それを口実に、兄宮と桂木の宰相が戻られる前に、麗景殿の女御が御子をお産みになる前に、女東宮を廃嫡されてしまう。
何としてもこの場に踏み留まらねばならない。廃嫡だけは絶対にダメである。あの方々が戻るまで!
「たとえ危険でも、中将様だって帝様のお側を離れはしないでしょう? 私も女東宮様が後宮に戻られるまで戻りません!」
「……童ながら、見事な忠義心だ。分かった、とにかく館の中で控えていなさい。外は危険だ。女東宮様のお側で護るがいい」
「はい」
貴族や女房が控えている建物の階の所まで抱きかかえられた。憧れだった人の腕は逞しく安心感があって、相変わらずな素敵な貴公子だ。だが、もう桔梗の君の胸はときめかなくなっていた。この胸に大きな衝撃を与えるのは、いつのまにか月の使者のような貴公子に代わっていた。
紅葉の中将の腕から、そっと桔梗の君は階に降り立つ。二人を安心させようと、桔梗の君は振り向き、もう大丈夫とばかりに頼もし気に微笑んで見せた。
その途端、桔梗の君の胸に大きな衝撃が走った。気が遠くなっていく中、矢が突き刺さったのが見えた。
心配する貴公子達の目の前で、か細い身体は簀子に崩れ落ちた。




