我が友よ
3/13 サブタイトルを変更しました。
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
『月が上って、あなたの心を独り占めにする』
一夜の恋人からの密かなお文には、ただそう書かれていた。
女東宮としての地位に就き、慣れぬ政務を有能な楓尚侍に助けてもらいながらこなす。だが、暇があれば兄宮を探してくれている桂木の宰相のために、重ね着できる内衣の単を仕立てていた。都から離れ、初冬の寒さに耐えているであろう、あの責任感溢れる優しい貴公子のために。
だが、いつこの単を渡せるのかも分からない。一応密かに都を離れているためお文も無く、兄宮と桂木の宰相の安否も分からず、不安だらけだった。
つい最近まで何の仕事も無く、(本当は高貴な姫宮としての制約はあるのだが)気ままな文遣いの童として出歩いて、桂木の宰相などの公達と楽しく交流していたのだ。御殿の最奥で、じっと大人しくして待つのが辛くてしようが無い。
桂木の宰相と連絡を取っているはずの山吹の少将とも会えないので、御殿の外の情報もなかなか得られず、イライラもする。
強引に女東宮になり、慣れぬ政務で忙しかったのだが、最近、心配事をする余裕ができた。その理由に、左大臣家の姫君、楓尚侍の存在があった。
「では、このお文に先程言ったように、代筆でお返事をしておいて。あと、この書類を届けてほしいわ。それに、今度の神事について確認しておいて頂戴。前回のように、土壇場になってから、高貴な女人に相応しいお支度になっておりませんでした、なんて、几帳が揃うまで待たされるのは嫌だわ。あれ、絶対に、男東宮ではない私に対する嫌がらせだもの」
とある東宮としての神事の時、わざとらしく薄寒い簀子で待たされたことを思い出し、桔梗の君は忌々し気に扇で手を打つ。
「畏まりました、女東宮様。書類は既に届けるご用意をしてございます。私を任に就かせていただいた以上、神事の手配も、女東宮様に相応しくあるように確認致します。高貴な女人を馬鹿になどさせませんわ」
「では、このお文をお願いするわ」
来客時は下げている最奥の御簾を上げて親しく顔を会わせ、桔梗の君が女東宮として仕事を命じると、一段下がった所で恭しく楓尚侍は女東宮から代筆するお文を受け取った。
「畏れながら、新年用の御召し物が仕立て上がっておりますので、お確かめ願います」
「そう、ありがとう。新しい衣なんて嬉しいわ。衣の準備など、まるで本当に私の北の方(正妻)の様よね、ふふふ」
楓尚侍は非常に優秀だった。流石、左大臣家の姫君である。帝や東宮の妻となる女御入内するためにと、歌舞音曲だけでなく高い学問の教養もしっかり身につけている。父左大臣に似たのか元々の資質もあるようで、政務関連の難しい書類も難なく読み捌くのだ。
兄東宮に色気と媚びを売る事ばかりを一番にしていた、他の若い女房達にはとてもできない芸当だ。
全部を押し付ける訳では無いが、女東宮の仕事に関わる事をこの楓尚侍に相談し、手伝わせることができるのだ! なんて楽な事か! 姫君にだって、ちゃんと政務はできるのよ! と嬉しくもある。
母女御の代から後宮で仕えていた経験のある松竹の式部達も、高貴な姫宮の身の回りを世話する女房としては非常に有能だが、殿方の領域である政務書類には弱かったのだ。
更に、多くの貴族達の反感を買っており、近づき難い高貴な姫宮である女東宮には、兄東宮のように直属の文官はいない。それだけに、有能で政務の橋渡し役もこなす楓尚侍の存在は、非常に救いになった。
梨壺北舎に住まう女東宮に代わり、主のいない梨壺女房達を尚侍の地位と左大臣家の威厳で圧倒して治め、一番テキパキと働く。
今では女東宮の政務書類などを持って帝の御殿に報告に行ったり、神事の事前手配や確認など、対外的な事はこの楓尚侍が行っている。帝からの評判も高く、女東宮の代理、名代としてジワジワと後宮でも力を広げつつあった。
今、桔梗の君の手元には、先程届けられたお文がある。お堅い文箱ではなく、可愛い小菊にお文が結ばれているので、好意が感じられる。
目を通してみると、見慣れた女文字だった。一番上の異母姉になる前斎宮からのお文だった。
帝と同腹の姉ということもあり、前斎宮は帝に引き留められている形でまだ後宮に住んでおり、以前と変わらぬ多くの尊敬を集めていた。
前斎宮が母代わりとなって可愛がっていた橘兵部卿の宮を強引に押し退けて女東宮になって以来、なんとなく桔梗の君とは疎遠だった。だが、同じ後宮に住まう者として、交流を持ちたいとお文には書かれている。
おそらくは、一年後の東宮交代で東宮になろうとする橘兵部卿の宮のため、権力者、左大臣の姫である楓尚侍に興味を持ったのだろう。
桔梗の君はもっと近くに寄るようにと、几帳の向こう側の側近くに控えていた楓尚侍を扇で招く。
「ねえ、このお文、前斎宮様からなのだけれど、どうも、新参の楓尚侍に会いたがっておられるようよ。お返事を書くから、あなたが文遣いになってもらえるかしら? あちらは兄帝の同腹の姉上様ですもの、身分低い女房には頼めないわ。反って失礼になるもの」
「畏まりました。畏れ多いことですが、私も一度かの前斎宮様にご挨拶できれば、と願っておりました。後宮で力を得るには、まずあの前斎宮様を味方にしなければならないので。ほほほ」
「そ、そう。良かったわ、良い機会が得られたようで」
扇の陰で黒く微笑む楓尚侍に急かされるように、急いで時候のご挨拶の返信を書き、楓尚侍に届けるよう託した。
その間、身近な側仕えがいなくなる女東宮のため、その姿を隠す奥の御簾が降ろされ、複数の几帳が姿を隠すように女東宮の周囲に並べられる。
姿が見えないように数人の側仕えの女房に几帳で囲まれつつ、楓尚侍は意気揚々と女東宮の文遣いに出ていった。その途端、梨壺北舎は静かになった。松の式部と竹の式部も、珍しく揃って側にいないからだ。
すると、御殿の外簀子に近い内廊下の廂の辺りで、兄宮に仕えていた梨壺の若い女房数人がヒソヒソ話をしているのが聞こえた。どうするのよ、これ? とか言い合っている。
パシンと桔梗の君は、扇を手に軽く打ち付け、音を立てて女房を呼ぶと、御簾の向こうに慌てて女房数人が姿を現し、女東宮に伏して礼を取る。やはりかつて兄宮に仕えていた梨壺の若い女房達だった。
「外の御簾の近くで、何を騒いでいるの?」
「申し訳ございません。そ、その、文遣いの童の桔梗の君宛にお文が届いたのですが、いつもは式部さん達にお渡しするので……」
誰からなのだろうか? また右大臣家の山吹の少将から、桂木の宰相の事で連絡をくれたのかもしれないと考えるや、桔梗の君は胸が高鳴り出した。どうしてもすぐにお文が見たい。
「二人はいないの?」
「式部さん達は、お食事のご確認と、前斎宮様にご挨拶に行かれた楓尚侍様の代理で、書類のお届けにお出かけです」
食事に毒を盛られないようにと一人はいつものように見張りに、もう一人も政務を行う御殿への文遣いでこの梨壺北舎にはいない。
ふと、桔梗の君はひらめいた。
「なら、私が主として、あの童の代わりにお文を預かるわ。こちらに寄越しなさい。それと、縫物をしながら一人静かに休みたいの。あなた達、皆、局に下がって休んでちょうだい」
「え、お文をですか? それに、女東宮様をお一人にするなと式部さん達に言われて……」
「お下がり」
主に言い返してきた若い女房に、少し低めの声で桔梗の君がきつめに命じると、女東宮の不興を買ったと怯えた女房達は、慌てて文を御簾下から手渡して、礼をするなり梨壺北舎から姿を消した。
若い女房のほとんどの者は、狭い梨壺北舎ではなく、東宮の広い梨壺に局を貰っているのだ。
完全に一人になった桔梗の君は、室内に誰もいないのを確認してからそっとお文を開いた。その内容にびっくりする。
(帰ってこられた? 桂木の宰相様が都に! では、兄宮様も!?)
文には、謹慎中で参内できない桂木の宰相の代わりに、式部卿の宮家の家人がお迎えに行くので牛車に乗るように、と書かれていたのだ。
一人なのを良いことに、慌てて久しぶりに文遣いの童姿の下げみづら髪に、縫い直した兄宮の古い狩衣の表着、男物の袴を身に着けた。
そして渡したくて一生懸命に縫った単を丁寧に折り畳んで持ち出し、キョロキョロ周りを見渡し、女房達がいないのを見てからそっと梨壺北舎から抜け出した。
話し好きの前斎宮にお遣いに行った楓尚侍はすぐには戻らないだろうし、松竹の式部達は御殿に戻って桔梗の君の姿が無ければ、すぐに察して誤魔化してくれるだろうと踏んだのである。
まさか、この単を手渡しできるなんて! と喜びに胸が高鳴り、思わずギュッと単を抱き締める。その時、落とし物をしたが気付かなかった。
梨壺の御簾柱の影に、ある若い女房が身を潜めて外を伺っていた。扇で顔を隠しつつ梨壺北舎の方を見つめる。すると文遣いの童が、御殿の奥からそっと抜け出し、必ず通る梨壺前の渡廊を通り抜けた。
恋人にさらさらとお文を書く。月が上ったと。
麗景殿の前に来たとき、桔梗の君ははたと思いつく。ここに住んでいた女御は、右大臣家に戻ってしまっていることを。
主のいない御殿。
以前、人目を避けて主のいない宣耀殿前を通る道筋で、童達に攫われ閉じ込められた嫌な記憶が桔梗の君の脳裏に蘇った。
人気の少ない御殿は、日中でも中は薄暗く不気味なものである。無邪気だった以前は、怖いもの無しだったので気軽に出歩いていたが、最近の自分の行いから、さすがに桔梗の君も警戒心が起こる。一人では怖くなったのだ。
(そうだ! 弘徽殿に行って、山吹の少将様宛に伝言をお願いしよう! 紅葉の中将様宛に伝言をお願いするにも、承香殿はちょっと馴染みが無いから、山吹の少将様からお伝えしてもらえば良いわ)
親友の麗景殿の女御の姉女御が住まう弘徽殿なら、琵琶演奏をして好意を得ているし、女東宮の後見である右大臣家の権力の下だ。仮にも女東宮の文遣いを邪険にするとも思えない。
何かあれば、弘徽殿を頼ってほしい、とも麗景殿の女御に言われてもいる。紅葉の中将の姉女御のおられる承香殿より、よほど親しみがあった。
「失礼致します、ご伝言をお願いしたき事がございまして、参りました」
「やあ、相変わらず運が良いね、桔梗の君! この御殿で会えるなんて。お久しぶり」
弘徽殿の外簀子から御簾の内側で取次役をしている女房に、桔梗の君がおそるおそる声をかけたところ、中から聞き慣れた声が返って来た。
ズイッと御簾の裾を上品に持ち上げて、顔をのぞかせたのは、山吹の少将だった。ちょうど姉の弘徽殿の女御のご機嫌伺いに来ていたようだ。
「少将様、お久しゅうございます! 良かった、少将様宛に伝言をお願いしようとしていたんです。実はこのお文を……あれ無い? 桂木の宰相様から頂いたお文なのに、落とした!?」
「ああ、そんな顔して慌てなくていいよ。落としたにしても、姫君への恋文ではなく、文遣いの童への伝言なら、大丈夫、笑いの元にもならないさ。で、内容は? 宰相様とか言ってたみたいだけど?」
親し気に外簀子に出て来てくれて、腰を下ろした山吹の少将に、桔梗の君は例のお文の内容を説明した。一緒に喜んでほしくて。
「ああ、戻られたんだね、良かった! 知らなかったよ!」
期待通りに、山吹の少将は大喜びし、桔梗の君の華奢な背をぽんぽん叩く。ニコニコ笑顔が満開だ!
「はい、本当に良かった! ……え? 少将様、ご存知なかったんですか?」
最後の一言に桔梗の君は引っ掛かった。
「山吹の少将様は、お文を送り合っておられてたのでは? それなのに、ご帰京をご存じなかったのですか?」
「帰るなんてお文は、右大臣邸には来て無かったよ。てっきり、桔梗の君にだけ先に連絡したのかと? でも、変だな? 表向き謹慎されているから、桔梗の君へのお文は私に託すことになっているのに」
「……そう考えれば、あのお文の手蹟は、宰相様のものではありませんでした。紅葉の中将様に贈られた、百合姫様の御歌の代筆の手蹟とは違います。宰相様が代筆させるなんて、なんか、私に対する隔てを感じます。いつもはお優しいのに……」
まるで単なる文遣いの童宛のお文に見えてきた。そのため、旅立つあの時、甘く囁いてくれた事が夢に思えてしまう。
これが本当に桂木の宰相からの伝言だとしたら、代筆させたという事から、桔梗の君に対する想いが冷めたと伝えているようで、桔梗の君の喜びは半分以下にまで目減りした。
今度は慰めるように、山吹の少将がそっと桔梗の君の背を叩いた。
「この待ち合わせには、私も一緒に行くよ。前東宮様も攫われた物騒な世だ。今度は弘徽殿に立ち寄った童が後宮の門で攫われた、なんて事になったら、右大臣家としては不面目極まりない。大至急で、紅葉の中将様にも伝言を送るよ」
弘徽殿に来て山吹の少将に相談できて良かったと、桔梗の君は素直に頷いた。
その頃、一人の貴公子が、桔梗の君に勝るとも劣らない大きな喜びを胸に、後宮を急ぎ足で通り抜けていた。思い切り簀子を蹴って駆け抜けたい熱い想いを必死に抑えながら。
宮中二大貴公子である紅葉の中将のただならぬ熱い眼差しと真剣な表情に、通り過ぎていくのを御簾内で見送った女房や女官達は、何事かとヒソヒソ扇の陰で囁き合った。
その日、慣れぬ後宮での出仕に苦労しているのではと、兄として心配した紅葉の中将は、妹の務める梨壺北舎の前に来たのだった。
簀子から御簾内に声を掛け、チラリと様子を確かめられたら、いつものように庭で剣術の練習に素振りでもしようと。
左大臣家の守護、ここにあり! を周囲に示すためにも、定期的な見回りを兼ねた素振りは欠かせない。それにより、不埒な輩は、かよわき女東宮様と妹のいるこの梨壺北舎に、近寄れなくなるはずだった。
だが、その梨壺北舎の外簀子で落ちているお文を見つけ、誰宛だろうと読んでしまったのだ。受け取り主に届けてやろうと、あくまでも親切心で。
一番の親友が帰って来たのだ! お文がそれを告げている。どうして会わずにいられようか!
その思いに突き動かされ、誰宛の文かを考えもせぬまま、紅葉の中将の足は、最後、主のいない御殿の前では駆けていた。
文に書かれていた待ち合わせの場所に、確かに、目立たぬような造りの牛車が門の側で待っていた。
ああ! あの牛車か! 待ちかねたぞ、我が友よ! そなたに会えずにいたのが、こんなに辛いとは知らなかった。まるで恋人に再会できたかのように嬉しいぞ!
桂木の宰相がその胸の内を知ったら、大いに引き下がって拒絶するであろう恥ずかしい感動的な喜びの想いが、紅葉の中将の心の底から湧き上がってきた。
「帰ったか! 桂木の宰相! 会いたかったぞ、我が友よ!」
紅葉の中将は、生涯の友と自分では思っている、桂木の宰相の帰京を己の全力で祝おうと、その牛車に向かって思いっきり駆け出そうとした。共に抱きしめ合って、良かったと背を叩き合いたい。
「ダメ!! 騙されてはいけません! 紅葉の中将様! その牛車の中にいるのは偽者です!」
「何だと!」
甲高い子供のような声が、紅葉の中将の足を繋ぎ止めた。
声のした方を振り返ってみると、山吹の少将とちょこんと背の低い桔梗の君が駆け寄って来る。いつの間にか後を追いかけていたらしい。
御殿奥でじっと座っていることが多いため、短くとも走ってぜーぜー息を切らしながら、桔梗の君は困惑の表情を浮かべる紅葉の中将の袖を掴んで引き留めた。
「あれは偽者! だって、紅葉の中将様がいるのに、牛車からお姿を現さないなんて、あの優しい桂木の宰相様ではありえません。例えお怪我していたって、牛車の外で待っていてくれるはずです。旅立ちの時、見送ったように」
「む、なるほど! 確かに、あれは我が友、桂木の宰相のする態度ではない。怪しい奴、何者だ! 姿を現せ!」
あっさり桔梗の君の言葉に納得し、信じた紅葉の中将は素振り用に持っていた剣の柄に手を掛ける。同じように、お文に不信を感じていた山吹の少将も帯剣しており、いつでも抜けるようにしながら身構えつつ桔梗の君を背後に庇う。
「くくく、バレちゃあ、しようがねえ。そのちっこい小僧だけが来るはずが、とんだ見込み違いだ。おい、その小僧を引っ攫え!」
「させるか、この悪者め!」
どうやってここまで怪しい牛車が入り込めたのかは分からないが、中から四人ほど太刀を手にした盗賊の風体の男達が飛び降りてくるなり、襲い掛かってきた。
すぐさま紅葉の中将は剣を抜くや、相手の太刀を受け止めては薙ぎ払う。そのたびに、ガツン! ガツン! と激しくぶつかり合う音が響く。
技と力に満ちた紅葉の中将の剣は、多人数を相手にしながら一歩も引かず、その眼差しは鋭く厳しく、一人で襲撃者を威圧するほどのものだった。
伊達に剣術の稽古をしていたわけでは無かったのね! 本当にお強くて素敵! と桔梗の君もその頼もしい雄姿に、改めて惚れぼれする。
甘やかされた貴族の若様と、舐めて掛かっていた襲撃者達も紅葉の中将の技量に驚き、むやみやたらに襲うのではなく、慎重になったようだった。下手に襲い掛かれば、あの鋭く早い剣捌きの餌食になってしまう。
山吹の少将も怯える桔梗の君を背で庇いつつ、剣で襲い掛かってきた一人の剣をなんとか受け止める。
「少将様、中将様! お助けします!」
「私より、少将と子供を守れ!」
剣戟の音に誰かが気付いたのか、御殿が立ち並ぶ方から、警護の武官達がようやく助太刀に入り、各々不審者に向かっていく。何人かは、中将の命に従い、山吹の少将と桔梗の君の前に楯のように立ち並び、守ってくれた。
「分が悪い! 引け!」
いつの間にいたのか、牛車の後ろから一人の男が姿を現し命令するや、武官と太刀を激しくぶつけ合って戦っていた男たちはさっと身を翻し、もの凄い速さで駆け逃げていった。慌てて武官達も追いかけるが、驚いて一瞬間を置いた分、引き離されて追いつけそうにない。
誰も特に大怪我も無く、血を見ずに戦いが終わったので、安堵したあまり桔梗の君は腰が抜けた。
またもや怖い目にあった。初めて剣での戦いに巻き込まれ、恐ろしさに膝に力が入らない。これも右大臣家の弘徽殿に寄ったせいだとは思わないが。
これまでの酷い目にあった教訓から、危うくも騙されて連れ攫われずに済んだのだ。紅葉の中将のように、無邪気に一人で待ち合わせ場所に行かなくて良かったと、心の底から思った。
今度は守りきれたと、ニッコリ笑顔の山吹の少将が、桔梗の君を背負って梨壺北舎に送ってくれた。
物陰で、一部始終を見ていた男がいる。
月が上ってから、御殿が抜け殻になったのを確かめて、ここに来たのだ。目障りな敵の弱点を掴んだことを知った。
今回は確認と小手調べだ。次で確実に獲物を仕留める。
もう策は動き出していた。




