復讐宣言
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
「まあ、ご覧あそばせ、楓尚侍がお通りになるわよ」
「ああ、真っ赤な楓の君ですわね。いくらどれほど几帳で隠そうとも、赤っ恥は隠しきれるものではないでしょうに」
大人数の女房を従えてしずしずと尚侍の行列が進むと、あちらこちらの御殿の御簾内から、女房や女官の馬鹿にしたクスクス笑いが漏れ聞こえる。
予想通り、左大臣家の姫君は尚侍として後宮に参内するや、針の筵の上、嘲笑の的となっていた。天下の権力者の左大臣家の姫君であるが故に、陰で隠れて笑う女達からの妬みも大きいのだ。
だが、どれほど笑われようと、姫君は打ちひしがれることなく、背筋を伸ばし、上品に扇でその美貌を隠しつつ、自分の御殿からお仕えする女東宮が待つ梨壺北舎へ通う毎日だった。
女東宮からの強い求めに応じて、新尚侍が東宮付きの補佐役として参内した。
その上品で豪華絢爛な支度と、兄の中納言や美形の紅葉の中将が付き従った様子から、まるで東宮妃入内のようであると噂になった。
父親の左大臣は、『駆け落ち姫』の噂は既に知れ渡っていることから、恥じて小さく身を潜めるのではなく、もういっそ誰にも侮られることのないようにと、かねてから準備していた東宮妃に相応しい最上の仕度そのままに、派手に参内させたのだ。
住まいは姉女御の承香殿に決まった。承香殿は別棟を持たないが、その分御殿は大きく、中央の通り道で左右に分かれている。尚侍は、女御が住んでいないもう一方側を賜った。姉妹で住み分けることになる。
女御に劣る身分の尚侍が、過去にも皇后が住んだ伝統ある承香殿を賜ったのは、姫君がそのまま次代の帝の女御へと昇進することを左大臣が狙っているのだろうと噂された。
帝の寵愛を受けている大納言家の滝尚侍なども同じ尚侍だが、足元にも及ばない破格の扱いである。左大臣家の揺るがぬ権威を世に知らしめているかのようだった。
誰が最初に言い出したのか不明だが、付いた呼び名が『楓尚侍』。表の意味は美形の紅葉の中将の妹姫なので、その紅葉によく似た名前の『楓』になったらしい。だが、裏では『駆け落ち』が『葉が欠けて落ち』、破談に恥じて紅く染まった楓の葉の意味らしい。
だが、挨拶に訪れた新尚侍の美貌を目の当たりにした桔梗の君は、いずれこの裏の意味が塗り替わるだろうと思った。
桔梗の君と同じ年頃の左大臣家の姫君は、非常に美しかった。
自己都合で無理矢理出仕させてしまった申し訳無さから、楓尚侍とは初顔合わせから御簾を上げて、桔梗の君は直に対面した。同じ年頃と聞いていたし、せっかく身近に仕えてもらうので、親しくなりたかったのだ。上手くすれば、麗景殿の女御がいなくなってしまった寂しさを、埋めてくれる存在になるかもしれないと期待して。
対面した左大臣家の楓尚侍は、やや伏し目がちのどこか気だるそうな眼差しが色っぽく、豪奢な唐衣裳姿は、しなやかな風情だった。
弘徽殿の女御が威厳に溢れた虎なら、この姫は高貴で妖艶な狐の印象がある。ようやく女東宮として牙を持ち始めた仔狼のような桔梗の君とこの姫君とでは、とても同じ年頃には見えない。
「紅い楓の尚侍なんて、凄い名前ね。単なる表の意味だけなら風流で美しいのに」
「おかげさまで、女東宮様に後宮へと引っ張り出されましたので、紅く染まっております。ですが、そのうちあの不名誉な噂も、治まりましょう。それに、女東宮様には感謝もしております」
「なぜ? 針の筵の上に引っ張り出したも同然なのに……。しかも、左大臣が内々に進めようとしていた縁談まで私は壊したのよ。後でそのように聞いたわ」
「構いません。私の恥を態と広めて、言うことを利かせようとする家の男と縁を持つなど、まっぴらごめんですから。この尚侍のお話しが無ければ、結婚せずに済む尼にでもなろうかと密かに思っておりました」
楓尚侍は扇で口元を隠しつつ、目を細めて怒りを露わにした。当然ながら恥を広められた事に、相当腹を立てている様子だった。妖艶な美人が怒ると怒気迫るような凄みがある。
「女東宮様のおかげで渡りに船、結婚しなくても宮仕えすることで、己の身を養っていけるようになったのですわ。それどころか、この宮中で力を付け、復讐してやるつもりです。我が身を嘲った者達に! 特に、我が初恋に泥を塗り、恥を広めた大納言家に。ククク、その時が楽しみです」
恋人と引き裂かれて破談になったことを思い出したのか、楓尚侍の声が怨念の籠った怒りに満ちて低くなっていく。
「お、穏やかにお願いするわ。お気持ちは分かるけど、仮にも女東宮の尚侍なのだから。それに、また良い出会いがあるかもしれないわ、この後宮で。あなたのお兄様を始め、素敵な公達が沢山いらっしゃるのよ」
「私、縁談はご遠慮したいのです。父左大臣の考えで、私は生まれた頃より、いずれ入内する姫として育てられました。ですが橘の宮様、女東宮様の兄宮様、そして我が初恋の君、皆、その時の己の都合で、私と結婚するとかしないとか勝手ばかり言ってきました。もう殿方に振り回されるのは、こりごりです」
桔梗の君も噂で聞いただけだったが、言われてみれば周りの都合に振り回されている姫だった。
東宮候補として有力だった頃の橘の宮は、後宮で出会った美しき咲耶姫に惚れ込むあまり、後の麗景殿の女御になる右大臣家の四の姫、左大臣家のこの楓の姫、更に桂木の宰相の妹の式部卿の宮の姫君との婚約を投げ捨てた。だが、やはり権力を望んだ橘の宮が、身勝手にも復縁を望んできたらしい。その話は、桔梗の君の兄宮が東宮になった事で、左大臣によりご破算にされた。
次に、その兄東宮へ女御入内すると言われていたが、麗景殿の女御を熱愛する兄東宮にのらりくらりと待たされ続け、更には駆け落ちまでした初恋の君とも無理矢理引き裂かれている。
「私、女東宮様の妻になったつもりで、お仕えさせていただきます。普通では、東宮尚侍になると言ったら、妃の一人として入内したと見られるものですし。今、帝にお仕えしている滝尚侍が良い例ですわ」
「そ、そう? でも、私は女だから妻はいらないかな? だから、入内(結婚)したと考えなくて、良いのではないかしら? お好きな殿方ができたとか、気が変わったら、いつでも言ってね。私が東宮のうちなら、退出を許すから」
まだ自分と同じように若いのに、ドロドロと世を恨んでいるような楓尚侍を、桔梗の君は何とか宥める。
兄君の紅葉の中将の様な太陽の如きとまではいかなくとも、もう少し明るい雰囲気になってくれると、この梨壺北舎にいる人々のためにも良いのだが。
通常、尚侍は帝や東宮の妻の一人として見なされるため、他の公達との交際は裏切り行為に当たり、許されるはずはない。だが、桔梗の君が東宮ならば、女主人に仕えるだけである。故に、純粋に仕事としての宮仕えになるため、楓尚侍に縁談があれば、桔梗の君の考え次第で後宮を出ての結婚も許されるはずだった。おそらく、左大臣もそれが分かっていて、姫の出仕を認めたのである。
「そのような日が来るとは思えません。ですから、女東宮様の妻として、末永く精一杯お仕えさせていただきます! 私は、絶対にこの後宮で力を手に入れてみせますわ!」
この世を恨む妖艶な美女も、兄の紅葉の中将と同様、熱く真っ赤に燃え上がる性質だったようだ。よく似た兄妹ね、と桔梗の君だけでなく、その側に控えていた松竹の式部も左大臣家の血筋を実感した。
左大臣家の姫君が身近に仕えることになったため、女東宮を守護する力が強まった。これまでの右大臣家の力だけでなく、左大臣家の力までもが女東宮に及ぶため、密かに松竹の式部達が心配していた、食事などに毒が盛られる危険も減った。
更に、これまで麗景殿の庭で剣術の練習をしていた紅葉の中将が、妹の様子見の口実で、梨壺の庭で素振りをするようになったのだ。この不敬にも当たる振る舞いは、女東宮が咎めなかったため、後宮で容認されている。女房達や女官達も、喜んで美形貴公子を見学している有様だ。
自然、近衛の中将がいることで、梨壺と梨壺北舎の警護が厳しくなった。
とある夜、大納言邸ではその主が酒を飲みつつ、息子を前にして酔って荒れていた。八つ当たりするかのように、扇をベシベシと、もたれ掛かっている脇息や床に打ち付ける。様々な画策が思い通りに行かないため、扇を何度も、このこの! と打っても苛立ちが治まらないのだ。
「父上、そのように激しく打ち付けると、扇が壊れてしまいますよ」
「ええい、煩い! 今朝の閣議が思い出されて、イライラするのだ! 左大臣め、右大臣に靡きよって! ついこの間まで、こちら側に付こうとしていたくせに!」
大納言の機嫌の悪さを察し、とっくに女房達はその部屋から逃げ出すように下がっていた。息子の頭の弁からの指示もあって、そのまま姫君の棟へと喜んで行ってしまっているのであろう。若く美形な橘兵部卿の宮を婿に迎えて、あの棟は姫だけでなく女房達も含めて、華やいでいるのだ。
「人事を始め、我が大納言家にやや不利な話が進んでしまいましたね」
「しれっと言うな! そなたの将来も掛かっているのだぞ! ……全ては、あの小生意気な女東宮のせいだ! 小娘が左右大臣を手玉に取るとは! あの左大臣家の姫をそなたの妻にできていれば、あの女東宮などすぐに廃位だ! 橘の宮を新東宮にできたものを!」
とうとう大納言は強い力で叩くあまり、お気に入りの扇を壊してしまった。それがさらに腹立ちを高め、飲み干した酒の杯を部屋の隅にと投げつける。
パリン! と陶器が板床にぶつかり、割れた。
あのように女東宮も、脆くも割れてしまうか弱い姫宮のはずなのに、手強くも大納言の邪魔となっているのだ。
「それにしても、何故、一年間の女東宮なのでしょう? 兄宮を待ちたい気持ちは理解できる。だが、何故、三か月、半年ではなく、一年後なんでしょうね? 待つだけなら、女東宮などにならず、寺で写経でもして祈っていれば良いものを」
「ああ? さしずめ、死を認めて、すぐにそのまま一周忌法要するのに調度良いからではないのか?」
「だったら、何故、右大臣、ましてや左大臣までその一周忌法要などに同意するのですか? 直接の縁者でもないのに、馬鹿馬鹿しい。何か利があるから、女東宮の屁理屈に乗ったんですよ」
息子の疑問に大納言も不思議に思った。言われてみれば、何故あの腹黒い右大臣が、女東宮などに賛同するのか。女東宮では政治的発言力も利かず、息子の山吹の少将との結婚も出来ないから、利用しにくいはずだった。
何かありそうな気がするが、酒に酔った頭では思考がはっきりしない。
「どのような利があるのだ? それぞれ左右大臣には、まだ隠し子の姫でもいるとかか? 式部卿の宮の百合姫のように? 一年後の橘兵部卿の宮の立太子に合わせて、入内でもさせるつもりで、準備、教育中か?」
「だったら、もうとっくに内々の話を進めますよ、一年など待たずに。だが、そんな話は噂にもなっていません。一体、何を隠しているんでしょうね? ちょっと探ってみましょう」
聡い息子なら、何か探り出せるだろう、と大納言はその件に関して伝手や金銭を遣うことを許した。
「それにしても、あの女東宮め! 大納言家を虚仮にしおって! なんとかならぬか?」
「そうですね、私も恥を掻かされました。前斎宮様が出て来られたことで、姫宮と縁組できるとは思っていませんでしたが、左大臣家の姫君は、手に入れられるはずだったんですよ。それを目の前から取り上げられて、いい笑い者になりました。妻になる姫を、姫宮に奪われた男だと。あの良い気になっている女東宮に、ちょっとお仕置きしたいですね」
「どうする? 滝尚侍がしたように、毒は盛れないぞ。左右大臣が御所の隅々まで目を光らせている。それぞれの娘の命が掛かっておるからな」
右大臣だけなら何とか隙もできそうなものだが、今や左大臣まで女東宮を守る側に付いている。昔からよくある手である、食事への毒盛りは難しい。
「御殿の奥にいる女東宮には、直接手は出せません。忠誠心に厚く、熟練の年寄り女房に護られていますから。ならば、身代わりにお気に入りを取り上げましょうか。父上のその扇のように使えぬように。見せしめにするんです。図に乗るなと」
「お気に入り? 人形か何かか?」
若い小娘と女東宮を馬鹿にして、大納言は鼻で笑う。
「一時、後宮で話題になったあの文遣いの童ですよ。右大臣家の弘徽殿の女御の宴で琵琶を弾いて、注目を浴びたのを父上もご覧になったでしょう?」
「あの下げみづら髪の童か……」
紅葉の中将に抱きかかえられて弘徽殿に現れた、華奢で小奇麗な少年の姿を大納言は思い出した。
確か、女東宮の母方の血筋の者だが、家柄ははっきり聞いてはいない。おそらくは、女東宮が鄙びた田舎暮らしの頃から仕えている、乳兄弟のような者だろうと噂されていた。
「聞くところによると、右大臣家だけでなく、左大臣家の紅葉の中将や、式部卿の宮家の桂木の宰相も可愛がっていたといいます。我が大納言家の反対派の全員の子弟に可愛がられているんです。いい見せしめになるでしょう」
「……殺すなよ。後宮で話題の童が殺されたとなると、子供好きの帝のご機嫌が悪くなり、臣下に犯人を捕まえるよう強く命じられるだろう。帝は身分低い女官から生まれた姫宮も、全て内親王としての位を与えて可愛がるほどだ。追及の命も厳しくなる」
「分かっていますよ。とにかく女東宮を怯えさせるのが目的です。やんごとなき姫宮らしく、大人しく引っ込んでいろとね」
まるで庭に咲く花を手折るかのような気軽さで言う息子に、大納言は少々恐ろしさを感じ、酔いが醒める。
だが、陰で血を伴う派閥争いは、昔から貴族社会でよくあった事である。大納言家の将来のため、破滅を招くような息子の行き過ぎだけは気を付けようと心した。
翌日から、早速、頭の弁は行動を開始した。
まずは、これまで以上に右大臣家の動向、特に若い女房達や女の家人達の噂話に注意するよう、家人に言いつけ都のいたるところに放つ。
次は、標的に選んだ女東宮の文遣いの童だが、姫宮が女東宮になってから、誰も姿を後宮で見かけていないようである。色々な手を考えるためにも、頭の弁自身で、楽しみを交えながら後宮の女官達に探りを入れることにした。
「ああ、あの文遣いの桔梗の君ですか? 琵琶を所望する皆様に尋ねられるのですけれど、誰にも分からないのです」
深夜、梨壺で前東宮に仕えていた若い女官の一人が、頭の弁に抱きしめられつつ、ため息をついた。
二人は、今宵一晩限りの恋人だった。有力貴族の子弟であるこの男の妻になどなれるはずも無い事は、女には分かっていて、ひと時の逢瀬を楽しんでいるのだ。
後宮によくある若い男女の寝物語の一つとして、互いに楽しみつつ、さりげなく童の事を聞きだすつもりだった。
この女官はあくまでも前東宮に想いを寄せていたので、女東宮に対する忠誠心は薄い。ましてや文遣いの童についてなら、守るべき秘密でも無いと、あっさり話を漏らす。
「分からないって何が? あなたのように東宮の側近くで仕えていた者なら、東宮のお血筋の童の面倒もみていたのでは? あなたは、このようにお優しい方だから……」
「ふふ、お口がお上手ですわね。でも、若い女房は誰も知らないんです。あの童は、梨壺北舎に出入りしていたので。でも、不思議な事に、寝泊まりしている部屋の局さえも分からないの。だから、右大臣家の山吹の少将様から、お文を渡すよう言いつけられた時は困ったわ。しようがないから、あの怖い年寄り女房に、お願いせざるを得なかった。案の定、遅いと怒られたわ、嫌になる」
ウンザリした女を慰めるように、そっと背を撫でる。温かくも滑らかな肌は、いつも触れていて気持ち良い。
「局が分からない? では、御所の外から通っているのか?」
「いいえ、後宮から出入りしている訳でもないの。出入りすれば、どこのお邸から通っているかと、自然と家人達の話題になるわ。あれほどの見事な仕立ての衣装を普通に身に纏って、所作も綺麗なのよ。絶対にどこかの裕福な貴族の子弟のはず。足だって汚れてもいないから、ほとんど外を歩いてすらいないと思うの。でも、月の様に現れたり消えたりする、不思議な童なの」
「月のように消える、不思議な童……」
右大臣だけでなく、この文遣いの童にも、女東宮が隠そうとしているただならぬ秘密の香りが漂っている。
この童を捕らえて話を探り出すことができれば、女東宮の思わぬ弱点を掴めそうな気がした。それどころか、天下一の強大な権力を持つ右大臣家すら、脅かすことができるかもしれない。権力を掴む邪魔をした二人に、打撃を与えることができるのだ。
頭の弁はこの桔梗の君と呼ばれている童に、ますます強い興味を持った。あとは消えている月のような童をどうやって呼び出すか、楽しく策を練るだけだった。
この童を必ずこの手に捕らえてみせる。




