悪の嫁取り作戦
すみません、調子にのってるかもしれません。
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
橘兵部卿の宮はご機嫌だった。御所の簀子を歩く足さえいつもより軽くなった気がした。
先日、橘兵部卿の宮は大納言家の姫と婚儀を挙げた。妻となった姫は咲き初めたばかりの花の様に可愛らしく、まだ13歳。この冬を越せば14歳にはなるがまだまだ幼い。それだけに、自分に頼らずにはいられないと言った風情がとても愛らしいので、年上の自分が導いて可愛がってやらねばと思う。
幼い姫の頼りなさが、自分を大人の逞しい貴公子であると感じさせてくれたのだ。
橘兵部卿の宮は帝のたった一人の親王であったため、父帝の庇護の下、御所で大切に真綿で包むように育てられた。生死を彷徨うような病がちの子供だったため、少々の事ではたじろがないような気の強いしっかり者の女房や女官が世話をしていた。それはか弱い若宮を護るための父帝の配慮でもあったのだが、教育上裏目に出ていた。
もう気の強い女人にウンザリ気味だったのだ。その点、大納言家の幼い姫は、橘兵部卿の宮のツボを見事に突いた。
大納言家では次期東宮として、大人数の美しい女房や家人達が、最上位の敬意を持って恭しく自分に傅いた。
幼い妻は嫌われないようにと思ったのか、宮様のご身分に相応しい物をと最高の衣装や身に着ける小物、および調度品を揃えて出迎え、出仕に送り出してくれる。
最初に妻にした美しく優しい咲耶姫も愛してはいるが、資産不足のため、とにかく支度が不十分。妻の家で婿の支度をするのが普通なのだが、次期東宮を婿として迎えるには足りないのがずっと不満だった。
やっと今上帝の長男に相応しい扱いを受けて、気分が良かった。本来、こうあるべきで、今までが間違っていたのだと思う。
唯一の暗雲は、暗に殺すぞと脅して東宮位を『延期』させた天敵右大臣家の姫、麗景殿の女御の存在だったが、夫であった東宮が交代したため、ようやく御所から正式に退出して行ったのだ。
もう、子供の頃から恐ろしくてたまらなかった死の恐怖から解放された。亡き母がよく、若宮の病気は誰かが殺そうとしているから、と熱で苦しむ橘兵部卿の宮の枕元で泣いていた。そのため、幼い頃からいつか暗殺されるのではないかと、恐ろしくてたまらなかったのだ。
恐ろしい女御が御所を退出し、右大臣邸に大人しく引っ込んでしまったので、橘兵部卿の宮にはもう恐ろしいものは何も無いはずだった。後は一年後を楽しみに待つだけだ。
暗に次期東宮にと推す橘兵部卿の宮を婿に迎えて加勢を得て、大納言は閣議の場などで強気な発言や態度を取るようになった。
様々な案件が話し合われるが、時に最大の権力者である右大臣に真っ向から反対意見を述べるようになったのだ。これにはもちろん右大臣も対抗し、その婿や派閥の式部卿の宮も加勢する。二番目の権力を持つ左大臣が、案件の内容によってそれぞれに賛成するため、どうにも閣議は荒れ模様になりがちになる。
後見していた東宮の廃位と麗景殿の女御の後宮退出で、右大臣の権力が崩れ出したのを貴族達は感じた。次期東宮後見の大納言派か、これまでの権力者だった右大臣か、左大臣かと、今後の身の振り方に悩むようになっていた。
荒れる閣議の様子を女東宮となった桔梗の君は、帝と共に上座の御簾内から見ていた。
基本的に閣議で決まってから、帝に正式に奏上することになっており、ましてや仮東宮である桔梗の君は、ただ決定を了承するためだけにいるのだ。
「滑らかには進まないものなのですね、閣議とは。このように激しいものとは思いも致しませんでした」
女房や女官達の言い合いや、喧嘩騒ぎは見た事があっても、このような権力をぶつけ合う激しい話し合いは、桔梗の君には御簾と几帳越しで隔てがあるにも関わらず怖かった。あの弘徽殿の女御と滝尚侍のぶつかり合いを上回る気迫だ。
「女東宮よ、よく見ておくがよい。これが力の均衡を崩した結果なのだ。通例ならば、内々に話は進められ決められ、この場では皆に知らしめるように了解を得ることがほとんどだった。だが、内々にも話がまとまらぬのであろう、未だ不安定のままだ」
考えてみれば、あの後宮での諍いの延長にも思える。弘徽殿の女御の右大臣家と、滝尚侍の大納言家だ。あの時は女御の一方的な勝利だったが、この場では両家は引き分けに近い。どちらも譲らないからだ。
「上手く治まってくれるのでしょうか?」
「こうなると、左大臣次第である。左大臣を味方に着けねば、どちらも難しい。さて、我々に見えぬ所で、どのように手を繋ぐのであろうな。橘兵部卿の宮が東宮であったなら、また様子が違った。大納言家が勝ち上がったであろう」
「残念ながら、左右大臣共に、入内させる姫がもういないからですか? 右大臣家は、麗景殿の女御が末姫、左大臣家の姫君は駆け落ち騒ぎが広まってしまった……」
帝は扇を少し広げ、少し桔梗の君に身を寄せた。まるで政治に不慣れな妹宮の話を聞くふりを装って。そして御簾の外にいる者には聞こえないよう小声で囁く。
「左大臣は病で伏せていたと言い張っているがな。おそらく大納言が噂を態と広めたのだ、左大臣の力を削ぐために。貴族社会はそういうものとは言え、恥を広められた姫君には気の毒な事だ。不幸を招いた昔を思い出させる。後は式部卿の宮の姫が入内し、勢力が塗り替わっただろう。それを良しとしないため、橘兵部卿の宮は東宮になるのを左右大臣に延期させられた。力の均衡を保つとは、それほどに難しいものなのだ……」
自分が女東宮になれたのは、様々な要因が不幸にも偶然にも重なった結果であると、桔梗の君は思い知らされる。またこの東宮位の不安定さの危険性も実感した。
今のところ、桔梗の君の味方は右大臣しかいない。その右大臣が失脚したら、兄宮が戻る前に女東宮などたちまち廃位されてしまう。更に、まだ秘密にされている麗景殿の女御のお腹の中の赤子も、親王、内親王としての位をもらえなくなってしまうだろう。
か弱い姫宮である自分が大切な人達を護るためには、どうしたら良いのかと桔梗の君は思い悩んだ。
閣議はほとんど内容が決着がつかないまま終えられた。これが何度も繰り返される。
東宮位に就いてから、桔梗の君は寂しかった。兄宮も、姉と慕っていた麗景殿の女御も後宮にいなくなってしまった。桂木の宰相がいないため、住居の分からない百合姫に文を送ることもできない。返信ならともかく、東宮に文を送ってくれる者はいないのだ。
仕事ができて忙しくはある。朝早くから起こされて決められた神事を行ったり、回されてくる書類を読んだり、女官から政務の報告を聞かされたりと人に会うことは非常に多くなった。
更に政務とは全く関係ない事柄もなぜか増えた。
「竹の式部殿、あの、また三の宮様から女東宮様をご訪問したいとのご希望がきております」
梨壺にいた若い女房の一人がおずおずと、御殿奥の御簾内にいる側仕えの竹の式部に報告する。
「『ご希望』どころではないでしょう?もうそこまで来ているのではなくて?」
押しに弱く不甲斐ない若い女房を竹の式部が咎めた。三の宮は親しい姉妹という間柄でもないので、こうした振る舞いは、あまりにも女東宮に敬意を払わない馬鹿にした態度である。未だに桔梗の君と張り合っているつもりらしい。
「三の宮は、私が女東宮って本当に分かっておられるのかしら? こちらの許可も得ずの突然の訪問は、非常に不敬なのよ!」
「はい、申し訳ございません。ですが、もうそこまでお出でになられておられる帝の姫宮様に、私共からのお断りは言い難く……」
「やっぱり、もう梨壺北舎前まで来ているのね! しようが無いわね! あちらは例の馬鹿話をせずにはいられないのでしょう」
「困った方に懐かれましたわね、女東宮様。誰にも咎められないから図に乗って……」
しぶしぶと言った風情で、松の式部が訪問客の格式に合うよう、几帳や調度を整え始めた。突然の訪問はいつの時代も出迎え支度に忙しくなるので、迷惑なものである。
女東宮になってから、やたらと三の宮が桔梗の君に会いに来るのだ。しかもその話の内容が呆れるものばかりだった。
一応、親しく喧嘩したこともある姫宮同士のため、特例として御簾越しではあるが直接言葉を交わすことを許していた。それも桔梗の君の寂しさの裏返しなのかもしれない。
「女東宮様、本日はお会いいただきありがとうございます」
「はあ……」
「本日参りましたのは、今度こそ、女東宮様にものの道理をご理解いただきたくて。本来、東宮になられるべきだったのは我が兄、橘兵部卿の宮でした。それが時期尚早と皆様が判断されたならば、次に東宮になるべきは同じく帝の子であるこの私ですわ! 女東宮と敬われるべきはこの私のはずです!」
「ふ~ん?」
「何故かと申しますと、今の帝は我が父上です。あなた様は先代様の御子でございます。もう継ぐべき代が違うはずです! 一族の序列というものが……!」
「へ~?」
あまりにも馬鹿馬鹿しいので、自然、返事もいい加減になってしまう。この姫宮は東宮となってどうするつもりなのか? チヤホヤされたいだけなのだろうか。
不敬罪に当たるほどの事を真正面から迷いなく真面目に言えるあたり、馬鹿馬鹿しくも清々しい。誰も咎める気にならないため、ある意味、天下無敵だった。気分転換の笑い話の一つとして、桔梗の君はいつも聞いていた。
女東宮が咎めないため、傍に控えている女房達も女三の宮の言動を冗談と受け止めていた。
「もう! 聞いておられますか? ああ、もうじれったいですわ! 私が男皇子であったなら、あんな腰抜け橘の兄宮など蹴落として、東宮に文句無くなれましたものを!」
几帳の陰で、桔梗の君が話半分に流し聞きしているのに気付いたのか、三の宮は怒って扇を自らの手に打ち付けて音を立てる。無理矢理でも話を聞かせるため、気を引きたいらしい。
「面白いお話ですこと。三の宮は想像力が豊かでいらっしゃるのね。……仮に三の宮が親王であったとして、どのように兄宮を蹴落とすのですか? 世間では、やはり兄が先と考えるのでは(兄宮と同じように、あなたの母親も身分低い尚侍だったわよね)?」
「本当に政治を知りませんのね、女東宮様。決まっているではありませんか、有力貴族の姫を娶るのです! こんな事もご存じありませんの?」
「ほ~?」
「世間知らずはしようがありませんわね、教えて差し上げますわ! 例えば、右大臣家の姫、麗景殿の女御様も私の妻にします。更に左大臣家の姫もです。左右大臣が味方に付けば、怖い物無しですわ。色恋に惑うから、橘の兄宮様は失敗するのです。咲耶姫の様に後宮一の美しさである必要は無く、顔の造作なんて二の次です!」
姫宮の受け狙いの冗談だと思ったらしい周りの女房達は、扇の陰で吹き出してホホホと笑う。
「でも、麗景殿の女御様は我が兄の想い人で妻ですし、左大臣家の姫君は駆け落ちして戻られた方ですわ。東宮になられる三の宮の女御には、相応しくないのでは?」
「私に権力をもたらせるのなら、そのような事どうだって良いわ。そうね、尚侍にでもして仕えさせます。我が父帝に仕える滝内侍のように。全員、私の妻にすれば、天下無敵ですわ。あなた様など、足元にも及ばなくてよ、ほーほっほっほっ!」
有力貴族の姫に敬意も払わず、権力だけを当てにした身勝手な夢物語の挙句に、女東宮を笑って馬鹿にした三の宮に周囲の者達は皆呆れた。真面目に話を受け止めて咎めるのは、愚か者のような気さえするのだ。
三の宮に付き従って来た女房達は女東宮に咎められるのを恐れ、姫宮様のご冗談ですのよ、と誤魔化すように笑っていた。
だが、桔梗の君は天啓の雷に撃たれた気がした。光明どころではない。生き残るための道が開けたのだ。
「妻ですって!? もの凄いお話しを伺って驚いたわ! 三の宮、何て賢い方なの! あなた様が親王でなくて本当に良かったわ!」
「私が賢いのは誰もが知る事、当たり前ですわ! ほーほっほっほっ!」
最後に本気で桔梗の君に褒められたため、東宮位辞退を勧めに来たはずの三の宮は、その目的も忘れて機嫌良く帰っていった。
これは兄宮や麗景殿の女御に対する裏切り行為になるのかもしれない。だが、桔梗の君にはどうしても必要だった。心を鬼にして、やらねばならない事だった。
とある日、なかなか決まらない御前会議が再び始まろうとしていた。御簾内で帝が上座に座し、女東宮もその下座に着いた。
では、本日の議題を、というところで女東宮の取次役の侍従から声が掛かった。
「閣議の前に、女東宮様からご提案がございます」
「女東宮様? いかがなお話で?」
側にいた右大臣がざわめく貴族を抑え、女東宮に話を促す。実は事前に右大臣とは打ち合わせしてある。でなければ、仮の東宮の話などあっさり無視されてしまうからだ。
「え? あ、はい、その、女東宮様が仰るには、左大臣家の姫君を東宮付きの尚侍に希望する、とのことです」
「我が姫を? 突然、何を言われるのか、女東宮様!」
思いもしなかった提案に驚きのあまり、左大臣が詰問する。
周囲の貴族達も、噂の駆け落ち姫のことが話に上がったので、一斉にそれぞれ扇の陰でヒソヒソ話を始め、閣議の場が混沌としてしまった。
「確かに! 女東宮様には、文官の殿方を側付きにする訳にはまいりませぬな。御位に就かれたばかりの女東宮様の仕事を補佐する高位の女官、尚侍があってもおかしくない! そのためには、女東宮に相応しい高貴な姫君が相応しい」
打ち合わせ通りに、右大臣が大声で後押ししてくれる。
さすがの大納言も突然の事に何を言ったらいいのか、碌に反対の声も上げられずにいた。
尊い血筋の姫宮に高位の女官は必要ない、などとはとても言えない。仮にも女東宮からの提案であるし、反対すれば帝のお血筋を軽んずることになる。
その高位の尚侍候補として、まさか駆け落ち姫が上げられるとは誰も思わない。恥じらいからいつ出家してもおかしくないほど噂が立った姫だからだ。更に、他に候補と言っても、女東宮に近付けるほどの高貴な姫は今は少ない。
右大臣家にはもう姫がいない。式部卿の宮家の姫は東宮妃を狙っているので、尚侍にはならない。大納言家の姫は先日橘兵部卿の宮と結婚したばかり。他家の姫達も幼過ぎるか家庭持ちで出仕などできない。
確かに、すぐには嫁ぐ相手もいないであろう左大臣家の姫君は適任と思われる。表向きは。
「ですが、我が姫は! 姫は、病で……」
「その病のせいですか? 出家希望と世間の噂がありますな。ならばもう尼になられる(嫁にゆけない)くらいならば、ご出仕されては? お若い女東宮様がお困りになられているのだ、尼になったつもりで御仏の様に女東宮をお助けしてはいかがか?」
右大臣の執拗な攻めに左大臣は上手い言い逃れができない。もしここで病が重くてというと、密かに探している嫁ぎ先が病弱を理由に無くなり、本当に尼になるしかなくなる。
実は、その嫁ぎ先とは大納言家の頭の弁だった。女五の宮が女東宮になったため縁談は自然消滅している。左大臣家と手を組みたい大納言家は『駆け落ち姫』でも構わない、と内々に話が進んでいたのだ。
病弱と言っておきながら、すぐさま結婚することは出来ない。健康の証明になり、帝や東宮の申し出を蹴った不敬を言ったことになる。
健康だと言えば、出仕するしかない。だが、後宮では『駆け落ち姫』と噂され、姫にとっても左大臣にとっても針の筵になる。しかも右大臣派の女東宮の側近くにいることで、いわば人質になるも同然だ。
もし女東宮が失脚すると、出仕させた左大臣と姫の失態と取られ、二度目の恥となりかねないからだ。円満退位まで女東宮を護らねばならなくなる。
左大臣は返答に困り、ただ俯くしかできない。そこへ、女東宮から話がしたいのでもっと御簾近くへ寄れと侍従から伝えられた。最高位の左大臣だからこそ許される、女東宮の御簾へと、直に話をするため近寄る。
御簾と几帳の向こうで扇で顔を隠しつつ、女東宮が言う。
「左大臣殿、一年間だけ姫を私にお預けなさい。尚侍ならば私が去っても、女官として問題なく後宮に残れるはず。それも東宮付きとして。次に誰が東宮に就かれるのかは分かりませんが、側近くにお仕えすることで、東宮の妻になる機会を姫は得られるはず。帝の滝尚侍のように」
「人質として差し出せば、褒美を与えると言われるのですね。褒美を得るために、我が姫は失笑の的、針の筵に座すことになる」
「東宮妃として入内を望むほどの美貌と駆け落ちするほどの勇気で、東宮の妻の座に挑ませてはいかがか?」
前東宮はもはや生きてはいないと左大臣は考えている。となると、次期東宮は橘兵部卿の宮だ。あの宮は『駆け落ち姫』には興味を持たないが、東宮の尚侍には近付かねばならなくなる。
親の欲目を差し引いても、自分の娘は美姫である。権力と美しいものが好きな橘兵部卿の宮に気に入られる可能性は大いにある。
帝や東宮側からの申し入れで、過去にも夫を亡くした姫が尚侍になったことがある。更に寵愛を受けた例もあるのだ。
左大臣は決断を下した。
仮に姫の東宮妃が得られなくても、秘密にされている麗景殿の女御の赤子が男児ならば、橘兵部卿の宮を押し退けて、次期東宮に推薦する予定でもある。その時、姫はその赤子東宮の教育係として側仕えすれば良いのだ。それにより、左大臣家の支配力は強まる。選択肢は多い方が良い。
左大臣は、後日正式にご返答申し上げますと御簾内の高貴な方々に伝えた。辞退できない以上、尚侍出仕は決定も同然だった。
左大臣家の姫君は勇気があるはずと桔梗の君は信じ、一方的な東宮権力で、針の筵上に引きずり出すことに成功した。それは、桔梗の君が、左右の両大臣の後見を得られたことを貴族たちに示すことになった。
これにより、またもや大納言家の結婚話をつぶした桔梗の君は、橘兵部卿の宮を次期東宮と推す大納言家とますます対立することになる。




