悪役登場
長くなったので2話連続投稿です。本日の分は前話からお読み願います。すみません。
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
「それにしても、左大臣家はどうしましょう。あちらも東宮妃にと準備しておられる姫君がおられるはず。父上はいかがなされるおつもりですか? あちらの姫君が橘兵部卿の宮様とご結婚されると、父上としても対抗できなくなるのでは? 大納言家ばかりをお気にされておられますが……」
女御の心配も当然である。政治的に右大臣と近い権力を持つ左大臣家からも、もちろん反対はあるはずだった。それに、その左大臣家の姫君は、東宮妃としてそろそろ入内だと噂されているので、女御も寵愛を争う相手になるのだと、大いに気にしていたらしい。
「裏情報を掴んだのだ。成人された姫君が東宮妃に入内だと噂されているのに、左大臣はなかなか実際に動こうとしないのでな。……実は、その姫君だが、駆け落ちしたらしい」
「ええ!?」
思わず、桔梗の君は驚きの声を上げてしまった。天下の左大臣家の邸の奥深くで暮らしているはずのやんごとなき姫君が、まさかそんな絵巻物の恋物語のようなことをするなんてと、信じられない。
女御も、東宮の寵愛を争う相手と覚悟していた恋敵が、いつのまにか駆け落ちしていたことにビックリしたようだ。
桔梗の君だって、『仮東宮』の地位を姫宮自ら掴み取るなど、前代未聞の事を企てていることは忘れて驚いた。
「女御様のお文を、家人が幼馴染の陰陽師の君に渡そうとしたところ、姿が見えないと情報が入ってきてな。人伝手に探していたら、その話を家人が掴んできたのだ。左大臣はそれこそ極秘にして、姫君の行方を探していたらしい」
「まあ。でも、それがどうして白梅の君に繋がるのですか? あの方は左大臣家に縁故は深くなかったはずですが」
女御は首を傾げた。
「あの陰陽師の君は、宮中でも『失せ物探し』で評判だ。占いなのか何なのかは分からぬが……。そこで、左大臣家も姫君を探させたようだ。無事見つかったようだが、家人が噂を拾ってきたくらいだ、世間にはもう広まっている。入内は許されぬであろう。橘兵部卿の宮も、その姫を許して結婚するほどお心が広い方ではない。他に姫はおられない左大臣も私と同じ状況だ。だから女御様が男の御子をお産みあそばされた暁には、左大臣家の長男の娘との婚約を約束すれば、しばらくは黙っているであろう」
左大臣家の長男は、中納言で既に姫君が生まれている。もうこの姫の結婚などいう遠い先まで話が進められることに、桔梗の君はまたしても驚いた。貴族達の政略結婚というものに、恐ろしさまで感じた。
ともかく、女五の宮を『仮東宮』にすることを帝に進言する、と右大臣は約束して去って行った。
「姫宮様、私も陰陽師の白梅の君に東宮様を探して下さいと、ずっとお願いしておりましたの。ちっともお返事が来ないとイライラしておりましたが、左大臣家の姫君探しで都をお留守でしたのね。でも、これからは東宮様を探して下さるわ。姫君を見つけたのですもの、東宮様だってきっと見つけて下さるわ!」
「はい。それまでは、必ずや私が東宮位をお守りします。だから、女御様もお体をお大事にして下さい。大事な私の甥か姪がお生まれになるのですから」
「ええ、二人で護っていきましょう!」
二人は両手を握り合って、天下一の右大臣家の権力と、最も高貴なる血筋の力で、大事な人の守護役となることを誓い合った。
普段は守られているか弱い姫君達だが、逆に愛する人を護る力だって持っているはずなのだ。
桔梗の君は、橘兵部卿の宮を抑える効果のあると言う秘密のお文を持たされ、勇気づけられて、梨壺北舎に帰った。
後日、新東宮を決める会議が、右大臣からの思ってもみなかった提案で、大荒れになった。候補の橘兵部卿の宮を上回る、最も高貴な血筋であるとはいえ、姫宮が『仮東宮』にと推薦されたためだ。
橘兵部卿の宮に娘を嫁がせることになっている大納言とその一派が、その妙な妥協案に大反対した。だがなぜか右大臣の対抗馬であるはずの左大臣が、その案に妥協している。天下の二大権力と今東宮派の式部卿の宮が賛成したことになった。
式部卿の宮は、今東宮が失脚すると長男の桂木の宰相がその責任を問われる可能性から、同様の立場である右大臣に賛成したのだ。
右大臣の娘婿の中務の宮も義父に賛同する。帝位に遠くても、裕福に出世したばかりで今の地位に十分満足しているし、反論して義父の右大臣に睨まれると、愛妻と離婚させられて失脚しかねないので、異論は唱えなかった。
その案は左右大臣の権力の横暴のような形で、無理矢理可決された。ちなみに気の優しい帝は一年ほど待つだけだと内々に言われていたので、泣く泣く息子の立太子の遅延に応じた。実際、一年後どうなるかは不明だったが。
もちろん、決定に橘兵部卿の宮は声を荒げて反論した。姫宮が東宮位に就く必要など無いと。だが、このもっともな反論は聞き入れられなかったため、激昂した。念願の東宮位を鼻先で攫われたからだ。
会議が終わるや、その勢いのまま女五の宮の住まいである梨壺北舎に、先触れも無いまま押しかけた。どうしても、姫宮に怒りをぶちまけずにはいられなかったのだ。
「お待ち下さい、橘兵部卿の宮様! あまりにもご無礼過ぎます! こちらは最も高貴なお血筋の女五の宮様の御殿です!」
「ええい! 下がれ! 私はどうしても五の宮様に話があるのだ!」
東宮が不在になってから、五の宮に仕えるようになった若い女房達を押し退けて、橘兵部卿の宮は梨壺北舎の御簾を荒々しく掻い潜り、内廊下の廂さえも突破して、最奥の御簾の前にと勢いよく進んだ。あの奥の御簾と几帳の向こうに、女五の宮が座しているはずだった。
周囲の女房達は、鬼気迫る橘兵部卿の宮の迫力にきゃあきゃあ悲鳴を上げて伏したり、逃げ出したりした。だが、奥の御簾内では人影はあるものの、騒いでいる様子は無い。その静かな落ち着きが高貴な血筋を匂わせているようで、橘兵部卿の宮の癇に障る。
「姫宮! 親王たる私を差し置いて女東宮になるおつもりとは、一体どういう事だ!」
「落ち着かれなさいませ、橘兵部卿の宮様。仮にも五の宮様は、遠い縁とは申せ、あなた様の叔母上に当たられるお方でございます。姫宮様におかれましては、このようなご無礼、非常に残念かつご不快とのことです。これがあの優雅な宮様のなさることかと」
同じように御簾内で姫宮の取次をする松の式部の声が、橘兵部卿の宮を静かに諫める。その横の几帳の陰で扇を持って座しているであろう姫宮も、怯えている様子はない。落ち着いた静かな威厳に満ちて対峙している。
つい先日までは、直接言葉を交わしていたのに、取次役の女房を介するあたり、既に上位にいることを示していた。
「失礼致します、五の宮様、中将です! 橘兵部卿の宮様、姫宮様にご無礼です。せめて落ち着いてお座り下さい」
「少将です、ご無礼致します。宮様、さあ、こちらへ。そなた達女房も、姫宮様のお側に。お守りせよ」
後から、左大臣家の紅葉の中将と右大臣家の山吹の少将が、梨壺北舎に駆けつけてきた。閣議が終わるなり飛び出して行って、御殿で暴れそうな勢いの橘兵部卿の宮を慌てて追いかけてきたらしい。
高貴な五の宮に無礼と分かっていても、その身を守るため、招かれてもいないのに、同じく御殿の奥の姫宮が座す御簾の前までやって来た。二人で橘兵部卿の宮を挟んで座る。暴れ出したら、いつでも肩を掴んで取り押さえられるようにと、優雅に見えていても二人ともどこか身構えている。
ことに紅葉の中将は、か弱い姫宮に対する橘兵部卿の宮の無礼な態度に怒っていた。人を守るために心身を鍛えている中将は、か弱い童や女性に暴力をふるうような者が大嫌いだったからだ。
山吹の少将は右大臣家訪問で起きた東宮事件の負い目から、妹宮に申し訳なさがあった。場合によっては、姉の麗景殿の女御と共に右大臣家に住まうかもしれないと聞かされていただけに、心を込めて東宮の代わりにお護りしたいと思っていた。
驚き慄いていた女房達も、姫宮を守るように周囲に座したり、客人をもてなすように几帳や調度を整える。
「橘兵部卿の宮様、何か仰る前に、まずはこれをお読みいただきたいと姫宮様は仰せです」
橘兵部卿の宮の荒い鼻息が落ち着いた頃、松の式部が御簾の下からその側に控えていた竹の式部にそれを渡す。
竹の式部が橘兵部卿の宮の前に進み、それを手渡した。
「お文? 柊の枝葉に結ばれたお文が何か? これがどうしたと?」
「これは麗景殿の女御様より、橘兵部卿の宮様にお渡しするようにと、姫宮様がお預かりしていたもの。お読み下さい、との仰せです」
竹の式部がそう伝えると、訝し気に橘兵部卿の宮は文を開いた。
そこにはたった一言、『お元気ですか』とだけ書かれていた。疑問に思い、橘兵部卿の宮はお文を女御の弟の山吹の少将に見せる。
「ああ、これは間違いなく、麗景殿の女御様のお手蹟です。『お元気ですか』だけなんて変なお文ですね。それも柊の枝葉に結ぶなんて……。時候のご挨拶かな?」
「邪鬼の侵入を防ぎ、邪な魔を祓うのです、柊は。一年。それを伝えていただきたいと、姫宮様は女御様より承ったそうです」
「ああ、ではやはり姉上様からの時候のご挨拶なのかな? 宮様のこの一年のご健康を心配されているのかも。あるいは、東宮様の事をお頼みされているのかも」
「なぜ東宮様の事とわかるのだ?」
「あれ? 中将様はご存知ではなかったですか? 姉上様は、東宮様を『柊の君』とお呼びされていたことがあって……」
「そういえば、聞いたことが……」
のんきな紅葉の中将と山吹の少将の会話など、橘兵部卿の宮の耳には碌に聞こえていなかった。軽いはずのお文になぜか恐ろしい重圧感があったからだ。
この嫌味な『お元気ですか』と、柊の意味する内容を考えていたのだ。決して無視できない何かがあると思って。
(柊は邪鬼、邪な魔を祓う? 邪魔を祓う……。邪魔ものを消す!? 右大臣家が私の健康の心配? 暗に私を消す、殺すと脅しているのか?)
「ヒイイ! い、嫌だ! 私は死にたくない! まだ、死にたくないんだ! 元気ではない! 私は元気ではないんだ!」
いきなり甲高い悲鳴を上げて立ち上がり、顔が青冷めたかと思うや、橘兵部卿の宮は碌に挨拶もしないまま、今度は鬼に追いかけられて逃げるように、御殿を飛び出して行ってしまった。
残された紅葉の中将と山吹の少将は呆然とした。
手紙には恐ろしい事は何も書かれてはいないと思われるのだが、何故か宮は死にたくないなどと言っていた。このお文から、どんな恐ろしいことを連想したのか?
二人だけではなく、周りの女房達も、御殿に飛び込んで来た時と出て行った時で、橘兵部卿の宮のあまりの違いに驚き、動けなかった。激昂して紅かった顔が、一瞬で蒼白になっていたからだ。
その女房達によって、後日、橘兵部卿の宮は何か変なものに取り憑かれて、梨壺北舎に飛び込んでは出ていったのだと後宮中に言いふらされた。
何か変なものに取り憑かれたらしい橘兵部卿の宮は、顔を青ざめさせて健康を損ない、その後の東宮位についての閣議に参加することもできず、寝込みがちになった。病が治るまで一年ほどかかるため東宮位は無理だと、本人が病床から閣議に伝えられてきた。
女五の宮は、政務を行う帝の御殿に正式に参内した。高貴な身分に相応しく御簾の内で几帳に囲まれ、最上級の唐衣裳姿で帝の隣近くの下座に座す。
御簾の外側には左右大臣や大納言を始め、多くの貴族達が揃って待っている。ここで正式に東宮として紹介され、挨拶することになっていた。
その貴族達に聞かれないように小さな声で、正面を向いたままの帝が、命知らずな試練に立ち向かおうとする妹宮に問う。
「五の宮、死ぬ覚悟はできたのか?」
「生き残る決意はあれど、死ぬ気など毛頭ございません」
その問いには、まだ辞退に間に合うとの言葉が暗に含まれていたが、桔梗の君は恐れをおくびにも出さず、静かに答えた。
帝の末妹、女五の宮が東宮に就いた。正式には誰も口には出さないが、およそ一年間だけの『仮東宮』になったのだ。様々な命懸けの危険に見舞われる可能性がある。
兄宮もきっと戻るために戦っているだろうし、桂木の宰相もその兄宮を探しに行くと聞いた。
二人の立場を守るため、桔梗の君は、この地位を守る決意をした。
あくまでも空想小説として、いろいろお許し下さい。




