悪の企み
長くなってしまったので2話連続投稿です。すみません。
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
「五の宮、死ぬ覚悟はできたのか?」
「生き残る決意はあれど、死ぬ気など毛頭ございません」
近くの上座から兄帝が静かに問うてきたので、桔梗の君は恐れをおくびにも出さず、静かに答えた。
気分が悪くて里下がりしていた東宮妃、麗景殿の女御が後宮に戻ってきた。例え後宮の多くの者達に東宮は亡くなられたのにと思われていても、夫の東宮は生きておられると主張するために。だが、早々に夫を亡くしたのだと、誰もがこの年若い女御を憐れんだ。
御殿が落ち着いたと思われる頃、桔梗の君は女五の宮として麗景殿を病気見舞いとして訪問した。
麗景殿の奥深くの御簾内で、几帳すら横に除けて、互いに久しぶりに親しく対面する。女御は少し痩せて、顔色も良くない様子だった。
女御の側仕えの小雪以外は、人払いをしてある。兄帝から聞かされた東宮に関わる話をするためである。
「女御様。東宮様のこと、何て申し上げたら良いのか分かりません。私は兄東宮が生きていると信じております。ですが、先日、私も兄帝から直接お言葉をいただきました。お戻りになられなければ、兄東宮を廃位する事は本当でございます」
「こちらも右大臣家の力を以って、全力でお探ししておりますが、未だ手掛かりも無く……。私こそ、姫宮様に申し訳がございません。私が里下がりしたばかりに、このような事となって……」
「いえ、違います。女御様はお悪くはございません。悪戯心で遊び歩いた兄東宮様がお悪いのです。桂木の宰相様にまでお怪我をさせてしまうなんて……!」
女御や右大臣家を責めることなく、姫宮が優しく庇ってくれたのが女御には嬉しかったが、引き起こされた事件の事を思うと、扇の陰で落ち込まずにはいられない。
「残念ながら、東宮様の還御が間に合わず廃位されますと、私は右大臣邸に戻ることになります。姫宮様はいかがされるおつもりですか? 梨壺北舎にはお住まい続けるわけにもいきませんでしょう? 恐らく、新東宮様が梨壺にお住まいになられますから。……もし、よろしければ、右大臣邸にいらっしゃいませんか? 畏れ多いですが、東宮様のご縁で義理の姉妹ですもの、私の棟で共に東宮様のお戻りを待ちませんか?」
扇の陰で俯きつつも、桔梗の君は否と首を振った。
事件の責任から、血縁関係ではない義理の妹を引き取って世話すると申し出てくれた女御を桔梗の君はありがたく思ってはいる。だが、どうしても、このまま新東宮を迎えることに納得がいかない。桔梗の君は、兄東宮が生きていると信じているからだ。
同腹の妹宮である自分が梨壺北舎から出てしまうと、兄東宮が亡くなられたと認めてしまうことになる。それはすなわち、兄の命の恩人とも思っている桂木の宰相の任務失敗を認めることでもある。だから、桔梗の君は後宮から動きたくは無かった。
一体、どうしたら良いのか? どうにもできない自分を歯がゆくも思う。
「失礼致します、姫宮様、女御様」
おずおずと小雪が声を掛けてきた。どうやら御簾の外で控えていた麗景殿の女房から、小雪に知らせが入ったらしい。
「まあ、姫宮様がいらしているのに、失礼よ、小雪」
「申し訳ございません。実は、右大臣の殿がご機嫌伺いにまいられました。姫宮様にもご挨拶したいと……」
先触れもなく、突然の右大臣の訪問に女御は驚きつつも、実の父親が来たのに断るわけにもいかない。慌てて女房達が奥の御簾の前に座を用意したり、姫宮や女御の前に几帳を立て掛けたりした。
「姫宮様には、常日頃より女御様に親しくして頂き、感謝しております」
右大臣の挨拶に返答するためと、女房の一人が高貴な姫宮の取次役として、桔梗の君に身を寄せて言葉を待つ。だが、桔梗の君は構わないと言って、直接言葉を右大臣と交わすことにした。
これを機会に、天下一の権力を持つ右大臣に、今回の事、これからの事を相談したかったのだ。それには直接話をする必要があった。そっと扇を振って、女房を下がらせた。
「こちらこそ、姉妹の様に親しくしていただき、感謝しております。そのご縁もあって、実は右大臣様にご相談をしたいと思っていました。相談に乗っていただけますか?」
「……小雪、人払いだ。そなたも含め、皆を下がらせよ。話を聞かれぬように、そなたが見張れ」
右大臣の命により、サササッ! と周りを取り囲んでいた女房達が波が引くように部屋から姿を消した。
「失礼致しました、姫宮様。いかなるご相談でしょうか?」
「率直に申し上げます。私は兄東宮をお守りしたいのです。お知恵とお力をお貸しいただけませんか?」
「私に、閣議で決まった事を覆せと? これは無理難題ですな。ただ、いかに私に権力があろうと、嫌だと言って通る内容ではございません。理由が、対抗策が必要になります。姫宮様にそれがご用意できますか?」
世間に疎い姫宮を笑って誤魔化すのではなく、真っすぐな態度で右大臣は答える。だが、桔梗の君も言い出した以上、簡単に引くわけにはいかない。姫宮の我儘や幼い意地で言っている訳ではないからだ。
「兄東宮様は亡くなられたわけではございません。その証拠となるご遺体が無いではありませんか。だから、お帰りになられるまで、もう少し待っていただきたいのです。一月では短すぎるのです」
「お気持ちは分かります。ですが、東宮としての御役目が果たせない所が問題なのです」
右大臣の冷たくもきっぱりとした物言いに、桔梗の君は無力な自分に悔しく唇を噛む。
何か手立てがないかと必死に考える。兄東宮ならどうしただろうかと。兄宮は、東宮位を橘の宮と争った時、どうやったのか。
「父上、姫宮様にもう少しお優しくして下さい。東宮様のためにと必死なのです。姫宮様、もしもの時は、私と右大臣邸に参り、そこで一緒に東宮様をお待ちしましょう。東宮様もそれをお望みになられるはず。父上、それはお許しいただけませんか?」
「そういう事であれば、もちろん歓迎致します。実は、東宮様の私有財産も十分にございます故、私が姫宮様のために責任を持って管理致します。これからもお暮しに不安はございません。右大臣家に女御様と御越し下さい」
桔梗の君はまだ必死で考えていた。『必死』とは、死ぬ覚悟で全力を尽くすこと。字は必ず死ぬとも書くが……。自分が死ぬ覚悟があればできるだろうかと、とある事を思いついた。
兄宮が争った東宮位。実はその時、東宮様は今の兄帝ではなかった。兄宮が幼い頃から、その東宮位争いが激しくどうしても決まらなかったため、兄宮と橘の宮様が成人するまで、仮というか代理に近い形で縁戚のある宮様が一時的に東宮位に就いていた。その宮様は、当時御年75歳の老人だった。
かつては宮中で禿げた頭が輝くほど眩しいと、『眩しい月の宮』と密かに親しみ深く呼ばれておられた尊いお方である。いつ死んでもいい、殺したいならば殺せ、が口癖の豪胆な人柄だったとか。兄宮が東宮に決まって無事に退位後、今は出家されて『月梅院』と名乗られている。
そう、正式に東宮位に就いておられながら、その宮様は『仮東宮』扱いの方だった。もう一度それを! 桔梗の君が『仮東宮』となって、兄宮が戻るまでその地位を守るのだ。もう少しの間だけでも。
「右大臣様、策を思いつきました。かつて月梅院』様がされていたように、私を『仮東宮』にしていただけませんか? 兄東宮が戻られるまで! それが無理なら、一年、いえ、半年でも良いのです。私は時間を稼ぎたいのです! それでもお戻りになられないのなら、私も諦めますから!」
桔梗の君の唐突な言葉に、右大臣と女御が揃って扇の陰であんぐりと口を開けて驚いた。
「これはまた、突然なお申し出ですな。その奇策で時間稼ぎしたいのは分かります。以前、私と左大臣で実行した策ですから。しかし、姫宮様を『仮東宮』に推薦する理由がございません。おそらく次の東宮には橘兵部卿の宮様が推薦されます。いくら姫宮様が一番高貴なお血筋であろうとも、橘の宮様の母上の身分が低かろうと、帝のご子息です。ご幼少時に比べ、今はだいぶお丈夫になられました。親王を退けて東宮位に就くのは容易ではありません!」
右大臣が桔梗の君の奇策に反論するが、策そのものを否定した訳ではない事に桔梗の君は気付いた。だが、反論は宮中の貴族達が口にするであろうもっともな内容だった。逆に言えば、ここを無理矢理にでも論破できれば奇策が通る可能性がある。
「ならば、父上、橘の宮にご遠慮いただきましょう。あと一年、我慢せよと」
「女御様? そんなことできるのですか!」
扇の陰で女御がニヤリと笑う。
「後で、姫宮様に秘密のお文をお渡しします。それを橘の宮様にお渡しいただき、あと一年と言っていただければ、そのようにされますわ。その際、麗景殿の女御からのお文と言って下さい。……それと、父上、ご報告致します。実は私、懐妊しました。どうもそのせいで気分が不安定だったようなのです。ご心配をおかけしました」
「なんと!」
「まあ、おめでとうございます、女御様! 私の甥か姪が生まれますのね! 家族が増えるのだわ!」
嬉しさのあまり、桔梗の君は女御の手をとって喜んだ。
文遣いの桔梗の君として、牛車で密かに琵琶を弾いて兄夫婦のいちゃつきを盛り上げた甲斐があるというものだ。あの時にはもう妊娠していたのだろう。家族の歓迎用に琵琶を弾いたと思えば、あの時の辛さも吹き飛ぶような気がした。
「ですから、父上、この子のためにも東宮位をお守り下さい。我が家から未来の帝を出すためにも!」
思わぬ女御からの援護で、桔梗の君に光明が見えた気がした。ここで右大臣家が後押ししてくれれば、兄宮のために『仮東宮』になれる気がする。
もうひと押しだった。兄宮を思い出し、今度は右大臣家の弱点を突く。
「それに、右大臣家も新東宮が立たれては困るのでしょう? だって、もう右大臣家には、新東宮様に入内する姫君がおられませんもの。こちらにおられる麗景殿の女御様が末姫様のはず。他の姫君様の御子は入内するほどの年齢にはなられておりませんね」
「よく気が付かれましたな。しかし、奇策というなら、私の二の姫の婿、中務の宮を東宮に推薦してもよいはず」
「兄帝とそうお年が変わらないお方のはず。橘の宮様を抑えられるのですか? 帝にはならないであろう、姫宮の『仮東宮』なら妥協されても、ご子息を可愛がる兄帝が、絶対に納得されませんわ。最終的な許可を出すのは兄帝です。兄帝と貴族達の間で、またもや決着がつきませんよ」
桔梗の君が精一杯の威厳を込めて御簾内から睨みつけると、右大臣は小さく笑って肩の力を抜いた。
「試しただけですよ、姫宮様。そうです、中務の宮は東宮にはなれないでしょう。今東宮様が御位に就くことができたのも、橘兵部卿の宮様が自ら招いた失態による隙を、上手く突いただけですから。今度はこちらの隙を突かれただけの事、我が家もその責をいつ咎められるか分かりません。……良いでしょう、女御様の御子のためにも『仮東宮』になっていただきます」
ただし、と右大臣は御簾内で喜びに湧く姫宮を厳しい眼差しで見つめ、言葉を繋げた。
「まさしくお命懸けの『仮東宮』位になりますぞ。決して安泰にはなりません。おそらく橘兵部卿の宮様の後見には、すぐにでも姫君と結婚させることで正式に大納言家がつきます。何としても姫君を東宮妃にしたがっていますからな。邪魔な仮東宮を消すため、弘徽殿の女御様がされたように毒が盛られるかもしれません」
その弘徽殿の女御に盛られた毒を自分が食べたことを桔梗の君は思い出した。ぞっとする。
「姫宮のお文遣いの童のように攫われるやもしれません」
それも桔梗の君、自分自身だった。あの折の身体の打ち身と足の怪我は痛かった。それを堪えて右大臣家のために琵琶を弾いたのだ。百合姫と。
「失礼ながら、梨壺北舎に不審者が侵入し、身代わりの童が襲われたように、今度は姫宮が襲われるかもしれません」
既に、おかげさまでいろいろ体験済みだったわ、と桔梗の君は思わず遠い目をしてしまう。
いずれも桂木の宰相や百合姫が助けてくれた。だがもう、これからは参内できない桂木の宰相やその妹君の百合姫の助けは期待してはならない。
桔梗の君は兄宮とその兄を庇って責を問われている桂木の宰相のため、命懸けで全力を尽くすことを決意した。何としてもこの愛しい大事な人々を護ってみせるのだと。今度は、自分を盾にして。
あくまでも空想小説ですので、いろいろお許し下さい。




