覚醒
シリアスです!
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
キイン! ガキン! と敵味方交えて大人数が太刀をぶつけ合う中、桂木の宰相も東宮と共に太刀を振りつつ、馬へと向かう。
参内するために身に着けていた武官用束帯の幅広い袍袖が戦うのに邪魔だと、太刀を振るいながら桂木の宰相は思った。実際に戦う武士などとは異なり、元々激しい戦いに適しているは言えない。
敵は動き易いように袖などもスッキリと絞ってあり、移動にも逃れるのにも目立たない土色の着物を身に着けている。その衣の色から、夜ではなく昼に襲う計画だったのが伺える。
途中、襲撃者の何人かが味方の守護の壁を掻い潜って襲ってくる。文武両道と名高い東宮も見事に敵を太刀で薙ぎ払うが、とにかく敵の数が多い。こちらの警護の数を上回り、三十人はいるようだ。
口の堅い者を選んだはずなのに、どこからか東宮のお忍び計画が漏れていた可能性が高い。
牛車の側にいるはずの警護の者の馬が、これほど遠くに感じたことは無い。桂木の宰相の焦りは高まるばかりだ。とにかく馬を一頭でも確保出来れば、馬が得意の東宮なら、直衣姿で動きにくくても、一人でも逃げられるはずだった。
桂木の宰相は何とか一頭の馬の轡を捕らえ、東宮を騎乗させた。ひらりと滑らかに馬に乗る姿は、さすが馬好きだ。
「このまま、お逃げ下さい! あなた様なら、追手を撒いて駆けてゆけるはずです!」
「そなたは? ……危ない! 後ろ!」
桂木の宰相が振り向くや、数本の矢が飛んできた。太刀を振るって落とそうとしたが、一本が左肩を抉るようにかすめた。
「宰相!」
「お逃げ下さい! 早く!」
家臣を見捨てることができずにいる東宮のため、桂木の宰相は馬の尻を殴りつけた。途端に馬がまさしく弾かれたように駆け出す。
その東宮を追いかけようとした敵に桂木の宰相は立ち向かったが、一度に二人の相手はきつかった。一人を力づくで打ち払ったところに、もう一人が切りかかって来たのだ。
ズキズキする左肩の痛みから、太刀で受け構えることも出来ないまま、相手の太刀が上から振り下ろされる。
(死んでしまうのか、私は? また会ってほしいと言ったのは自分だったのに。怯えさせてしまったのが最後なのか?)
咄嗟に一歩大きく後ろに下がった時、身体の正面に鈍く光る刃が走った。
焼けつくような痛みと共に、己の身体が地面へと崩れ落ちたのを桂木の宰相は感じた。
ゆさゆさと、誰かが桔梗の君の身体を揺さぶる。昨夜のあの人は温かい手で優しく撫でてくれたのに、なぜこんなに荒々しくするのかと、桔梗の君は不思議にも不快にも思った。
焦る山吹の少将にえいっ! と抱き起されて、桔梗の君はくらくらしたが、おかげで目が覚めた。
そうだった、兄東宮が行方不明になり、あの桂木の宰相が血だらけになって倒れていたと聞いて、気が遠くなってしまったのだと、ようやく桔梗の君は気付いた。すぐさま気を失う前の記憶が蘇った。
「姉上様! 私達は急ぎ御所に参内します。どうか、お体を大事にして下さい。小雪、頼んだよ!」
桔梗の君の様子を確かめるや、御簾内の麗景殿の女御に対し、山吹の少将が礼をとる。
その声に応えるように、几帳の陰、弱々しい風情で女御が側仕えの女房の小雪に支えらて身じろぎし、小さく呟いた。どうやら、こちらも気が付いたようだった。それでもまだ小雪に肩を抱かれるように支えられているようだった。
「私のことは気にしないでよいから、急いで御所へ行って! そして東宮様をお探しして! 早く!」
「分かりました。失礼します! 行くよ、桔梗の君、君も急ぎ女五の宮様のお側に戻った方がいい! ついておいで!」
東宮を心配する女御に急かされ、その悲しみに満ちた声に背を押されるように、桔梗の君は進む山吹の少将と共に簀子の先を小走りした。
いつもなら、例え童でも高貴なこの右大臣邸では許されない無礼な行為だが、今はそんな事を気にしている時ではなく、誰も咎めない。それだけ邸中が動揺していた。
流石、金に飽かせて優秀な家人を抱えている右大臣家、手際よく牛車が準備されている。家人の手伝いも間に合わないほどの速さで、二人して慌てて後ろから牛車の中へと駆け乗り込むと、すぐさまゴトゴト出発した。
何もできない自分が歯がゆくて、桔梗の君は唇をかむ。涙が出てきそうになった。
しばらく車内に不安から沈黙が続いたが、桔梗の君は牛車が不自然に小刻みに揺れているような気がした。
「ぼ、僕のせいだ……」
「山吹の少将様? どうされました? ご気分でもお悪いのですか?」
見ると、山吹の少将は、先程の勢いが消えて顔面蒼白になってガタガタ震えていた。「私」から成人の儀の前の「僕」に言葉遣いが変わってしまっているくらい動揺している。
「本当は、東宮様を御所にお送りする役目は、僕のはずだったんだ。狙われたのは、東宮様と僕だったのかもしれない! 右大臣家が周りの貴族から妬まれているのは分かっているんだ!」
「そんな事ありません! 東宮様はたまたま襲われたんです! そして、偶然にも桂木の宰相様が警護の御役目だっただけです! ご自分を責めないで下さい!」
「だって、早朝に右大臣家から出立したあの牛車は、誰が乗っているか分からないよう、式部卿の宮家の家紋は隠していたんだ。だとしたら、右大臣家のものと誰もが思うじゃないか!」
「誰が乗っているのか分からないなら、山吹の少将様が乗っているかも分からないじゃないですか。そうでしょう? それより、今こそ、右大臣様も、女御様方も、少将様を頼りになさっておられるはずです(しっかりして!)」
扇を固く握りしめる山吹の少将の右手を桔梗の君は両手でそっと覆う。それにより、それぞれの恐怖と不安な気持ちを分け合い、互いの温かさで慰め合う。
桔梗の君の手は小さくて華奢なのに、その掌から癒しや勇気のような大きな力が、山吹の少将に伝わってきたような気がした。
「わ、分かったよ。僕にできることをしなければ! 東宮様や宰相様のためにも! そう、思わなければ辛くてたまらない!」
「私もです! 私も、東宮様や桂木の宰相様のために何かしたいです! 何でも仰って下さい」
「……ありがとう。君に特別な力を分けてもらった気がするよ! 一緒に、後宮へ急ごう!」
桔梗の君が本当に行きたいのは、親しい人々のいない空っぽの後宮ではなく、怪我した桂木の宰相の側だ。
鳥の様に飛んで行って看病したいが、兄東宮が行方不明の今、女五の宮までもが不在と知られる訳にはいかない。帝やその周りの貴族たちに不審に思われてしまい、その悪意が東宮の政治上の不利に繋がりかねないからだ。
後宮へ着くや、山吹の少将は姉の弘徽殿の女御の様子を確かめるために弘徽殿へ、桔梗の君は自分の梨壺北舎に急ぎ戻った。途中、東宮の住まいである梨壺の前を通った時、仕える女房達の泣き声がしていた。
きっと、梨壺北舎でも年寄り女房二人が怯えて泣いているに違いないと、桔梗の君は思った。
「ああ、良かった! 姫宮様はご無事だったのですね! この年寄りは、寿命が縮む思いでした!」
「よもや、東宮様の牛車で、ご一緒に災難に遭われたのではないかと! 文遣いの童など、誰も知らないと言っていて!」
「戻るのが遅くなってごめんなさい。それで、兄宮様、東宮様は?」
案の定、松竹の式部は、目を赤く腫らして泣きながら、桔梗の君を迎え入れてくれた。
帝からの呼び出しなどがいつあっても良いようにと、桔梗の君は二人に姫宮の袿姿に急ぎ着替えさせられた。
奥の御簾内、几帳の陰にまずは落ち着く。これでようやっと、ずっと聞きたいことを尋ねられる状態になった。
松竹の式部が集めた家人達の話によると、御所への帰りの途中、空が明るくなったと思ったら、待ち構えていた一団に襲われたらしい。警護の者も太刀で応戦したが、不利と判断した桂木の宰相が、東宮を警護の者の馬にお乗せして一人逃がした。その時、矢で狙われた東宮を宰相が、身を以って盾となって庇ったために代わりに矢を受け、更に正面から太刀で切られてしまったらしい。
次第に興奮してきた二人は、身振り手振りを交えて、夢中で語った。太刀で切られて、の所で桔梗の君はハッ! と息を飲み、恐ろしさに袿の袖で顔を覆ってしまう。桂木の宰相が切られる様子を思わず想像してしまったのだ。
「桂木の宰相様も東宮様も、きっとご無事よね?」
「勿論ですとも! 東宮様はお強いですし、馬もお得意で、昔からよく乗られていましたから。きっとそろそろお帰りになられますよ」
「それで、あの、桂木の宰相様はどんな様子なの? 太刀で切られたって……」
兄東宮の行方も心配だが、桂木の宰相の怪我がどれくらい重症なのかが分からず、桔梗の君は不安でたまらなかった。先程、山吹の少将が牛車の中でしていたように、片手は扇を握りしめ、もう一方は膝の袴布を握りしめてしまう。
ほんの今朝、夜明け前の仄かな明かりの中、二人で寝乱れた姿で抱き合って(抱かれて?)寝床にいたのが夢のように思える。
袷がはだけて見えた男の肌に、初めて感じた赤面するほど恥ずかしい何か。そして別れ際の辛そうな桂木の宰相の表情が思い出された。
泣いてしまった桔梗の君を覆うように温かく包み込んで宥めてくれていた、あの桂木の宰相が今は傷に苦しんでいる。側に付いて、自ら看病したいと何度も思わずにはいられない。
「姫宮様、ご心配は分かりますが、あちらも大丈夫ですよ。矢はお着物には刺さりましたが、お体には刺さらず、かすっただけのようです。太刀傷も、結構血は流れましたが、咄嗟に上手く身を引いて躱したらしく、命に関わるような重症ではないと。助けに駆けつけた警護の者と話はできたそうです」
「東宮様をお守りせよ、と言い続けられたとか。そのご本人の指示で、お父上の式部卿の宮邸へ帰られて、手当てを受けておられるそうです。血だらけなんて、噂が派手になっただけですよ、きっと」
「そ、そうよね。でも、あなた達……。まるでその場にいて、一部始終を見ていたかのように詳しいのね。いつもどうやってその情報を得るの?」
訝しむ桔梗の君に、二人は視線を交わした後、袖で口元を隠しつつ思わせぶりに、秘密ですと言う。桔梗の君にとって後宮の謎の一つだった。
狭い梨壺北舎に籠っているはずなのに、この老女房達の情報はいつもかなり詳しく結構正しい。それを頼みに、心の中で桔梗の君は東宮の無事と桂木の宰相の快癒を祈った。
その日中に大規模な東宮捜索隊が結成され、事件現場から方々へと捜索輪が広がっていったが、東宮の姿は一向に見つからない。馬は川のそばで野放しにされていたのが発見されたが、乗り手はその付近にはいなかった。
直ぐに御所に戻られるであろうと期待されていた東宮は、結局戻って来なかった。
これはおそらく、追われて逃げる途中で川に落ちてしまったか、盗賊に追いつかれて攫われてしまったのだろうと思われた。しかし、その盗賊からの要求も何も御所に伝えられては来ない。あっという間に事件から二十日が過ぎてしまった。
心配のあまりいてもたってもいられず、文遣いの姿で探しに行きたい衝動を、政治上の問題が起こる可能性から桔梗の君は抑えた。代わりに捜索に当たっている紅葉の中将を梨壺北舎に密かに招いた。兄東宮を心配する姫宮たっての願いとして。
普段の来客に案内する簀子ではなく、身内やごく親しい者だけが許される御殿最奥の御簾の前に紅葉の中将を招き、松の式部の取り次ぎで話を進める。もちろん高貴な姫宮として、幾重にも几帳が並べられて姿が見られないようになっているし、竹の式部も側に控えている。
捜索の進展を早く聞きたくて、御殿の奥に特別に招いたのだった。この目の前の几帳も御簾も取り除いて、直に詳細を問いたい気持ちを桔梗の君は抑えた。
「お忙しい中、よくお越し下さいました、紅葉の中将様。連日の兄東宮様の捜索、感謝しております、と姫宮様は仰せです」
「胸を張ってお答えできるものが無い状況に、申し訳なさでいっぱいでございます」
「では、東宮様は?」
「事件時、夜が明けたばかりの頃だったため、お姿を見かけた者すら見つからず、状況は思わしくございません。馬が川近くで見つかったこともあり、川下も探しておりますが……」
悲壮感を紅葉の中将が漂わせているのを几帳越しに感じ、桔梗の君も少しずつ心に絶望感が増してくるような気がした。もしや、まさか! と心に湧き上がる声を必死に打ち消す。広げた扇の陰で涙ぐむのを桔梗の君は堪えた。
「東宮様を庇って負傷された桂木の宰相様についても、姫宮様はご心配されておられます。噂では起き上がられる程、お元気になられているとか。いつ頃、参内するのかと姫宮は尋ねておいでです。事件の詳しいお話をお聞きになりたいそうです」
「畏れ多くも姫宮様にお手配いただきました薬師により、回復が進んでおります。親友に代わり礼を申し上げます、ありがとうございました。宰相も深く感謝しております。先日、見舞いに訪問した時は、座っていられるようになっておりました。ただ、参内は……。実は、桂木の宰相は、東宮様襲撃事件の責から、自ら謹慎しております。すべての責任が彼にあるわけではないのですが……。責任感の強い男なので……」
親友の謹慎に、紅葉の中将も落ち込んでいるようだった。
ふと、桔梗の君は不思議に思った。憧れの紅葉の中将がこうして自分の梨壺北舎に来てくれて、女房に囲まれているとはいえ、二人で会えているのにちっとも胸がときめかない。今では、桂木の宰相が心配で、一目でもあの優しい人に会いたい、話したいという気持ちでいっぱいになっていた。大丈夫だ、とあの低めの素敵な声で安心させてほしいのだ。心細い夜の道を明るく照らす月光の様に。
「実は、私も姫宮様に、申し上げねばならない事がございます。東宮様のお姿が消えてから既に二十日。あと十日お探しして見つからぬ時は、亡くなられた事として、捜索を打ち切ることが会議で決まったのです」
「そんな! 兄東宮は亡くなられたわけではありません! もっとお探し下さい! きっと助けを待っているのです!」
思わず、桔梗の君は動揺のあまり、取り次ぎ無しで話しかけてしまった。
「申し訳ございません! 一月以上も東宮不在は問題あり、と申す貴族が増えてきまして。東宮の御位はどなたか相応しい方に継いでいただくべきだという意見が出ているのです。それ故、東宮捜索期限があと十日となりました。勿論十日過ぎても、私共は捜索を続けます! ですが……!」
衝撃のあまり、桔梗の君は頭の中が真っ白になった。その後、何と話が続いたのか分からない。おそらく、側仕えの松の式部か竹の式部が適当に対応してくれたのだと思う。いつの間にか、紅葉の中将は御殿から退出していた。
何という事だろう。十日過ぎて見つからねば、兄は東宮ではなくなってしまうのだ。念願の東宮となり、あんなにも政務に励んでいたというのに。それに妻の麗景殿の女御はどうなってしまうのか、と桔梗の君は貴族社会の冷たさ激しさをまざまざ感じた。
状況を飲み込むや、桔梗の君は急ぎ文の用意をするように言いつけた。サラサラと、兄帝に会ってご相談したいと願い文を書き、急ぎ届けさせた。すると、ちょうど帝からも話があると返事が得られた。おそらく、会議で決まった東宮捜索期間について、末の妹宮を哀れに思って話そうとしているのだろう。
優柔不断なところのある兄帝だが、本当はとてもお優しいのを桔梗の君は知っていた。
事件が起きた後、後宮にいながらほとんど顔を会せたことのない妹宮のことも手紙で労わってくれていたのだ。可哀想な妹宮よ、心細いであろう、希望があれば何なりと言うが良いと。
だから、心細がっているであろう妹宮の対面希望にすぐさま応えてくれたのだ。
すぐさま、帝との対面に相応しい唐衣裳姿になり、扇で顔を隠すようにしつつ後宮をしずしずと歩み進む。その桔梗の君の姿を松竹の両式部が几帳を持って囲むことで隠す。
帝との対面のためか、珍しく兄東宮に仕えていた若女房が何人か付き従ってきたことで、最も高貴な血筋の姫宮の一行らしい集団になった。先々で、女五の宮の一行と気付いた女官達が身を伏して礼をする。
「あら、そこにおられるのは『忘れられた姫宮』様ではなくて?」
帝の御殿の近くで、無礼にも声を掛けてきたのは、言わずとも知れた帝の女三の宮だった。自分が上位になったかのような得意気な声だった。兄東宮行方不明を労わるための声掛けではないのがありありだった。
仮にも高貴な姫宮同士でありながら、あまりの無礼さに周囲のお付き女房達も驚きの表情だ。
桔梗の君もこの無礼な姪宮に負けまいと、胸を張り扇の陰から睨みつけた。
「ご機嫌いかがではなく、相変らずご機嫌良さそうですね、三の宮。叔母宮に対する礼儀も忘れるくらい、浮かれているようね」
「無礼なのはあなた様ではなくて? 浮かれているのではなくて、忙しいのです。私はあなた様とは違って引く手数多の身ですの。今も父帝に、桂木の宰相との縁談のお断りを申し上げてきましたの。東宮警護に失敗した者では、私には相応しくありませんから」
この東宮行方不明の時に、自分の縁談話にばかり夢中になっている三の宮の愚かしさもだが、何より桂木の宰相を「失敗した者」などと言ったことに、桔梗の君は激しい怒りを覚えた。
あの人は命懸けで兄東宮を庇ったと言うのに!
「童女でもあるまいに、言葉の選び方も未だ分からぬとは困った姪宮ね。桂木の宰相様は東宮様、そなたの叔父をその身を以って庇われたお方。もう少し、よくお考えになられては? 叔母宮としては、恥ずかしいばかりです」
一族の序列上、叔母である桔梗の君の方が上なのを匂わせつつ、扇の陰でわざとらしく呆れた様子で桔梗の君はため息をついた。
「ふん! なによ! そうやって偉ぶっていられるのも今のうちだわ。あと十日で今東宮様が亡くなられた事が明言されるのよ!」
「いくら何でもご無礼ですぞ、三の宮様! 畏れ多くも東宮様について、そのような!」
桔梗の君の代わりに竹の式部が諫めようとするが、三の宮は止まらない。得意気なままだ。東宮についてのあまりにも無礼な物言いに対し、さすがに周囲の女房達も驚く。
男の色気に溢れた美形の東宮は、後宮中の女房・女官に人気があり、それは三の宮の側仕えの女房達も例外ではなかったからだ。あの無意識の流し目に心を射貫かれた女房は数知れない。
慌てて馬鹿な事を言い出した主の三の宮を女房達が止めようとするが、扇を振って下がっていろと指示された。
「亡くなられた今東宮様の後は、私の兄、橘兵部卿の宮が東宮位に就かれるの。父帝のご子息ですもの! そうしたら私は帝の娘で東宮の妹宮で、今以上に敬われるわ。あなたは元の『忘れられた姫宮』に戻るの。もう誰もあなたをちやほやしなくなるわ!」
バシン! と桔梗の君は扇を強く自分の手に打ち付けて、これ以上無い程、大きな音を立てた。非常に不快である、という表れである。
「無礼者、控えよ」
身の内に力を込めて、怒鳴るではなく、物静かな凛とした声で桔梗の君は命じた。
ザザッ! とその場にいた三の宮以外の女房全員が、一斉に身を伏せて礼をとった。三の宮の女房達までもが従った。桔梗の君から発せられた力強くも高貴な威厳に、全員が驚き従ってしまったのだ。
「その迂闊な口を閉じなさい、三の宮。畏れ多くも東宮様に対し、不敬である」
「な、何よ……」
三の宮の声に勢いが無くなった。これまで、自分と同じだと思っていた女五の宮だったのに、今、五の宮からあふれ出る高貴な気品と迫力は以前より強いものになっており、その力に気圧されてしまったのだ。
扇越しに見える眼差しの強さ、声に滲む威厳が段違いだ。静かな語り口が、あの前斎宮の伯母宮を彷彿させ、恐ろしささえ加わったのだ。
ツイッ! と桔梗の君は前に進み出ると、畳んだ扇の先端を三の宮の鼻先の間近くへ真っすぐに差し向ける。
「下がれ!」
桔梗の君の扇が三の宮の鼻先をかすめるように、勢いよく振られた。まるで扇ではたかれたかのように、三の宮は咄嗟に怯えて身を竦めた。
五の宮の激昂に女房達は慌て、無理矢理ひきずるように、三の宮を桔梗の君の前から連れ出して姿を消した。
怒りのあまり、弘徽殿の女御の威厳ある態度と、前斎宮の姉宮の物言いが桔梗の君から湧き上がっていた。
単なる真似ではなく、御殿から飛び出して人々に交わっことで、桔梗の君は学んだのかもしれない。子猫を可愛がるように甘やかされていた頃の桔梗の君にはとても出来ない事だった。
変な事だが、三の宮のおかげで、帝に会う際の心構えも出来た気がした。兄東宮について、これから何を言われても動揺せずにいられそうだった。




