甘くて怖い
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
ほかほか温かい何かが優しく自分を包んでいてくれていたのを、桔梗の君は感じていた。だが、秋の夜の冷気が浸み込んだ褥に寝かされるや、その温かい何かが離れて行こうとしている。とっさに両腕を伸ばし縋りついた。
「いや、離れないで、寒いんです」
「おやおや、いけないよ、桔梗の君。私だって可愛い夜の花の君を手放すのが辛いのに……」
呆れたような困ったような声がしたが、桔梗の君にはよく聞き取れなかった。だが、秋の冷気から護るように、大きな胸に抱かれて包み込まれた。温もりと顔を寄せた着物から漂う慣れた香りに安心して、ホウっと息を零した。
「眠ったまま無邪気に誘惑するなんて、困った姫だ。でも、手を出したら泣くのだろう? 私はいつまで我慢すればいいのかな?」
可愛い愛しい娘をその抱きながらも、手を出せずにいる辛さに耐えながら、桂木の宰相は褥でくーすか眠る桔梗の君の隣に横たわった。このまま共に眠ってしまうことにする。
手燭を持って客人用の部屋に案内する右大臣家の女房に、この文遣いの童は自分と同室で構わないと桂木の宰相は言った。一瞬びっくりしたようだったが、宮家所縁の少年なんだと説明しておいた。親類なのね、と半分納得したようだった(半分はそういう嗜好では? と疑っているのだろう)。
成人前の少年姿の桔梗の君では、右大臣家の女房の部屋に寝かせることはできない。可愛い少女を男の家人の部屋に寝かせるなど論外だ。ならば、自分と一緒に寝るしかないと己に言い訳した。自分が守るのだと。因みに、どこかに一人で寝かせる案などは考えもしなかった。
上掛けの下、少女の背に護り覆うように伸ばした手から感じるのは、細身で華奢な感じだ。腰も思った以上に細い。とある親しい友人である姫に比べて、この少女は、女性特有の豊かさにやや欠ける。だが、そこが包み込むように守ってやりたいと言う、桂木の宰相の庇護欲をそそるのだ。
今持ち上がっている姫宮達との縁談を考え、桔梗の君からは離れなければならないと桂木の宰相は心に決めていたはずだった。だが、どうしても離れられない己に今日気付かされてしまったのだ。
かねてからの命令に従い、帝の女三の宮へ箏の指導をしていた時だった。やんごとなき姫宮に無礼にならないよう、離れた簀子から御簾越し几帳越しに、姫宮に言葉を掛けた。
そこはもっとゆっくりと。もう少し軽く、強く。素晴らしい音でございます、と三の宮が奏でる箏の楽について指導をした。
だが、心の中では、もしこれが桔梗の君相手ならば、視線を笑みを交わすだけで楽の拍子と重ねが合うのにと思ってしまった。
細くもか弱い姿なのに、明るく頑張り屋で、所作にどこか高貴な上品さがある。日焼けすら碌にしたことのない色白でしっとりした肌に、上等な織物の衣装を当たり前のように身に着け、琵琶を奏する。
身分が低いにしても、相当裕福な育ちであることが滲み出ている。この不思議な少女に興味を持たずにはいられない。
二人でする合奏について話がしたくなって、指導後に梨壺北舎に行ってみると、文遣いの童が右大臣家から帰って来ないと年寄り女房が騒いでいた。ならば自分が確かめて身柄を保護しようと言うと、老女房二人は深く頭を下げて桂木の宰相にそれを頼んだ。大事な童なのだと言って。
共に暮らす梨壺北舎の女房なのだから、桔梗の君の性別も知っているはずである(何故止めさせないのかは謎だが)。性別を隠して後宮から出かけているので、酷く心配しているのだろうと桂木の宰相は推察した。
桔梗の君のことを気に懸けながら、東宮に命令されていたように、口の堅い警護の交代要員を引き連れ、右大臣邸の周囲で迷惑な夜遊びをしている東宮の警護に向かった。
先行して右大臣邸に桔梗の君について問い合わせを出したが、邸にはいないと言う。嫌な予感に牛車で駆け付けてみれば、山吹の少将が狭い牛車の中で二人きりになって、桔梗の君を抱き締めている。その姿に独占欲と庇護欲が刺激され、思わず山吹の少将を殴りつけたくなってしまった。
今やっと可愛い少女を独り占めできて、怒りが甘い欲に変わった。もう手放せない。ずっと自分だけのものにしたくなった。
胸に頬を摺り寄せて、桔梗の君がむにゃむにゃと寝言を呟いた。秋の冷気に震えているのかと思い、更にしっかり抱き寄せ、少女の甘い香りに耐える。
二人は身を寄せ合い、上掛けと温もりを分け合った。眠りに落ちる。
(う~ん、温かい。背中が温かいのだけれども、動けない! なぜ?)
体が縛りつけられているような窮屈さから、桔梗の君は目が覚めた。
夜が明けきる前なのか、部屋は仄かに薄暗い。鈴虫すら眠っているのか、庭も邸もしんと静まり返っている。その庭や簀子から室内を遮るように格子や御簾は降ろされているが、秋の冷気が漂う。寝所を囲む見慣れぬ柄の几帳は、冷気を遮ってはいないようだった。
ぼんやりとした頭でよく周囲を見てみると、桔梗の君は背後から誰かに片腕を回され、抱きしめられているような姿勢だった。どう見ても女性の、松竹の式部の細腕ではない。
もう童女ではないので、女房に添い寝してもらう歳ではないはずだった。
ひょっとして! まさか! の思いで体がこわばる。背後にいるのが誰なのか、と思うと恐ろしくてとても振り向けない。
「おはよう、桔梗の君。……二人で過ごす夜はあっという間に過ぎてしまうね」
「!!」
背後から耳元に囁かれた麗しき低い声に、桔梗の君の背筋にゾワッ! と震えが走った。慌てて振り向く。
「か、桂木の宰相様!? ど、どうして私の寝所に?」
「ここは右大臣邸だよ。覚えてないか? 私に抱かれて眠りたいといったのはあなたなのに」
「(右大臣邸なのは)思い出しました!(抱かれてたのは)知りません!」
耳元でクスクス笑いがした。すると、見かけよりも力強い腕でぐいっと向き直され、寝乱れて袂がはだけた桂木の宰相の胸にギュッと更に抱き寄せられる。
(ひえ~! 宰相様の胸が見えて~!)
胸元がはだけて乱れた姿の桂木の宰相は、妖のように人を惑わす色気に満ちている。兄東宮にすら碌に触れた事のない姫宮にとって、この男の色気は恐ろしくも感じた。
「いったいどちらなのかな、夜の桔梗の姫君? ……思い出させてあげた方が良いようだ。昨夜はあんなにも私に可愛く縋ってねだってくれたのに。思い出の夜を忘れるなんて、酷い姫君だ」
「や、止めて……」
ゴソゴソと袴の腰ひもがいじられる。眠っている間に脱がされたのであろう。上衣の狩衣は身に着けていないので、この袴を脱がされたら、内着の小袖だけになってしまう。薄暗闇の中、殿方に衣を脱がされる恐怖に桔梗の君はガタガタ震え出した。
目覚めて、何故こうなったのかさっぱり分からず、桔梗の君は怯えた。
いくら信頼している桂木の宰相と言えども、突然の事過ぎて、ただ恐ろしさしか感じない。手で桂木の宰相の肩や腕を押し退けようとしても、身体の大きさや腕の太さの違いから全く敵わない。
咄嗟に、桔梗の君は助けを求めて叫んだ。恐ろしい危機から、何度も自分を助けてくれた人の名を。
「ゆ、百合姫様! 助けて! 百合姫様!」
ピタリと桂木の宰相の手の動きが止まった。
「ここで、その名を呼ぶんだ。……ああ、済まない。こんなに怖がらせてしまうなんて……。私が悪かった」
「百合姫様、百合姫様……。うえ~ん」
「本当に済まない。もう何もしない。……私は行くよ、だからここで泣かないでくれ」
先程の激しい迫るような熱意の気配が消え、いつもの優しさが桂木の宰相の声に満ちている。
その声で怯えがわずかに治まって、桔梗の君は袖で涙を拭いつつ、そっと桂木の宰相を見上げた。本当に申し訳なさそうな、辛そうな顔をしている。
「もう、何もしない?」
「ああ。だから安心しなさい。済まなかった。もう夜が明けた。東宮様を御所にお連れせねばならない。だから、もう私は行くよ。謝るから、また会ってほしい」
「……怖い事しないなら……」
「君が怖がることは、もうしない。怖がらせた詫びに、後で後宮に帰るための迎えを手配する。それまで、しばらくここで休んでいなさい」
そっと桂木の宰相が手を伸ばしてきたので、思わず桔梗の君はビクッと怯えてしまったが、ただ優しく頭を撫でて労わってくれただけだった。ちらっと見えた秀麗な顔は、傷ついたような表情だった。
おかしな話だと桔梗の君は思った。怖い思いをしたのは自分なのに、傷ついたのは桂木の宰相の方の様だったからだ。
そして、スッと立ち上がると、そのまま静かに部屋を出て行ってしまった。
その後、桔梗の君は右大臣家で丁重にもてなされた。朝食後には山吹の少将までもが、文遣いの童である桔梗の君のためにわざわざ部屋に来てくれた。
「昨夜はごめんね。実は、麗景殿の女御様のご機嫌取りに、物影で演奏してほしい、というのが東宮様の命令だったんだ。正式な演奏会ではなくね。お二人でいちゃいちゃする気分を盛り上げたかったらしくて。気分転換したい、出掛けたい、という姉上の我儘を叶えるため、右大臣邸の周りを何周も回ってた。遠出で出来ないし、それが一番安全だから」
「そうだったんですか。変なご希望ですね」
「うん、姉上は変わり者だから。それで無理な演奏に付き合ってくれる人を探してて、君に……。でも一番酷い目に遭ったのは私だよ。真夜中まで演奏させられて、更には、昨夜の不寝番の宿直までさせられたんだ! 桂木の宰相様の代わりに!」
「どうしてですか?(そのまま宿直してくれれば、私は一緒に寝なくて済んだのに!)」
途端に、山吹の少将は疚しそうに視線を桔梗の君からそらした。
「そ、その、ちょっと悪戯が見つかって……。それよりも、桔梗の君には今回付き合ってくれたお礼がしたい。良かったら、桂木の宰相様の手配したお迎えが来るまで、右大臣邸でゆっくりしていってよ。姉上もお礼が言いたいって言われているんだ。すっかりご機嫌が直ったらしくて、ニコニコ笑顔なんだ! 本当にありがとう!」
「いえ、こちらこそ、おもてなし、ありがとうございます」
「私は不寝番で疲れてるから休むけど、後で女房に案内させるから」
本当は、麗景殿の女御に挨拶などしたら、一発で桔梗の君としての自分の正体がバレてしまうので避けるべきである。だが、桔梗の君はこれを機会に女御に相談したくなったのだ。桂木の宰相のことなどを。自分の気持ちが分からなくなってしまったから。
紅葉の中将への憧れは消えていないと思うのに、桂木の宰相には側にいて欲しい。側にいて欲しいのに、今朝みたいなことは恐ろしくてたまらないのだ。女として先輩である女御になら相談できる。
「女御様、琵琶弾きの桔梗の君をお連れしました」
「もっと近くへ。ご挨拶なさい、桔梗の君。特別に御簾近くに寄ることを、女御様はお許しになられています」
女房に先導されて、お礼の意味から特別に桔梗の君は簀子でなく、中の廂に案内された。もちろん、女御とは奥の御簾と几帳に隔てられている。だが、取次役の女房により、もっと側に寄ることが許された。おそらく実家にいる気楽さと、桔梗の君が成人前の童姿だからである。
「はい。失礼致します。麗景殿の女御様におかれましては……」
ごほん! ぶっほん! と、桔梗の君が挨拶を始めるや、御簾内から激しい咳が聞こえてきた。しかも二人からだ。
女御の咳に乱れた様子にざわめく女房達を落ち着かせるや、女御の言葉の取次役女房の小雪が、桔梗の君以外の者達全員部屋から退出せよ、と人払いの命が下された。
これは、間違いなく桔梗の君の正体がバレた証拠である。普段はのんびりおっとりしているのに、案外、麗景殿の女御は鋭いところがあるのだ。
「これは、一体どのような事ですの? 高貴な姫宮様が何故そのようなお姿を? 小雪、姫宮様に相応しいご衣裳を!」
「は、はい。ただいま!」
同じく正体に気付いてこの場に残っていた側仕えの女房小雪に、女御は支度を命じたが、桔梗の君は止めた。
「待って下さい、女御様。私、今は女五の宮の文遣い、桔梗の君なのです。姫宮の姿では後宮に戻れません。姫宮は気分が悪くて臥せていることになっているので」
「それにしても、まさか、今後宮で話題になっている桔梗の君が姫宮様だったなんて……。東宮様がお知りになったら……」
「もう、バレました。もの凄く怒られましたけれど、黙って抜け出してきました。……だって、文遣いの童を続けたかったから」
桔梗の君は女御に話した。
紅葉の中将に近付き、好かれたくて童姿になった事。剣術の真似事をし、琵琶を弾くことになった事。そして、桂木の宰相との事。今朝方、着物を脱がされそうになった事。
最後の所で、女御は再び激しく咽た。
まさか自分のいる邸で、夫である東宮の大事な妹宮に、そんな不埒なまねがされているなんて! と。姫宮の様子から、最後までいってはいないようだが、それでも東宮に申し訳なくて顔向けできない。
「あの、爽やかぶった変人貴公子め! 畏れ多くも、高貴な姫宮に添い寝した挙句、こんなにも無邪気な方に、手を出そうなんて許せないわ! 寝起きの姫宮に襲い掛かるなんて!」
「で、でも、途中で止めてくれました! 私が怖くて泣いてしまったから……。それに、あの方は私が姫宮とは知らないんです。少女とは知っていますが……。いつもはとても優しいお方なんです! 身分低い文遣いと思っているのに、私をいろいろ助けてくれたんです!」
姫宮の桂木の宰相を庇う言葉に、呆れてふ~とため息を零しながら、女御は扇を小さく何度も手に打つ。桔梗の君の相談内容に、どうしたものかと悩んでいるようだった。
「とにかく、お二人のお気持ちをはっきりされた方が良いと思いますわ、姫宮様。確か、桂木の宰相様には、女三の宮様とのご縁談があるはず。お気持ちを確かめ合ってから、きちんとあちらにお断りをしてもらわねば。そして、姫宮様のご正体を知っていただくべきです。これ以上の無礼を許してはなりません」
「女御様の仰る通りです。失礼ながら、姫宮様は、桂木の宰相様をどうお思いですの? ……泣かされるほどの事をされても、許して庇ってしまわれるあたり、もう決着はついている気がしますが……。姫宮様は、桂木の宰相様に恋していらっしゃるのですね?」
「え? 私が桂木の宰相様に恋? 紅葉の中将様にではなくて?」
鋭く断定的な小雪の物言いに桔梗の君は驚いた。なぜなら、桔梗の君はずっと紅葉の中将に恋していると思っていたからだ。
周囲を明るく照らす太陽のような紅葉の中将にずっと憧れていた。けれど、心寂しい時、助けてほしい時には、暗闇を照らしてくれる月光のような桂木の宰相に、側にいて欲しいと思ってしまうことに気付いた。憧れと恋とは別なのだろうかと悩む。
その時だった。誰かがドタドタと荒々しく簀子を走って近づいて来る。なりふり構わずの必死さが伝わってくるような足音だ。
「姉上! 大変だ!」
不寝番後で、休んでいたはずの山吹の少将が血相を変えて、東宮妃に対する礼儀も振り捨てて御簾内に飛び込んで来た。
「夜明けに右大臣邸を出られたはずの東宮様が、まだ御所に戻られていないって! 警護についていた桂木の宰相様が、矢に射貫かれて血だらけ姿で見つかったって知らせが今!」
麗景殿の女御は気を失い、ぐらりと倒れるところを小雪に支えられた。だが、同じく気を失った桔梗の君は誰にも支えられず、そのまま床に倒れ伏してしまった。
いつも助けてくれる桂木の宰相も百合姫も、そばにいてくれなかったからだ。




