笑顔に騙されて
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
あの明るい笑顔に騙されたのだ。御所から連れ出され、いつも優しいと信じていた人に、こんな酷い目に遭わされるなんて桔梗の君は思ってもみなかったのだ。
暗闇の中、桔梗の君は疲れ切ってぐったりした体を壁に寄りかからせる。もうフラフラだった。手も痛いし、逃げる体力も無い。
「ああ、酷い、山吹の少将様、私をお騙しになったのですね? 私にこんな事を……。もう真夜中近くなのに、いつまでも……。酷い。もう止めて下さい…」
「ダメだ。僕を一人置いて眠らないで。今夜、私達は一蓮托生だといったろう? 他の誰もいないんだ。もう止められない。二人で地獄の底まで一緒に堕ちよう……」
「こんな無理矢理……」
山吹の少将は、狭い中で自分から少しでも逃れるかのように隅に身を寄せる、桔梗の君の細い肩を引き寄せ、宥めるようにそっと抱いた。優しく小さな手を握る。
成人してからは気を付けて『私』と言っていたのに、思わず『僕』が出てしまった。無邪気な桔梗の君が側にいると思わず素が出てしまうらしいことに、山吹の少将は気付いた。
「この手を離さないで」
「もう、嫌です」
既に今宵何度も繰り返された会話だった。
体力と気力の限界なのか、桔梗の君が、山吹の少将の腕の中に寄りかかるように身を寄せてくる。そのか細い身体を労わってあげたいのに、動き続けているためそれもままならない。
「止めたいけど止められない。ごめんね。さあ、動くよ、もう一回だ。僕に合わせて」
「酷い方です…」
申し訳なさそうに微笑む山吹の少将のため、疲れ切った体に力を入れて、桔梗の君は構え直す。そして再び、山吹の少将が紡ぎ出す拍子を受けて華奢な手を動かした。
今宵一晩中、桔梗の君は山吹の少将に付き合うしかなかった。こんな狭い中に入れられて、二人きりで、無理矢理に。
(助けて下さい、宰相様。もう、ここにいるのは嫌。梨壺北舎へ帰りたい……)
この辛さから逃れたくて、ここから私を救いだしてと桔梗の君は心の中で助けを呼び続けた。
事の発端は、元気を無くした麗景殿の女御様の初里下がりだった。
麗景殿の女御が、女五の宮の梨壺北舎に里下がりの挨拶をしに訪問してくれた。その時の女御があまりにも元気が無い様子だったのが気に掛かり、大きな柱の影からこっそり退出の見送りを文遣いの姿でしていた時だった。
しばしの別れを惜しみ妻を抱き支える東宮と、非常に多くの女房達に取り囲まれて麗景殿の女御が歩み去っていく。その時、同じく見送りしていた女御の弟の山吹の少将が、柱の影の桔梗の君に気が付き、声を掛けてきたのだ。
「やあ、桔梗の君! 君も姉上を見送ってくれたんだ」
「はい。女五の宮様(自分だけど)がとても心配なので、せめて代わりに退出を見届けてほしい、と言われましたので」
「そうか。あとで女五の宮様に感謝を申し上げてくれ。ところで、良い所で会えたよ。君に頼みがあるんだ。気落ちしている麗景殿の女御の姉上のために力を貸してほしいんだ」
何か変な頼み事なのか、山吹の少将は言い難そうに少し視線を反らせている。少々怪しい。
「私が何のお役に立てますか?」
「実は、右大臣邸で大きな宴を開く前に、まずは姉上をお慰めしたいんだよね。そこで、女五の宮様には申し訳ないんだけど、桔梗の君に右大臣邸に来てもらいたいんだ」
「ええ? 私がですか? 私が女御様のために?」
まさか、たかが文遣いの童が右大臣邸に招待されるとは思ってもみなかったので、桔梗の君は驚いた。
「ああ。あの弘徽殿の宴での私達の合奏を、麗景殿の姉上は非常にお気に召されたんだ。美しい調べに心和むと言われて。だから右大臣邸でも心和むようにお聴かせしたいんだ。だって右大臣邸での大掛かりな宴となると、親戚ではない桔梗の君は参加できないだろう? 僕の横笛と君の琵琶が良いんだよ」
桔梗の君はちょっと悩む。行きたいのはやまやまだが、いくら何でも後宮から長時間姿を消すのは危険過ぎるからだ。女五の宮である正体がバレる危険と、兄東宮に自分の不在がバレる危険だ。
「でも、私のような者が……」
「気遅れするのも分かるよ。実は、桂木の宰相様にも『私達三人で合奏を』とお願いしたんだ。先日、合奏したいと言っておられたじゃないか。だけど、ここ数日は、女三の宮様への箏の指導をしなければならないから、忙しいって断られてしまったんだ。対立する左大臣家の紅葉の中将様には、とてもこんな右大臣家の事を頼めないし……」
『女三の宮様への箏の指導』の言葉に、桔梗の君は引っ掛かった。先日、桂木の宰相から、あれは帝からのご命令だからと言われてはいるが、やっぱり、何となく腹が立つのだ。
それに対抗したい気持ちがなぜか湧き上がり、思わず桔梗の君は右大臣邸での琵琶演奏を承諾してしまった。
女御が右大臣邸で落ち着いた後日、山吹の少将から梨壺北舎に連絡が来た。山吹の少将の政務や所用が終わった後の夕方前に、右大臣家の牛車の所まで来てほしいとのことだった。
「本当に行かれるのですか、姫宮様? いくら何でも無謀ですよ。この後宮からお出になるなんて」
「そうですよ、東宮様になんて言い訳をすれば? もしもの時はどうされるんですか? この後宮なら東宮様のお力も及びますが、右大臣家ですよ。駆けて逃げ帰られる所ではないのです」
当然ながら松竹の両式部が桔梗の君を引き留めようとする。でも、諦めもあるのか、女五の宮の文遣いに相応しい身支度はしてくれた。
黒髪は左右に丸くまとめる下げみづら、兄東宮のお古とは言え、全く傷んではいない立派な仕立ての童用狩衣と男物の袴姿だ。
兄東宮は背丈が高いので、この日のために、急いで桔梗の君は自分に合わせて縫い縮めた。世間知らずの桔梗の君は気付いていないが、見る人が見れば、派手でないが高貴な貴族子息の豪華な衣装だった。
「絶対大丈夫とは言わないけど、もしも私が童の姿をしていることがバレたその時は、女御に助けをお頼みするわ。仲良しだもの、きっと力を貸してくれるはず。それに、あの右大臣家の山吹の少将様よ、お優しい方だわ。従者も多いし、問題なんてないわよ」
碌に後宮の外を知らないだけに、実は、桔梗の君はこの外出が楽しみになっていた。天下一の権力を持つ右大臣家子息と一緒なのだ。何を心配することがあるのか。警護する従者やお付きの者も多いし、豪華絢爛な右大臣邸に入ってしまえばそれこそ安全だ。
文遣いの童の時に聞こえてきた日々の噂話によれば、家人の待遇も良さそうだ。それが家人の忠誠心にも表れている。
心配のあまり半泣きの年寄りを置いて、愛用の琵琶を持って桔梗の君は初めてのお出掛けにうきうき気分で後宮を出た。
山吹の少将が豪華で立派な牛車の前で出迎えてくれた。
気のせいか、山吹の少将のニコニコ笑顔が態とらしく胡散臭く感じる。いつものあの無邪気なものではなく、この企みから絶対に逃がさないからな、と語っているかのようだ。一体全体、何をしようとしているのか。
右大臣邸の一室に桔梗の君は通された。上級女房の局らしく、それなりに豪華だ。とても単なる文遣いの童が休ませてもらえるような所ではない。合奏は一体どうなったんだろうと、不審に思いキョロキョロしていると、薄暗くなった局に山吹の少将自ら燭台の明かりを持ってきてくれた。
局の中のたった一つの燭台に灯りを移すや、再び、あの胡散臭そうなニコニコ笑みを浮かべる。
「さあ、始めようか?」
「何をですか? こんな局で二人だけで? 女御様をお慰めするものと思っていましたが?」
「二人ですることと言ったら、決まっているだろう?」
嫌な予感がして、思わず桔梗の君は山吹の少将から離れるように御簾近くから奥へと身を引く。その怯える桔梗の君の姿に微笑みながらも、何故か山吹の少将は御簾の向こうに注意を向けて、静かに何かを待っているようだった。
「少将様?」
「静かに。……合図だ」
ぱしん! と隣の主の広い部屋の方から扇の閉じる小さな音が聞こえるや、山吹の少将は横笛を吹き始めた。何やら分からないまま桔梗の君もその調べに合わせて琵琶を弾き、楽の音を重ねた。
深い想いを込められた名曲の雅やかで甘い楽の音が右大臣邸に響き渡る。
楽の音がずっと続いた。秋の夜に相応しい情感溢れる様々な名曲を、ずっとずっと弾かされ続けた。
いつまで続けるんですか? と桔梗の君が問うが、笛を吹く山吹の少将は答えられない。
ひたすら弾き続け、手が痛くなり、身体が疲れた頃、ぱしん、ぱしん! と再び扇が鳴った。
「取り敢えず、終わりかな。長い時間、笛を吹き続けるのは辛いな……。笛以外も用意しよう」
流石に、山吹の少将もウンザリと疲れ切ったようだった。だが、『笛以外の用意』の言葉に桔梗の君は反応した。この謎の演奏は、笛以外の楽器を用いて、まだまだ続けるのだろうかと不安になる。
聞くのが恐ろしくなって、無言でいたら、右大臣家の女房が現れ、食事などを運び込んでくれた。
「今のうちに、しっかり食べておいた方が良いよ、桔梗の君。僕ら二人の夜は長くなりそうだから」
「何か変です! 女御様をお慰めするはずなのに、こんな所で演奏なんて変ですよ! 止めて下さい。私、後宮に、梨壺北舎にもう帰りたいです」
なぜかもう恐ろしくなって、桔梗の君は食べながら帰りたいと何度も訴えるが、山吹の少将は申し訳なさそうに視線をそらした。
「帰りたいです」
「……牛車に乗ろう」
半泣きになった桔梗の君を見て、何か思ったのか、軽く身支度を整える時間を与えられた後、桔梗の君は再び牛車に乗せられた。
泣き顔が利いたのか、これで御所に、梨壺北舎に帰らせてくれるのかと思い、ほっとした。
「ああ、はやく御所に着かないかな」
「……御所には向かわない。ダメだ。逃がさないよ。私達は一蓮托生だ。地獄への道、付き合ってもらうよ」
「地獄?」
ゴトゴトと音を立てて揺れながら、二人を乗せた牛車が動き出す。
帰るのではなかった。二人は地獄へ向かっているのかと思うと桔梗の君は恐ろしさに、牛車の隅で身を竦ませる。
いつもの無邪気な明るさから離れた、弘徽殿の女御に似た鬼の気配を滲ませる薄い笑みを浮かべ、ビャランビャランと妖しい音色で山吹の少将は琵琶を弾き出した。
「私ももう横笛は吹けないんだ。口が、胸が痛い。だから一緒に琵琶の合奏にするよ。君ほどの腕前ではないけど、一応弾ける」
「なぜ、ここで、牛車の中で演奏するんですか? 外はすっかり暗くなってます。変ですよ」
「後ろの牛車のために弾くんだ。大丈夫、遠くには行かないよ。右大臣邸の付近を回るだけさ。……ずっとね」
もの凄く変な事だと分かっていても、仕方がないのさ、とばかりに諦めの表情で琵琶を弾く山吹の少将に合わせて、桔梗の君も再び奏でる。
ずっと二人は弾き続ける。甘い調べ、悲しい音色、寂しい曲で。何度か牛車が止まり休憩を繰り返しつつ、合奏したり、疲労のため交代しながらひたすら弾き続けて真夜中になる。
「ああ、酷い、山吹の少将様、私をお騙しになったのですね? 私にこんな事を……。もう真夜中近くなのに、いつまでも……。酷い。もう止めて下さい…」
「ダメだ。僕を一人置いて眠らないで。今夜、私達は一蓮托生だといったろう? 他の誰もいないんだ。もう止められない。二人で地獄の底まで一緒に堕ちよう……」
「こんな無理矢理……」
疲労から寝落ちしそうな桔梗の君の手に、そっと琵琶の撥を握らせる。
「この手を(撥を)離さないで」
「もう、嫌です(弾きたくないです、うんざりです)」
山吹の少将の腕の中に寄りかかるように身を寄せ、もう疲れた、琵琶は弾きたくない、眠らせてほしいと桔梗の君はお願いするが、首を振られて却下された。
「(演奏を)止めたいけど止められない。ごめんね。さあ、(牛車が)動くよ、もう一回だ。僕に合わせて」
「酷い方です…」
「僕だって眠いし、くたくただ。だけど、たぶんもう少しだよ、もう少しで終わると思うよ。それまで頑張って琵琶を弾き続けるんだ。頑張れ!」
(助けて下さい、宰相様。もう、ここにいるのは嫌。梨壺北舎へ帰りたい……)
眠気で途切れそうだった楽が終わった。桔梗の君は限界を迎えた。普段、姫宮として好きなように暮らし、年寄りと共に早寝早起きの生活だったから、真夜中まで起きて何かするのは苦行だったのだ。
小さな手から撥が落ちる。桔梗の君も琵琶を抱えたまま寝落ちし、床に倒れ込みそうになった。
「あ、桔梗の君! しっかり!」
慌てて倒れ伏さないようにと、山吹の少将が受け止めた桔梗の君の体は、細く柔らかく温かかった。
童なんだ、少年なんだ、と思いつつも山吹の少将は愛らしい桔梗の君を腕の中へと抱き寄せた。
酷い方です、と涙目で上目遣いで半泣きしていた顔も可愛らしかったと思い出される。思わず罪のない寝顔の頬を労わるように撫でた。しっとりスベスベで柔らかい。どこか甘い良い香りもする。
「寝かせて……」
頬を撫でたためか、うわごとの様に桔梗の君が呟いた。思わずその柔らかい唇を山吹の少将が指先でなぞると、むにゅむにゅと動いた。何故か山吹の少将は胸がドキドキして顔が熱くなってきた。
柔らかな桔梗の君を少しだけ強く抱き締め、その無邪気な寝顔に顔を寄せる。もっとこの子の柔らかさを感じるために。
突然、バサリと牛車の前方の御簾が荒々しく跳ね上げられた。慌てて、山吹の少将は桔梗の君から顔を離した。何もしていないのに、疚しい気持ちから顔が紅くなる。牛車の中が薄暗くて良かったと思わざるを得ない。
「山吹の少将、こんな時間まで童を連れまわすのは感心しないな」
「桂木の宰相様。どうしてここに……」
「箏の指導の件で梨壺北舎に行ったら、桔梗の君が右大臣邸から帰ってこないと女房が言うのでね。東宮様のご用を終えてから、この子を探していたんだ。この子は女五の宮様の可愛い文遣いだからね。右大臣邸では、出掛けて留守だと言われたよ。まさか、牛車に乗り続けていたとは」
「あ、あの、それは、その……」
桂木の宰相は牛車の中に身を乗り出し、山吹の少将からその逞しい腕に桔梗の君を抱き取った。
「……桂木の宰相様?」
むにゅむにゅと言いながら桔梗の君は目をこする。
「ああ、起こしてしまったね」
「……やっぱり助けに来て下さったんですね。私、ずっと助けてって……。山吹の少将様が私を騙して酷いんです……」
「そうか、助けが遅くなって済まなかった。山吹の少将も懲らしめないとね」
「疲れた…」
腕の中にいる桔梗の君の寝言で、桂木の宰相の眼差しが怒りに険しくなった。その射殺すかのような視線に恐ろしさを覚え、山吹の少将は慌てて弁解する。
「ただ、琵琶を弾いていただけです! 酷い事なんてしてない! していません! 危険な事はありませんでした! 警護に右大臣家の従者もたくさん付けています! なぜなら、東宮様に言われて私は!!」
「そうだね、東宮様のお話は聞いているよ。危険は無かったようで良かった。沢山ある心配事の一つが減ったよ。どうもこの子は右大臣家に関わると碌な目に遭わないようだ」
減った心配事は一つだけ。その他の心配事を、山吹の少将は先程まさしく引き起こそうとしていたのだ。これまで少年に心惹かれた事は無かったのにと、山吹の少将は己に愕然とした。桂木の宰相はその事に感づいたようだった。
一方、桂木の宰相は、童の桔梗の君を可愛がる事に躊躇いもなくなり、一層磨きがかかったようだ。目の前で愛おしそうに抱いている。これでは下手な気持ちで桔梗の君に近付くと、どんな恐ろしい目に遭うか計り知れない。
「桂木の宰相様、私、もう寝たいんです」
「そうだね、『一緒に』もう休もうか」
桂木の宰相に抱かれ、すっかり安心しきって無邪気に呟いた桔梗の君に、桂木の宰相はクスクスと笑いながら応えた。
「ど、どうか右大臣邸でお休み下さい!! ほら、目の前です! 桔梗の君もすぐに横になれますよ! すぐに準備させますから!」
では世話になろうと、怯える山吹の少将の勧めに従い、桂木の宰相は腕の中でくーすか眠る桔梗の君を自ら抱いたまま、右大臣邸へと連れて行った。




