子犬の咆哮
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
人払いをされた梨壺北舎で、桔梗の君と両式部は、東宮の激しい雷を何本も受けた。ただひたすらに平伏してやり過ごす。
殿上童姿で文遣いなど、この上もなく高貴な姫宮が顔を晒し、公達に会うなど、何というはしたない真似をするのか! と凄まじい怒りだった。
「監督し、諫めるべき立場の女房が、それを許すなどなっていない! 何のための側仕えか! そなた達の年齢なら、何事も弁えているはずであろう!」
「止めて、私が二人を黙って従いなさいと脅したの! それに、今回、この式部達の機転で女五の宮としての醜聞は避けられたのです。私は守られたのですわ!」
自分の我儘のために老女房達が責められることに耐えられず、桔梗の君は恐ろしい兄東宮に立ち向かった。
ここに、兄妹の戦いの火蓋が切って落とされた。
「たまたま上手くいっただけだ! 文遣いの童の正体が知られたらどうする! あれを上回る大醜聞だ! 大体、何故そのような真似をしたのだ? 非常識にも程がある!」
「だって、ある公達に好かれたかったの! とっても素敵なお方です! でも、その方は有名な少年好きだから(実は違うと後から判明したけど)、少年になって好かれるつもりだったの!」
「普通に恋文を送れば良いではないか! それに少年好きだと? そんな変な男に惚れるな! 男好きなら、そもそもそなたに惚れるはずがない。少年の姿で好かれても、姫宮と分かった時点で嫌われるはずではないか!」
「好きになるのは、私の勝手です! とても優しくて素敵なお方です! 互いに好き合えば、きっと許して下さるに違いないわ! 愛とは互いを許し合えることだと、麗景殿の女御様も仰ってました!」
「恥ずかしい綺麗事を言うな!」
二人は興奮のあまり、互いに扇を振り回しながら言い合う。人払いをしてあるとはいえ、その大声の怒鳴り合いが、梨壺北舎の外に漏れ出ていないか、女房二人は冷や冷やだった。隠していることを自らの大声で宣伝してしまうことになってしまう。
「一体誰だ! その男は? 少年好きな優しくて素敵なお方、など心当たりがない。分からぬ! お前の高貴な身分に相応しいのか?」
「私が好きなのは、優しくて、助けてくれて、逞しくて、お背が高くて、賢くて、頼りになって、素敵な……」
「誰だそれは! そんな物語に出て来るような、少年好きな男がいるものか!」
恋する紅葉の少将の事を思い浮かべようとしたのに、優しく助けてくれて素敵で厳しく叱りつける、違う少将の顔が桔梗の君の中に浮かんだ。明るく暖かい太陽の光のような少将ではなく、心細い暗い夜を照らしてくれる月光のような少将の方だった。
いつもさりげなく大きな背中で庇い、汚れ仕事も厭わず、頑なに隠していた妹姫を差し向けてまで姫宮を守護した少将。桔梗の君は一気に顔が体が熱くなり、雷に撃たれたかのような気がした。しかも、何故かいつも桔梗の君の危機を救ってくれる、天女の百合姫とその姿が重なって見える。
妙な考えを無理やり振り切って、桔梗の君は言い返すために話題転換の方式をとった。
「兄宮様だって、入内前の麗景殿の女御様の所にわざと身分を偽って通って、口説いていたそうではありませんか! 女御様から聞きましたのよ! 入内してからお会いになればいいのに。こっそり何度も御所を抜け出していた事も、私、知っております! 東宮様なのに! 好きな方に会うため、姿を偽っていたのは、私と同じではありませんか!」
「それは、互いの心を確かめるため……」
「私だって、姫宮ではない私を知っていただきたかったの! あの方に! ずっと『忘れられた姫宮』だった私に皆様が会いたがるのは、私が東宮様の妹宮になったからですわ! それでは、嫌なのです!」
男が女に口喧嘩で勝てる訳がない。ワンワン喚かれるように妹宮に言い返されて、東宮はたじたじになる。
結局、自分でも誰の事を想って語っているのか分からなくなって、大泣きを始めた桔梗の君が勝って終わった。
幼少時、親に亡き別れた妹宮に寂しい思いをさせてしまっているという負い目から、兄東宮は気が強くてめったに泣かない妹の涙に弱かったのだ。そして恋人一筋になる血筋はお互い様か、と東宮はため息をついた。初恋の姫を妻にしたいと東宮位を勝ち取った自分と、好いた公達に近付きたくて男装までした妹宮。無茶をやるところがどこか似ていると感じてしまったのだ。
因みに、眉目秀麗で色気があるため東宮は女好きと誤解されやすいが、これでも麗景殿の女御に一筋で、どんなに美女に囲まれようとも浮気したことはなかった。今でも、右大臣の協力もあり、他の姫君の女御入内話をさりげなく上手く退けているくらいである。
もちろん、東宮によりこれ以降の桔梗の君の男装は禁止された。泣き止みつつ、しおらしげに桔梗の君は聞き入れたふりをした。
が、もちろん、桔梗の君は文遣い姿を止めるつもりは全くない。あの姿でなければ、恋する公達に会えないのだから。恋する乙女の意志は固い。
東宮とて、一日中、妹宮に張り付いている訳ではないし、すっかり文遣いの姿に慣れたので、桔梗の君はいくらでも着替えて御殿から抜け出せると分かっていた。
後日、梨壺(北舎)の侵入者について、東宮が醜聞にならないよう無理やり話を治めた。
東宮と女五の宮が宴で不在の梨壺(北舎)に不審者が出たが、たまたま通りかかった橘の宮と頭の弁が取り押さえた。これは帝も感動に涙した、橘の宮の初武勇伝になった。
梨壺北舎で不審者に遭遇したのは、密かに『相談相手として招かれていた』百合姫と文遣いの童であり、怯えた百合姫は既に後宮から下がったと公表された。
だが、この事件のため、桂木の少将の妹姫は、その美しさ故、参内するだけで殿方が大勢押しかける(誘っている)と悪意を込めた噂が立ってしまった。
事件が落ち着いた頃、東宮は桂木の少将を梨壺に呼び出し、人払いをした。改めて、桂木の少将に礼を伝えたかったのだ。
「桂木の少将、兄妹で五の宮を守護してくれたことに感謝する。そなたの機転の利いた気遣いと妹姫のおかげで、五の宮を酷い醜聞から護れた。夜更けに、そなたを含む複数の公達に御殿に踏み込まれたら、公達を誘い込んでいるのかと悪意に言われかねない。実際、百合姫はそのような醜聞が立ってしまったようだ。『相談相手として招かれていた百合姫』には、誠に済まないことをした」
「妹は分かっていて、お力になりました。忠義だけをお認めいただければ、それで報われます。私も妹を送り届けるや、東宮様の護衛の方に戻ってしまった事が失敗だったのです。まさかあのような事件が、本当に起きるとは……」
「目立たぬ陰で走り回らせたようだな。ところで、礼という訳ではないが、どうだろう、そなた、五の宮の婿にならないか? 私はそなたになら五の宮を任せても良いと思う」
「え!? ですが、橘の宮様や頭の弁殿が正式の求婚者としておられます。帝や前斎宮様がこの縁組に乗り気ともっぱらの評判です。それに私は……」
東宮の突然の思いがけない申し出に、桂木の少将は驚き、動揺した。
「橘の宮など論外だ。ああ、もちろん、そなたが帝の三の宮の婿候補になっているのも知っている。あちらには、紅葉の少将や山吹の君も候補にいる。あの者達も優れた公達で信頼もしているが、五の宮は幼いところがあるのだ。そなたのようなしっかり落ち着いた者が、婿に良いと私は思う。返事は急がなくて良い。もちろん帝の三の宮を選んでも恨まない。本来、姫宮は結婚しないのも普通なのだし。ただ、考えてみてほしい」
東宮の申し出は非常に名誉で寛大な事であることは、桂木の少将は分かっていた。どちらの姫宮と結婚しても、出世間違いなしである。どちらを選ぶかではなく、結婚そのものを迷う方がおかしい。
だが、ふと、野に咲く可愛い桔梗の花の君のことが、思い浮かんでしまったのだった。最初は、百合姫の事を探らせまいと見張るだけのつもりだったのに、いつの間にか、男装など無茶をして、危険に巻き込まれる少女から目が離せなくなっている。この手の中で護り包むようにして咲かせたい、可愛い花になっていた。
まだ幼げな風情のある可愛い頑張り屋の少女は、主の女五の宮様に一途に仕えている。何かに認められようと文遣いの童の姿をしているが、おそらく成人した14~15歳くらい。結婚しても問題のない年齢に見える。
桂木の少将は、今まで深く考えたこともなかった結婚について考えた。これまでは、政治的な絡みなどから、好き嫌いではなく相手が決まるだろうと漠然と思っていたのだ。複数妻を持つ貴族が多いが、父宮のように、一人の妻を大切にできれば幸せだろうなと。
ただ、最近、父親には覚えのない娘、百合姫の存在で、式部卿の宮家の家庭は大きく揺らいでいる。母親が宮中で注目されてしまった百合姫の存在を知り、式部卿の宮が黙って浮気していたと怒っているのだった。とうとう多感な年頃の同腹の妹姫までが、父宮と口を利かなくなってしまった。
浮気など覚えがない! と主張すればするほど、責任を取らない酷い父宮! と妹姫に言われた。
溺愛している娘にまで冷たくされて、父宮は激しく落ち込んで、政務もままならずにいる。
そのうち、家族全員で将来の事を含めて話し合わねば、と桂木の少将は思った。自分の結婚相手次第で、式部卿の宮家の将来は変わるからだ。
仮にも帝の三の宮様の婿候補に挙げられておきながら、身分低い少女を同時期に妻に迎えるなど、姫宮への無礼に当たる。東宮の妹の五の宮様も同様だ。下手をすれば、帝の不興を買って、宮家繁栄の道が絶たれてしまう。出世どころか降格もありうる。
姫宮への手前、密かな恋人としていても、桔梗の君の家柄次第では、将来も正式な妻の扱いにすらしてやれないかもしれない。
更には、五の宮様は桔梗の君の主でもある。五の宮を選んだ時、きっと桔梗の君はその忠義心から、主の夫とは結婚などできない、と身を引いてしまうだろう。
桂木の少将に来ている縁談の相手と時期が悪すぎた。
あの少女の幸せを想うなら、もうこれ以上近付かない方が良いのかもしれないと桂木の少将は思った。
宮中で臨時の会議が開かれた。
不審者を捕らえ、後宮および東宮の梨壺を護った橘の宮が、功績在りとして兵部卿へ大抜擢された。代わりにこれまで兵部卿だった宮が中務卿となった。この新中務卿はその官職に相応しい人柄と皆がお祝いを述べたが、実は右大臣の二の姫の婿である。橘の宮が官職を得るために、帝が右大臣家と取引した結果とも陰では言われた。
更に紅葉の少将は中将に、桂木の少将は宰相に、山吹の君も少将に昇進した。それぞれが姫宮の婿として相応しい官職を得られたことから、いよいよ婿が選ばれるのではないかと噂し合った。
姫宮の婿候補が昇進したことは、梨壺北舎の桔梗の君にも伝えられた。よりによって、橘兵部卿の宮が自ら梨壺北舎へ挨拶に来たのだ。表向き、前斎宮からのお文の遣いと称して。
前斎宮はまだ後宮に残っており、以前の住まいだった梅壺にいる。帝と仲の良い姉弟であり、二人して何とか可愛い橘兵部卿の宮を盛り立て、将来の安泰のために女五の宮の婿にしたいと図っていたからだ。
桔梗の君にとっては、逆らい難い最強の組み合わせの二人である。兄東宮とは異なり、感情のままに言い返しもできない相手だ。そのため、兄東宮の政敵だった橘兵部卿の宮に会うのを避けられない時ができてしまった。前斎宮の文遣いなどという口実は、最たるものである。
「ご昇進、おめでとうございます。これも梨壺を侵入者から護られたことを帝にお認めになられてのことだとか。よろしゅうございましたわね」
「ありがとうございます。いや、事件の事はお恥ずかしい限りです。あなたを護れた、それだけで私は名誉なのですから」
前斎宮へ恩もあって、仕方なく桔梗の君は、御簾越し几帳越しではあるが、取次ぎ無しで面会した。侵入者事件は実は引き渡しただけのくせに、と嫌味を込めて話題にしたのに、全く効き目はない様子だった。舞い上がった英雄とは迷惑なものである。
「本日、姫宮様にお話ししたいのは、その伯母宮のお文に書かれていることです。先日、父帝は妹の三の宮の箏が拙いことを嘆かれまして、箏の名手である桂木の宰相に指導を依頼しました」
「箏の指導ですか!!」
未婚の姫宮に若い公達が指導する事など、まず無い。桂木の宰相が三の宮との結婚話を受けてしまったのかと、驚きのあまり桔梗の宮は固まってしまった。姫宮との結婚など、まるで興味が無い様子だったのに! と桔梗の君は桂木の宰相に騙された気がした。
御簾や几帳に阻まれていることもあって、固まっている桔梗の君の様子に気付きもせず、橘兵部卿の宮は少し照れくさそうにしながら話し続ける。憧れの高貴の姫宮が、親し気に公達に話しかけられて恥じらってると思っている。
「ええ。それを聞いた伯母宮が、姫宮の中で不公平があってはならぬと申されました。そこで五の宮様には、私が箏の指導をしてはいかがと……」
(そんな事どうでもいいし、いらないし! どうせなら、桂木の宰相様、私に指導してくれればいいのに……。あるいは、百合姫様にしてもらいたい。三の宮は、この出世した兄宮にしてもらえばいいじゃないの!)
几帳の陰で言いたい本音を言えず、桔梗の君がむにゅむにゅと返事に窮していると、気が利く側仕えの女房、松の式部が代わりに返答すべく、ズズイっと橘兵部卿の宮の方へ身を進める。
「畏れながら、姫宮様は、先日お手を痛めておられます。残念ながら、箏のお話はお手が治られてからということに」
「おお、それはお気の毒に。ならば、お手が治られた頃にでも、箏の事は伺いましょう」
その後は、適当に受け答えして、かなり強引に橘兵部卿の宮を追い返した。もう、この宮の相手どころではなかった。
桔梗の君は急いで文遣いの童姿になる。なぜか、両式部は反対せず、着替えを手伝い、両耳脇に髪を丸める下げみづらに髪を結ってくれた。
「あなた達、私のこの姿に反対しないの? 東宮様に禁止されているのは知っているのに」
「反対したところで、無理矢理なされるのでしょう? でしたら、みっともない姿で歩き回られるより、私共の手できちんとお支度致しますよ。それに、年寄りには、いろいろ分かるんです」
「そうですよ。年寄りには見えるし分かるんですよ、いろいろね。伊達に年をとってはおりませんので……」
何か含みのある言い方をされて気になったが、桔梗の君は箏の指導の事を聞きに、梨壺北舎をいつものように抜け出た。
「姫宮様、お目が覚めたようですわね。でも、もう少し頑張っていただかねば」
「目が覚めたというより、夢から覚めた? かしら。どちらにせよ、美形の良いお婿を引っ張ってきてもらいたいわ。あと少しよね」
両式部は、必死さを押し隠して出ていった可愛い姫宮を梨壺北舎の御簾内から見送った。
できるだけさり気無さを装って、桔梗の君はキョロキョロと桂木の宰相の姿を探す。こんな時に限って、庭で素振りする紅葉の中将すら見かけない。ご近所しか出歩かないようにしていた桔梗の君だったが、しようがなく、麗景殿から離れ、帝の住まいに近い弘徽殿の方へと進んでみた。
「桔梗の君、珍しいな、こんな弘徽殿の近くにいるなど。また、女五の宮様のお遣いか?」
帝が住まう清涼殿の方から、まさに探していた桂木の宰相が雅やかな足取りでやってきた。
その何事もなく普段のままの桂木の宰相の様子を見て、桔梗の君は腹が立ってきた。箏の指導の話を聞いて動揺し、会いたくなって探しにきた自分が愚か者のような気がしたのだ。
「桂木の宰相様! 三の宮様に箏の指導をされると聞きました! 本当の事ですか?」
「どうしてそれを!」
会うなり急に桔梗の君が怒り出したので、桂木の宰相は驚いた。たかが箏の指導に、なぜこんなに桔梗の君が動揺しているのか分からない。
「橘兵部卿の宮様が、梨壺北舎に参られて、お話されていました! 本当なんですか? 本当なら、それは良くない事だと思います! 三の宮様は独身で、宰相様も独身で……。お二人で会うなんて、良くない事です!」
「一体どうしたんだ、桔梗の君? 急に何を? 三の宮様への箏の指導は、桔梗の君には関わり無い事だろう?」
「私は関わり無い!? そう仰るのですか!」
結婚には関わり無いと言われた気がして、桔梗の君はカッ! と頭に血が上った。宣耀殿や、夜の梨壺北舎で会った時にした『約束』が思い出され、本当はこの雅やかな貴公子に揶揄われていたんだ! と思ってしまったのだ。
「私は関わり無いんですか? 私にあのような事したくせに! 何度も! それなのに、三の宮様とお会いするんですね! 私を弄んだんですか? 紅葉の中将様の次は、三の宮様で、次々と……!」
「ちょっと待て、急に何を怒って犬みたいに吠えている? 落ち着くんだ、桔梗の君。また言っていることが無茶苦茶だ。サッパリ分からない。三の宮様のお名を出すなど、ご無礼だぞ」
「三の宮様を庇うなんて! やっぱり? ……酷い! もう知りません! 桂木の宰相様なんて嫌い! わ~ん!」
「おい、ちょっと待て!」
桂木の宰相を大声で怒鳴りつけるや、桔梗の君は捕らえようとする宰相の手を振り払って、泣いて取り乱したまま梨壺北舎へと駆け出していった。
突然喚かれ詰られ、桂木の宰相は呆然とした。三の宮様への箏の指導など、面倒な話に進まないよう、他の女房や女官の前で、離れた簀子から御簾越し几帳越しに、一・二度するだけの事。初対面の姫宮に直接会うはずもない。それで帝のご命令を果たしたことにするはずだった。何故、まるで二人きりで逢うかのように言われるのか分からない。
あまりにも大声で桔梗の君が喚いたため、近くの弘徽殿や承香殿の女房達にまで、二人の(痴話?)喧嘩が聞こえていた。後日、『恋人の殿上童を泣かしていた』『紅葉の中将だけでなく桂木の宰相も美少年好きだったらしい』と不名誉な噂が立ってしまった。




