英雄の恋
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
普段静かな梨壺北舎に騒ぎが起きたらしいと、御殿の外にも何やら人が集まる気配がした。今頃になって警護の者達が駆け付けたようだ。目の前の二人の公達に問い詰められているせいか、桔梗の君は自分が不審者になったようで、益々言い訳に焦ってしまう。
「童、女五の宮様はどちらだ? ご無事なのか」
「あ、あの……」
姫宮への心配からか、厳しく問い詰めようとする橘の宮の様子が恐ろし気だ。若い男に襲われかけた恐怖から、咄嗟の言い訳もできないまま、桔梗の君は思わず側にいる百合姫の着物を固く握ってしまう。
それに気づいた百合姫が慰めるように、そっとその手を重ねる。思わず桔梗の君は、不安から何も言えないまま、その大きな温かい手を握った。
場を取り直すように、百合姫が顔を隠す扇越しに低めの声で二人の公達に訴える。
「失礼ながら、この場からこの無礼者を連れ出して下さいませんか? 恐ろしゅうございます。また、五の宮様はここにはおられませんので、この奥の間からご退出いただけませんでしょうか? 主不在時の公達のご訪問は、若い姫宮の醜聞になります」
「確かに。外に警護の者が集まっております。まずはこの不審者を橘の宮様のお手でお引渡し願います。その後、内廊下の廂で控えませんか? そこの女房殿、この場を整えておかれよ」
桔梗の君の怯えを察した百合姫の提案を頭の弁が受け入れた。橘の宮と二人掛かりで痛みに蹲る不審者を引き摺り出し、外に集まった警護の者に引き渡す。
怪しい者は橘の宮様が捕らえたので、安心するように! などの頭の弁の声が響いて来る。
二人が出ていくや、百合姫も動き出し、重い屏風をあっさり一人で立て直したり、乱雑になっていた几帳や調度品を整える。ついでに乱れた御簾を直し、薄暗い廂や部屋を照らすよう、燈台を配置した。この燭台が騒動の際に倒れて火事にならず幸いだった。
女にしてはいやに力持ちな様子に、桔梗の君は驚く。あの屏風など、年寄り女房二人掛かりで動かしていたのだ。それに、先程は桔梗の君を助けるため殿方を蹴り倒すという、高貴な血筋を引く姫君としては考えもしない、ありえない事をやってのけた。
不埒者が動けなくなるほどだ、相当強烈だったのだろう。あれは実に痛そうだった。
室内の片付けが一段落すると、恐怖から体も思考も固まって座り込んでいた桔梗の君の肩を百合姫はそっと抱く。
温かい労わりに、桔梗の君は再び涙が零れて来た。思わず慰めを求めて、その広く頼りになる胸に縋ってしまった。抱き返してくれる温かい腕の中で、恐怖が解けていく。
(ああ、安心できる温かく広いお胸。ホッとするわ。……でも、お胸が豊かではないのね。私と同じ、いえ失礼ながらもっと平らかも……。天は二物を与えずね)
百合姫に支えられながら、女房や文遣いの者が座すに相応しい、奥の御簾の前近くに移動する。落ち着いたら、駆け付けたこの二人の公達にも説明しなければならないからだ。
隠れるように几帳を前に立てて隣に座ってくれた百合姫は、励ますように桔梗の君の肩を優しく抱いて支えてくれた。
梨壺北舎の外が静まると、貴公子が訪問した時に相応しい場へと、頭の弁は内廊下の廂に橘の宮を案内した。主はいなくても奥の部屋を隠すように御簾は下げられていた。
月明かりと燈台で廂が仄かに明るくなり、二人が礼儀正しく落ち着いた様子で、座して待つ姿を浮かび上がらせた。
優しい百合姫と、姫宮の行方を心配する橘の宮が、桔梗の君に問う。
「もう大丈夫。一人でよく五の宮様をお守りしましたね、桔梗の君。それで姫宮様はどちらに?」
「そうだ、童よ、五の宮様はご無事なのか!」
「あ、えと、その、……実は姫宮様は、……既にこの御殿からお逃げになられております。お二人の側仕え女房……様が、呼び出されていなくなると聞いて酷く怯えられて。そこで、密かに御殿を抜け出されました。女房様が戻られるまで、私が上衣を頭から被って身代わりになったのです。まさか、本当に夜這いに来る方がいるなんて……」
「なるほど。して、どちらにお隠れなのか? お迎えに行かねば!」
橘の宮の問いに、桔梗の君は激しく首を振った。この殿方に迎えに来られても、桔梗の君は五の宮の姿に戻れない。ここで童の顔を見られている。五の宮の姿に戻った後、扇で隠した顔をもし見られてしまったら、男装していたことがバレてしまう。大醜聞だ。
「言いなさい。橘の宮様がこんなにご心配になられているのですよ。私と宮様の二人でお守りしてここにお連れしますから、そなたは安心するが良い」
頭の弁の問いにも、桔梗の君は再び激しく拒否の首振りをする。
「お側仕えの女房だけが、お迎えに行くことになっております。絶対に、お二人以外に場所を言ってはならぬと、厳命されております!」
「そうですわね、この夜更け、仮にも独身の姫宮様の御付き添いが公達では、何事が起ったかと後宮で悪い噂が立ちかねません」
「そういえば、式部卿の宮の百合姫とお見受けするが、なぜここにおられる? そなたは弘徽殿の宴の後、後宮から退出したはずだ。それに麗景殿の女房のはず」
桔梗の君を庇う百合姫を不審に思った頭の弁は、都合よく助けに駆けつけた百合姫を怪しんだ。
実は、本当なら、危機に陥った姫宮を助けに入るのは橘の宮になるはずだった。そういう筋書きだったのだ。
この身代わり童と怪しい女房のおかげで、『助けに入った貴公子と姫宮が恋に落ちる』作戦は、丸潰れになった。世間知らずの若い姫宮にぴったりの、物語のような筋書きを用意していたのに! という内心のイライラを頭の弁は無表情の奥に隠す。
仮に橘の宮の助けが出遅れても、世間体から姫宮を護るといって橘の宮の妻にできる。橘の宮が世間体の悪くなった姫宮に不満なら、自分の妻にできると頭の弁は考えていた。
あの不埒者も、命じてやらせた訳ではなく、『姫宮の婿』という出世欲に目がくらむよう唆したのだ。とにかく姫宮を妻にした者が勝ちなのだと。
橘の宮が酒を飲まない事は知っていたし、あの不埒者の動きはしっかり見張らせていた。助けに入る時を狙いすましていたのに、失敗に終わった。結局、姫宮本人が不在だったため、付加的な効果しか得られない。不審者捕獲のお手柄のみである。
作戦失敗の結果、筋書きとは異なり、ひしと身を寄せて支え合う大柄な女房と小柄な童の妙な組み合わせが出来ただけだ。
急にドタドタと焦るような複数の足音が、この梨壺北舎に近付いて来た。
慌ててこの場に駆けつけてきたのは、東宮だった。宴も終わりの頃だったとは言え、優雅な退場をしてきた訳ではない様子だ。
「五の宮は無事か! 警護の者から不審者を捕らえたと報告が入ったぞ!」
心配のあまり急ぎ御簾内に飛び込もうとした時、その手前の廂に橘の宮と頭の弁が控えていることに東宮はギョッとした。
「橘の宮、何故ここに?」
「酔い潰れた山吹の君を麗景殿にお連れしたところ、梨壺北舎の騒ぎを聞き付けました」
「この橘の宮様が、不審者を引っ立て、警護の者に引き渡されました。もう問題はございません」
頭の弁の語った内容に桔梗の君はカチンときた。確かに警護に引き渡したことには間違いないが、まるで橘の宮が戦って不埒者を倒したかのように聞こえるのだ。だが、高貴な姫君の百合姫が、勇ましく男を蹴り倒したとも言えないので、むぐぐと悔しく口を噤む。
「そ、そうか。兄として礼を言わせてもらおう。妹を護ってくれて感謝する。……五の宮! 五の宮はいずこか? 無事か?」
二人に礼を述べるや、心配のあまり礼儀もかなぐり捨て、東宮は御簾内に飛び込み、可愛い妹宮の姿を探してキョロキョロする。だがそれらしい姿が見えないため、顔色が変わってくる。
正体がバレる非常にまずい状況になった事に、桔梗の君は今になって気付いた。
まさか文遣いの童が、隠れるために几帳の陰に入る訳にもいかない。桂木の少将にするように、大柄の百合姫の背後に隠れたくても、百合姫は扇で顔を隠しつつ伏して東宮に礼を取っている。それを見習い、慌てて同じく伏して礼をすることで、顔を隠すしかなかった。
「五の宮! 出てきなさい! ……いない?」
「ご安心を。この桔梗の君が身代わりになって、五の宮様を逃れさせております」
「身代わり? 桔梗の君? ……そなた! あの琵琶弾きの童だな! こちらに来い!」
心配のあまり慌てて妹宮を探す東宮を宥めるため、百合姫が桔梗の君の事を述べたことが致命的だった。その百合姫の側で伏す桔梗の君の姿を認めた途端、東宮の声がより一段と低い、怒りに満ちたものに変わったのだ。
絶対にバレた。間近に顔を会わす血の繋がった兄である。どのような姿をしていても、例えそれが暗がりでも、仕草一つで、賢く鋭い兄に妹であるとバレたと、桔梗の君は確信した。
「ゆっくり話を聞かせてもらおうか、『琵琶弾きの童』。近頃、公達の間で噂になっている桔梗の君だな。宴の時は、直に褒めてやれず、可哀想なことをしたな。側近く参れ!」
碌に頭も上げられないままびくびく怯え、ソロソロと東宮の足元に桔梗の君は這いずるように近寄る。
ガシッ! と東宮の大きな手が桔梗の君の頭を上から掴んだ。一見では、ニッコリ微笑む東宮が、可愛い童の頭を撫でているかのように見えるが、その東宮の指先に掛かる力はギリギリと桔梗の君を締め付けている。その痛みと叱られる恐怖で、桔梗の君は涙が滲んできた。
「桔梗の君とやら、じっくり説明してもらうぞ」
「ひええ~! はいい~!」
恐ろし気に睨み下ろす兄の視線に怯え、桔梗の君は恐怖あまり間抜けな返事をしてしまった。
「ところでそなたは見慣れぬ女房だが、何者か? 私の知らぬ者が妹宮の周囲に侍るはずがない。ここにいる訳を申せ」
「東宮様、こちらは五の宮様のご友人、式部卿の宮家の百合姫様です」
東宮が疑いの眼を百合姫に向けるので、桔梗の君は慌てて庇うように紹介する。乙女を危機から救ってくれた恩人が、不審者扱いされて、責められるようなことはあってはならない。
「畏れながら、弘徽殿の宴の時より、姫宮様とはお文を交わすほど親しくして頂いております。それを知っている兄、桂木の少将から、今宵、姫宮様が恐ろしい目に会うやも知れぬと言われました。公達がお側に付くことで姫宮の醜聞になることを避けるため、自分の代わりに今宵だけでもお側で女房としてお守りせよ、と。私は姫宮のお力になりたかったのです。目立たぬよう、梨壺北舎裏側の北の桐壺より参りましたところ、悲鳴が聞こえてまいりました。まさか、本当にこのような恐ろしいことが……」
先程の勇ましい様子とは打って変わって、百合姫は扇の陰で怯えるように身をわずかに震わせた。
「百合姫様! 本当は恐ろしかったのですね。なんて勇気がおありなのでしょう! ああ、ありがとうございます」
怯える百合姫を今度は桔梗の君が慰める。桔梗の君を助けた勇ましい姿は、か弱い姫が勇気を振り絞ってのものだったのかと思うと、桔梗の君は百合姫に益々感謝した。
実際は、怯えの欠片もない、かなりの迫力に満ちた勇ましい姿だったのだが、半ば背を向けられていたこともあり、桔梗の君は泣いていたのでよく見えていなかった。
その二人の仲睦まじい様子を東宮は誠かどうか若干疑いつつ見つめる。
「あの不埒者が来て、女と童の二人でどうしたのだ?」
「二人掛かりで屏風で押し倒しました。そこで不埒者がひるんだ時に、公達お二人がお助けに来て下さいました」
百合姫は扇の陰でわずかに怯えを滲ませるような口調で、さらりと偽りを二人に述べた。
思わず桔梗の君は、横目で百合姫をチラリ見してしまう。
女の見栄が掛かっているためだろうか? 仮にも宮家の姫君が勇ましく一人で蹴り倒したとは、恥ずかしくて殿方に言えないのだろう。百合姫の説明を桔梗の君は敢えて訂正しない事にした。
「畏れながら、東宮様、五の宮様のご無事なご様子を是非とも私にも確認させていただけないでしょうか? たまたま行き会ったとはいえ、私共も心配のあまりこのままでは帰れません」
橘の宮の本気で心配している様子に東宮は驚いたが、不審者を捕らえてくれたこともあり、薄情に冷たくあしらう訳にもいかない。そのため、姫宮が戻り、対面できる支度が整えば良い、と許可を出さざるを得なかった。
「さて、桔梗の君とやら、五の宮がいる所に案内せよ」
いたずらした子猫が母猫に捕まったように、桔梗の君は東宮に襟首を掴まれ、東宮の住まいである隣の梨壺へと連行された。
人払いをした小さな隅部屋に入れられて、東宮に頭に拳骨一発ゴンと落とされ、ここで待つようにと命じられる。
ズキズキする頭部を撫でていると、松竹の両式部が袴や袿などの女衣装を持って慌ててやって来た。
姫宮の日常着に相応しい袿姿に桔梗の君は着付けられ、顔を見られないようもう一枚袿を頭から被って、更に扇で顔を隠す。如何にも怯えて身を隠していました、という風情の姫宮になった。
着付けをしてくれている間の松竹の両式部の話によると、東宮の許しを得て、百合姫は梨壺北舎から既に下がっていた。
百合姫は麗景殿の女房扱いではあるが、今回は非常時のお忍びの参内だった。そのため今夜の騒動を大事にしないためにも、目立たぬうちに姿を消した方が良いとなった。そして月の光が消えるように姿を消したらしいと二人は語る。
おそらく兄君の桂木の少将の助けにより、どこかの局で明け方を待ち、こっそり御所から退出するのだろうと、桔梗の君は身支度を整えられながら聞かされた。
もっとしっかり感謝を伝えたかったのにと、桔梗の君は身を挺して助けてくれた百合姫に申し訳ない気持ちになる。後でお礼状を書いて届けさせることにした。
夜更けということもあり、桔梗の君は姫宮として、兄東宮の梨壺で御簾越しに橘の宮と頭の弁に面会した。もちろん、東宮も奥の上座にいる。
「この度は、梨壺北舎にて、私の友人や文遣いの君をお助けいただき、感謝しております」
とりあえず、桔梗の君は怯えた風を装って、おずおずと橘の宮に礼を述べた。五の宮を直接助けた訳ではないが、その友人と文遣いを助けたことになっているからだ。本当は、倒れた怪しい男を連れ出しただけに過ぎないが、しようがない。
「畏れ入ります。ああ、お助け出来て良かった! 姫宮のご無事なご様子に、私、安堵いたしました。尊き血筋のなせる業か、姫宮は機転も利かれるだけでなく、多くの忠義者に囲まれる素晴らしいお方だ」
「……はあ?(あなたが助けたのは姫宮の文遣いの童と女房でしょう? 姫宮の私ではないでしょう?)」
「いついかなる時も醜態を晒さぬ、その高貴な女らしいお振る舞いに心惹かれるばかりです」
「……」
何故か舞い上がって語る、橘の宮の『顔を晒す』『醜態』の言葉で、東宮からの鋭い視線を感じる。桔梗の君は誤魔化すようにツイッと視線を反らした。既に文遣いの童になって顔を出し、多くの公達に直に会い、人前で吐く、など姫としてはあり得ない程の醜態を実は晒していたからだ。
「己に仕える者のために、気高き血筋の主が礼を述べるなど、そうそうできません。それだからこそ、忠義な臣下が集まるのでしょう。姫宮は、本当に人思いのお方なのですね。私はその深くお優しいお心に感動しております」
「……はあ?(礼ぐらい誰でも言うものではないかしら?)」
御簾越しで薄暗くて桔梗の君にはよく見えないが、気のせいか橘の宮の頬が薄赤く染まっている。その仕草も洗練された親王というより、恥ずかし気に焦って語っている風だった。
「兄上様、東宮様のために自ら縫物をされるお心遣いもまた、女人らしいお優しいお人柄を映している。私はこの後宮で生まれ育ちましたが、このような尊く素晴らしい姫をこれまで知っておりません。私はあなた様に深くお心を寄せてしまいました。どうかお文などお返事いただけないでしょうか?」
「……はあ?(縫物が尊い? 皆、やっているけど?)」
「ああ、ご了承下さるとは!」
(してません!)
思わず桔梗の君の口から否定の言葉が出る前に、東宮がぱしんと扇を鳴らした。おかげで姫宮らしからぬ失態を犯さずに済んだ。姫宮とは奥ゆかしく、静かに黙っているのものだ。
「もうよいだろう。この度の件で五の宮は動揺し、疲れている。橘の宮、下がるが良い」
「はい。では、お文のお返事をお待ちしております。御前、失礼致します」
一人で好きなだけ語って熱く盛り上がった橘の宮は、ウキウキ気分の様子で梨壺を下がっていった。その姿に圧倒されたのか、背後に控えていた頭の弁は、逆に一言も話さず一緒に帰って行った。
「変わったな、橘の宮。以前は病がちで体弱かったためか、卑屈で、僻みの面が出ていたんだが。なぜか今宵は舞い上がってご機嫌だ。宮が崇拝する帝の血筋の姫宮を助けて、強い英雄気分にでもなったか。己を強い男にした、か弱い姫宮に恋する、夢見る英雄の出来上がりだ」
「変な事を仰るのは止めて下さい。助けたのは、文遣いの童と女房をでしょう? なぜ私を、五の宮を助けたことに? それを言うなら、百合姫様の方が先に駆けつけて助けてくれたのです」
「ああ、そうだが、橘の宮の頭の中では違う事になったようだな。百合姫には、後で桂木の少将を通して礼を伝えよう。さて、人の少ない梨壺北舎にお連れしよう、『尊いお血筋の五の宮』。『文遣いの桔梗の君』について、是非とも聞かせてもらうぞ!」
怪しい鬼のように東宮に微笑まれて、桔梗の君の頭上には雷雲が立ち込めた。




