舞台の裏側で
2017/05/04 誤字脱字を修正しました。
帝の月の宴で一番手に舞を舞わねばならないことから、桂木の少将はとある空き御殿の中で支度を進めていた。
この日のために紅葉の少将とお揃いで仕立てた衣装を乳姉妹の若女房二人掛かりで身に着けていく。畏れ多くも帝や姫宮様達の前で舞うのだ。失礼の無いよう入念に、着付けが緩すぎないか、固すぎないか、肩や袖回りを確認する。
「畏れ入ります。桂木の少将様、お支度中、申し訳ございませんが、よろしゅうございますか?」
御簾の外の簀子から、東宮の下で親しくしている陰陽師の君から声が掛けられた。声にわずかながら焦りがにじんでいるようだ。
「陰陽師の君、どうされた?」
「急ぎ、お伝えします。先程、前斎宮様が宴にご参加のため後宮に参内されました。この事は前もって誰も存じていないご参加でした。周囲の者達曰く、急に帝がご招待を思いつかれたとか」
「そんなことはあるまい。おそらく前もって帝が内密にご招待されていたのだろう。ああ、そうか! さては、前斎宮様を後宮に呼ばれることで……。やられたな!」
手に持っていた扇を忌々し気にパシンと膝に打ち付ける。
「はい。前斎宮様の御付き添いとして、ご子息同然に可愛がられている橘の宮様も参内されました。公的な儀式ではない宴なので、お身内としてご招待されたようです」
「こんな急では右大臣と言えども、反対もできない。誰が入れ知恵したのか! ご息女の女三の宮様の婿探しだけでなく、東宮位争いに負けたご子息を参内させるための宴でもあったか……」
「いかが致しましょうか? 今の所、目的が分かりません。単なる親子の対面なら良いのですが、不穏な気配が致します。私の身分では、帝のお側におられる方を見張ることもできません」
桂木の少将は橘の宮をどうするか、しばし考える。女五の宮様か政敵の東宮様か、何を狙っての参内なのかが読めない。
二人の姫宮の婿選びの宴であることは誰もが知っている。これを機会に、橘の宮と女五の宮とで親しく話でもさせたいのが、帝の意向だと思う。
姫宮も宴に参加する以上、橘の宮との顔合わせはそうそう逃げられない。だが、姫宮の兄東宮が結婚に反対していることから、橘の宮が顔合わせの後、姫宮を得るためどのような強引な手段を取るか考えるだけでも恐ろしい。
梨壺北舎に忍び込んで無理矢理に一夜を過ごし、周囲に恋人となった事を態とらしく発見させる。問い詰められたら、顔合わせの話の時に姫宮と想いを交わしたと言い張ってしまえば、これ幸いにと帝の圧力が掛かり、また世間体と醜聞から、即ご結婚になってしまうのだ。
そうなれば、女五の宮様の夫として相応しい官職を帝は可愛い一人息子に与えることができる。無職ではなくなり、将来も安泰である。
ふと、女五の宮を慕って主と仰ぐ、無邪気な桔梗の花のことを桂木の少将は思う。
主が傷つけば、あの花の君も悲しみ萎れてしまうだろう。主を護るためと言い張って、恥ずかし気に頬を紅く染めつつ少年の姿にまでなって、紅葉の少将から剣術を習っていた姿が思い出される。
「少将様?」
「舞が終わった後、紅葉の少将を橘の宮に張り付かせよう。明るいあいつなら、上手く酒宴に橘の宮を引き込めるし、警護と称してずっと傍にいられる。東宮様が麗景殿の女御絡みで右大臣派なら、紅葉の少将は対抗する左大臣家の次男。右大臣家の反対派閥にも思えるから油断するだろうし。その間、私は後宮の警護に気を配ろう。そなたは東宮様の幼馴染としてお側で警護を。本当の所、誰が狙われるか分からないからな」
「畏まりました。不穏な気配は橘の宮様からだけではありません。誰もが裏側で何かを企んでいる邪気が満ちています。気を付けて下さい」
「分かった。私も万が一に備えよう」
何とも嫌な予感がした。命令を受け、音も立てずに静かに去る陰陽師の気配が完全に消えるのを待ってから、桂木の少将は着付けをしていた二人の若女房に念のためにと、ある事を準備するように命じた。
二人はひどく驚いたが、共に育った乳母の娘達なだけあって、主を信じて命令に従う。
桂木の少将は支度を終えると、舞に集中すべく、一度深呼吸して不安な気持ちを抑え込んだ。
舞に動揺や不安が現れてはならない。わざわざ帝からご指名され、親友と練習を積んだ舞なのだ、無様な姿は見せられない。絶対に成功させるべく、気持ちを切り替え会場へと向かった。
広い庭に特別に設置された舞殿に、注目の二大美形貴公子が上がり、御簾内におられる帝に向かって礼をとる。
美しいであろうと期待される舞を御簾内からでもはっきり観ることができるようにと、舞は日が暮れる前に始まった。
雅やかな楽が流れ出す。奏者の中には山吹の君もおり、練習の成果を示すように力強くも美しい横笛の音色が響き重なり渡る。
ああ、練習よりも、今までで一番美しい音色かもしれないと、桔梗の君は思った。
数種類の笛の奏者に箏の奏者達。皆、下手な儀式の時より気合が入った演奏だ。なぜなら、目の前の二人の少将の舞があまりに素晴らしいからだ。奏者の誰もが負けまいと、あるいは互いを引き立て合うかのようだった。
紅い夕日を浴びる舞人の翻る袖。スッキリ伸びた背筋に、音色に乗った優美な動き。
紅葉の少将の雄々しく男らしい熱意を滲ませる舞に、桂木の少将の銀の月の光を思わせるような妖しくも凛々しい中性的な美しさに満ちた舞。
印象の異なる二人なのに、真剣な視線を絡ませ、呼吸を合わせ、足並みを揃えて近付き遠ざかるその姿に、女人の誰もが扇の陰で顔を赤らめてため息を零す。特に時々向けられる視線に胸をときめかしてしまう。
周りを囲む女房達も、年寄りの松竹の両式部でさえ、時折こちらに向けられる視線に顔を赤らめる。
若い女房達に至っては、いや~! こちらを見たわ! あれ~! お背に色気が! など訳の分からない悲鳴のような歓声を上げている者すらいた。
この黄色い歓声と興奮している女房達の壁により、桔梗の君には先程末席に追いやった姫宮の憎悪の視線と呟きが届いていなかった
本当はこのときめきを一番の特等席で感じているはずだった人物が、不満に満ちた視線を上座へ向けている。
帝に可愛がられている姫宮として、自分は誰よりも敬意と二大美形貴公子の流し目を受けるはずだったのに! と女三の宮は腹立だしくてならなかった。
あの二大貴公子は自分の婿候補なのに! 何故その姿を二番手で観ねばならないのか。ちゃっかり虎の威を借る狐、いや狸の女五の宮に恨みが湧く。恐ろしい虎の前斎宮も、兄を可愛がっていたのだから、その(異母)妹である自分の味方をしてくれてもいいのに! とも思う。
ぶつぶつ言っている三の宮の背後の几帳に、誰かが絹音をずりすりと立ててすり寄って来た。
「なんてお美しい貴公子達でしょう。あの方々が、三の宮様のお婿候補ですのね。皆が羨ましがっておりますわ」
「あら、滝尚侍、お父上様のお側ではなく、こちらにいたの? 尚侍のあなたの席は、もっと末席では?」
図々しくも姫宮たる自分に話しかけてきたことを不快に思い、三の宮は父帝の身分低い寵妃を冷たくあしらう。
だが、若い娘の嫌味など気にもせず、滝尚侍は三の宮相手ではなく、扇越しに誰に聞かせる風でもなく、独り言のようにヒソヒソと呟く。
「それにしても、本来この宴の主役であられる三の宮様をこのような所に座すなんて、間違っておりますわね。あの貴公子達の視線の先には三の宮様がおられるべきはず。このような無礼はあってはなりません。帝のお耳に入れば、ご不快を示されるでしょうね。ましてや前斎宮様をご自分のために利用されたなんて聞けば」
「そうよ、あの五の宮は前斎宮様を利用したのよね! 許されないわ! 私、お父上様に申し上げねば! お父上様は、それはそれは姉君の前斎宮様を大事にしておられるのだもの。きっと五の宮はきついお叱りを受けるわね!」
「ええ、きっと帝も生意気を言えないよう、さっさと適当な公達とご結婚させてしまわれるでしょう。そうなれば、無礼な振る舞いは止めて、大人しくなるでしょう」
「そうよね。両少将と右大臣家の子息は私のお婿候補だから、他の残った身分の低い誰かと結婚してしまえばいいのよ! そうなれば私の方が上だわ!」
滝尚侍は微笑みつつ、不満を零す三の宮を煽るだけ煽ってから、否定もせず、相槌も打たず、そのまま静かに下がって姿を消した。
「あら、何よ。断りもなく下がるなんて。滝尚侍も無礼よ! ……誰か、文の用意をして! それと従兄弟を呼んでおくれ。お父上様に私のお文を届けさせたいのよ」
文遣いにと、出世のために自分を当てに胡麻をすってくる母方の従兄弟を三の宮は呼び寄せる。
帝に近付く機会が得られると、喜んで馳せ参じることを三の宮は知っていた。きっと誰よりも早く、事のあらましを書いた文を帝の御られる御殿に持って行ってくれるはずだ。
碌に舞も観ずに、急ぎさらさらとお文をしたためた。
秋の夕日が名残惜し気に沈む頃、二人の少将の見事に呼吸が合った舞は終わってしまった。あまりに雅やかで美しかったその姿に、褒めそやす声が上がり、大きな拍手で迎えられた。
桔梗の君の周囲にいる女房達がそれぞれに、桂木の少将の凛とした美しさ、紅葉の少将の男らしい美しさについて、頬を赤らめ、ため息をこぼす。素敵過ぎる! もう死にそう! など呟いていた。この場に居られた者は幸運だったとも言っている。
「五の宮、素敵でしたね! 帝もこんな宴に女人まで参加させて下さるなんて、なんてお優しい! 殿方だけで独占して良いものではありませんね!」
「本当に(というか、女人が観るべきものよね。殿方も美形にときめくの?)。両少将様そろって、お見事な舞でしたわ(どちらも素敵すぎる!)」
「他には? 他にも素敵な者がおりましたでしょう?」
両少将の舞が高評価を受けたようでホッとした桔梗の君だが、前斎宮様はまだ何かを主張されたいらしい。他にも褒めるところは? と一生懸命考える。
「(あと、誰がいるっていうの?)雅楽も素晴らしい演奏でした。(やっぱり)山吹の君様の横笛が一段と素敵で。皆がときめいてしまったようですね」
「他には? ……箏などは?」
「(箏なんて見てないわよ。)そ、そうですね。箏の音も大変素晴らしゅうございました。舞人もさぞ、踊りやすかったでしょう(私と山吹の君との演奏の方が、出来が良いと思うけど)」
「ええ、確かに! 音色も素晴らしかったけど、大変美形な公達でしたね! あれぞ、正統派の美形公達というものです!」
(いたかしら? そんな正統派の美形なんて? 山吹の君ばかりが目立ってたから。まあ、好みなんて人それぞれだし)
肩を掴む勢いで前斎宮が箏の奏者を褒めさせようとするので、おべっかで褒めておいた。迫る前斎宮の目つきが桔梗の君には妙に怖い。
だが、正直言うと、桔梗の君にとっては山吹の君の演奏する姿ばかりが印象深いため、箏の奏者はほとんど印象に残っていない。言われてみれば、若い公達だったかもしれない、という程度だった。
「そのように、五の宮がご興味をお持ちなら、あれは私の知り合いですので、呼び寄せましょう。お褒めの言葉なりとお掛け下さいね。殿方の喜びになるでしょう」
「え? そんな(興味なんてありません)、何もお呼びにならなくても……(呼ばなくていい! 呼ばないでよ!)」
「今すぐ呼びますね。誰か! あの子をここへ!」
桔梗の君の返事など全く聞かないまま、強引に箏の奏者を前斎宮は呼び寄せてしまう。
その命令を聴くや、なぜか松竹の両式部の方が慌てて前斎宮の席の反対側で、桔梗の君の前後にすり寄って座し、横にどけてしまっていた几帳などを元の御簾の前に移動し直す。これから現れる公達から桔梗の君の姿を隠すように。
竹の式部が扇越しにそっと桔梗の君に忠告した。
「姫宮様、お気を付けて下さいね。橘の宮様が参られるのです。誤解されぬような受け答えを。前斎宮様がおられるため、おそらく私達の取次無しでお返事することになります」
「!!」
兄東宮の政敵で、自分に求婚している橘の宮様との突然の体面に、タラリと緊張の汗が流れる。
そういえば、この宴は姫宮達の婿探しのために開かれたのだったと、桔梗の君は今更に思い出す。
だが、これほど強引に殿方と引き合わされるとは誰も想像しない。仮にも高貴な姫宮ならば、御簾や几帳の向こう側で女房に守られ、取り次がれて話をすることさえ稀なはずだからだ。
前斎宮の『お願い』は高くついてしまったと、桔梗の君はため息を零した。権力を得ると代償を払うものなのだと実感した。
「まあ、素敵な公達を前にして、緊張されるのは分かりますよ。でも一族の中でも近しい仲なのですから、気楽にお話なさいませ」
(そもそも、話なんてしたくないし……)
御簾の向こうで優美な姿の細身の若い公達が現れ、挨拶してきた。
「斎宮の伯母上様、五の宮様、失礼致します……」
その薄幸の美少女ならぬ薄幸の貴公子の姿に、前斎宮はニコニコ顔で応えている。
確かに優美な美形だが、桂木の少将のような凛とした輝く月光も、紅葉の少将のような生き生きとした力も欠けた感じだった。政の諍いに負けた敗北感で、薄幸そうに見えるのかもしれない。またそこが、前斎宮の庇ってあげたいという母性本能をくすぐっているようだった。
ほとんど前斎宮が二人の間で話を振り、それぞれが和やかに受け応えるように会話が進む。気があるような素振りは見せたくないので、自然、桔梗の君の返事は、あら(へ~)、まあ(ほ~)、そんな(ふ~ん)! など短いものになってしまった。
「五の宮様は、本当に奥ゆかしいお方だ。聞くところによると、兄君のために縫物をよくされておられるとか。やんごとなき姫宮であられるのに、自ら縫い針を持たれて尽くされるとは。女性らしい素晴らしいお心遣いですね」
「まあ、そんな。(自分が童姿になる時に着るために、縫い直したんだけどね)」
「あなたの婿になられる公達は、幸運だ。姫宮の優しいお心遣いをその召し物にいつも感じていられるのだから」
「お恥ずかしゅうございます(いいから早く帰ってよ。次の演目が始まってしまうではないの!)」
若人の和やかなお見合いの様子に、前斎宮は満足気なご様子だった。この恐ろしいお方の機嫌を損ねないような受け答えになるよう気を遣うが、それがまた橘の宮の機嫌取りになっていることに、桔梗の君はイライラしてきた。
そんな時、またもや舞台の方が騒がしくなってきた。
「あら、前斎宮様、ご覧になって。次に舞台に上がったのは……、まあ、東宮様と山吹の君様だわ!」
「まあ! 聞いてはおりませんでしたが、両少将と同じくお二人で舞われるようね」
実は、右大臣による強引な追加演目だった。左大臣の息子にばかり称賛が集まるのを良しとしない右大臣が、自慢の若い一人息子と婿に当たる東宮を引っ張り出したのだ。
急なため、短い舞となる。とにかく帝の前で目立った者勝ちだからそれで良い。
東宮さえも舞わせるほどの右大臣家の強大な権力とその強い結びつきに、貴族たちは驚愕した。右大臣家、恐るべしと。
実はお行儀良くじっとしているのを好まない東宮にとっては、渡りに船だった。舞は少々恥ずかしいが、もう身体を動かせるのなら何でも良かったのだ。だから恐縮する山吹の君の肩を叩いて、何でもない事だと微笑んだ。
横笛担当の山吹の君が抜けた所に紅葉の少将が、箏担当の橘の宮が抜けた所に桂木の少将が入る。急きょ演奏することになった曲目を互いに確認し合う。
人気急上昇中の美形二人、東宮と山吹の君が舞台に上がり、舞が始まった。
松竹の両式部同様に、例に漏れず、やはり前斎宮も美形には弱い。二人の舞う姿に夢中になって、一心に御簾の向こうを見つめる。もはや話す余裕もないのか、無言になっていた。
男らしい色気に満ちた美形東宮と、青年になり切れていない可愛らしい少年との組み合わせは、意外にも絶妙な組み合わせで、目を引くものだった。
余裕のある青年が美少年を導くかのような心が、少年が青年に追いつこうとする熱意が、互いに絡め合う視線に、舞いに表れている。
またあちらこちらから、熱の籠ったため息が零れる。なぜか顔を赤らめ、恥じらうように扇や袖で顔を隠しつつ、チラリ見している女房や女官もいた。
「ああ、上手くお逃げになられましたね、五の宮様。あなた様を含め、皆、舞人に夢中だ。……確かに私はかつては兄君の政敵でした。ですがあなた様には、改心した私をあなた様の目でお確かめいただきたい。こうしてご紹介いただけましたし、いずれまた、お目に掛かれると信じております」
ついっ! と御簾に身を寄せて、橘の宮はそう桔梗の君に囁いた。
舞人の妖しい視線と無垢な視線が絡まるたびにキャー! と声が上がる。敢えて、桔梗の君は女房の黄色い歓声でその言葉を聞こえなかったふりをして、応えなかった。
「いや、必ずやお目に掛かります」
(いや、来ないで下さい。来ないでよ! 誰もお会いしますなんて、了解していないでしょう!)
そ知らぬふりが、反って男心を刺激してしまったらしい。桔梗の君にとって非常に迷惑な事に、必ずや会うと断言されてしまった。二人を引き合わせた前斎宮が目の前に座している以上、お断り申し上げます、とはとても言えない。
前斎宮は二人の遣り取りを聞こえないふりして、ばっちり聞いているのだ。耳をさりげなくこちらに向けているし、扇で隠している口元が嬉しそうに上がっているのが、桔梗の君に見えた。
ああ、もし会いに来たらどうしたらいいの、失敗しちゃったかも? と桔梗の君は内心で頭を抱えてしまった。




