苦い思い
2017/05/03 誤字脱字を修正しました。
いつもは年寄り女房しかいないはずの梨壺北舎は、その時だけ若い女房で大賑わいになった。何故なら、噂の天女の百合姫が女五の宮様に挨拶に来ると聞きつけて、一目見てみたいと東宮の梨壺にいた者達が急に押し寄せたからだ。
本日、後宮から退出するというので、側仕えの女房二名を従えて、女五の宮様に挨拶するため、百合姫はしずしずと麗景殿から渡殿を渡ってやって来る。扇に隠されたその顔は御簾内からは良く見えないが、滑るように歩く姿を北舎だけではなく、途中の東宮が住まう梨壺の女房達も見つめていた。
「とても背が高い姫ね。女としては信じられないほどよ。あれは残念ねぇ」
「結構、大柄な方ね。肩幅も広いようよ。あれでは下手な殿方よりご立派なご様子だわ」
「お顔を隠されているけど、本当に天女のように美しいのかしら? お美しい兄君の桂木の少将様のご様子から、誰かが想像し過ぎたんじゃないかしら?」
皆、聞こえるように陰口を叩く。なぜなら百合姫が東宮あるいは帝の下に入内するかもしれない、という無責任な噂が走っていたからだ。我こそは東宮様や帝のご寵愛を受けようと野心に燃える女房や女官に、恋敵として見られてしまったのだ。
しかし、悪意に満ちた声に全くひるむ様子も見せずに、扇で顔を隠しつつもスッキリ背を伸ばし、滑るように通り過ぎる姿は、月からの使者といってもいいほどの上品さと威厳に満ちていた。
梨壺北舎の内廊下の廂に百合姫は案内される。内側の御簾の更に几帳の向こう側で、女五の宮は招いた客人を迎えた。姫宮は東宮の同腹の妹であり、母上も宮家の出の女御であったことから、忘れられていた姫宮でもこの上なく高貴な血筋の人物である。そのため、百合姫は直接ではなく、取り次ぎの年寄り女房を介して挨拶を伝えてもらった。
女五の宮は、可愛がっている文遣いの童を助けてくれたことを非常に感謝しているという。更には、麗景殿の女御様のご友人であるように、百合姫とも友人になりたい、お文など交わし、名人技とも噂される箏などもいつか聴かせもらいたい、と仰せだという。
畏れ多く思いながら、身に余る光栄ですと伝えると、女五の宮様に喜んでもらえたようだった。
これまで会う機会さえなかったのに、何故こんなに親しくなりたがるのか、百合姫は訝しむ。
御簾と几帳のあちら側とこちら側に隔てられたままではあるが、珍しい唐菓子を勧められる。共に美味しい菓子を口にしながら、朗らかに会話が進んだ。
その会話で何となく百合姫は察した。どうやら女五の宮様には、麗景殿の女御の他に親しい若者がいないらしい。一番傍の周りを固めているのもかなり年寄りの女房達である。
その他のこの場に押し寄せている若い女房達とは親し気な雰囲気はない。この人の多い後宮に住みながら、15歳の年若い姫宮は、若者同士の交流に飢えているようだった。
大切に傅かれてはいるのだが、姫宮は寂しいのだと百合姫は理解した。それ故、可哀想にも思い、仲良く文を交わしましょうと約束をした。
大勢の女房に囲まれて、全く寛いだ雰囲気にはならなかった訪問だったが、東宮が業とらしく『偶然』に女五の宮を訪問してくることもなかったので、百合姫はほっとした。最後に、伏して礼をし、やり遂げた安心感に満たされて、百合姫は梨壺北舎を出た。
「百合姫! どうか、お待ち下さい!」
渡殿を歩いていると、突然、庭から凛々しくも思いつめた青年の声が掛かった。
「突然のご無礼をお許し下さい。私は左大臣家の少将です。これまで兄君を通して私の気持ちを伝えて参りました。どうか、文を交わすことだけでもお許し下さいませんか?」
こんな日が高いうちから人目につく渡殿で声を掛けられ、百合姫は戸惑った。だが、庭からこちらを見上げる少将の眼差しは、あくまでも真剣だった。若い女房に向ける、気軽な戯れの声かけでは決してない。
この少将の百合姫に向ける想いは本物なのかもしれないが、絶対に応えてあげられないのが哀れだった。
「……少将様。私は殿方の想いに応えることはできぬ身です。これ限りに、お諦めいただきますようお願い致します。いずれ出家するつもりですので」
「こんなにもお若くお美しいのに何故? 何をそんなにお悩みなのです? 私ではお力になれませんか?」
「お優しい少将様。ですが、どうかお許しを。私の出家する意思は変えられません。お優しいお気持ちを受けられない愚か者を、どうか、お忘れになって下さい」
そう言い残して、百合姫は紅葉の少将をその場に残し、しずしずと歩み去っていった。とうとう叶わぬ思いを諦めたのか、紅葉の少将は沈痛な面持ちで、天女の退出を黙って見送った。
その二人の遣り取りを聞いた女房達は、何よ入内の噂は嘘だったのね、と一斉に安堵したらしい。
優しい百合姫と(桂木の少将を通して)文を交わす約束ができて、桔梗の君は喜びに溢れていた。
正式に女五の宮様として会っていたが、御簾越しに見える姿や声が兄君の桂木の少将を思い出させて、恥ずかしさに緊張した。幸いにも女房を介しての会話だったためか、顔が紅くなったのを勘付かれずに済んだようだった。
これからの姫同士の交流が楽しみだった。
うきうき気分で文遣いの童姿になり、いつものように舞の練習場になっている庭に琵琶を持って行ってみた。すると珍しくいつも元気な紅葉の少将が、どんより暗い雰囲気で意気消沈している。傍にいる山吹の君も、落ち込んでいる少将をどうしたらよいかと、困っている様子だった。
そっと二人に近付き、少将を刺激しないようにヒソヒソ声で山吹の君に桔梗の君は問いかけてみた。
「山吹の君様、少将様、どうされたんですか? いつもと違ってご様子が……」
「梨壺の女房達が注目する渡殿で、百合姫に声を掛けたら、振られてしまわれたんだ」
「ええ! 人前でお声をお掛けになったんですか? 百合姫様、恥じらわれたんじゃ?」
「いや、出家するからって、バッサリ切り捨てられたらしいよ。後宮中で噂になっている。噂に傷つく少将様ではないけど、失恋で激しく落ち込んでしまわれたんだ。岩みたいに固まって碌にお返事もない」
恋敵から天女が外れたのは良いが、こんなにも落ち込んでいる紅葉の少将を見るのも、桔梗の君には辛かった。紅葉の少将にはいつも太陽のように楽し気に笑っていてほしい。
そこへ銀の月のような輝きの桂木の少将が現れた。桔梗の君に悪戯気な視線を送り、微笑みかけてきた。思わず、桔梗の君は昨夜の『約束』を思い出してしまい、一気に顔が熱くなってしまう。
「あれ? 桔梗の君、顔が紅いよ? お熱かな? 桂木の少将様、舞の練習、どうします? 紅葉の少将は落ち込まれて動かないし、桔梗の君はお熱でのぼせているようです」
「二人とも大丈夫だよ。直に治るさ。ねえ、昼の桔梗の君?」
揶揄いを含む桂木の少将の『昼の桔梗』の言葉にビクッ! と反応して、さらに顔が熱くなったのを桔梗の君は感じた。
「なら、そうだ! 麗景殿にご機嫌伺いに行きませんか? 姉が桂木の少将様に百合姫のことで礼を述べたいと言っておりました。無理に参内してもらって感謝していると」
山吹の君の『百合姫』の言葉に、今度は身を小さく屈み込んでいた紅葉の少将がビクッ! と反応した。
「そうだね。紅葉の少将が心ここにあらずで練習にならない。気分転換に麗景殿を訪問させてもらおう」
「お菓子もあるよ、桔梗の君。一緒に行こう!」
麗景殿へと共に行こうと促すため、山吹の君が桔梗の君の肩を抱こうとした時、さり気無く桂木の少将がその山吹の君の肩を掴んで阻んだ。
「まずは、二人でこの岩になった男を運び出そうか、山吹の君。両側から肩の下に手を入れて立たせるぞ。桔梗の君は済まないが先触れに麗景殿へ行ってくれないか? この固まった岩も連れていくと」
「分かりました。お伝えしますね」
麗景殿へと先に向かった桔梗の君の姿を残念そうに見つめてから、山吹の君は桂木の少将と共に手を貸し、紅葉の少将を無理やり立たせる。そのまま両脇から支えるように、三人で歩き出した。
(やっぱり、少将様と桔梗の君は感触が違う……。あの子はもっと柔らかくて細かった……)
山吹の君の胸に小さな疑問が根付いた。
麗景殿では美形四人組の訪問を大歓迎した。女御の弟君はよく訪ねてくれるが、二大貴公子揃ってのご機嫌伺いはめったにないため、若い女房達を中心に華やかな明るさで御殿が盛り上がる。
ただし岩になった一点を除いて。
「桂木の少将様には妹姫様に無理を伝えていただき、まことにありがとうございますと女御様は仰せです」
「いえ、妹も大切な友人のお役に立てて嬉しいと言っておりましたから」
麗景殿の内廊下の廂に四人は招かれた。それでも目立たぬようにと桔梗の君は何気なく身分の下の童として、桂木の少将の後ろに隠れるように座す。
その桔梗の君に唐菓子の盛られた盆が、若い女房から差し出された。
「桔梗の君も見事な琵琶演奏でした。女御様がお褒めですよ。ご褒美に、その唐菓子を召し上がるように、とのお言葉です。これは弘徽殿の女御様からいただいた菓子です。後で梨壺北舎に届けようとしておりましたが、こうしてここで食べてもらえて良かったと仰せです」
「せっかくだから、遠慮せず、召し上がると良いよ。桔梗の君、遠慮せず」
朗らかな女御の取次役の女房の小雪と、にこにこ笑顔の山吹の君に勧められたこともあって、桔梗の君は遠慮なくいただくことにした。自分が好きな菓子の一つでもあったし、素直に食べる方が文遣いの童らしくて良いとも思う。
一つ摘んで上品に小さく齧る。
「どう? 美味しいかい?」
「いつもより、苦みが口に残ります」
微笑む山吹の君にそう答え、手に持っていた残りの菓子を口に運ぼうとしたところ、桂木の少将が素早く叩き落とした。
突然の乱暴を不思議に思って、見上げた桂木の少将の顔は蒼白になっている。
「?」
「すぐに吐くんだ! 桔梗の君! 他の皆も食べてはならない!」
乱暴とも言えるほど急いで抱いて連れ出された桔梗の君は、麗景殿の外の庭で、桂木の少将の手で無理矢理口にしたものを吐き出させられた。
その姿を驚きの表情で見ていた紅葉の少将と山吹の君に、桂木の少将が怒鳴る。
「毒だ! 山吹の君は急ぎ弘徽殿へ! 紅葉の少将は承香殿へ急げ! 同じ菓子を皆が口にする前に止めろ!」
『毒』の言葉で、鞭を当てられた馬のように二人は麗景殿を飛び出していった。
幸いな事に上手く吐き出せた桔梗の君は、毒に中てられることはなかったが、恐ろしさに怯えて発熱し寝込んだ。
承香殿では紅葉の少将が隅から隅まで探したが、その菓子らしきものは無かった。
恐ろしいことに弘徽殿の女御は、その菓子を妹の麗景殿の女御にお裾分けした後、一口だけ食べていた。実は苦手な菓子だったのだが、帝から下賜されたものなので、一つだけでも食べようと思ったのだ。だが、苦みが気になり、妹に食べない方が良いと遣いを出すところで、山吹の君が蒼白な顔で飛び込んで来たのだ。
「姉上! お体は? 毒が、菓子に!」
「落ち着きなさい、山吹の君。私は大丈夫です。食べてから、もうしばらく過ぎていますが、何でもありませんよ。ああ、でも麗景殿の妹には食べないように言いなさい。……香りと味から思うに、あれは強力な下剤ではないかしら? これまで散々飲まされた薬と同じだったわ。あれで私にとっては産後の悩みの一つが解消されて、反ってスッキリな気分ですよ」
「う、うわ~ん! 姉上! ご無事なんですよね!」
毒を食べてしまった姉の元気な姿を確かめたくて、礼儀作法も放って山吹の君は御簾内に飛び込む。幼い頃亡くした母を思い出し、母代わりに慕う姉までも死んでしまうのではないかと、山吹の君は怖かったのだ。
弘徽殿の女御はその言葉通り顔色も良く、元気そうに微笑んでいた。
「良かった、姉上~! うえ~ん!」
「大丈夫、大丈夫ですよ。本当に、そなたはいくつになっても涙脆い子ですね。姉は元気ですよ」
ほっと安心してボロボロ流れる涙を拭いきれずにいるほど心配してくれた優しい弟を見て、弘徽殿の女御は久しぶりに胸を打たれた。
自分の背を抜くほど大きくなった弟の腕をそっと取って引き寄せる。母親のようにその豊かな胸に抱きしめ、ポンポンと幼子を慰めるように背を叩く。我が子といっても良いほど年の離れた弟は、今でも素直で可愛かった。
その夜、とある部屋で一人の女が、扇を怒りに任せて床に何度も打ち付けていた。忌々し気に何度も何度も。
念入りに仕込んだ強力下剤は、頑健な弘徽殿の女御には毒にすらならなかった。普通なら弱って寝込み、動けなくなるほどの薬なのに。その菓子をお裾分けされた麗景殿の女御は、童に下賜してやはり手も付けていない。そもそも普通なら、偽りとはいえ帝から下賜された菓子を盥回しに贈るなどありえない。
右大臣家の女達のあまりの傲慢かつ悪運の強さに、ただもう腹が立って仕方が無かった。
想像の中で、自分を馬鹿にした二人の女御の高笑いが聞こえて来る。ほーほっほっほっ! と。私達、右大臣家の姉妹を脅かせるものなら、やってみるが良いと言っているような。でなければ、今度は私達がそなたに牙を剥くぞと、脅す声も聞こえてきそうだ。
菓子を届けた女官は、さっさと御所から追い出し済みだから、自分がやったとバレるはずはないのが救いだった。
梨壺北舎ではその夜、桔梗の君は羞恥心のあまり、寝所に隠れるように寝込んでいた。幸いにも下剤によるお腹の不調は起きなかった。桂木の少将が、恥ずかしくも無理矢理吐き出させてくれたおかげである。
だが、仮にも花も恥じらう乙女が、吐くところを見られてしまったのだ。選りにもよって恋する紅葉の少将、気にかかる桂木の少将、更には山吹の君という宮中でも眩いばかりの美形達に! もう死にたくなるほど恥ずかしく、辛かった。少年の姿でいた事だけが救いだ。でも桂木の少将には娘と知られているし、と頭の中を様々な思いがぐるぐる回る。
毒を盛った者、絶対に許せぬ! 乙女の恨み、いつか思い知らせてくれる! と珍しく暗い気持ちで桔梗の君は犯人を呪った。
「右大臣家に関わると、何か酷い目に会っているような気がするわ、私。怪我したり、毒を口にしたり」
「姫宮様、まずはゆっくりお休みください。お心安らかにしていれば、一晩か二晩でお熱は下がります」
松の式部が濡れた冷たい布で額を冷やしてくれ、竹の式部は小さく切った果物を口に運んでくれた。果物には毒は仕込みにくいから、毒を恐れず食べられるのだ。
「おとなしくされているのが一番のお薬ですよ。すぐに治って、もうじき開かれる帝の月の宴にも出られますよ」
「あら、私、ご招待されていたの? 身内だってこと、忘れられてはいなかったのね」
桔梗の君はポツリと呟いた。




