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恋の衝撃

2017/05/03 誤字脱字を修正しました。

 これから日を追うごとに満ちてゆく月を想いを込めて見上げ、静まった後宮を忍び歩く。良く見知った所ではあるが、あくまでも御殿をつなぐ簀子(すのこ)からだけしか中を見たことはない。詳しい女房と親しくなっておけば良かったのだが、皆良く躾けられていて、戯れは歓迎するが手引きまではしてくれない。


 だが、若い新参女房の一人を口説き落とすことには成功していた。今宵、御殿の主はいないからあなたに逢いに行くと言って、そっと御殿の入り口の一つを開けておくよう言っておいたのだ。誰を偽ることになろうとも、この千載一遇の機会を逃す訳にはいかない。このまま別れては天女は黙って月に帰ってしまい、その姿は二度と拝めなくなるのだ。


 誰にも見つからぬよう、暗い月明かりの中、愛しい姫の下へと向かった。


 御簾内(みすうち)几帳(きちょう)の向こうで小さな灯の中、静かに脇息(きょうそく)にもたれて佇む愛しい人の気配を伺う。一人のようだった。そっと内廊下と部屋を隔てる御簾(みす)をからげて、中にするりと忍び込む。室内の蝋燭の弱い灯明かりだけを頼りに、膝立ちで姫が几帳の陰にいるのを確かめた。室内なのに何故か(うちき)を頭から被って脇息(きょうそく)にかがみこんでいる。慣れぬ後宮に怯えているのかもしれない。


 そっと近寄る衣擦れの音で人の気配を感じたのか、愛しい姫が几帳の陰で怯えるように身を小さくした。


「誰?」

「月を共に眺めて泣くために参りました鈴虫です」


 愛しい姫に、勇気を持ってズズイっと近寄った。




 初めて会って、初めて合奏するのに、琵琶(びわ)を奏でる桔梗(ききょう)の君と箏を爪弾く百合姫は、視線を合わせるだけで何故か呼吸がピタリと合う。まるで百合姫は、桔梗の君の拍子の取り方を聞いたことがあるかのようだ。百合姫の箏は、もはや名人技に近いのではと桔梗の君は思った。

 琵琶の音がこれまでになく美しく響いているのを桔梗の君は実感した。その調べに山吹(やまぶき)の君の横笛も美しく重なる。


 几帳越しとはいえ、こうして灯りの下でじっくり見てみると、百合姫は本当に兄の桂木(かつらぎ)の少将にそっくりだ。美しい女性のためか、桔梗の君を叱ってばかりの少し怖い桂木の少将より、天女の優しさに満ちている。桔梗の君が感じる親近感はそのためかもしれない。


 雅楽が終わるや大きな賞賛の歓声があちこちから上がった。弘徽殿(こきでん)女御(にょうご)様や右大臣へのおべっかもあるのかもしれないが、素晴らしい! や、見事であった! の声があちこちで言われる。

 右大臣家への偏りを見せぬようにと、百合姫の父、式部卿(しきぶきょう)の宮と桂木の少将の姿は見当たらないが、それでも美しき優れた百合姫への賞賛と憧れを秘めた声も囁かれた。


 弘徽殿(こきでん)の女御様方がおられる御簾内に向かって、三人で伏して礼をとる。

 

「見事な調べであった、と弘徽殿(こきでん)の女御が仰っておられます。山吹の君様も腕前が上がられ、姉として誉れ高いと。また、百合姫殿も、名人と言われる兄上の桂木の少将殿とそっくりの素晴らしい箏であったと、桔梗の君も幼いながら見事な琵琶の音であったと褒めておられます」


 帝の妃である弘徽殿(こきでん)の女御の言葉を側仕えの女房が、演奏した三人に伝える。

 更に東宮(とうぐう)の言葉も違う側仕えの女房が述べる。


「殊に、幼い桔梗の君、成人前でありながら大人に負けぬ見事な調べであったと、東宮様も仰っておられます。胸を打つ懐かしき調べであったと。特別に直にお褒め頂けるそうですので、御簾(みす)近くまで参りなさい」


 ビクッ! と桔梗の君は怯えて身を竦ませた。


 まずい。非常にまずい。御簾に隔てられ、御殿の内と外と離れていれば、薄暗い灯りの中、妹宮が男装してここにいることなど気付かないだろうと桔梗の君は思っていた。だが、そうはいかなかったらしい。さては琵琶の調べに思い当たるものがあったのか。

 以前、琵琶を(まつ)式部(しきぶ)(たけ)式部(しきぶ)から習っていた時、姫宮様の調べはお母上の調べにそっくりだと言われたことがある。兄東宮もそれで気付いてしまったのかもしれない。


 冷や汗が桔梗の君の背中を流れた。尊い身分の妹宮の男装冒険がばれたら、どんな大きな雷が落とされるか想像もつかない。


「面を上げよ、桔梗の君。遠慮なくこちらに参れと東宮様は仰せです。畏れ多いのは分かりますが、さあ! 固まっていないで、こちらに参りなさい」


 どうしよう! と恐怖に身がすくみ、伏したまま桔梗の君は動けずにいた。恐れ知らずの大胆な桔梗の君ではあるが、さすがに兄東宮の怒りが怖い。


「畏れながら、申し上げます」


 隠れるように几帳の陰にいた百合姫の女性にしてはかすれた声が弘徽殿(こきでん)へと響いた。


「良い、申されよ」

「桔梗の君は先程足を挫いており、自ら立ち上がれず、歩けませぬ。それ故、紅葉(もみじ)の少将様に連れられて、こちらの弘徽殿(こきでん)に参りました。非常に申し訳ございませんが、東宮様のお側に近寄れませぬ。どうかこの童の無礼をお許し下さい」


 またまた助け舟を出してくれた百合姫に、桔梗の君は涙が出そうなほど嬉しくなった。


「……東宮様は、幼いながら怪我した身でよく頑張ったと、褒めておられます。よく養生するようにとのことです」

「ありがたき、幸せでございます」


 恐ろしい兄東宮に近付かずに済み、ホッとした心で桔梗の君は更に深く伏して礼をとった。心の中で、真の理由も知らないのに庇ってくれた百合姫にも手を合わせて感謝した。


「足は大丈夫かい? そのような怪我でよく演奏できたね。私も気付かず済まなかった。なぜ紅葉の少将様に抱かれて現れたのか、よく考えればよかった。てっきり急いで駆けつけたからと……」


 山吹の君が心配顔で近寄って来て、痛みを無理して堪えているのではと桔梗の君の様子を伺う。


「お気遣い、ありがとうございます、山吹の君様。でも、座っている分には大丈夫でした。幼い、と皆様言われますが、これでも成人……とにかく、そんなに幼くありません! 大丈夫です」


 思わず15歳と本当の年齢を言ってしまいそうになったが、その年で成人の儀をしていない方が問題があると気付き、慌てて桔梗の君は誤魔化した。


「そうか。だが、もう童は下がっていいと思うよ。これからはただの酒宴になるだろう。……歩けぬのなら、私が連れ出してあげるよ。ほら、おいで」


 正直、桔梗の君は挫いた右足首の痛みが少し増していたので、辛かったのだ。左肩はそれほどでもない。とにかく正体がバレないうちに兄東宮から離れたくもあったので、素直に山吹の君の助けに縋ることにした。ただ、退出前にと、几帳の陰にいる百合姫に一度礼をとり、感謝を伝える。

 百合姫は、気にしなくて良い、頑張りましたね、とばかりに扇の陰から微笑んで見送ってくれた。


 弘徽殿(こきでん)では酒が振舞われ、演奏会と人寄せの成功に大いなる盛り上がりを見せ始め、成人前の童の退出も温かい目で容認された。


 山吹の君は自分より背の低い桔梗の君に肩を貸し抱きかかえるように、主である女五の宮のお住まいの梨壺北舎(なしつぼきたしゃ)へとゆっくり歩く。先程から妙な感触を感じて動揺していた。腕を回して支えている腰が細く、寄り掛かられている胸にも柔らかさがあるのだ。桔梗の君は特に恥じらうことなく寄り掛かっているので、無邪気そのものなのだが。


(子供だからか? この子、妙に体が柔らかくないか? 腰も妙に細い? ……痩せているのとは違うような? いや、だからと言って、姉上達ほど柔らかい訳ではないけど……。少将様とも違うよな)


 山吹の君の姉上達、弘徽殿(こきでん)の女御様や麗景殿(れいけいでん)の女御はご立派なお胸だよな、と常に弟ながら思ってはいた。幼い頃、亡くなった母を偲んで泣いていると、年の離れた母性本能豊かな三人の姉上達や、親しい麗景殿(れいけいでん)の女御に、代わる代わる抱いて慰められたから知っている。女性の胸は男性より温かく柔らかいと。たまに取っ組み合いなどをする紅葉の少将様や少年達とは全然違うのだ。


 密かに山吹の君の『ご立派な姉上達』と比べられたと、もし桔梗の君が知ったなら、屈辱に怒りの声を上げたことだろう。知られなくて、山吹の君は幸いだった。


「あ、あの、少し腕の力を緩めていただけませんか? 少し、きついです」

「済まない! つい! その、桔梗の君があまりに弱く感じたんだ。倒れるんじゃないかと」


 何故かあわあわしながら、山吹の君が抱えていた腕の力を緩める。その頬がうっすら紅く染まっているのを桔梗の君は不思議に思った。

 

「ご心配かけて申し訳ございません。私もつい、痛みから山吹の君様に頼ってしまって。紅葉の少将様がご覧になったら、男なら、もっと頑張れ! と言われるかも」

「そんな事ないよ! 怪我してるのだから。私をもっと頼っていいよ」

「文遣いの童にお優しいですね」


 自分より背の高い山吹の君を見上げて、感謝を込めてにっこり微笑んだら、さらに山吹の君の顔が紅くなった、何をそんなに照れているのか、ますます桔梗の君には理解できない。


「あの、その上目遣いで見られると……、いや、いいんだ。さあ、着いたよ。良く頑張った。痛いとは一言も言わなかったね。ゆっくり養生するといいよ」

「はい! 今宵はありがとうございました! とても楽しかったです。それに、また、剣術を教えて下さい!」

「ああ、また今度ね! それに、また合奏もしよう! 君の琵琶をまた聞かせてほしい」


 頭を下げてから、上目遣いに無邪気に礼を言う桔梗の君を見て顔を赤らめながら、山吹の君は梨壺北舎(なしつぼきたしゃ)を去って行った。


 姫宮様、ご心配致しました! と泣きながら出迎えてくれた松の式部と竹の式部が、桔梗の君の怪我を見てさらに泣く。一体何が? と問われるが、どう説明したものかと困り、桔梗の君は心配かけないよう黙っていることにした。滑ってころんで気を失っていた、と説明する。


 年寄り女房は全てを信じた訳ではないが、それでも挫いた足の手当てをしてくれた。二人の家に伝わる怪しげな痛み止めの薬(年寄りの腰痛用らしい)を飲み、布で固く固定したら、かなり楽になった。


 あ、そうだ! 忘れないうちに、百合姫に二度も助けてもらったお礼をしなければ、と思い立つ。何か贈り物の品は無いかと二人の女房に尋ねたところ、唐菓子(とうかし)などがあると贈り物箱に用意してくれた。


 女五の宮からのお礼状と共に贈り物を自分で持って行こうとすると、松竹の両式部に止められたが、いつものようにするりと躱し、梨壺北舎(なしつぼきたしゃ)を抜け出す。


 年寄りの神経痛用の飲み薬が効いて、足の痛みも何とかゆっくり歩けるほどにはなった。急いで百合姫に会いにいかないと、姫は明日には後宮を退出してしまうのだ。優しく微笑んで助けてくれた、桂木の少将そっくりの百合姫に何故か親近感が湧く。できれば麗景殿(れいけいでん)の女御のように親しくなりたいと思ったのだ。お礼状には、ぜひ梨壺北舎を訪問してほしいと書いた。姫宮の自分とは御簾と几帳越しに会うであろうから、正体はバレないと安易に思っている。


 あの美しく優しい姫にもう一度会いたくて、就寝される前に行かねばと、桔梗の君は麗景殿(れいけいでん)に向かった。今宵、麗景殿(れいけいでん)の女御は、兄東宮のお召しで梨壺に行かれているので、きっと気楽に百合姫も会ってもらえると期待していた。


 ドタドターン!! と、もの凄い音が麗景殿(れいけいでん)の中から響いて来た。何か大きな調度品が倒れたかのような音である。キャー、少将様! と普段滅多に動揺しない麗景殿(れいけいでん)の女房達の悲鳴も上がった。


 少将様、と聞いた途端、何も考えずに桔梗の君は痛む足を無視して、何故か開いている格子の所から勝手知ったる麗景殿(れいけいでん)の中に飛び込んだ。


「何が鈴虫だ! 気持ち悪いんだよ!」

「何でお前がここにいるんだよ! 姫君はどこだ!」


 麗景殿(れいけいでん)の中で若い殿方の言い争う声と、ドタドタ暴れる音がする。その部屋に桔梗の君は向う見ずにも飛び込んだ。


「少将様!?」


 桔梗の君の目にしたのは、確かに少将だった。二人もいる。

 互いに束帯(そくたい)の胸元を掴んで乱し合い、床に倒れて互いに抑え込もうとして上になり下になり、バタバタ暴れている。顔を間近に睨み合いながら、全力を込めて乱れてはだけた内衣の(ひとえ)を掴みあっているためか、ゼイゼイと息を乱している。

 そして、意外にも、細身と思われる桂木の少将の方が上手をとり、紅葉の少将の身体に圧し掛かって床に抑え込んだ。


「あれほど言ったのに、夜這いとは良い度胸だ!」

「誰がお前なんかに!」


 両少将の怒声に応えるように、桔梗の君の背後から若い女房の悲鳴が上がった。男同士で夜這いよ! とはしたなくも大声でキャーキャー騒いでいる。


 『夜這い』の言葉に桔梗の君は愕然とした。言われてみれば、二大美形貴公子が着物を乱し、(怒りに)顔を赤らめて間近に見つめ合う(睨み合う)様は、あまりにも絵になり過ぎるほど妖しい。激しい怒気が情熱に満ちて見える。


「か、桂木の少将様……」


 怯えた桔梗の君の声に気付いて、桂木の少将が振り向く。その一瞬の隙をついて、紅葉の少将が押さえつけを振り払うように抜け出した。怒りに満ちた表情で、次なる攻撃に備えている。その親友を無視して、桂木の少将は恐怖に青冷めた桔梗の君に近寄る。


「桔梗の君? なぜここに?」

「……桂木の少将様だけは、そんな、夜這いなんて、殿方に……」

「おい?何言っている? 夜這い? 俺が? 違うぞ! してきたのはこいつの方だ!」

「では、紅葉の少将様を誘ったんですか? 確かに、桂木の少将様は一番お美しい殿方ですけど……。そんな方じゃないと思ってたのに! 酷い!」

「ちょっと待て! 言ってることが無茶苦茶だぞ! 話を聞け!」


 掴もうとした桂木の少将に、桔梗の君は唐菓子の入った贈り物の箱を投げつけて駆け出した。熱い涙がなぜか零れ、挫いた足の痛みなんて、もはや感じなかった。


 怖くても厳しくても、少女なのを黙ってくれていて、実は何気なく黙って庇ってくれて男らしいと信じていた桂木の少将までもが男色だったとわかって、衝撃だったのだ。紅葉の少将様が少年好きなのは許せても、何故か桂木の少将がそうなのは裏切られたような気がして、たまらなく嫌だった。


 あの恥ずかしい二人だけの『お約束』って、男女の誰にでもするの? 紅葉の少将様にも秘密だと言ってするの? と宣耀殿(せんようでん)でのことが思い出され、屈辱と共にまた涙が零れる。


 都の人々に碌に交じることなく、年寄りに育てられたやんごとなき高貴な姫宮の桔梗の君には、男女については、分からない事ばかりだった。


 しかも、これまで桔梗の君の恋敵は、年下美少年と手の届かない天女の百合姫だと思っていたから、まだ望みはあると思っていたのだ。だが、紅葉の少将の無二の親友であり身近な美しい桂木の少将が真の恋敵では、勝ち目は無い! 絶対勝てない! と思い、悔しく苦しく辛くて泣きながら、桔梗の君は初めての敗北の撤退、梨壺北舎に逃げ帰りをしたのだった。


 今日一日だけで、桔梗の君は人生で一番多くの衝撃を受けてしまった。だが、これだけでは終わらなかった。

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