姫宮のときめき
※このお話は平安時代風の異世界小説です。平安時代はあくまで世界背景の参考の一つですのでご了承下さい。
長くなったので、2話続けて投稿します。
2017/05/03 誤字脱字を修正しました。
いずれの時代か後世の人々には語れないが、とある帝の下、宮中に多くの美しき女御(帝妃)様方がいらっしゃる煌びやかな時だった。麗景殿の女御が東宮妃として入内し、年若い姫宮などの新しい住人が後宮に増え、雰囲気が賑やかなものに変わり、騒がしい嵐が吹き荒れそうだった。
一見、落ち着いているかの様に見える後宮の一角、麗景殿では女五の宮が扇で顔を隠しつつも御簾の傍に張り付き、外を見ては陶酔のため息を零していた。
「ああ、なんて凛々しく逞しく男らしいお姿。素敵だと思われませんか、麗景殿様?」
「ええ、まあ、こうして見ているだけなら実に目の保養になるお方だと思いますが……。五の宮様、そんなにお身を乗り出しては御簾の外に転げ出てしまいますわよ。15歳にもなられて、はしたないですわ」
姉妹同然にすっかり仲の良くなった東宮妃である麗景殿の女御が、几帳の影から姫宮の表衣の袿を引っ張る。
五の宮は庭にいる紅葉の少将を夢中で見つめる。なぜか少将は、後宮のしかも麗景殿の庭で木刀を振るって剣術の練習をしているのだ。
束帯姿で上衣の大きな袍袖にも負けず、無心に木刀を振る。柔らかな仕草の雅男の多い宮中では、珍しく男らしく見えて、五の宮の胸をときめかせるのだ。
こんなとき、つくづく兄宮と共に後宮に居を移して良かったと思わずにいられない。兄宮と共に世に忘れられたまま、あの都から外れた別邸にいたら、こんな目の保養やときめきには出会えなかったのだ。
「ああ、ご覧になって麗景殿様! 紅葉の少将様が汗を拭われたわ、素敵! きっと東宮様や帝をお守りせんと、一生懸命、お体を鍛えておられるのね! もっとこちらを見て頂けないかしら!」
「五の宮様、ご自身のご身分をお考え下さい。帝と東宮様の妹君として、恥じぬ落ち着いたお振る舞いを……」
五の宮には女御の窘めも全く耳に入らないらしく、麗景殿の女御はため息をついた。
世間では既に結婚していてもおかしくない15歳の姫宮は、都から離れた別邸で、両親と死に別れて気ままにお育ちだったためか、どうも全般的に子供じみていた。更には、突然華やかな人々に囲まれる後宮暮らしになって、若い娘らしく少々舞い上がっているようだ。
妹宮の躾けもよろしく! と東宮に密かに頼まれてはいるが、同じくらい年若い女御にはなかなか困難だった。
つい一年ほど前、様々な政治争いの挙句、帝の末弟が東宮として新たに立太子された。
新東宮は先帝の皇子でありながら半ば忘れられた存在だったが、新たな立太子問題という絶好の機会を掴むや政治的手腕を発揮し、最高権力者の右大臣の姫を東宮妃として迎えることで強力な後見を得て、見事宮中に返り咲いた。若々しくも侮れない21歳の東宮が誕生した。
宮中から離れて育った東宮は、内裏の東側の昭陽舎(梨壺)に御在所を移した。それに伴い、まさしく棚から牡丹餅の恩恵を受けた者がいた。
先帝の末子で東宮と同腹の妹、女五の宮(15歳)である。内親王としては通例の独身で、両親も既に亡くなっていることから、親代わりの東宮と共に後宮に部屋を貰えたのだ。
現在、帝の女御の数も多く、これから東宮妃も増えるであろうことから、頂いた部屋は東宮と同じ梨壺の別棟である梨壺北舎。これまでも兄宮と同じ邸内で育っていたので、本人は専用の御殿を貰えなくても何も気にならない。反って人の少ない小さい御殿だけに、兄東宮の庇護の下、気ままに過ごせそうだった。
後宮に落ち着いたある日、兄東宮から五の宮に珍しいお誘いがあった。先日、東宮妃として入内した麗景殿の女御を共に訪問しないか、と言う。麗景殿は二人の住まう梨壺の真向いで、東宮が通い易い一番近い御殿だ。
「ご入内されたばかりで、まだ落ち着かれていないのでは? それにいくら私が内親王とはいえ、いきなり東宮妃のお部屋に伺うなんて、おかしいのでは?」
「固いこと言うな、あちらはのんびりとした大らかな女御だ。そなたも毎日暇だろう? 仲の良い話相手がいても良いんじゃないか? これまでそなたには、私の政治問題に巻き込み、寂しい思いをさせて済まなく思っているのだ」
礼儀作法から外れた振る舞いだが、確かに年の近い話相手という存在に五の宮は憧れがある。兄宮が東宮位に就く前は、勢力争いのためしばしば命を狙われることもあり、二人目立たぬよう静かに暮らしていたため、側仕えの女房も数少なく年寄りが多かったからだ。
「ようこそおいでなされました、東宮様、五の宮様」
華やかな麗景殿の御簾内で恭しく二人を出迎えたのは、にこやかで、どこかのんびりした雰囲気の可愛らしい女御だった。美貌を鼻に掛けた高慢な年上の姫君という予想とは異なり、年は五の宮と近い18歳で、親しみ深く感じられる。
「女御、これが先日話した妹の五の宮だ。仲良くしてやってほしい」
「こちらこそ、よろしくお願いしますわ。私、姉は多いのですが、お年が離れておりますの。ですからお年の近い姫宮様とお話しできるかと思うと、嬉しゅうございます」
「こちらこそ。鄙びた所で育ったものですから、他の姫君とは交流が無かったのです。ぜひ、親しくしていただきたいですわ」
「仲良くなれそうで、良かったなあ、五の宮。これからは内親王に相応しい礼儀作法など、麗景殿で学ぶが良い」
「え? 兄上? 礼儀作法とは?」
「……」
それが最初からの目的だったらしく、ニヤリと東宮が笑う。どうやら麗景殿の女御も初耳だったようで、扇の陰で黙ってしまった。
これまで五の宮が、真面目に礼儀作法を身に着けようとしなかった事をやはり兄宮は気にしていたらしい。気ままに暮らしていた頃とは変わって、東宮になった以上、妹にもそれなりの礼儀作法が必要と考えたのだろう。
それ以来、互いに暇な時に五の宮が麗景殿を訪れ、友人として楽しく過ごせるほどに親しくなっていた。
そんな風に麗景殿を訪ねていたある日、五の宮は出会ってしまったのだ。憧れの君となる、紅葉の少将に。
「女御様、また紅葉の少将が庭で例の如く……。文句を言って止めさせましょうか? 無駄だと。ただ今、五の宮様もこちらにお出でのことですし」
麗景殿の女御に仕える女房の小雪が御簾の外に見える庭を指し示すと、確かに誰か殿方がいる。御簾内からでも見えるその背の高い若者に五の宮は、目を奪われた。そっと几帳から身を乗り出して、もっと見えるようにと御簾に近付く。
「またなの? 懲りないというか、飽きないお方ね。まあ、良いでしょう、放っておいて差し上げなさい。きっと儚い期待をされているだけよ」
「まあ、そうですわね。それに最近では、他の女房達や女官達が、少将様のあのお姿を見るのを楽しみにされているらしいですし」
なぜか、紅葉の少将は麗景殿の庭で木刀を振っているのだ。不敬に当たるのではないかと、五の宮は心配になる。
「女御様、あの方は何をされているのですか? なぜわざわざここで剣術を? 大丈夫なのでしょうか?」
「あのお方は、噂に名高い、左大臣家の紅葉の少将様です。私の入内前から、この世に在らざる者に憧れて、ああして剣術の練習をしながら、待ち構えておられるのよ。なぜか私の側にそれらが現れると信じておられて……」
「この世に在らざる者とは何ですか?」
「鬼とか、天女とか……? そのようなもの、この後宮に現れる訳がございませんのに」
女御は扇の陰で、呆れた様子でため息をつく。側仕えの小雪もうんうんと頷いていた。
「鬼? 天女?」
「ご心配なく。そのような妖しき者は、ここにはおりません! 正直、不名誉で迷惑なのですが、弟の山吹の君を可愛がって下さっているので、無下にもできないのです」
御簾の外の庭で、紅葉の少将は良い汗かいたなとばかりに、そっと大きな手で額を拭っている。そこに側仕えなのか髪を左右に丸く括りあげた下げみづらに狩衣姿の愛らしい殿上童が駆け寄り、紅葉の少将に手拭いを恥ずかしそうに手渡した。
ふっと感謝の優しい笑みを浮かべて、少将は童に労わるように微笑み返す。
「はうう! 胸が!」
「宮様?」
五の宮の胸を大きな波動が押し突き抜ける。圧死寸前だ。胸の鼓動は高鳴り、息苦しくなり、顔が熱い。思わず病ではないかと、苦しい胸を押さえてしまうが、五の宮の眼差しは、男らしくも邪気の無い爽やかな笑みから離せない。
「誰か! 五の宮様がお苦しみよ! お水? それとも横になられますか?」
「何をのんびりな事を言われているんですか、女御様。この症状は『あれ』ですわよ、不治の病の有名な『あれ』に罹られたご様子ですわね」
頬を仄かに染め、胸を押さえて息を乱す五の宮を癒そうと、女御がその背中をさすさす摩る。呆れた小雪が何やら女御に耳打ちしているが、もう五の宮は気にも留めない。その胸の激しい拍動に耐えていたからだ。
「『初恋』ですって? あの紅葉の少将に? 小雪、本気で言っているの?」
「間違いございません、あの時の姫様のご様子と同じですもの。……どうやら五の宮様は、雅やかより精悍な殿方がお好みのようですわね」
高貴な身分の姫宮であることから厄介な事になりそうだ、と女御と小雪は心配げに視線を交わし合った。
それからというもの、五の宮は一目でも紅葉の少将を見られないかと、麗景殿を東宮よりもこまめに昼間訪問しては、初恋にのぼせ上がっていくようになった。