20.過去
しばらく馬車で移動すると、森に近い位置に二階建ての可愛い家が建っていた。
庭もついているようで、わかりやすく周囲を柵で囲ってある。
家の裏の方に馬車置き場があって、厩も一緒になっていた。
離れといっても、完全に独立した一戸建てになっている。
「ここは、わざわざ俺のために建ててくれた離れだから、名義も俺のものになっているらしい。あまり興味はないし、ほとんど使ったことはないんだがな。公爵家でパーティーがあるときなんかの避難場所には最適なんだ。本館から歩いてここまで来るとなると大変だから、誰も来ない」
御者台から降りると、ルーファスさんはそのまま私を抱き上げた。
暗くて足元が見え辛いので、抱いて運ぶことにしたらしい。
ルーファスさんは獣人なので、暗くてもそれなりに見えるらしいから、素直に運ばれる事にした。
外は暗いけれど、建物には明かりが灯っている。
鍵の掛かっていない玄関の扉を開けて中に入ると、中年のメイドさんが出迎えてくれた。
茶色の髪を綺麗に結い上げた、少しふくよかで優しそうな人だ。
「お帰りなさいませ、ルーファス様、ユキ様。私はメイドのマリアと申しまして、日頃からこちらの館の管理を任されております。お二人の滞在中のお世話をさせていただきますので、何なりとお申し付けくださいませ」
丁寧な挨拶とともに、綺麗な所作で一礼されて、さすが公爵家のメイドさんと、感心してしまう。
「マリアといえば、ローランドの乳母じゃなかったか? ローランドの子の教育もあるだろうに、ここにいて大丈夫なのか?」
ルーファスさんが不思議そうに問いかけると、マリアさんは温かな笑みを浮かべた。
「覚えていてくださって光栄です。ローランド様のお子様方は、もうある程度大きくおなりですから、私の手を離れました。今は専門の教師がついております。今回はルーファス様がデリック様と同じ年頃のお嬢様をお連れとの事でしたので、私がお世話する事になりました」
私のためにわざわざマリアさんを派遣してくれたらしい。
もしかして、本館で私が困らないように、教育係も兼ねているのかな?
「そうか。今回はしばらく滞在する予定だから、よろしく頼む」
納得したように頷いてから、ルーファスさんは私を床に降ろした。
「ユキです。しばらくお世話になります。よろしくお願いします」
ルーファスさんに恥をかかせないように、きちんと挨拶をしておく。
マリアさんは微笑ましげに私を見て頷いた後、ルーファスさんに向き直った。
「食事はお済みですか? 簡単なものでしたら用意させますが」
用意させるということは、作るのは別の人ということだ。
この家に料理人さんがいないのなら、違う場所から取り寄せることになってしまうのだろう。
だからさっき、ルーファスさんはローランドさんに食事はいらないと伝えていたのか。
「いや、今日はもう遅いから、適当に済ませる。それより、風呂に入れるようにしてほしい。風呂は俺の部屋のを使うから、用意するのはそこだけで構わない。ユキの部屋は俺の部屋と続きになった部屋を整えてくれ。ユキは風呂に一人で入れるから、準備をしたら今夜は下がっていい」
慣れた様子でルーファスさんが指示を出していく。
ルーファスさんのどの言葉に反応したのかわからないけれど、マリアさんが一瞬驚いたような様子だった。
けれどそれもすぐに隠して、階段を登り、部屋に案内してくれる。
階段を登ると、正面と右手にいくつかの扉があった。
右に折れて、角部屋らしき部屋の扉を開けると、居心地よく整えられた居間になっていた。
案内するだけで部屋には入らず、マリアさんは下がっていく。
ルーファスさんが華美なものを嫌うからか、置いてある家具は落ち着いた雰囲気のものだ。
でも、広すぎて何だか落ち着かない。
「ルーファスさんがここを使わない理由が、何となくわかった」
促されるまま、ソファに腰掛けながら呟くと、ルーファスさんが可笑しそうに笑った。
「広すぎて落ち着かないだろう? だからいつもは客間を使っている。だが、まぁ、ここなら人目もないから、気楽に過ごしていい。本館の方だと、公爵家の客と行き会うこともあるからな。ユキをローランドの子の婚約者と勘違いされても困る」
隣に腰掛けたルーファスさんが、私の気持ちを落ち着けるように優しく抱き寄せてくれた。
ルーファスさんの温もりを感じていると、簡単に気持ちが和んでいく。
こうした生活も、王都にいる間だけだからと思えば、日頃できないような生活を楽しんでみようという気持ちに変わっていった。
「貴族だと10歳くらいで婚約者が決まったりするの?」
ルーファスさんに体を預けたまま見上げると、少し苦い表情で頷かれた。
ローランドさん達のことはお気に入りみたいだけど、他の貴族に対してはあまりいい印象がないらしい。
「貴族は政略結婚も珍しくないから、幼い内に婚約する事もよくある。ローランド達は問題ないが、ユキの存在を知れば、利用する為に婚約で縛ろうとする貴族も出てくるかもしれない。俺にとっては、竜を倒したのも数多のクエストの内の一つという認識なんだが、周囲はそう考えていない。10年以上経つから少しは落ち着いてきたが、それでもまだ、俺を取り込もうとする貴族は後を絶たない」
苦い表情のまま、ルーファスさんが溜息をつく。
謙遜でも何でもなく、ルーファスさんにとって竜を倒した事はたいしたことではないのだろう。
どうしてここまで騒がれるのか理解できなくて、周囲の反応が鬱陶しいに違いない。
だから、2年ぶりの王都なのか。
ルーファスさんも苦労しているんだなって思ったらかわいそうになって、思わず手を伸ばして頭を撫でてしまった。
撫でた瞬間、虎耳がピクッと震えて、その後心地よさそうに伏せられる。
嫌がられてないのがわかって、嬉しくなって、猫にするみたいに耳の辺りを撫でた。
「嫌になったら、馬車でさっさと旅に出よう? クエストは王都じゃなくても受けられるし、ダンジョンだって、他の場所にもあるから問題ないでしょ?」
あんなに喜んでいたローランドさんには悪いけど、ルーファスさんが嫌になったら、いつだって旅立てばいい。
山脈越えか、船を使わないと辿り着けないだろうけど、今いるアルノルド王国と同じくらい大きなアルサンド王国もあるのだから、いざとなったらアルサンド王国で調べ物をするという手もある。
ただ、あちらでも王宮図書館に入るツテがあるかどうかはわからないけれど。
何となく、過去の書物を調べても、帰る方法はわからないんじゃないかって思ってる。
ただ私の知識不足を補うためには、図書館が必要だ。
2千年の間に、何がどう変わったのか、色々知りたい事がある。
本屋さんがあるのなら、本を買おうかな?
そしたら、旅の間に本を読むことも出来るから。
「ユキのおかげで少し気が楽になった。いつでも旅立てるように、準備だけはしておこう」
ルーファスさんの表情が和らいだので、ホッと息をつく。
白兎の中から、簡単に食べられる料理を取り出して、テーブルに並べていった。
昨日作ったポタージュは、温かいうちにアイテムボックスに入れてあったので、鍋ごと取り出してしまう。
食器もいくつかはアイテムボックスに入れてあった。
盗賊のせいで食べ損ねたサンドイッチとか、他にもいくつかの料理が作り置いてあったので、それも食べてしまうことにする。
「あ、そうだ。パーティ名を決めておかないといけなかったよね? 色々考えてみたんだけど、『妖精の森』はどうかな? 私たちが出逢った場所で始まった場所だから、パーティ名には相応しいかと思ったんだけど……」
食事をしながら、ふと思い出して提案すると、思案するように一度目を閉じたルーファスさんが、満足げに頷く。
「いい名だ。次にギルドに行った時に、登録しておこう。その時にFランクのクエストも受けておかないとな。ユキは魔法も使えるようだが、武器はどうする?」
ルーファスさんの言葉で、レベルを上げなければ、装備できる武器がないことを思い出した。
武器だけじゃなくて防具も、ゲーム時代に使っていたものはレベル100にならないと装備できない。
予備の装備なんてほとんど持ってないし、あるものもレベル1では使えない。
ゲームの時代は弓を使っていて、弓のスキルも持っているけれど、実際に弓を使えるのかわからなくて不安になる。
現実では弓道なんてやったことがないのだから。
「弓のスキルはあるんだけど、持っていた弓はレベルが100にならないと装備できないの。だから、弓を使うのなら、買いに行くか自分で作るしかないんだけど、スキルで作るとしたら、今のMP……魔力の総量だとまだ足りなくて、先にレベルを上げないといけないの。料理や初級ポーションの生産だったら、魔力も足りるから、それを作って少しでも経験値を増やして、レベル上げをした方がいいかもしれない」
魔力が少なくなると眠くなるらしいから、寝る前に少しずつ作る習慣をつけてもいいかも。
初級の材料くらいなら、アイテムボックスにたくさん入っているから問題はないはずだ。
弓製作のスキルも持ってるから、レベルがあがれば、一番最初の木の弓くらいはすぐに作れる。
木の弓の素材は矢を作る時にも使うので、倉庫に大量に保管してあった。
「レベル100とは、ユキはとても強かったんだな。それが1になってしまうとは、神も酷なことをする」
ルーファスさんが沈痛な面持ちで溜息をついた。
心の底から同情しているらしい。
20年近く冒険者をやっているルーファスさんですら、まだレベル100には達していないから、仕方がないことかもしれない。
確か、前に見せてもらったギルドカードには、レベル89と表示されていた。
ゲームの時代は効率的なレベルの上げ方とか、経験値が1時間の間3倍になるアイテムとかあったから、この世界の人の方がレベルの上がりは遅いのだろう。
もしかしたら、天空人とこの世界の人では、レベルの上がり方も違うのかもしれない。
「生産レベルを上げるほうがずっと大変だから、そっちがリセットされるよりはよかったって思ってる。レベルを1にしたのも、私を守るためみたいだからね。ただ、レベルが1になって、弱くなってるのは間違いないから、レベル上げも頑張ってみる。私の中でこの世界は、架空の世界だったから、実際に狩りの経験はないの。だからもしかしたら、魔物を殺すのすら躊躇してしまうかもしれない。実際に魔物を見たこともないから、自分がどんな反応をするのか予測もつかなくて、ちょっと不安」
現実で殺した事があるのなんて、ゴキブリくらいだ。
実際に魔物と対峙したら、きちんと攻撃できるのかどうか不安もある。
この世界で生きていくって決めたけど、でも、体験してみないとどうなるのかわからない。
私がどんな反応をするのか予測がつかないから、ルーファスさんにはすべて知っていてもらったほうがいい。
「この世界にも、魔物を見たことがない人もいる。殺した事がないとなれば、もっとたくさんいるだろう。生まれ育った街や村から出ずに一生を終える人は、珍しくもないからな。だから、ユキだけが特別なんじゃない。そんなに不安がらなくていい」
気遣うように優しく励まされて、少し気持ちが楽になった。
きっと私がどんな醜態を晒しても、ルーファスさんは受け入れてくれるのだろうと信じられた。
ルーファスさんは、何かを迷うように何度か躊躇った後、ソファに背を預けた。
「――俺が初めて動物を殺した時は、腹が減ってどうしようもなくて、命がけだった。5歳になるかどうかの頃だったと思う。俺の母は村長の娘で、近隣にも知れ渡るほどに美しい人だった。だが、婚約者がいる身で、俺を身篭ってしまった。母は獣神に見初められたのだと、腹の子は獣神の子だと言い張ったが、誰もそれを信じる者はなく、罰として、村はずれのあばら家に押し込められた。いくら娘が可愛くても、村長としては厳しい処罰を与えなければ、体面を保てない。年老いた使用人を一人つけて、母は捨て置かれ、そんな中で俺は産まれた」
ルーファスさんが自分から過去の話をしてくれたのは、初めてだった。
想像もつかないような辛い生い立ちに驚いてしまう。
心配になってルーファスさんを見ると、既に過去の事だと割り切っているのか、表情はとても静かなものだった。
私と話していて、初めて生き物を殺した時の事を思い出して、過去を話す気になってくれたのだろうか。
「使用人がいるうちはよかったんだが、死んでしまった後は、痩せた土地で育てる野菜と、母が森で手に入れてくる食料だけで命を繋いでいた。『必ず獣神様が迎えに来てくれる』というのが母の口癖で、それが心の支えだったんだろう。日がたち、年を重ねるごとに、母は生きる気力をなくしていった。気力をなくせば体も弱る。寝込むことも増えて、いつまでも母に甘えてはいられないと、俺も森に入るようになった。幸いな事に俺の体は頑丈で身体能力が高かったから、ろくに狩りの仕方を知らなくても、何とか動物をし止めることが出来た。さすがに無傷とは行かなかったが、生きる為に必死だった」
温もりを求めるようにルーファスさんに抱き寄せられる。
今のルーファスさんの強さを作ったのは、子供時代の過酷な体験だったのだとわかって、とても切なかった。
「村の人は、誰も助けてくれなかったの?」
ルーファスさんを抱きしめるみたいに体に腕を回しながら見上げると、消えそうに儚い笑みをルーファスさんが浮かべた。
「表立って助ければ、罰を受ける。母は罪人なのだから。獣族の村では、契約は絶対だ。破られた時は命で償うこともある。母の婚約者だった男は、大きな村の跡取りで強い力を持っていた。数多の男と争った末に手に入れた母を寝取られて、プライドを傷つけられたのだろう、母を殺すようにしつこく要求してきたそうだが、獣神の子を孕んでいるかもしれないのに、殺す事はできないと、そうすれば虎族全体が滅ぶ事にもなりかねないと、俺の祖父に当たる村長は突っぱねたそうだ。代わりに多額の賠償金を支払う事になって、村は困窮した。だから、村人には母を恨んでいる者が多かった。俺が宿らなければ、何事もなかったように母を嫁がせられたのにと、恨みや憎しみは俺にも向けられた」
ルーファスさんは淡々と語っているけれど、ルーファスさんの生い立ちが壮絶すぎて、胸が苦しくなった。
前に楽しいという感情を知らなかったとルーファスさんが話していたけれど、そんな環境で生まれ育てば当然の事だ。
ルーファスさんは何も悪くないのに、そう思うと腹も立ってくる。
生まれながらに悪意に晒されていたら、人を信じられなかったりもするだろう。
まともな人付き合いを知らないまま育ったのだから、人付き合いが下手なのも仕方がない。
10歳で冒険者になったと言っていたから、苦労を重ねて、色々な経験をして、今のルーファスさんになったのだろう。
きっとローランドさんの存在は、ルーファスさんの救いになったんじゃないだろうか。
ルーファスさんを決して利用せず、友として、惜しみない愛情を注いでくれるローランドさんが、ルーファスさんのそばにいてくれてよかったと、心から思う。
「ルーファスさんのお母さんは、今はどうしているの?」
獣神はきてくれたんだろうか?
ルーファスさんのお母さんがどうしているのか、とても気になった。
「ひたすら待ち続けて、母の心は壊れてしまった。獣神が迎えに来た時は既に10年の月日が流れていて、母は、俺のことすらわからなくなっていた。痩せ衰えて、生きているのが不思議な状態だったが、唯一の救いは、獣神が迎えに来てくれたということだけは、理解できたことだ」
当時のことを思い出したのか、ルーファスさんの顔が切なげに歪む。
毎日少しずつ壊れていくお母さんを見るのは、辛くてもどかしかったに違いない。
当時のルーファスさんがまだ10歳になるかならずかの子供だったと思えば、尚更だ。
お母さんを助けたいのに何も出来なくて、周囲に助けを求める事もできない、それは絶望的な状況だったんじゃないだろうか。
ルーファスさんは唯一の救いと言ったけれど、自分のことはわからなくなってしまったのに、獣神のことだけはわかるお母さんを見て、悲しい思いをしたんじゃないだろうか。
ずっと一緒に暮らしていて、心を痛めながら見守っていた自分よりも、突然現れた獣神を選ばれたみたいで、寂しく思う気持ちもあったんじゃないかと思う。
その当時のルーファスさんの気持ちを想像するだけで、酷く胸が痛んだ。
「母の名誉は守られたと、村長だった祖父は感謝したが、何故もっと早く迎えに来なかったのかと、腹が立って仕方がなくて、俺はどうしても獣神を許せなかったし、父とも思えなかった。俺達の世界と神の世界では、時の流れが違うのだという。けれど、そんな事は言い訳にしか聞こえない。母を殺そうとした者や害をなそうとした者、それらに一瞬で罰を与える力を持ちながら、母を不幸にした獣神が許せなかった。だから、獣神が母を連れて神界に帰る時、俺はついていかなかった。村に残ったが、当然の事ながら村に馴染めるはずもなく、すぐに冒険者になるために村を出た。俺が生まれたときから俺を蔑み続けてきた村人達が、手のひらを返したように親切にしてくれたところで、信じられるはずもない。嫌というほどに人の醜さを見て、一人を好むようになった」
獣神を許せなかったルーファスさんの気持ちは、とても良く理解できる。
ルーファスさんは、親にすらあまり甘えた事がないんじゃないだろうか?
10歳といえば、まだ親に庇護されて当然の年齢なのに、その頃から一人で生きるなんて、どれだけ苦労したんだろう。
ルーファスさんが過保護なほどに私の世話を焼いたり、お腹いっぱいご飯を食べさせようとする理由の一端がわかったような気がした。
子供だった頃のルーファスさんがされたかった事を、私にしてくれているのかもしれない。
辛い思いをたくさんしているのに、ルーファスさんはとても優しい。
私ならもっと捻くれて、嫌な人になってると思う。
ルーファスさんがこんなに優しいのは、優しくしてくれた人がいたからなんじゃないかな。
多分、ルーファスさんのお母さんが優しい人だったから、ルーファスさんも優しいのだと思う。
お母さんが辛い状況でもルーファスさんに優しくできたのは、それだけルーファスさんを愛してたってことじゃないかな?
自分で選んで自分で産んだくせに、『お前さえいなければ』って、子供に恨みをぶつける親も世の中にはいると聞いたことがある。
周囲の人に蔑まれ冷たくされても、お母さんだけはいつも優しくて温かかったから、今の優しいルーファスさんが存在するんじゃないかと思った。
「ルーファスさんのお母さんは、獣神を愛していたんだね。迎えに来てくれるかどうかもわからない状態で、ルーファスさんを産んだのは、ルーファスさんのことも愛していたからだと思うんだ」
ルーファスさんが生まれてきてくれてよかったと、深く感謝する。
辛い思いをたくさんしたかもしれないけど、今こうして一緒にいられるのは、ルーファスさんのお母さんが懸命にルーファスさんを守って、この世に生み出してくれたからだ。
お母さんに愛情をかけられた記憶はあったのか、ルーファスさんは小さく頷いた。
「私はね、産んでもらえなかったかもしれなかった子供なの。お母さんが妊娠に気づいた時、お父さんは病気で入院していて、余命宣告を受けていたんだって。もって1年って言われてたから、お母さんは私を生むかどうか、すごく悩んだみたい。お父さんが死ぬのがわかってるのに、生まれたばかりの子供を育てながら生きていく自信がなかったんだって」
小さい頃から何度も聞かされた話をルーファスさんにすると、ルーファスさんは驚いたように目を瞠った。
社会保障がこちらと比べるとしっかりしているあの世界でだって、女手一つで子育てをすることは不安に思うものだ。
実際にお母さんはとても苦労して、お兄ちゃんと私を育ててくれた。
何の保障もない世界で、罪人として扱われ、苦労するのがわかりきっていて、それでもルーファスさんを産んだお母さんは、生まれる前からルーファスさんを愛していたのだと思う。
「そうだな。宿った子を守り育てる事は、とても大変な事だ。腹に宿った子を殺す毒草もあるのだから、俺を殺し、何知らぬ顔で嫁ぐこともできたのに、母はそれをしなかった。腹の子ごと殺される可能性も高かったのに、獣神の子だと言い張る事で俺を守ってくれた」
私を抱き寄せたまま、ルーファスさんが視線を合わせて一つ頷く。
お母さんが苦労して守り育ててくれた事を実感したのだろう、表情が穏やかなものに変わった。
「私の国の文字には、一つ一つに意味があるの。私の有希という名前は、お父さんがつけてくれたもので、『どんなに苦しい状況でも、辛くても、諦めなければそこに希望が有る。どんな時でも希望を見出して、強く生きられるような子になるように』って意味がこめられているんだって。妊娠を知ったお父さんは、頼むから産んでくれって土下座したらしいの。俺の子供を殺さないでくれって、泣いたって。生まれる前から、私はお父さんに愛されてた。だから、お父さんがいないのを寂しいと思ったこともあるけど、例え長生きできないお父さんでも、お父さんが私のお父さんでよかったって思ってる」
私が1歳になる前に死んだお父さんのことは、まったく覚えていない。
でも、お父さんに愛されていた事は、一度も疑った事がない。
ルーファスさんの話を聞いて、私はルーファスさんも、ちゃんと愛されて生まれたのだと感じた。
だからルーファスさんに、そのことを実感して欲しい。
もっと生きる事を楽しんで、幸せになって欲しい。
「俺が村を出てすぐ、野宿をしている時に獣神が来て、剣とアイテムバッグをくれた。父とは認めてもらえないかもしれないが、旅立つ息子にせめてもの餞別だと。その餞別に俺は何度も命を救われ、何度も助けられた。神は残酷で気まぐれな存在だと思っているし、どうしてもっと早く母を助けてくれなかったのかと、恨む気持ちは今もあるが、昔ほど激しい気持ちではない。ユキと出逢って、出逢えてよかった、そう思ったときに、この世に俺を生み出してくれた両親に初めて感謝した」
ルーファスさんがしみじみと、それでいて照れを滲ませた表情で言葉にする。
出逢えてよかったって前にも聞いたけど、ルーファスさんの過去を知った今は、言葉の重みが違う。
切ないような嬉しさで胸が震えた。
「私もルーファスさんに出逢えてよかったって思うよ。どうしてこの世界に私がいるのかわからないけど、でも、もしそれが、ルーファスさんと出逢うためだったら嬉しい」
思うままに言葉にすると、ルーファスさんが困ったような顔で、ぎゅうっと強く私を抱きしめた。
ちょっと無理目の体勢で肩に顔を埋められたので、ルーファスさんの頭を撫でてみる。
顔、見られたくないのかな?
「あまり、可愛い事を言わないでくれ。……ユキが可愛くて、手放せなくなる」
唸るように言われて、何だか凄く恥ずかしくなってしまう。
可愛いとか、そんな事を言ったつもりはなかったのに。
「話が盛大にずれたな。とにかく、動物や魔物を殺すのが怖くても、当然だという事だ。俺だって腹が減って死にそうになっていなければ、多分狩れなかった。全部俺が受け止めてやるから、ユキはユキのやりたいようにやれ」
僅かに頬を赤らめたまま、話を無理矢理元に戻すみたいに、ルーファスさんが強く言い切る。
冷静になってみれば、抱き合ったままずっと話をしていたわけで、最近、ルーファスさんにくっつくのにまったく抵抗がない自分に気づかされた。
いくら今は子供の体だからって、くっつき過ぎかな?
ルーファスさんが幼女趣味とか変な誤解を受けると困るから、外ではもっと気をつけたほうがいいのかなぁ。
「風呂に入るか? そこの扉が寝室に繋がっていて、寝室に備え付けの浴室があるから、そこを使うといい。客間にも浴室はついているんだが、ユキの部屋は俺の寝室と続きになった部屋を用意させた。何かあったとき、すぐに俺の部屋に来られるほうがいいだろう?」
何でもないことのようにルーファスさんは言うけれど、主寝室と繋がった部屋の寝室って、普通は奥さんの部屋だよね?
だからマリアさんは、さっき驚いていたのか。
私のような子供に、奥さんのための部屋を使わせたら、それは驚くよね。
もしかしたらこの家は、将来ルーファスさんに伴侶や子供が出来た時に、一緒に使えるようにと作られたのかもしれない。
それは、公爵家の人達が、ルーファスさんの幸せを願っている証のように思えた。
「先に入ってくるね」
照れくさくて居たたまれなくて、一人になるためにもさっさとお風呂に入ることにした。
お風呂は、さすが貴族の館だけあってとても豪華だった。
宿では見なかったシャワーも備え付けられていて、浴槽も広々としている。
ルーファスさんの寝室に備え付けのお風呂だから、あまり優美さはないけれど、こんなに広いお風呂で寛げるのはとても贅沢で、気持ちが浮き立つ。
お姫様気分でゆっくりお風呂に入って、ご機嫌な時間を過ごすのだった。




