メモリー・メモ
ひとつのメモが、目に入る。
そこに書かれていることはよくわからなくて、自分がどうしてここにいるのかもわからない。
長い間、夢でも見ていたかのように、ふっと置き去りにされた気分だった。
「はいはーい、布団を干しますよー。どいて」
突然目の前に、ぬっと大男が現れた。
もう昼ー、と言いながら遠慮なく、男は私が座るベッドから目的の布を引き剥がしていく。
誰だろう。
目の前の男をまじまじ凝視するけれど、そこから新しくわかることは何もなかった。ただ、顔立ちの良い男だった。
不思議と、この男の存在は厄介に感じないので、そのままされるがまま。
窓の外を見た。確かに今日はいい天気だ。布団を干すのにぴったりの。
しかし、さっきとは別のメモが異を唱えている。
『降水確率100パー 布団は干すな 』。
……何この字のデカさ。自信満々だな、オイ。
もう一度窓の外を見れば、庭のハナミズキの影が気持ち良さそうに揺れていた。雨の気配は、ない。
なんだ、このメモ。
あっ。
外を眺めていた私は、突然思い立った。
そう、そんなことよか、私はこういう日にしなければならないことを知っている。
よく晴れた日だ、庭に水をまくのだ。
私は干すための枕を抱え、そのまま外に出た。
布団を引き剥がしやすくなった男は、こちらをちらっと見た。そして、いってらっしゃいというように微笑む。
何故か鳥肌が立つ笑顔。なんなのだ、あの男。私は忘れているが、実は警戒すべき人間だと本能が告げているのかもしれない。
よく気をつけねばと首を振って、私は外へ行こうと踵を返そうとした。
と、突然男は、『あっ』と何か大事なことを思い出したような顔をして、私を引き留めた。なんだろう。ん? 心なしか少しニヤニヤとしているような……。
「あ、これ落ちてた」
ゴソゴソとエプロンのポケットを弄り、小さな紙を私に差し出した。メモのようだ。
『【危険】お前はとっても不器用だ』。
……なん、だと……?
私は構わず外に出た。
私は枕をぽいっと投げて、ホースを手に取る。蛇口を捻ると、ハナミズキに上からシャワーを浴びせた。
ハナミズキの花びらの上で、大つぶの滴が赤く光る。
そのまま振りかぶって、庭の花に水をまく。
なんて美しい庭だ。
ああ、輝く水玉が目に眩しい。
「あー! 布団が濡れたじゃん。ホース振り回すなっての!」
ハナミズキの向こう側から、悲鳴が聞こえた。
葉っぱの隙間から、布団をつまむ大男が見える。ふふふ、降水確率100パー、か。
まぁ、これくらいなら大丈夫か……と、男はサンダルをパタパタいわせて中に戻った。
あんまり水をあげすぎると、根が腐るかもしれない。根拠はないけれど。
カーポートに移動して、白い車に水をあてた。
今日はホースを握る、いや振り回す日なんだ。ちゃんとホースが扱えていないことなんて、最初の数分で痛いほどわかった。
無心でばしゅっばしゅっと当て続けると、突然背中を叩かれた。
「コラ、水垢ができます。やるなら洗ってね」
男はスポンジと洗剤を持って来て、庭に置いた。
「明日使うから。念入りにいきましょー」
そう言って腕をまくる。私もズボンの裾をまくった。
明日、車使うのか。どこに行くんだろう。
私も一緒に行くのかな。
勢いの良いホースの水は、制御する主によって、洗剤を吹き飛ばしていった。くっそうこの洗剤、うまく流れてはいってくれないのだ。
洗剤たちは気持ち良く、思い思いの方向へ飛んでいった。それを見る男は曖昧な笑顔だった。また掃除、しなきゃな、と。
家の壁にもはねたので、窓も拭くことにした。今日は掃除の日になった。全く誰のせいでこんなことに。
私と掃除する間、大男はよく笑った。
不意打ちで、息が詰まることもある。でも、ふっと見ればずっとニコニコしているのだから、避けようがない。
マコトに眼福な笑顔を見るのは、なんだかとても気恥ずかしく、私は顔を狙って水を発射した。べしゃっ。
するととても爽快な気分になるので、やっぱりこの男は私にとって要注意人物だったのでは、と思う。
しかしこの男は、たとえはねた洗剤の泡が顔にべちゃっとついても、怒らなかった。ただ優しく笑って、私を居た堪れなくするだけだった。
「窓拭く前に、ご飯にしようか」
台所は、私には禍々しい気を発しているように見えた。とてもじゃないが、そこは私の立てるような場所ではなかった。
私はきっと、料理は苦手だ。男はくしゃっと私の頭を撫でた。
「料理も、だよ」
男は当たり前のように台所に立つと、慣れた手つきで料理をし始める。まったく不思議なことに、食材たちは皆、男のいうことをよく聞いた。私は興味深く、男の手元を覗き込んだ。
食材たちはひとつの料理の完成に向かって、まるで行進するように、あるべき姿へと、形を変えていく。
それは、とても美しいものだった。ずっと見ていたいと思った。
「はいはーい、出来た。食べましょーか」
はいはーい、というのは彼の口癖らしい。
小さいテーブルに置かれたのは、オムライスだった。
かけろ、というようにケチャップを寄越す。ケチャップを片手にしばらく唸ってから、かけろ、というようにその手を押し戻した。悪いな、人には向き不向きというものがあるんだ。
でっかく、嫌味たらしい完璧なハートを描いた彼は、器用というのだろう。私と違って。
そっと手を合わせた。もう一度、皿を覗き込む。
皿の上の、ひとつの完成。これは絵だと思った。
なぜならとても、美しかったから。
その完璧な絵から、スプーンで一口切り取る。スプーンの上でオムライスは、ぽっこりと浮かぶ、黄色い島のようだった。
スプーンの上に、世界があるという驚愕。私はおそるおそるスプーンを口に運んだ。
ふわとろの甘めの卵が舌に当たり。ケチャップの甘酸っぱさと塩気。そしてピーマンとタマネギを奥歯がはんだ。
それはとっても、とてもとても美味しかった。
前から、ふふっと声がする。
「そんな笑顔を見れたし、今日はオムライス記念日かな」
こちらをそっと見守っていた男は、満足したようにひとつ頷くと食べ始める。嬉しそうに笑っていた。
それを見ると、なぜか嬉しくなって、私も笑った。
ふたりで手を合わせ、食器を持って立ち上がる。男は食器を水に浸けると、振り向きざまに、
「じゃんけんぽん!」
思わずグーを出した。彼はパーだった。彼は凄絶な笑みを浮かべる。
「食器洗い、よろしくー」
確信犯だな。くそう。突然やられると、グーを出しやすいのが人間というものだ。
仕方ない。私は手を水にひたした。
じゃばじゃばと食器を洗う中、男は外へ出ていく。こんな皿割り機のような奴に任せて大丈夫なのか。
あ、そういえば、明日……。明日、使うって……。
急いで食器洗いを終わらせ、私はペンとメモを手に取った。そしてペンを走らせる。
『ドライブ』
自分で見つけた明日の欠片。
濡れたら困る。後で貼ろう。
外に出て、よく働く男を眺める。
車を見れば、なんだかトゥルトゥルした不思議な布でピカピカに磨かれていた。まー濃やかな男だこと。
私は窓拭きに取り掛かろうとする男を見た。
横顔を眺める。やはり、何も思い出せなかった。
私がとんでもない不器用でも、やな顔ひとつしないこの男は、何者なんだろう。
なぜ自分はここにいて、なぜ彼はここにいるのだろう。
名前すら、知らない。
彼は私の名前を呼ばないし、名前を呼ばなくても、私たちの関係は成り立ってしまう。
それを思うと、なぜか私は下を向きそうになった。
湧き上がる疑問。私の胸を締め付ける。しかしなんでもない顔で、私は窓を拭く彼を眺めている。
「おーい?」
男は私にホースを持たせた。しょーがないなー、そこまで頼まれれば、洗い流す役を買ってやろう。
あいも変わらず、ばしゅっばしゅっと水を発射し、洗剤を跳ね飛ばした。被害は男の全身に及んだ。
被害請求は風呂掃除だった。
私が四苦八苦して全身を濡らしながら風呂洗いをしている間、男は着替えて、夕飯作りに取り掛かる。非常に楽しみなので、私はいそいそと掃除を済ませるのだ。
自分で洗った湯船に浸かる。この狭さは、膝を抱えてブクブクするのにちょうどよかった。
じっとしていればしているほど、疑問が溢れてよくわからない不安に襲われる。
何しろ、目が覚めてからというもの、自分のことが、わからないのだから。
ひとつだけ解ってきたのは、あの男が、自分の大切な人であるということ。それだけは忘れたくないし、メモにも任せたくないのだという気持ちに驚いた。
風呂から上がれば、男は濡れた髪のまま、夕飯を作り上げていた。
私を振り返ると、笑顔になる。うっ、時間が経つほど、この笑顔に耐えられなくなってくる。
そして私は温かい湯気の上る夕飯に、一瞬にして目が奪われた。ぴっかぴかに光る白米と、味噌の良い香りのする味噌汁。
「ぬか漬け出したんだー。昨日の夜つけといたヤツ」
でも、それよりも、私はある不安に襲われた。男の濡れたままの髪を見る。何時間、そのままなんだっけ……?
『ドライブ』のメモに、『もしかしたら中止』と書きたさないと、いけないかもしれない。
そのとき男は案の定、くしゅん、とひとつくしゃみをした。あああ……。
私が先に悠長に風呂なんか入ってないで、彼に先に入って貰えばよかったんだ。
とめどなく、思考が頭の中で堰を切ったように溢れ出した。ちゃんとした思考に纏まらなくて、落ち着こうとすればするほど思考は黒く塗りつぶされていった。
彼がもし、風邪をひいてしまったら。私のせいで、熱を出してしまったら。私に何ができる?
今日見つけた、唯一の明日の手がかりも、消えてしまう。彼も、消えてしまう……?
……いや、いやだ。
今まで感じたことのない、途轍もなく大きな黒い闇のような溢れた不安が私を襲った。
怖い。とても怖い。怖くて仕方がない。
私は怯えたように目の前の男を見つめた。
「っあー、疲れたー。あったかいもの食べて、今日は早く寝よっか」
私の様子をじっと見ていた男は、何でもないように言って、私に彼の向かいの椅子を勧めた。
その確かな微笑みの温もりを感じて、やっと私に安心が訪れた。そうだ、明日のことなんてわからない。それはきっと、私だけじゃなくて、このひとも同じだ。
今を大切にしろ、というのは、こういうことをいうんだ。……と、どこかで聞いたような気がする。
彼には風邪をひかないように、あったかくしてもらわねばならない。
私は何をしてあげられるだろう。してもらってばっかりの彼にしてあげることを考えると心が躍って、うふふと笑みが溢れた。
ふたりで手を合わせた。自然の恵みと、目の前の男に感謝を捧げる。大事に大事にじっと祈って、そっと目を開けた。
「じゃ〜ん」
男が言いながら、目の前の大きな皿の上のキッチンペーパーをとった。
光を反射して輝くころも。カツがあらわれた!
「どうでしょうっと」
最高ですね、戦闘能力高そう。
私は無言でカツを頬張った。サクッと響いたカツの第一声と、声にならない私の叫びがカツの全てを物語っていた。
それを見届けてから、男は満足そうに食べだした。
ふたりとも、味噌汁を手にとってズズッとすする。
味噌汁が、泣きそうなほど、身体に染み込んだ。
「労働の後の、最高の一杯だね。はぁあ、うまい」
あなたが作ったのでしょーに。
……これもまた、ひとつの自画自賛というのだろうか。ふふふ。
でも本当にそう思うので、しみじみと頷いた。労働といえど、今日私はほとんど何もしていないけれど。
二回戦は、ふたり同時に箸を置いた、その直後だった。
「はいやーっ、じゃんけんぽん!」
なんだ! はいやーって! 動揺も露わに、私は反射的に拳を前に突き出した。
あーあ、また負けたか、と思って私は手元を見た。私は相変わらずグーで、でも彼はチョキだった。
あれ?
「…………」
これは、ワザと、だなぁ……。
あー、負けちゃったー、とか言っているが、この確信犯め。
皿を洗おうとする、男の隣に私も並んだ。
男は驚いて私を見たけれど、御構いなしに私は皿をスポンジで洗い出した。
ふたりともしばらく無言で、皿を洗った。何も言わなくてもとても満たされるような感覚を、私は彼の隣で全身で感じていた。
皿を洗い終えると、男は風呂に入りに行った。私は早く入れと追い立てる。
無事風呂に男を押し込み、私はソファに沈み込む。
お腹は満たされていたけれど、それだけじゃなくて、全身がすみからすみまで満たされているように感じた。とても、温かい心地だった。
それなのに、目を閉じると、黒い影が私の目の中に浮かび、消えた。あまりに一瞬のことだったけれど、その言葉は私の心を押しつぶすには充分すぎた。
『私の記憶は一日しかもたない』
今朝、一番に目に入ったメモの文字が頭をよぎる。途端に身体がサァッと冷たくなる。
その事実が告げることは、私を支えているものを静かに、残酷に壊した。
今、今私が抱いているこの気持ちは、たった一晩、たった一瞬で、なかったことになる。
彼はまた知らない人になり、私はただの不器用な何もできない、何も思い出せないただのモノになる。
目の前にいても、声をかけることすらできない。目を瞑れば温かい笑顔が浮かんで、その顔に手を伸ばして名前を呼びたいのに。
喉から声が出ない。思い、出せない。
昨日の私。明日の自分。きっと同じようで、あまりにも違う。
今日、私は、何を忘れた?
今まで、何を忘れてきた……?
男はあっという間に風呂から上がって出てきて、ソファでうとうとしていた私は、タオルをかけた大男が急に目の前に現れて、飛び上がるほど驚いた。
「あ、ごめん。起こした? ちょうどいい、ねぇちょっと見て」
ごめん、と言いながら、クスクスと笑う男。
私は軽く睨みつけたけれど、男は知らぬ顔で私の手を引いた。
カレンダーの前に連れられ、男はある一点を指差した。なんだ急に、と思って訝しげに男を見つめると、切なくなるほど優しい笑みをしていて、とてもじゃないけど直視できずに慌てて視線をカレンダーの一点に戻した。
『オムライス記念日』。
ハッとしてその字を凝視する。
きっと、今日の日付けだろう5月の真ん中に、そう書いてあった。そう赤色で、男のくせに丸っこい可愛い字で、書いてあった。
温かくて、苦しすぎるほどの何かがこみ上げてきて、喉の奥がグッと鳴った。
「どう?」と男はいたずらっ子のように聞いてきて、私はもう耐えられなかった。
彼に顔を押し付けて泣いた。嬉しかった。嬉しかった、ただそれだけなのに、何故か涙が溢れて止まらない。
愛しそうに頭を撫でる手と、肌に感じる温もりに、またなんとも言えないものがこみ上げてきて、その全てを包み込むようにギュッと抱きしめた。
少し泣き疲れ、涙も止んだころ、「じゃあ、今日はもう、寝よっか」と男が言った。
男の髪に触れて、しっかり乾いているか確認する。よし、大丈夫だ。甘い笑顔が至近距離にあるので、落ち着かなくなった私は、急いで手を引っ込めた。
寝室に向かいながら、結局何もしてあげられなかったな、とぼんやり思った。私ができることは、本当に少なくて、ないにほぼ等しい。
せっかく、本人がすぐそばにいるというのに、ほの暗い気持ちに支配された。
「くしゅん」
ハッとして顔を上げると、男がううーんと唸りながら鼻を擦っていた。
「今日は、一緒に寝てほしいなぁんつって」
彼を凝視する私を見て、「やっぱ忘れて」と取り繕うように頭を撫でた。
あった。あったぞ、私でもできること。
少し冷えてしまった手を、ぱしっと取る。急いで今朝目覚めた部屋に連れ込んだ。思わず笑みが溢れる。こういうことは、自分らしくない気がした。
いつもだったら、たぶん。その証拠に、後ろで少し息を呑む気配があった。なぜか嬉しくて、得意な気分になる。
何も言わずに困ったような顔で笑う男に、私はベッドに座って隣をバンバンと叩いた。
手を引いたときに分かったけれど、やっぱり少しフラフラしている。あったかくして、寝てもらわねば。
「……うつしちゃうかもしんないよ? まったく……」
垂れた眉をして聞いてくる割には答えを求めていない。むしろ、にやついている。
この人も大概私のこと好きだなぁと、自惚れたことを思って少し笑うと、余裕の笑みで返された。み、見抜かれている……?
いつの間にか目線は下がってきていて、私の前に屈み込んでいた。そして彼が後ろ手でドアを閉めると、この部屋は朝起きたときと同じ部屋とは思えないほど、静かな闇に包まれた。
暗闇の中、目の前のひとの瞳しか見えなくて、その瞳が甘く細められると、ひどく動揺した。
何故か急に緊張してきて、息が詰まってしまう。
ほぅ、と息を吐こうとしたそのとき、突然視界が揺れて平衡感覚がなくなった。
彼の匂いに包まれて、頭を抱え込まれたのだ、と遅れて理解する。突然のことに思考が停止し、気づいたら抱き締められたままベッドに倒されていた。
心臓の音がうるさい。
でもその動作が優しすぎて、また涙が出そうになった。
少し腕が緩められて、彼の顔が見えた。私を見つめるその瞳が揺れると、私の中の、私を支える何もかもが、ひどく揺れるのを感じた。
あまりに至近距離で、一気に顔に熱が集中する。
「……俺の名前、知りたい?」
ドキッとした。
今、一番知りたいことだった。でも、一番忘れちゃいけない、一番忘れたくないことだとも、わかっていた。だから怖かった。
こくんと頷いた。
「日野、和樹。俺は日野和樹だよ。……おまえはめぐみ。日野めぐみ」
ひの、かずき。ひのめぐみ。その響きは私の体に染み込んで、私の奥深いところまで包みこんだ。
ひのかずき。ひのめぐみ。
その文字が形取られて頭に浮かんだとき、温かくて懐かしい感覚に襲われた。丸っこい、可愛い字で書かれたその文字を、ずっと、ずっと私は……。
その文字が、彼と、私を繋ぐ、一番初めのメモだった。
「いつも、ちゃんと書いといて、って言ってるのに」
そう言う彼は少し寂しそうだったけれど、ちゃんと微笑んでいた。
だって、書きたくない。彼が許してくれるなら、私はその文字を伝言にはしたくなかった。
毎日、毎日、確かめればいい。伝言になんかしないで、ちゃんと、自分で。
とっても大事なことなのだ、これは。
貴方が、かずきが笑って許してくれるなら、めぐみは我が儘で書きません。
「……なんでいつも、ちょっとドヤ顔……」
はぁ、と呆れたようにため息を一つ吐くと、私をまたギュッと抱え込んで横になった。
くすぐったくてクスクスと笑ってしまう。
かずきは少しムッとしたようで、腕の力が強くなった。
「めぐみ、ちゃんと確認した? メモ」
はっとして飛び上がる。ドライブ! ドライブの紙!
あっと言う間に、彼の腕の拘束を抜け出してバビュンと居間に戻る。そしてテーブルかけの下からそっとメモを取り出した。
今日一番の大収穫なのだ。危ない危ない。
そこに『絶対』と強く書き足した。あっ……。
何事もなかったように、そっと抱えて部屋に戻る。
そして、目の前の男によーく見せつけてから、大事に服の袖口に貼った。
また私は腕の拘束の中に収まって、布団を被った。さぁ寝よう。寝てしまおう。明日が楽しみだ。明日が早く来ないかな。
だというのに、後ろからずっとクツクツと笑い声が聞こえてきて、とても気にくわない。何がそんなに面白い。
「絶対。行こうね、ドライブ……っ」
そんなに笑うなら別にいいから。絶対が赤いのはたまたまだから。私が手に取ったボールペンが二色だったのが悪い。
背中に感じる小さな振動が、止まったと思ったらまた復活するけれど、それがとても恥ずかしくて、その脇腹を殴りたいけれど。
「幸せだなぁ……」
はっとして息を呑んだ。自分の心の中の、叫ぶほどの声。その声と同じ声が、今確かに、私の耳元から聞こえた。
その言葉に、私の中のすべての不安が消え去った。
私は彼の幸せが何なのかを知らない。
私は今、痛いほど幸せで、だからこそ、彼の幸せを知らないことが辛かった。でも今。確かに、今。
涙が出た。また泣いてしまった。
見開いた目から、温かい気持ちがあふれて、こぼれ出した。
でも絶対に、この人には、かずきには知られたくなくて、ギュッと自分を抱え込んだ。すると、なんでかクツクツと笑えてきて、ポロッと涙がこぼれて、思わず無防備に身体を投げ出して笑った。
くるっと振り返って、私はかずきにぶつけた。このどうしようもない気持ちを。どうしても、今日伝えたい。どうしても、今。
だいすき、かずき。
くちびるの動きを読み取って、でも最後まで見届けずに、抱き締められた。
なぜだかわからなくて、私は慌てた。
「……なに泣きそうな顔で言ってんの」
苦しそうな顔が見えたのは一瞬で。
「めぐみ。俺はめぐみのものだよ」
なんのことかはわからなかった。
でもその響きはとても心地よくて、私はとても安心して、眠りにつくのがわかった。
明日が怖い。でもとても楽しみだ。
矛盾した想い。私はずっと矛盾したまま生きている。
それは彼がずっと抱き締めてくれるから。私を、私の想いごと、抱き締めてくれているから。
いつか、彼のお話と、彼と彼女の出会いのお話を書きたいです。