An act of crossing a river and night warfare
さて、連綿と続く歴史の中では時折、誰もが思いも寄らぬ事態が起きたりする。
それは時に人的要因の結果であり、時に天の気まぐれ次第だったりもする。
いずれにせよ、歴史に記録される奇事というものは、今を生きる歴史の好事家にとっては垂涎の的なのだ。
かつての当事者の心中など知る由もなく……。
後に日本三大奇襲と呼ばれる三つの戦がある。
安芸国の『厳島の戦い』
尾張国の『桶狭間の戦い』
そしてもう一つ……。
天文一五年四月二十日。
武蔵国・河越城――。
篭城する城の周囲ををぐるりと取り囲むは、上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の三者連合軍、総勢八万。相対する北条氏康の軍は城兵三千、後詰八千の総勢一万一千。
武蔵野台地の河越城とその周辺一帯を舞台にした、戦力差約七倍にも及ぶこの一方的とも取れる戦こそ、三大奇襲の最後の一つ。後の世にまで語り継がれる歴史の分水嶺。信じられないような本当の話。
『河越夜戦』
八万対一万一千。
およそ四百五十年の昔、戦国合戦史上極めて稀な戦がここにあった。
☆
逢魔時には魔物が出るという。
「ふん。今にも取って喰われそうではないか」
「お戯れを」
橙の陣内に置かれた床几に座る男が、夕陽を浴びて陰影を強く映すかつての居城を眺め、膝を折る壮年の男に向けて呟いていた。
「だが、さすがは道灌の造りし城。失って改めてその堅固さに気付かされるとはな……」
江戸城を築城し、山吹伝説で知られる武将・大田道灌。彼の造る城には当時の技術の粋が詰め込まれており、さらに川越という地名は元々『河肥』に起因することからも農作物の蓄えは豊富であり、川越城は篭城するにはこれ以上ない堅城だった。
「それも後僅かの辛抱にござりましょうぞ」
「……そうだな」
総勢八万の兵が二重三重に眼前の川越城を取り囲んで糧道を断ち、攻め手にも進展のないまま膠着状態になっておよそ半年。
扇谷上杉氏当主・上杉朝定は、夕闇の迫る自陣の中で苛立っていた。
「して殿、今朝方我らの陣中を単騎突破せしめた猪武者でござるが……」
「構わん。所詮は落ち逝く城の兵が一人増えただけのこと。捨て置け」
「なれども……」
「二度言わすな! 憲重。この戦ははなから勝ち戦よ。たった一人の命知らずに何が出来よう」
家臣に対し口ではそう言うものの、内心では朝定は、父を貶め目の前の川越城をも奪った憎たらしい北条の首を前にしながら、己が身可愛さに安全策を取る上杉憲政に嫌気が差していた。
(立派になられたものだ)
苦い顔をする年下の主君を慈しむ眼差しで見ているのが、家臣筆頭の難波田憲重である。
この重臣・憲重には面白い話が残されている。
遡ること九年前の天文六年のこと。小田原より北条の軍勢が攻めてきたというので、当時の扇ヶ谷上杉家当主・朝興は江戸にてこれを迎え撃った。だがしかし、名将と現在でも名高い、かの北条早雲の息子・二代氏綱の軍勢は強く、敗れた朝興は江戸城を捨て川越城に入り、やがて没した。
当主であった上杉朝興が没したことで扇谷上杉家の家督を継いだのは、若干十二歳の朝定。これは好機と北条氏綱は、主城・小田原から七千の兵を率いて、まさに今取り返さんとしている河越城を攻めた。朝定は健気にも、父の遺志を守って氏綱と戦ったが敗北。結果、川越城は氏綱によって奪われた。
朝定は家臣である松山城城主・難波田憲重の下に身を寄せたが、北条軍は余勢を駆って、尚も追いすがった。
朝定はこれを憲重らの活躍で辛くも撃退したのだが、その時に纏わる話だ。
松山城の城門より打って出、苛烈な迎撃戦を行いながら帰城しようとする憲重に、北条方の松山主膳なる武将が和歌問答を仕掛けたというものだ。その内容は、
『あしからじ よかれとてこそ たゝかはめ なにか難波田の 崩れゆくらん』
あなたは主君のために良かれと思い戦ったのではないか。何故それなのに難波田殿ほどの名のある者がろくに手合わせもせずに逃げるのか? というものだ。
これに対して憲重は馬を止め、踵を返して主膳に向き直ると、
『君をゝきて あだし心を 我もたば すえの松山 波もこえなん』
まだ幼い主君を置いて自分が討死にすれば、仕舞いにはこの松山は荒波の中に呑まれて荒れ果ててしまうであろう。そういう訳にはいかないのだ、と歌を返したという。
本当に戦闘中にそんな余裕があったのかどうかは定かではないが、この二人の和歌問答は『松山城風流歌合戦』と銘打たれ、江戸時代に書かれた軍記物、『関八州古戦録』の中に記されている。
そんな文武共に長けた憲重が言っているのは、今朝方朝靄に紛れ、連合軍の兵が十重二十重に折り重なる多重包囲の中をたった一騎で踏破して、篭城している川越城の城門の奥へと消えていった若武者のことである。なんでも、唖然とする連合軍の兵を尻目に、しなる弓から放たれた一文字の箆の如く、瞬く間に陣内の兵の尽くを尻目に風のように去っていったそうな。
この早打ち武者の名は、城を守っている北条綱成の弟、北条綱房。この頃はまだ弁千代と名乗っていた。大変な美男子で、まるで散歩にでも出かけるような明るい表情で、いとも容易く八万もの軍勢の中を切り裂いていったのだという。
さて、この八万という兵、山内上杉の当主・上杉憲政が今川義元及び古河公方足利晴氏を後ろ盾とし、扇谷上杉の川越城を落とすなどした関東の新たな脅威である北条氏を殲滅せんと、関東全土の諸将に声を掛けた結果の軍勢である。
一説によれば関東の全ての大名家が包囲軍に参加して、加わらなかったのは下総の千葉利胤のみだったとも、城の周りの平原が、人山で黒く染まって見えるようだったともいわれている。それ程の人の大群なのだ。
彼らは物言わぬ木偶人形とは違う。飯も食えば糞もする。夜には眠るし、家には帰りを待つ家族もいる。それぞれが各々の生まれを持ち、育った環境を持ち、内に抱いた感情とて千差万別な、赤い血の流れる一人の人間なのだ。
それが八万。
それを半年。
繰り返すが、平原が黒山の人だかりでうねる夜の海のように見えるほどの大人数、それも一国の軍ではなく周辺各国より集結した、ともすれば寄せ集めの兵群である。なんの進展もなく、起きて、飯を食って、ただ寝るだけの生活を半年もの間、周りは見慣れぬ人の集団の中で繰り返すのだ。
兵は勿論、それを束ねる武将に至るまで、徐々に心身共に疲弊していった。
それでもギリギリのところで一線を保っていられるのは、偏に目の前の川越城が何もしなくても落ちるだろうことが目に見えているからだった。戦になれば少なくとも犠牲者は出る。それがたまたま自分になるかもしれない……ならば、黙っていてもいずれは落ちる城に手を出して火傷することもあるまい。そんな風潮が連合軍兵士の間に漂っていたのは言わずもがなである。
それに、数日前の使者のことがある。
義弟の綱成のいる川越城が両上杉と足利の大群に包囲されていると聞いた北条氏康は、約八千の兵を率いて綱成の援軍に来ていた。だが、その眼前に広がっていたのは連れてきた北条兵の十倍にも及ぶ大軍勢。勿論相手になどなる筈がない。
そこで氏綱は上杉と足利の軍勢にそれぞれ使者を送ってきたのだ。
『城兵を助命してくれれば城は明け渡す』
『綱成を助命してくれるならば開城し、今までの争いについても和議の上、我らは公方家に仕える』
といった、完全に敗者の助命を願う文だった。
だが、労せず関東から北条を除けると見た連合軍はこの申し入れを足蹴にし、逆に使者を送ってきた氏綱の北条軍に攻撃を仕掛けたが、この攻撃で北条軍八千は戦わずに兵を引いた。
北条方の士気が低いと判断した連合軍の間には、益々楽勝気分が漂っているのだ。
朝定が苛立っている理由はここにあった。
(なぜ八万もの兵がいながら城を攻めない? 山内上杉の木偶の坊は、兵たちの士気が下がっていることにも気がつかぬのか?)
それだけの数の兵が一斉に攻めれば、いくら堅守で知られる川越の城とていずれ落城するだろう。だが、その判断をあの男は下さない。戦わず、待っていれば勝てるのならば、士気など上がる筈もなかった。
険しい表情のまま、朝定は憲政の陣のある方へ首を向ける。当の憲政はといえば、状況が硬直してからというもの、戦時だというのに陣内に白拍子を呼び、酒を浴び、日夜遊興に耽っているということだった。
(将が戦意を失ってしまっては、配下の兵にまでも影響が及んでしまうというのに)
現に、今朝は無謀とも取れる敵陣内の単騎突破を簡単に許してしまっている。まだ二十二の若造である朝定にでも分かるようなことが、なぜあの男には理解できないのだ?
朝定は嫌な予感をひしひしと感じながらも、そこで考えるのを止めた。朝定もまた、無意識のうちに、八万という巨大な数字の毒にどっぷりと浸ってしまっていたのだった。
城の周囲を取り囲んでの兵糧攻め。
城攻めでは定石だが、この安全だった筈の策が、両上杉、足利の三者連合軍と北条の明暗を分けた。
深夜。凄まじい絶叫で朝定は目が覚めた。
着の身着のまま、何がなんだかも分からぬままに、枕元の刀だけを引っつかんで陣の外に飛び出すと、真っ暗な中をものすごい数の人間が逃げ惑っている。
「敵襲、敵襲だ!」
「逃げろ! 敵は数十万だそうだ!」
「妖術を使うぞ! 殺される!」
自分の配下なのかどうかも分からぬ男たちが、右往左往しながら真偽の疑わしいことを叫んでいる。
(北条の夜襲か!)
敵の人数も位置も分からないものの、朝定は直感的にそう悟った。
「おい!」
兎にも角にも現状を把握したいと、朝定は目の前を走っていこうとする連合軍兵の襟首を捕まえた。
「お前、今何が起こって――」
「ひいい!」
「うお!」
首根っこに手を掛けた途端、その足軽は振り返り様に刀を朝定に降り下ろしてきた。
刀を放り出し、間一髪転がってそれを避けたものの、荒い息で朝定を見下ろす足軽には敵味方の区別がついていないようだった。
「お前……」
「ち、近付くな、北条の……」
そこまでだった。ようやく暗闇に慣れてきた朝定の目の前で、刀を構えた兵士の首がぐるんと縦に回ったかと思うと、胴体から離れて鮮血を撒き散らしながら、短い草の上に転がったのだ。
一拍置いてどうと倒れたその体の後ろから、白い紙を鎧の上から肩衣のように纏った男が、切り捨てた足軽には目もくれず、朝定目掛けて突進してきた。
「!」
袈裟に切り下ろされた一太刀は鋭く、地面を這うようにもう一度転がった朝定の足先を霞めた。鋭い痛みが足のどこかで脈を刻み始める。心臓が早鐘を打つ。どれ位斬られたのか分からないが、敵は待ってはくれない。
隠しきれない殺気を感じて振り返った朝定の喉元目掛け、今度は横薙ぎの斬撃が襲う。思わず握っていた土を敵目掛けて投げつけると、上手く目に当たったらしい。敵は片手で目を覆い、樋熊のような声で唸って刀をめちゃくちゃに振り回した。
この隙に、と立ち上がって駆け出そうとした朝定だったが、何かに足を取られ、もんどりうって地べたを舐めた。
「おのれ……」
朝定は唸って腹の底から力を入れる。
まだ若くとも扇谷上杉家の当主である。ちゃんとした戦場での命のやり取りならば分かるが、こんな奇襲の形でみっともなく地べたを這いずり回った挙句に殺されるのは、
「真平ご免!」
目の見えるようになった敵が刀を振り下ろす前に、朝定は先程取り落とした愛刀を拾い上げて鞘走らせ、男の空いていた胴へと鋭い切っ先を滑り込ませた。
音も叫び声もなく頭から崩れ落ちた男は、そのまま二度と動かなかった。
「はあ……はあ……」
刀を片手に息を切らしたまま、ふと朝定がしゃがんで自分の足先を見ると、右足の指が太い方から三本無くなっていた。どうやらあの一太刀で持っていかれたらしい。
そこにあった筈の体の一部がなくなっていることに衝撃を受けたが、気持ちが高ぶっているせいか、不思議と痛みは少なかった。
着物の袖を引きちぎって傷口を押さえ慣れない応急処置としてみたものの、出血は多いようで、みるみるうちに布が変色していくのが暗闇でも分かる。
その間も、周囲からは叫び声と怒鳴り声がひっきりなしに聞こえてくるようだった。もはや五月蝿過ぎて何を言っているのかすら分からない。
倒れている敵兵を検分してみると、鎧をつけているのは胴のみで、あとは身軽にするためなのか兜も被らず草摺も佩楯も袖も付けず、大小と草鞋、そして血を吸って黒くなった、例の白い紙のみという軽装であった。
(この紙を着けていないものは皆斬れとでも言われているのであろうな)
冷静にそんなことを思っている自分に驚きつつ、さてどうする、と朝定は思考を巡らせる。この足では長く戦っているのは難しい。ましてこの大混乱だ。先程のように話しかけた途端に味方に斬られるということもありえる。
(とりあえず憲重を探さねば)
難波田憲重は、以前も北条の追っ手を追い払った猛将であり、また頭も切れる男だ。
(あ奴なれば打開策も思いつくであろう)
奇襲は、相手が混乱している内にどれだけ叩くことが出来るかどうかで成否が決まる。
ならばこの騒ぎだ。奇襲は成功したといってもいいだろう。それはつまり、八万の軍勢が敗れたことを意味する。
「おれは、負けたのだな……」
辺りは常闇だというのに、朝定の目には懐かしき川越の城が見えるようであった。
「ここより生きて帰り、いずれ、再びあそこへ」
そう呟き、片足を引き摺りながら、朝定は憲重を探して闇夜の中へと消えていった。
☆
巨象が蟻を踏み潰すだけかと思われたこの戦は、北条軍が七倍の戦力差を引っ繰り返すという、誰も予想だにしなかった結果に終わった。
上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の三者連合は、降伏文や敵兵の遁走などで油断しきったところを攻め込まれ、さらに城を守っていた『地黄八幡』北条綱成率いる三千の兵が奇襲に合わせ「勝った勝った」と叫びながら打って出たことで、完全に総崩れとなった。
連合軍は扇谷上杉家当主の上杉朝定、忠臣であり勇将の難波田憲重らが討死。山内上杉方では上杉憲政は戦場を脱出したものの、こちらも重鎮である本間江州、倉賀野行政が退却戦で相次いで討死した。足利晴氏軍も、浮き足立っていたところを綱成の軍勢に散々に食い散らかされ、這う這う(ほ ほ )の体で古河へと逃げ帰った。
これによって関東の覇権は完全に北条が握ることとなり、当主を失った扇谷上杉氏は滅亡。山内上杉氏も急速に力を失い、数年後には武田氏にも敗れた上杉憲政が居城をも追われ、越後の長尾景虎(後の謙信)を頼り、後の川中島の戦いの火種となっていく。同じように足利氏も衰退の一途を辿り、ここに室町時代の枠組が消滅。世は波乱の戦国時代へと突き進んでいくこととなる。
戦場となった東明寺(川越市志多町)一帯には、今尚おびただしい数の骸骨が埋まっていると言われているが、連合軍の死者は枕を並べて一万六千にも及び、北条軍は僅か百人にも満たなかったというのだから、この戦がどれだけ凄まじいものであったか想像に難くない。
八万対一万一千。
これを悲劇と呼ばずして何と呼ぼうか。