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嫌悪感

作者: 伊藤 昏
掲載日:2026/05/07

心なんて要らない。そう思った夜だった。

更待月の夜だったと思う。何故かその日は酷く落ち込んでいた。理由は分かっていた。いつもの理由の無い絶望だ。途方もない虚無感だ。取り返しのつかない後悔だ。それらが心臓を握りしめて呼吸を速くさせていた。

何かしなければならない、けれど何も出来ない。

何かしたい、けれど何をしたいか分からない。

そんな焦燥感が思考を曇らせて、正気を奪っていた。子供の頃から気味悪がられ、虐められていた。そんな人間には人の社会は厳しすぎたのだ。いつもの気狂いだった。

ボクは冷静になろうと外に出た。アパートの階段を降り、3階から1階へ向かう途中、階段の隅に虫が居た。一匹のゴキブリだ。その黒い塊はモリオンのような光沢を放っていて、何故かボクは視線を外せなかった。

(ボクとコイツは似ている)

そんな事を考えた。人に嫌われ、日陰の隅で生きていく。そんな共通点を考え、勝手に親近感を覚えた。ゴキブリは触覚を動かしながらもジッと隅に縮こまっている。街は静かに眠っていて、時折車の音だけが聞こえてきた。

(コイツに心はあるのだろうか。あるのだとしたらコイツは今ボクを見てなんと思っているのだろうか)

ゴキブリの身体は少し小さく見えた。まだ子供だったのかもしれない。もしかしたらコイツも親近感を感じているかもしれない。そんな事を考えていると、ゴキブリは俄にボクの方へと近づいてきた。

その瞬間、無意識にボクは嫌悪感を感じ、ゴキブリを踏み潰した。潰れてなお、未だに触覚を動かしているソレは体液の水溜りを作り、死にかけていた。

もはや助からないだろう事は明らかだった。

ボクはハッとすると、逃げるように夜の闇に駆け出したのだった。

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