にんぎょのかいかた
幼い頃、人魚を見た。
実家の近くの海に遊びに行ったときのことだ。遠目ではあったが岸壁の上に座って海を眺め、歌を紡ぐその姿は十年以上経った今でも忘れられない。
今、実家を出て地元の公務員として独り暮らししている男——島田省吾は、すっかり暗くなった海沿いの道を歩きながらそんなことを思い返していた。
潮風が持っているビニール袋を揺らし、がさがさと音を立てる。ふと顔を上げると真っ暗な海が見えた。
住んでいる安アパートの階段を上がり、自分の部屋の鍵を開ける。周囲の部屋には誰も住んでいない。
それどころか自分以外の住人を見たことが無かった。地方の過疎化の影響なのか知らないが、こんなことでこのアパートはやっていけるのか疑問に思う。とはいえあれがある以上、住人がいないのは都合がいい。
部屋に入るとまっすぐ風呂場に向かう。
「よう、大人しくしてたか?」
風呂場の扉を開けて中にいた人影に声を掛けると、女が虚ろな表情で顔を上げた。
しとどに濡れたぼさぼさの長い黒髪に白い肌の女は浴槽にだらりと寄りかかりながら獣のような瞳で省吾を見つめ、時折赤い唇をパクパクと動かしている。
「今日もいい魚を買ってきてやったぞ。感謝しろよ?」
そう言って買ってきた魚を目の前に放ってやると、女は水かきの付いた手を伸ばして魚を引っ掴みバリバリと食べ始めた。
身を起こしたことで女の体が露わになる。
何も身に着けていない上半身、そして——鱗とひれを持つ魚に似た下半身。
島田省吾は、人魚を飼っていた。
きっかけは二ヶ月も前の事だった。仕事を終えていつものように帰路についていると、アパート近くの海辺に女が倒れているのが見えた。慌てて近づいてみるとこの人魚が倒れていたというわけだ。
衰弱しているその姿を見た時、省吾は異様な興奮を覚えた。
あの人魚が目の前にいる。この好機を逃す手は無い。そう考え、省吾は人魚に手を伸ばしたのであった。
「……お前、本当に歌わないよな。」
ただの人面魚な日本の人魚と違って西洋の人魚——いわゆるマーメイドの中には、美しい歌声で男を誘い、船を襲って沈めてしまうものもいるという。
しかし今目の前で魚を貪っているコイツは、歌うどころか声を発するところも見たことがない。
食事を終えてぼうっとこちらを見上げる人魚と見つめあっていると、露わになっている乳房が目に入った。上半身は美しい女なのだ、情欲を煽られる。
「…………じゃあな。」
猫のような大きな目から逃れるように風呂場を出て電話をかける。
「…………この後会えるか?」
相手からの了承を得ると、省吾は部屋を出るのであった。
「——あっ、省吾さん。」
「悪い若葉、待たせた。」
待ち合わせの場所に行くと、長い黒髪の女性がすでに待っていた。
海原若葉——省吾の彼女だ。
同じ職場の後輩であり、飲み会の席で酒に酔わせて体を重ねたことで付き合うことになったのだが、正直なところ省吾にとってはただの遊びであった。
「こんな時間にどうしたんですか?」
「あぁ、まぁ……とりあえずどこか休める場所に行こうぜ?」
「えっ、今からですか?」
若葉の肩を抱いて歩き出す。
「……明日休みだしいいじゃん。ダメか?」
「……ダメじゃ、ないけど…………。」
若葉は戸惑っていたが、省吾の言葉に気恥ずかしそうに頷く。
二人はそのまま夜の闇に消えていった。
翌朝、二人は朝の光を浴びながら帰路を歩いていた。
「どこか行きたいところはあるか?」
その途中で若葉に聞いてみる。
正直、こちらの用は済んだ。今日はさっさと別れて魚を買いに行きたいのだが、社交辞令として聞いておく。
「…………省吾さんの、家。」
「はぁ?」
すると、若葉がとんでもないことを言い出した。
人魚を拾ったことは誰にも言っていない。もちろんそれは若葉も同じだ。
「ウチは駄目だ。」
「どうしてですか?」
提案を断るが、若葉は食い下がる。いつもの若葉なら一度断られるとそのまま引き下がるのだが、今回は強情だ。
「どうしてもだ。」
「……でも私、省吾さんの家に一回も行ったことないです。省吾さんの彼女なのに。」
「それは今関係ないだろ。無理なものは無理だ。」
「…………わかりました。」
人魚のことは知られるわけにはいかない。それは若葉であろうと同じだ。
あの人魚は自分だけのものなのだから。
「…………省吾さんにとって、私って何ですか?」
海沿いの道まで来た。ここからは帰り道が反対方向だ。
背中を向けて歩き出そうとした時、若葉が訊ねてくる。
振り返ると潮風が若葉の長い髪を揺らしていた。その目は少し寂しそうだ。
「彼女。」
「……本当に?」
「あぁ。……それじゃあまたな。」
省吾は返事を待たずに歩きだす。
……若葉との関係も、もう限界かもしれない。
途中の魚屋で魚を数尾買って帰路につく。
部屋に戻るとまっすぐ風呂場に向かい、扉を開けた。人魚がこちらを見上げてくる。
「よぉ、大人しくしてたか?」
袋から魚を取り出して人魚の前に放り、それを貪る様子を眺める。
「……なぁ、歌ってくれないか?」
あの日微かに聞こえた歌はもう憶えていないが、人魚なのだからあの日の人魚と同じように歌えるはずなのだ。
「なぁ。」
人魚はこちらの声を気にした様子もなく魚を食べている。相も変わらず声を発しはしない。
「…………何とか言えよ!」
人魚の顔を掴んでこちらを向けさせる。磯の臭いが鼻についた。それでも何も言わない人魚に怒りが込みあがってくる。
「俺がどれだけお前の世話をしてやったと思ってる?ちったぁ恩返ししようとかねぇのかよ、あぁ!?」
感情に任せて怒鳴りつけると、人魚が涙を流した。それは頬を伝って洗い場に落ちる。
リーン……。
鈴の鳴るような不思議な音が風呂場に響き、足元を見ると落ちた涙が小さな結晶となって転がっている。
冷静になった省吾は人魚から手を離した。
「……悪い。」
溜息をついて風呂場を出る。今日は休日なのだ。頭を冷やそう……。
また別の日、浴槽を掃除することにした。
「浴槽洗うから、とりあえずそこから出ろ。」
そう言うと、普段無表情の人魚が微かに狼狽えているように見える。
「……いい加減慣れろよ。ずっと同じ水に浸かっているわけにはいかないだろ?」
数日に一度替えているのだからそろそろ慣れてほしいのだが。
浴槽の水は明らかに汚い。当然と言えば当然か、人魚だって生きているのだ。排泄ぐらい——。
バシャッ!
そんなことを考えていると人魚が尾びれで水面を叩いた。
表情に出ていたのか、心なしかこちらを睨みつけているように見える。
「こんな時ばっかり表情変えやがって。……言っとくが今のお前、汚いぞ。あと臭う。」
そう言ってやると人魚はショックを受けたのか一瞬顔をこわばらせると、しぶしぶといった様子で浴槽を出た。
洗い場に座る人魚の下半身に濡れたタオルをかけ、浴槽の水を捨てる。
恨めしそうな人魚の視線を受けながら掃除を終わらせ浴槽を人工海水で満たしてやると、人魚の方へと向き直った。
「次はお前だ。」
人魚の体を洗っていく。青とも緑ともつかない不思議な色合いの鱗を優しく拭いてやると、人魚がくすぐったそうに身をよじる。
「……ほら、これで終わり。」
全身を洗い終えると人魚はするっと浴槽に入っていき、熱っぽい視線をこちらに向けてくる。
「……魚、買ってくるわ。」
そう言って風呂場を後にした。
……いや、確かに人魚は美しい。しかし、下半身は魚なのだ。人間とは明らかに違う生き物と交わることはできない。
「……若葉に連絡しよ。」
省吾はクズであった。
「省吾さんは、人魚の存在って信じますか?」
ある日若葉とディナーを楽しんでいると、そんなことを聞かれた。
「…………なんで?」
まさか、人魚のことがバレたのだろうか。努めて冷静に探りを入れる。
「省吾さん、ここの出身でしたよね?やっぱり人魚伝説とか信じてるのかなって。……あっ、馬鹿にしてるとかじゃないですよ?」
「……まぁ、いてもおかしく無いとは思ってるよ。」
「……なんだか意外です。もっとはっきり否定されるかと思ってました。」
「若葉が聞いたんだろ?」
「えへへ、ごめんなさい。」
どうやらバレてはいないようだ。内心胸を撫で下ろす。
「……でも、人魚が本当にいるなら会ってみたくありませんか?歌声も綺麗って言いますし。」
「まぁ、本当にいたら、な……。」
家にいる人魚を思い出す。今それを打ち明けたら、若葉はどんな顔をするだろうか?
………………いや、やめておこう。
「……どうしたんですか?」
「あ?何が?」
「省吾さん、なんだか嬉しそうです。何かありました?」
「あー……ただの思い出し笑い。」
その後も若葉の追求を躱しながら、楽しいディナーを続けるのであった。
「ただいま~っと。」
酒に酔ってふらふらとした足取りで部屋に上がる。
いつものように風呂場に向かい扉を開けた。
「…………は?」
しかし、省吾を迎えたのは塩水に満たされた浴槽だけであった。
「……おいおいおい嘘だろ!人魚!どこだ!」
一気に酔いが覚め、大声で人魚を呼ぶ。部屋の中は静寂に包まれたままだ。
よく目を凝らすと床が濡れており、水は一直線に玄関へと向かっていた。
慌てて懐中電灯を引っ張り出し、外へ飛び出す。
アパートの周りは街灯もなく真っ暗だ。水の線はまっすぐに海へと向かっている。
「逃げた、のか…………?」
なぜ急に?それとも、ずっと逃げる機会を狙っていた?
目の前がぐるぐると回る。このままでは自分は……何者でもない大勢の中の一人に戻ってしまう。
そんなのは嫌だ。せっかく人魚に会えて、特別な人間になれたのに……。
「戻ってきてくれよ、俺の…………。」
防波堤に座り込み頭を抱えた。
島田省吾はもう、何者でもない……。
♪~~~
……どうやら眠ってしまったようだ。
体が芯から冷えており、頭が痛くてぼうっとする。風邪を引いたかもしれない。
——ゴ!……ショー……!
顔を上げると空が白んできていた。どうやら夜明けが近いらしい。
「ショーゴ!ショーゴ!」
自分の名前を呼ぶ透き通った声に耳を澄ませると、上ってくる太陽を反射する海の中に影が見えた。
「…………人魚?」
人魚はこちらに向けて手を振っている。
……良かった!これでまた俺は——!
「戻ってこい……。戻って来いよぉ!」
省吾は力の限り叫ぶが、人魚はこちらに手を振るだけで寄ってはこない。
「ショーゴ!ショーゴ!」
「……頼むよ。戻って来てくれよぉ!」
思わず海に向かって歩き出す。靴を、ズボンを冷たい海水が濡らすが、気にしてはいられない。
省吾が近づくにつれて人魚は少しずつ沖へと泳いでいく。
「ショーゴ!ショーゴ!」
「行かないでくれ……。俺を一人にしないでくれぇ!」
人魚は時折海上を飛び跳ねながら楽しそうに笑っている。
もう少しだ。あと少しで人魚を捕まえられ——!
「省吾さんっ!」
突如、背中に暖かい感触が現れた。振り向くと若葉が腰に手をまわしている。
「若葉……?」
「戻りましょう省吾さん!このままじゃ溺れちゃいます!」
若葉は泣いていた。気付けば腰まで海水に浸かっている。
「でも……。」
「もうあの子には追い付けません!戻りましょう、ね?」
若葉に手を引かれて浜に戻る。振り返ると、人魚は顔だけを海面に出してじっとこちらを見つめていた。
「最近の省吾さん、なんだか様子が変だなって思ってたんです。それに昨日の様子が妙に引っかかって……。部長に無理を言って省吾さんの住所を教えてもらったんです。」
ごめんなさい、と若葉が頭を下げた。
♪~~~~。
沖の方から寂しそうな人魚の歌が聞こえてくる。
「……二ヶ月くらい前から、人魚を飼ってたんだ。何者でもなかった俺でも、特別になれた気がして……。いい気になってた、ごめん……。」
その音色を聞きながら呟くと、若葉が抱きしめてきた。
「人魚なんかいなくても、省吾さんは私にとって特別な人ですよ。」
「どうして…………?」
そう訊ねると若葉は体を離し、にっこりと微笑む。
「省吾さんのことが、好きですから。」
「…………ごめん。ごめん、俺…………!」
どうしようもない自分に涙が出てきた。そうすると、若葉が唇を寄せてくる。
思わず抱きしめて若葉の唇を貪った。伝わってくる体温が暖かくて安堵する。
もうすっかり夜は明けていた——。
♪~~~。
「おとぎ話では、王子様との恋に破れた人魚は泡になって消えてしまうんですよね。」
「……恋?」
あの人魚は恋をしていたのだろうか?
「きっとあの子は、省吾さんに恋してたんだと思います。」
「……わからないだろ、そんなの。」
まるでこちらを誘うような、哀しげな歌が聞こえてくる。
「わかりますよ。人魚だって、女の子ですから——。」
二人で沖を見つめた。もう人魚の姿は見えない。
もしかしたら、もう泡になって海に溶けてしまったのかもしれない。
「…………ごめんな。こんな男が王子様で。」
誰にともなく呟いた。
人魚の心を知る術は、もうどこにも無い。
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ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




