第1話『執行』(後編)
いったい何が、彼の中で開いてしまったのか。
ケイルは思考が引き返せと叫び出す前に、足を動かした。俯き、肩を丸める。自分の手を恥じる男のように。広場の裏手の通りは、荷車と泥と、役所めいた息づかいの通路だった。ここにあるものはすべて、契印と命令書を持つ誰かのものだ。
さっきの囁きは、何でもないのだと言い聞かせる。
動揺のいたずら。恐怖と鉄の味から頭が作り上げた、ただの単語。
担保。
心の中で繰り返してみる。音に過ぎないと証明するために。
だが、その言葉に手を伸ばした瞬間、すり抜けた。歯の裏に空洞だけが残る。恐怖さえも、布で包まれたみたいに鈍い。
それが、どんな言葉よりも怖かった。
また叫び声が空気を裂いた。今度は近い。
「止めろ!」
ケイルは選ぶ前に身体が反応した。穀物倉の壁と閉ざされたなめし工房の間の細い通路へ身を滑り込ませる。古い皮の悪臭が、濡れた市場の匂いを覆い隠す場所だ。影に身体を押しつけた。
泥を叩く靴音。
ヴェイル兵が二人、通路の口を急ぎ足で通り過ぎた。盗人を追う男の走りではない。手順のための、清潔な焦りだ。片方は鍵束を持ち、もう片方は鎖の束を抱えている。蝋の封印はすでに割れる準備ができていた。
ケイルの胃が縮む。
彼らは木箱を探しているのではない。
人間を探している。
呼吸を浅くする。吸って、吐いて。喉が鳴らない程度に。
通りの向こうから、書記の薄く訓練された声が聞こえた。
「移送を止めろ。列を封鎖。民間人は通すな」
兵が苛立った声で返す。「どこの権限だ?」
間があった。男が自分の矜持がいくらの価値か計る、あの種類の間だ。
「記録するな。封じ込めろ」
書記がようやく言うと、兵の苛立ちは火を吹き消された蝋燭みたいに消えた。
ケイルは布越しに掌へ爪を食い込ませた。記録するな。封じ込めろ。言葉自体はありふれている。そのありふれた言葉が、ここでは誰も存在を認めてはならないものに向けられる。それが、さらに悪い。
遠くで赤ん坊が泣いた。鋭く、腹を空かせた泣き声。
空殻の荷車のそばにいた女のことを思い出す。レン、と呼んだ声。名前を引きずり戻そうとするみたいな呼び方だった。
ここでは名前が重い、とケイルは思う。
そして世界はさっき、彼からそれを一瞬奪った。小さな試し切りのように。
靴音が遠ざかるのを待ち、ケイルは通路を抜けて裏路地へ滑り込んだ。左に壁、右に空間。悪路と悪い夜で身についた癖だ。
町外れへ向かう通りに出かけた、そのとき。
前方で荷車の車輪が軋んだ。
空殻の荷車だ。
動いている。
兵が二人、柵に手を添え、穀物でも運ぶみたいに導いていた。空殻たちは背筋を伸ばし、借り物の笑みを顔に貼りつけたまま座っている。女はよろめきながら並走し、胸に包みを抱き、何度も無視されてきた声で必死に訴えていた。
「お願いです。一緒に乗せて。家に帰らせてください」
荷車のそばを歩く聖職者は彼女を見なかった。「家は、徴収には関係ない」
言葉は穏やかに言われた。穏やかだからこそ残酷だ。
赤ん坊が細い、追い詰められたような声で泣いた。その音が、まっすぐケイルの肋骨へ刺さる。
止めようとする前に、指が包みのほうへ伸びかけた。すぐに袖の中へ引っ込める。反射を恥じるように。
胸の内で何かが割れるはずだった。怒り、憐れみ、愚かだと分かっていても何かをしたくなる、あの馴染みの熱。
だが来たのは距離感だった。
無感覚ではない。感情がガラスの向こうにあるような距離。
ケイルは涙で濡れた女の顔を見つめ、世界が本来の傾きを取り戻すのを待った。
傾かない。
それでも喉が締まった。悲しみではなく、悲しめないことへの恐怖で。
利息、と書記は言った。
利息は重い。
ケイルは決めないまま一歩踏み出していた。
女が彼に気づく。飾り気のない剣、フード、空の手。溺れる人間が浮くものを探すみたいに、彼を見た。
「お願いです」声が敬称のところで割れる。「どうか……」
ケイルは口を開いた。
言いたい言葉は単純だった。やめろ。やめてくれ。あれは人間だ。
出てきたのは乾いていて、どこか間違った言葉だった。
「まだ息をしてる」
聖職者がようやく彼を見た。
布で覆われた顔に表情はない。それでも査定は感じた。視線がケイルの手へ滑り落ちる。契印の有無を測るみたいに。
ケイルは指を袖の中で丸めた。
兵が一歩寄る。槍をわずかに傾ける。それだけで脅しになる。「どけ」
ケイルはもう一度、赤ん坊を見る。赤ん坊の瞳は大きく、空殻の笑みに釘づけだ。
胸が締まる。ガラスが厚くなる。
さらに一歩。
槍先が胸骨を軽く叩いた。強くも弱くもない。正しい力加減だ。
「どけ」と兵は繰り返した。
視界が狭まる。必死に母のことを思おうとする。冷えた手に炭を押し当てるみたいに、温かさを強引に呼び戻すために。顔。匂い。夕暮れ前に家へ呼び込む声の高まり。
形は見つかる。
細部も思い出せる。
母という概念もある。
だが温かさがない。誰かがそこだけをきれいに抜き取って、ほかはそのまま残したみたいに。
ケイルは唾を飲む。
兵が彼を押した。
よろける。踵が泥で滑る。押しは小さいのに、バランスが崩れた。身体が一拍だけ地面を信じる方法を忘れたかのように。
兵がフードの下で眉をひそめた。「病気か?」
ケイルは答えない。
荷車の向こうで、新しい声が割り込んだ。
「そいつだ」
ケイルは振り向く。
暗いシートを抱えた書記が、路地の角に立っていた。柱の陰に半身を隠す。命令しているところを見られたくないみたいに。視線はまたケイルの手へ。
書記が二本の指を小さく上げた。
近くの兵の姿勢が変わる。決定が落ちる。
「捕まえろ」と兵が言った。
ケイルの身体が思考より先に動いた。槍をかわし、走った。門へではない。安全へでもない。音と混乱が彼を飲み込める場所へ。
倉庫の並ぶほうへ。
背後で靴音が追う。金属の擦れる音。街路に似つかわしくない何かが抜かれる音。
前方で扉が叩きつけられ、誰かが叫ぶ。空気がまた鉄の味を帯びた。かすかに、しかし強まっていく。嵐の前に匂いで分かるように。
ケイルは二つの小屋の間を切り、木箱と樽が並ぶ細い通路に滑り込んだ。考える前に入り、壁に背をつける。
呼吸を落とす。耳を澄ます。
足音が近づき、ゆっくりになり、散った。探している男たちの動き。狩りではない。狩りは個人的だ。これは在庫管理だ。
通路の口に影が落ちる。
まず槍先が現れた。慎重に、試すように。
次に声。落ち着いた女の声。ヴェイルではない。
「出てきなさい」
ケイルの心臓がひくりと跳ねた。
聖職者の声も、審問官の声も聞いたことがある。だがこれは違う。儀式を運ばない。書類を運ぶ声だ。
ケイルは動かなかった。
女が姿を見せる。
通路の光を飲むような暗い外套。仕立てが良すぎて、辺境の町では異様に見えた。薄く淡い手袋。腰には細いサッチェル。左手に留め具のついた小さな革の帳面。右手に、刻印器のような金属工具。表面の細い線を見つめると、目が痛むほど緻密だ。
親指が留め具に一度触れた。カチリ。正確で、習慣的な音。思考がこぼれる前に封をするような音だった。
顔立ちは若く整っている。だが目が静かすぎる。空殻の笑みのような空虚ではない。泣くことを命じられた後の部屋みたいな静けさ。
入口にはヴェイル兵が二人。緊張し、権限を分け合うのが気に入らない顔をしている。書記が一歩後ろで暗いシートをきつく抱えていた。
女の視線が真っ先にケイルの手へ向かう。
そこで初めて、揺れた。
恐怖ではない。認識だ。
「触れたのね」と女が言った。
ケイルは答えない。
ヴェイル兵の一人が口を挟む。「ここはヴェイルの管轄だ。こいつは聖別された移送に干渉した」
女は兵を見なかった。ケイルから目を離さない。帳簿の計算が合わない行を見つめるように。
「掌を見せて」
ケイルの口は乾いていた。「誰だ」
女はようやく兵へ視線をやり、すぐケイルへ戻す。「権限よ」
兵が反発する。「所属を名乗れ」
女の唇が、最小限の笑みの形を作った。目には届かない。「登記局」
その言葉は重く落ちた。
ヴェイル兵が迷う。ここで争うか、それとも署名が永遠に残る部屋で争うか。
ケイルの指が痺れる。鎖巻きの鞘に触れた皮膚が熱くなり、冷え、どちらでもなくなる。感覚が自分の許可を得られず迷っているみたいだ。
「見せて」と女はもう一度言った。今度は少し柔らかい。壊れそうなものに話しかけるみたいに。
ケイルは唾を飲み、掌を上げた。
一拍のあいだ、見えるのは泥と擦り傷と、手相の線だけ。
次の瞬間、女の刻印器が震えた。音はほとんどない。ケイルは聞くより先に感じた。
腕の毛が逆立つ。
掌に薄い模様が浮かぶ。墨でも光でもない。皮膚そのものの輪郭が、異常に明瞭になる。彼のものではない幾何学の亡霊。ひと息だけ鋭くなり、すぐ滲んだ。居場所を保とうとする記憶のように。
女の目が、ほんのわずかに見開かれた。
「そんなもの、あるはずがない」と彼女は囁いた。
ヴェイル兵が身を乗り出す。「何だ、それは」
女は片手で帳面を弾くように開き、視線を落とさずに素早く書きつけた。千回やった指の動きだ。顔だけが追いついていない。
背後の書記が落ち着きを失い、暗いシートをちらりと見る。噛みつきそうなものを見るみたいに。
「記録するな。封じ込めろ」
女が静かに言うと、書記が凍りついた。
ケイルはその言葉を聞き、ぞっとした。自分に向けられた言葉ではない。自分について語られた言葉だ。
喉が締まる。「俺は何もしてない。あんたの兵に押されて箱に触れただけだ」
槍先が上がる。「走っただろ」
視界がまた狭まる。通路が小さくなる。空気に鉄の味。掌が痺れる。さっきの亡霊模様がいた場所だ。
「契約なんて結んでない」とケイルは言った。真実だからではない。真実であってほしいからだ。「同意もしてない」
女は彼を見つめた。ほとんど憐れみに近い表情。それが権限より怖い。
「契約は同意よ」女が言う。「これは同意じゃない」
ケイルの息が引っかかった。
「じゃあ、何なんだ」
女の視線が一度だけ、通路の奥へ跳ねた。
ケイルもその先を見る。
積まれた樽の陰に、鉄の蝶番のついた保管庫の扉があった。床には鎖の束と、割れた蝋の封印の欠片が二つ。泥の中で白い破片が薄く光る。扉の下から、冷たい細い筋が漏れていた。息のように。
ケイルの胃が落ちる。
ケースは中へ移されていた。
ヴェイル兵が前へ出る。苛立ちが隠せない。「広場へ連れていく。審問官が判断する」
女の手袋が刻印器を強く握った。「だめ」
兵の顎が硬くなる。「ヴェイル兵に命令はできない」
「私は手順に命令する」女は落ち着いた声のままだった。抜き身の刃が振らずに脅すような、あの落ち着き。
ケイルの頭は逃げ道の形を探す。
背中は木箱。左は壁。右は冷えた筋を漏らす扉。正面は権限と槍。
空殻の荷車。赤ん坊の目。
またガラスが厚くなる。割れろ、と念じる。怒れ、と命じる。
来るのは距離。
その下に、別のもの。ページをめくる手が空中に止まって待っているような、忍耐強い注意。
ケイルの指が動く。
女の目が彼の手へ、そして顔へ。
彼女は声を落とした。ケイルにだけ届くように。
「また走れば、罪だと言われる。ここにいれば、証拠だと言われる」
ケイルは唾を飲む。「じゃあ、何がしたい」
女の表情は変わらない。だが目のどこかが、ほんの少しだけ柔らかくなる。規則が折れずに撓む程度に。
「あなたを封じ込めたい」と女は言った。
ケイルは乾いた笑いを漏らす。「それはあいつらも同じだろ」
ヴェイル兵がさらに近づく。槍が今度ははっきり向けられる。「頭の後ろに手を」
ケイルの身体が強張った。
保管庫の扉の下の冷たい筋が太くなる。
聞こえた。
声ではない。言葉でもない。
圧力。
頭蓋の内側をそっと押す、提案のような圧だ。
借りろ。
胃がねじれる。
ケイルは一歩退いた。肩が扉に当たり、鉄の蝶番が呻く。
ヴェイル兵が突っ込んだ。槍先が喉を狙う。
ケイルは反射で身を捻った。槍先が壁を擦り、火花が弾ける。兵は柄を引き戻し、棒術のように振るって肋骨を狙った。
ケイルは腕を上げて受ける。鈍い衝撃。肘まで痺れる。痛みが走る。身体がよろけ、また扉にぶつかった。
扉が、わずかに開いた。
冷たさが流れ出す。
温度ではない。視線だ。
通路が止まった。広場でエイドブレードが抜かれたときのように。
女の顔から動きが消える。「閉めなさい」
書記が無意識に一歩下がった。
ヴェイル兵がためらう。
その一瞬が致命的だった。
もう一人のヴェイル兵が女の横を押しのけ、鎖束を手に扉へ飛びつく。叩きつけて閉めるために。
ケイルはその兵の肩越しに、中を見た。
狭い部屋。封印された鞘の棚。鎖。蝋の封印。整った字で書かれた紙札。苦痛の在庫。
そして中央。木箱にもたれかかるように、鎖で巻かれたエイドブレードの鞘があった。封印は半分割れている。存在しないはずの手を待っていたかのように。
ケイルの喉が締まった。
また赤ん坊が泣いた。遠いのに、鉤のように鋭い。
空殻の笑み。
母の名前が温かさを失い、ただのラベルになった感覚。
何もしないことも選択なのだと、急に理解した。そして、債はその選択にさえ請求書を切る。
ヴェイル兵が槍を上げ直した。
ケイルの手が動いた。
鎖巻きの鞘を掴む。
指が閉じた瞬間、痛みが掌を貫いた。燃えるのではない。裂けるのでもない。墨が皮膚へ押しつけられるような、清潔で冷たい痛み。
女が息を呑んだ。「やめて」
ケイルの手は離れない。
通路の端が滲んだ。靴音も、呼吸も、水の滴る音も遠ざかる。世界が一つのものだけを聞くことに決めたみたいに。
また囁きが骨の下へ滑り込む。今度ははっきりしている。
担保ではない。
数字を持たない確信。
おまえは、すでに債務者だ。
視界が鎖と蝋の封印に絞られる。
指が蝋を割った。
広場で聞いたのと同じ、下品な乾いた音。ページがめくられる音だ。
ヴェイル兵が飛びかかる。
ケイルは抜いた。
刃が鞘から滑り出る。あの間違った紙の音とともに。空気が、刃を中心に整列した。重みが掌に落ちる。裁定の重みだ。
振らない。
ただ、動く。
槍先が喉へ迫り、ケイルの刃がそれに触れた。鋼の力ではない。ずれだ。
一瞬、槍が本来より重くなった。兵の腕が引きずられる。世界が重力の気まぐれを変えたみたいに。
技じゃない。借りた重みだ。
ケイルは踏み込み、刃の腹で槍の柄を打った。
木が折れる。
兵がよろめき、目を見開いた。
ケイルは自分の手を見た。
学んでいない。こんなふうには。
女が彼を見ていた。読みたくない行に出会った書類のような目で。
胸が締まる。勝ったという感覚を呼び出そうとする。
何も来ない。
勇敢だからではない。
温かさが、また消えた。儀式もなく引かれる小さな税のように。
母の顔を思い浮かべる。
一拍だけ、鮮明に見えた。頬の曲線。目尻の疲れた優しさ。
次の瞬間、その像に結びつく温かさが抜け落ちた。残ったのは幾何学。命のない写真。
ケイルは息を呑む。
利息だ、と彼は思った。その思考は台帳の記入みたいに冷たい。
折れた槍の兵が立て直し、短剣を抜いた。怒りと恐怖で顔が歪む。「異端者め」
ケイルはエイドブレードの柄を握り直した。
女が突然前へ出た。ケイルと兵の間に立つ。
優しさではない。
管轄だ。
「やめなさい」女の声が硬くなる。「もう一度触れたら、登記局で理由を墨で説明してもらう」
兵は止まった。荒い息だけが通路に残る。
書記の目が、ケイルの刃と女の刻印器の間を行き来する。暗いシートを握る手が震えていた。
女は兵から目を離さないまま、ケイルに言った。
「置きなさい」
ケイルの喉が詰まる。できない。
握りたいからじゃない。
刃が、彼を握っている気がした。
通路の空気がさらに張りつめる。
ケイルの背後、保管庫の中で何かが動いた。
気配が、刃の影から踏み出した。
人ではない。
だが、完全に人でないわけでもない。
裂けた法衣をまとった、両性の書記のような形。輪郭の端が妙に清潔で、同時に未完成だ。墨で描いて、半分を消したみたいに。眼は淡く金属めいて、何も映さない。
ヴェイル兵が一歩後ずさった。顔から血の気が引く。
女の指が刻印器を握り潰すほど固くなる。今度ははっきりと目が見開かれた。
「違う……」囁きが漏れる。「早すぎる」
気配はゆっくりと首を回し、ケイルへ向いた。読み取るように。
皮膚が粟立つ。空気は鉄と紙の味。
話したい。
答えを引きずり出したい。
母の名を声に出して、まだ言えると証明したい。
口を開く。
何も出ない。
剣霊の視線が、濡れた蝋に契印を押すみたいに彼へ落ちた。
そして剣霊が言った。落ち着いていて、事務的で、絶対の声で。
「おまえの名は、まだ名簿に残




