第7話 『鉱脈』(後編)
隊長は繰り返さなかった。必要がないのだ。
村は「優先」という言葉を、刃が肉に入るのと同じように飲み込んでいく。ゆっくりと。衝撃は手続きによって遅延される。
領主アドリアン・ヴォスが、代金を払わずに宴の客を迎える主のように一歩前へ出た。
「隊長殿」完璧な礼。感謝と見まがうほど温かな声で。「光栄に存じます」
隊長の顔は、灰色の外套と同じ灰色で彫られたように平静だった。馬が一度身じろぎする。焦れた動き。吐息が冷気の中で白く立ち上り、句読点のように切れた。
「私の名はレンヴァルト大尉だ」彼は言った。名が意味を持つのは、押印される時だけだとでもいうように。
「本鉱区は帝国監視下に置かれる。採取計画は改定。許認可は再監査。混乱は民事破壊工作として扱う」
カエルは村人たちの肩が強張るのを見た。民事。帝国が暴力を呼ぶときに好んで使う言葉だ。
革の書類鞄を抱えた書記が大尉の脇に進み出て、鞄を開いた。中には押印済みの束、空白の令状、鈍く光る印章頭が並んでいる。
リスはまず印章を見なかった。
彼女が見たのは、それを持つ手だ――慎重で、無駄がなく、武器だと認められない武器を扱う手つき。
レンヴァルトの視線が、リスの徽章に留まり、興味の微かな揺れを見せた。
「登記院か」嫌悪でも敬意でもない。並行する機械の存在を認める目だった。
「セラフィーヌ代理官です」リスは声を平らに保った。
「本鉱区には現在進行の不整合があります。労働契約が印に統合され、付属条項が刻まれている。偽造された拘束も」
ヴォスの笑みは崩れない。
「噂ですな」軽く言う。
レンヴァルトはヴォスを無視した。
「不整合は安定化の後に対処できる」
「安定化……」カエルは反射で復唱してしまう。
レンヴァルトの目が、ただ一度カエルへ移る。値踏み。
「恐慌は帝国を崩す」脅しではなく、教科書の口調だ。「だから恐慌を防ぐ」
「家族に鎖をかけることが防止だと言うなら」カエルは言った。「それを慈悲と呼ぶのか」
小さな沈黙が広がった。
拒否。
今度は魔術ではない。隊長と話す会話には、血を流す縁がある――その見えない規則が場を締めたのだ。
ノクスの気配が、カエルの眼の裏に帳簿のように開く。
――勘定の持ち主を刺激するな。権威を弱さと誤認した瞬間、利子は跳ね上がる。
カエルは舌に残る硬貨の味を飲み込み、顎の力をほどいた。
逮捕という形になる前に、リスが間へ滑り込む。
「レンヴァルト大尉」彼女は言った。「鉱区の記録閲覧を要請します。特に、原本の労働契約と、現保持者以前の付属印章の有無を」
レンヴァルトの視線が鋭くなる。
「なぜ以前にこだわる」
「付属条項は自然発生しません」リスは答えた。
ヴォスが両手を広げる。
「透明性」またその言葉だ。呪いのように。「書類は完璧です」
「完璧な書類ほど、いちばん早く腐ります」リスは言った。
レンヴァルトの口元が、笑みになりかけて止まる。町が燃えるのを見届け、それを補給と呼んできた男の笑い方だった。
「監督の下で監査を許可する。混乱は禁止。扇動は禁止。いかなる介入も、無許可の刃の運用と見なす」
最後の言葉を、彼は宙に吊るした。脅しではない。記録だ。
カエルは袖の下で、自分の印がぴくりと震えるのを感じた。
大尉の脇で、より重い男が身じろぎした。広い肩。腰の刃は第二の背骨のように馴染んでいる。鞘に触れないまま柄の近くに置かれた手は、怠惰な脅しと良い姿勢だった。
護衛が、彼らをヴォスの管理棟へと誘導する。村人たちは指示されずとも道を開けた。兵が怖いのではない。
書類が個人になるのが怖いのだ。
中では、契約書が梁から干し皮のように吊られていた。扉が閉まると、草案の紙がささやいた。紙が紙に触れ、声を出さない人間同士みたいに。
帝国の書記は断りもなくヴォスの机に鞄を置き、印章の到着と同時に部屋が帝国のものになったかのように書類を積み上げ始めた。
リスは吊られた紙へ近づく。手袋の指先は触れずに宙を漂い、条項の間隔、墨の濃淡、合法性の輪郭を読む。
ヴォスは満足げに見守った。
「何も出ませんよ」
「私は起きる前に、何も起こさせませんから」
カエルの目が、束の中の一枚に引っかかった。新しい紙ではない。古い。
印は割れては押し直されている。傷を開いて縫い直し、その痕を治癒の証として数えたい者の仕業だ。下部の墨は、他のものと違って薄い。古びたのではない――洗われている。
同時にリスも気づいた。
反応しない。ただ、ほんの少し距離を詰める。異常の周りを告げずに回る身体になっている。
彼女の携帯印具が外套から掌へ滑り込む。押さない。角度を変えて金属の縁に光を拾わせる。
一瞬、カエルにも見えた。印の下にある、さらに古い印の亡霊。
保管袋で見たことのある登記院の旧式の印章頭――現場命令に使うものではない。引き出しの中に眠るべき印だ。
リスの呼吸が変わった。
息を呑むのではない。再計算。
ヴォスがその視線を追い、鍵が回ったのを見たように笑う。
「ああ、それですか。私の就任以前の古い契約です。関係ありません」
「印に付随するものは、すべて関係します」リスは言った。
帝国書記が前へ出る。真実は所持で解決するとでもいうように、すでに手が伸びていた。
「これは徴発により鉱区資産――」
外で音が立った。叫びではない。
深い亀裂音。梁が、もう我慢をやめたと告げる音。
続いて、山の喉から空洞の咆哮。
埃が梁から震え落ち、吊られた契約が揺れ、縄がきしむ。蝋印が歯のように互いを打ち鳴らした。
レンヴァルトが素早く振り向く。
「報告」
走者が飛び込んできた。目が大きく、顔に灰が走っている。
「第二の崩落です。第五坑道。南の支柱線。人員が閉じ込められています」
ヴォスが苛立ち混じりにため息をついた。
「またか」財産が自分を煩わせる、とでも言うように。
レンヴァルトの声は清潔だった。
「周囲を封鎖。民間の移動は禁止」
カエルの胸が締まる。
「封鎖――?」
「隔離だ」レンヴァルトは言った。
その言葉は、彼の口にあるべきではなかった。
それでも――妙に馴染んだ。
リスの頭が跳ね上がる。カエルも同じだ。
ノクスの意識が鋭くなる。
――語の収束。注記:反復手順。
リスの外套の下で、日誌を握る手が強くなる。
「大尉」制御された声。「中に人がいるまま封鎖するつもりですか――」
「恐慌が広がるより損失は少ない」レンヴァルトは穀物の腐敗を語るように言う。
「許容損失は存在する。それが帝国を保つ」
重い男の視線がカエルへ滑った。測るように。退屈そうに。
レンヴァルトはリスから目を離さない。
「恐怖は税だ」道を敷く原理のように。
「未納にすれば、反乱になる」
カエルは、自分の縁に「拒否」が待機しているのを感じた。怒りが行為に変わる瞬間を止めるために。
それでも動く。
一歩で決めない。
小さな動作の連続。どれも平凡で、許される範囲。レンヴァルトの横を、触れずに通り過ぎる。書記の横も、見ずに抜ける。
リスが続いた。手続きが許すより速く。
背後でレンヴァルトが一度だけ口にした。慈悲と誤認できるほど低い声で。
「監査はさせろ」誰にともなく。「日没までの沈黙が買える」
外へ出ると、村はもう形を変えていた。人々は走る――静かに。大声で走れば、さらに高くつく。兵たちは訓練された落ち着きで配置につき、書記が墨で線を引くように、身体で線を作った。
坑口が、疲れ切った獣のように埃を吐き出している。
カエルが入口へ辿り着くと、監督が閉じ込められた者の家族に怒鳴っていた。
「下がれ! 下がれば悪化する!」
女が押し返す。泥に汚れた顔。
「息子が――」
「下がれ」兵が繰り返す。声は印章の音と同じ調子だった。
カエルの舌に金属の味が広がる。
硬貨。負債。山の吐息。
リスは横へ退き、梁、支柱線、蝋印を見た。閉じ込められた人間を探していない。崩落が「どこで起きたか」を探している。
見つけた。
南の線の支柱に、新しい印がある。新しすぎる。きれいすぎる。蝋がまだ艶を残し、埃を被る時間がなかったように。
「これ、最近押されてる」リスが呟く。
「安定化のためだ」監督がすぐ返す。早すぎる。
「補強はいつもやってる」
リスの目が監督を刺した。
「登記院の蝋じゃない」
監督の目が逸れる。
カエルの手が丸まった。
ノクスが頭の奥で、算術みたいに冷静に告げる。
――事故偽装の確率上昇。軍事化を正当化するための時刻調整。
レンヴァルトが坑口へ来た。外套は埃に動じない。
「構造が連鎖崩落する危険がある救出は許可しない」
そう言って、重い男へ一度だけ顎を向ける。「軍曹」
男は急がない。刃を指一本分だけ抜く――見せるためではない。測るためだ。刃の周囲の空気が変わる。方向そのものが編集されたように。
問題を綺麗に解く技。
その綺麗さの分だけ、他者に支払いを強いる技。
リスが前へ出た。
「今動かなければ窒息します。坑道が埃を吸ってる」
レンヴァルトの目は揺れない。
「なら静かに死ぬ。静かな死は秩序を守る」
カエルは兵に押し返される家族を見た。女の裾にしがみつく少年。目が大きい。泣かない。泣けば目立つから。
子どもにそれを教える世界が、カエルは憎かった。
拒否。
意図が暴力へ尖った瞬間、糸が締まる。
カエルはそれを飲み込み、意図を別の形にした。
攻撃ではない。救出。
世界が一瞬ためらい、許可する。
カエルは刃を抜いた。
完全ではない。挑戦ではない。必要として。
ノクスの存在が、冷たく正確に握りへ満ちる。
――固有技承認:衝撃断。注記:支払いは不可避。
カエルは坑口の闇へ踏み込む。リスも続く。細身の剣を握り、日誌を肋骨へ押し当てる。それは鎧のようだった。兵が二人、遮ろうとして動く。
レンヴァルトが手を上げた。
「一度だけだ。谷を不安定にしたら、お前たちは破壊工作員として扱う」
カエルは振り返らない。闇へ入った。
第五坑道は第四より酷い。天井が継ぎ目に沿って裂けている。契約書が真ん中から引き裂かれたみたいに。瓦礫が高く積もり、道を塞いでいた。
向こう側から、くぐもった声が届く。
叫びではない。この空気では叫べない。
「ここだ……」咳。「ここに――」
カエルの心臓が打つ。硬貨の味がまたする。
刃を上げる。ノクスが重なる。優しさでも残酷でもない。物理を借りることに、ただ同意している。
振るう。
岩へではない。
重さへ。
衝撃断が、空気に落ちた。刹那、瓦礫が本来の質量を忘れる。石がずれ、転がる。
カエルの膝が反動で崩れた。
利子。
冷たさが背骨を登り、胸に入り、呼吸を効率へ変えた。見知らぬ自分の呼吸。
瞬きの間、カエルは気づく。厨房でのリスの笑みの形が、思い出せない。笑ったことは知っている。
だが温度が、薄まっていく。水で伸ばした墨みたいに。
リスが隣で動く。天井の緊張を測る目。
「ミラ」彼女が囁く。
気配がほどけた。柔らかく、どこか申し訳なさそうに。灯りの中に、親切な誰かの残像みたいな揺れ。
ミラの声はカエルの頭の中ではない。リスの耳元の空気にある。
「笑顔は、墨にしまって」優しく告げる。リスが失いかけている習慣を思い出させるように。
リスの喉が引きつった。返事はしない。
彼女は細身の剣を瓦礫へ向け、埃の中に線を引いた。
空気が応じた。
残響縫い。
リスの動きが複製される。腕、刃、構えの薄い残像。残像は一拍早く動き、まだ現実ではない軌道をなぞる。
天井が軋んだ。
そして――ためらった。
崩れるべき秒を、一秒遅らされる。騙されたみたいに。
カエルは盗んだ一秒を使う。もう一度振るう。
衝撃断。
石が転がり、狭い隙間が開いた。
向こう側の声が、脆い希望で膨らむ。
「梁を――梁を押さえろ――」
カエルは這って抜けた。肩が岩に擦れる。リスも続く。残像がちらつき、不安定な通路を、震える手で針に糸を通すみたいにタイミングを導く。
向こう側には、三人の坑夫が空気のポケットに身を寄せていた。顔は灰色。目が見開かれている。ひとりは折れた支柱を梃子みたいに抱え、腕が震えていた。
彼らはカエルとリスを見た。幽霊を見るように。
この世界では、救いはいつも書類と一緒に来るからだ。
カエルは最も近い男の手首を掴み、汚れの下の印を感じた。
皮膚に統合された労働契約。付属線が、ここでも薄く見える。
「動けるか」カエルが問う。
男は速すぎるほど頷く。
「動ける……天井が――」
うめき声が返事をした。
リスの目が跳ね上がる。
「秒しかない」
カエルの思考が冷たい算術になる。
一人ずつ隙間へ通せる。
だが三人目の前に、隙間が潰れる。
広げることもできる。
しかし広げるには、もう一度固有技が要る。
もう一口分の支払い。
もう一歩分、何も感じないものに近づく。
拒否。
糸がまた締まる。「決めた動き」ほど高くつくと告げる。
カエルはリスを見た。
一瞬だけ、彼女を彼女として認識できない。顔立ち、制服、姿勢は知っている。
だが人としての温度――「近くで息をしてもいい」と身体が分類し始めた温度が、揺らいだ。
認識の微細な欠落。
吐き気がした。
リスはその目を見て理解した。
表情が締まる。怒りでも傷でもない。
恐怖だ。
カエルの中ではなく――仕組みの中に、彼女はそれを見た。
リスは選んだ。
レンヴァルトには聞かない。ヴォスにも聞かない。ミラにすら聞かない。
彼女は一歩出て、細身の剣を上げた。先端は天井の継ぎ目へ向く。
「リス――」カエルが言いかける。
一つの視線で遮られた。
恋ではない。懇願でもない。
沈黙の誓約だ――あなたがそれになる前に、私が払う。
ミラの気配が震える。
「リス、お願い――」
リスの声は囁きだった。
「小さな超過」書記が制御された逸脱を記すように。
超過。
派手な奇跡ではない。
現実からの精密な窃盗。
リスは剣を天井へ突き上げ、捻る。石へではない。軋みと次の軋みの間、その継ぎ目へ。
残像が増える。二重、三重。各層が、一瞬をほんの少しずつズラす。
一拍、天井は「落ちる時刻」を忘れた。
カエルが動く。
一人。次にもう一人。
あと一行だけ、とカエルは自分に言う。あと一行、そして止めろ。
三人目の襟を掴み、引きずり出す。筋肉が燃える。
背後で、天井が思い出した。
轟音。崩落。
瓦礫が、さっきカエルの脚があった場所を叩き潰す。埃が灯りを飲む。
カエルは安全側へ転がり込み、咳き込み、坑夫たちが倒れ込む。生きている。
生きている。
リスがよろめいた。片手が壁を探る。剣が震える。呼吸が整いすぎて、静かすぎた。
徴収は血で告げない。
欠落で告げる。
カエルは彼女の肩へ手を伸ばす。
半寸手前で止まった。触れれば、支払いが現実になる気がした。
リスが顔を上げる。
カエルは即座に見た。
事実が空白になったわけではない。彼女はカエルが誰かを知っている。ここがどこかを知っている。
だが温かいものが消えていた。
ほんの小さく、人間だったものが、数頁前に存在していたのに。
カエルは「パンが温かかった」ことを覚えている。彼女がそう言ったことも。
だが彼女の目には、その温度の残響がない。
日誌の一行が、他人のものみたいだった。
ミラの声が、震えて小さく落ちた。
「ごめんね」
リスは唾を飲む。
「謝らないで」囁く。「ただ……いて」
彼らは外の光へ出た。
兵が救出された坑夫を引きずるように前へ連れ出し、すでに人数と責任の言葉を口にしていた。家族が押し寄せる。泣いているのに声がない。手が伸びる。感謝にさえ課税されるのが怖いみたいに。
レンヴァルトは埃まみれのリスを見た。カエルの刃、変わった瓦礫の線、崩落が遅れた事実。
顔は平静のまま。だが目が鋭くなる。
「無許可の使用だ」
「命を救った!」カエルが噛みつく。
レンヴァルトの声は水平だった。
「帝国優先鉱区で力を使った。これは刃の不正運用。不整合は噂を生む。噂は恐慌を生む」
軍曹の手が柄へ寄る。怠惰に。準備だけは完璧に。
ヴォスが素早く前へ出た。心配そうな笑み。
「大尉、これは有用性の証明でしょう。働かせればいい。助けさせればいい」
レンヴァルトの視線がヴォスへ滑り、薄い軽蔑が走る。
「お前が政策を決めるな」
それからリスへ。
「審査に提出しろ」
リスの背筋が自動で伸びた。骨に染みた登記院が戻る。
「提出します」声は揺れない。「そして監査は継続します。帝国の徴発は、印と契約に関する登記院の管轄を上書きしません」
レンヴァルトが彼女を見つめる。
「私がそう決めれば上書きだ」
長い沈黙。
二つの機械が、どちらが先に目を逸らすかを測っている。
やがてレンヴァルトが、ほんの僅かに頷いた。譲歩ではない。計算だ。
「続けろ。護衛付きで。日没までだ。その後は鉱区を封鎖し、再編に入る」
「封鎖」という語が、カエルの皮膚に印章のように居座った。
その夜の村は、朝より冷たかった。
気温が下がったからではない。
帝国が死を「許容」と呼ぶのを見てしまったからだ。
そして、声を上げる値段を全員が理解してしまったからだ。
夕闇が落ちると、斜面に灯りが点る。用心深い目のように。兵は列を巡回し、許認可所は遅くまで開き、恐怖が従順を潤滑油にして紙が早く流れた。
カエルは礼拝堂の炊事棟の裏で、肺の埃を飲み込むように息をした。胸がまた、誰かの決定で埋められている。
リスは低い段に座り、日誌を膝に開いて、制御された筆致で書いた。書くことで今日を固定できるかのように。
カエルは彼女の手が一度だけ震えるのを見た。
寒さではない。
支払いの形だ。
「やったな」カエルが静かに言う。
リスは顔を上げない。
「選んだだけ」
「払ったんだ」カエルが訂正する。
ペンが止まる。ほんの一瞬、彼女の顔が硬くなる。空になった部屋で感情を探すみたいに。
「……感じるべきだって分かる」小さな声。「パンのこと。さっきのこと。事実は覚えてる。でも温かさが、思い出せない」
カエルの手が丸まる。
「嫌だ」言葉が漏れる。「人を助けたら、お前が――」
「言わないで」リスが遮った。優しさのまま。
「言葉は記録になる。記録は武器になる」
足音が近づく。軽く、用心深い。
シスター・メイヴが礼拝堂の影から現れた。口元を覆う布。慈悲を配給する者だけが持つ疲れが目にある。
彼女はリスの徽章を直視しない。カエルの手を見る。刃になりかけた身体を、刃にならないよう握っている手を。
「救出が綺麗すぎた」彼女が呟く。「帝国の好みより」
カエルは目を細める。
「なぜここにいる」
メイヴの視線が坑口へ揺れる。
「神だけが聞いてると思った時、人は本当のことを言う」声が落ちる。「どうせ破壊工作って呼ぶ。いつもそう」
彼女は躊躇した。ほんの一瞬。親切の危険を測るだけの時間。
「この谷がなぜ絞め殺されてるか知りたいなら」囁き。「ヴォスに聞くな。大尉に聞くな。出口を売る連中に聞け」
カエルの喉が締まる。
「サーン」
メイヴの目尻が、笑みに似た形になる。すぐ消えた。
「サーンではね」告解みたいに静かな声。「出口を売る。ときどき……」彼女の視線がリスの日誌へ一瞬落ち、またカエルへ戻る。「ときどき、他人の負債を売る」
そして彼女は影へ戻った。村が、証明される前に飲み込むべき言葉を知っているみたいに。
カエルは、彼女がいた暗がりを見つめた。
リスは日誌を大きく開き、いま書いた頁を見つめた。まだ自分のものか確認するように。
「中へ行け」カエルが言う。
リスが顔を上げる。視線が重なる。
カエルはまた感じた。あの小さな違和感。彼女のせいではない。仕組みに盗まれたものだ。温かさが、成長と呼べるほど静かに消えていく。
秩序を名乗りながら、そんなことをできる世界が憎かった。
リスは一度だけ頷く。
「……行く」
彼女は炊事棟へ入った。扉が柔らかく閉まる。
夜が完全に沈み、兵の灯りがゆっくり動く巡回の星になった頃。
リスは机にひとり座り、一本の蝋燭を灯した。
日誌を開く。そこには書いてある。
――今日は、パンが温かかった。
墨はある。文章もある。
だが読んでも、胸に何も立ち上がらない。
指先の熱の記憶もない。
小さな、無意識の笑みもない。
温かさが存在したという事実だけが残り、それを留め損ねたという失敗だけが残る。
ペンを握る手に力が入る。
次の頁へめくり、書こうとして――凍った。
次の頁は、もう埋まっていた。
今夜の丁寧な筆致ではない。
自分の字だ。確かに自分の手だ。だが、古く、鋭く、切迫で押し潰したような字。
三行。命令のように並ぶ。
鉱山は以前にも隔離された。
登録するな。隔離しろ。
鉱脈が歌い出したら――走れ。
その下。頁のいちばん下に、図がある。
印。
どこにでもある印じゃない。
線と鉤の配置が、特定のもの。
カエルの印だ。
リスは息を呑み、目が焼けるほど見つめた。いつ、これを描いたのか思い出そうとする。
その瞬間はない。
あるのは墨だけ。自分がやったという事実だけ。なぜか分からないという恐怖だけ。
蝋燭の炎が揺れた。
窓辺の黒玻璃の埃が、一瞬だけ薄い星座みたいにきらめく。
そして山のどこか――ただの岩だと誰も言い張れない深さで。
何かが動いた。
喉が鳴る前の、ほんの小さな咳払いみたいに。
まるで鉱脈が、新しい歌を覚え始めているかのように。




