ありがとう。すまない。愛している。(後)
悪しき竜を倒したはずだった。けれど、血を吐きながら倒れ込んだ竜がこちらを見てうっすらと口を開けた瞬間、肝が冷えた。意外なほどあっけなく竜を貫くことができたせいで、油断していたからだ。この至近距離で炎を吐かれたなら、俺はあっという間に消し炭になってしまう。けれど、炎が俺を焼き尽くすことはなかった。俺の元に届いたのは、地獄の業火ではなく優しく甘い言葉だったのだから。
「おかえりなさい」
――ただいま――
聞いたことがないはずなのに、不思議なほど耳馴染みのある声。自然と返事をしたくなって、混乱した。目の前の竜が話しかけてきたように思えてならなかった。竜がしゃべるはずがないのに。
祖国までの旅路で、すっかり頭がおかしくなってしまったのか。慌てて頭を振り、再度目の前の竜を見据えた時、竜は既にその身を違う生き物の形に変化させていた。
女だ。若い女が微笑んでいる。竜の出現に伴う種々の混乱のせいだろう、痩せた、けれど確かにまろやかな体つきをしている女が俺に向かって倒れ込んできた。彼女だった。誰より愛し、何より会いたかったひとが、俺の胸に頬をすり寄せている。ふわりと甘い、懐かしい匂いがした。抱きしめた柔らかな肢体は、けれどひどく冷たく硬直している。
ああ、どうして?
彼女の香りは一瞬にして、鉄錆によく似た臭いで塗りつぶされた。もしかしたら、その匂いそのものが、夢幻だったのかもしれない。彼女から溢れ出す生温かいものをぼんやりと手でぬぐってみれば、べっとりとした紅がてのひらを鮮やかに染める。
どうしてこうなってしまったのか。一体何が起きたのか。痛くはないのか。傷は治せないのか。言うべきこと、聞くべきことは山のようにあるはずなのに唇は自分の意志ではかけらも動かせない。
「どうぞ、お幸せに」
どうしてそんなことを言うんだ。まるで他人事みたいに。君抜きで、どうやって幸せになれるだろう。君は一体、誰の幸せを願っている?
俺に向かって恨み言を言うでもなく、彼女はそのままくたりと力を抜いてしまった。立ち上がることもなく、全体重を預けられているはずなのに、彼女の身体は頼りないほど軽い。
頭が真っ白になる。どこかで雷が落ちたのか、はたまた嵐でもやってきたのか、やけに頭の中で音が響いてうるさいと思っていたら、それは自分の口から出ていた。絶叫が止まらない。
どうして。どうして。
金も地位も名誉もいらなかった。ただ、君が微笑んでくれたらそれだけで幸せだったのに。
俺がやってきたことは、無意味だったのか。害悪でしかなかったのか。いっそ俺がここに戻ってこなければ、君は竜のまま安全に暮らせたのか。俺は、一体どうしたらよかったのだろう。
震える手で、腕の中の彼女を抱きしめる。けれど息を荒げた彼女は、自分の姿が竜からひとへ戻っていることにさえ気が付いていないようだった。
「さようなら」
彼女の姿で、彼女からもらった言の葉は、別れを告げるものだった。いつか、彼女の声を聞けたなら。待ちわびたその時に贈られるものとして、これほどまでに残酷な言葉があるだろうか。
いやだ、いやだ。逝かないでくれ。俺をひとりぼっちにしないでくれ。置いていかないでくれ。逝くのなら、俺も一緒に逝かせてくれ。
ますます腕に力を込めたはずなのに、腕の中には誰もいなかった。髪の一筋さえ、残されていない。きらきらと彼女が光の粒になって空に還っていく。必死で天に昇る光をかき集めても、ふわふわと揺れる光は俺の手をすり抜けた。魂の消えた抜け殻の身体さえ、神はこの世界には残しておいてくれないだなんて。守りたかったものは、全部なくなってしまった。その事実を受け入れられぬまま、ひとり天を仰いだ。
なんて美しく悲しい景色。どうして君は、いなくなるときまでこんな風に綺麗なのか。君に初めて出会った時、これから先は美しい景色だけを見せてあげたいと思った。それなのに、君が最期に見た景色がこの世で一番おぞましいものだったなんて、俺は君に何と言って詫びるべきなんだろう。
お願いだ。君が何を話していたのか、どうか馬鹿な俺にもう一度教えてくれないか。君の声なら、恨み言だって一生聞いていたいと言ったら君は呆れるのだろうか。
もちろん、返事などあるわけがない。風だけが、通り過ぎていく。後に残るのは、愛するひとの言葉に気が付くこともできなかった愚か者がひとり。そのまま声が枯れるまで泣き続けた。
***
泣いて、泣いて、泣きわめいて、ようやく声が枯れ果てた。もう涙もこぼれない。気が付けば、空には銀色の細い月が出ていた。昔何度も梳いた彼女の髪によく似ている。
面紗をなくしたらしい聖女がじっとうつむいていたが、気が付かないふりをした。もしも口を開いたら、とんでもないことを口走ってしまいそうで恐ろしかったのだ。無駄に傷つけたくはなかった。
ああ、祖父母も同じ気持ちだったのかもしれないと、この時初めて思い至った。彼女がいなくなったのは、俺のせいだ。俺が不甲斐なかったからだ。けれど、つい誰かのせいにしたくなる。娘を亡くした祖父母もきっと俺を責めなければ、心が保てなかったのだろう。
それと同時に、俺を責めたくないという気持ちもまたあったのだと思う。何も知らない、生まれたての赤子を憎む自分たちのこともまた、醜いと感じていたのではないだろうか。だからこそ、俺に悪意をぶつけないためにも、距離を取ることを選ぶしかなかったのだろう。
どうしようもなかった。きっと、俺と祖父母の関係は結局のところその一言に尽きる。
だらしなく横たわったまま残った魔力をかき集めて、無理矢理に転移魔法を展開した。魔術師でもない俺だ。手紙のような小さなものしか飛ばせないはずなのに、身体がバラバラに吹き飛ばなかったのは幸運だったのだろう。いっそ身体が千切れてしまっても構わないとさえ思っていたのだが。
ふらふらと下町を進んでいく。本当は自宅のあった森の近くに転移するはずが、失敗してしまったらしい。あるいは無意識のうちに、目標地点をずらしてしまったのかもしれない。戦時下でもそれなりに賑わっているはずの下町は、けれど気味が悪いほど静まり返っていた。なぜかじっと無言で俺を見つめる人々の間を、亡霊のように足を引きずりながら歩いていく。
帰りたいのに、帰りたくない。玄関の扉を開けても、もう俺を出迎えてくれるひとはいないのだ。
――おかえりなさい――
そう微笑んでくれるひとを、俺は……。
腰に帯びた剣が、どうしようもないほど重い。屋敷に着いたら、この剣で胸を突こう。屋敷にも火を放って思い出ごと燃やしてしまおう。こんな大罪人は役目を果たした彼女の待つ天の国へはいけないだろうけれど、無意味に生きていても仕方がない。
けれど、そこへまた耳に障る泣き声が響いてきた。頭ががんがんする。また気が付かない間に自分が叫んでいるのかと思って口を塞いでみたが、やはり耳に障る泣き声は消えないままだ。
やっぱり、頭がおかしくなったのかもしれないな。
ふらふらと歩みを進めれば、まだ幼い男の子が泣き叫んでいた。薄汚れたぬいぐるみを抱えている。そばにいるご婦人がおろおろと男の子をなだめていたが、お手上げらしい。母親かと思ったが、どうにも年齢が合わない。近所の気のいいご婦人が、母親の代わりに面倒を見ているようだ。首を傾げてぼんやりと見ていたら、なぜか彼女にひどく睨まれた。その瞳に明確な憎しみを感じて、思わず狼狽する。
幼児特有の舌ったらずさと、ひいひいと息切れしながら泣いているせいで、何を言っているのかがよくわからない。それでも、どうしてもそのまま見なかった振りをして前に進むことができなかった。とりたてて特徴のない子どもだ。ぐしゃぐしゃの髪の毛も、この国ならよくある髪色。そう、俺だって同じ色をしている。それなのにどうして目が離せないのか。
泣き止まないことがなぜか苛立たしい。どうしてこんなに胸がかき乱されるのか。子どもの声がこんなに頭が響き、痛みを覚えるものだとは思わなかった。自分の悲しみで余裕がないからなのか。自分は子ども好きな方だと思っていたのだが。
そういえば、彼女は静かに泣くばかりだったな。声が出せないのだから当然なのだろうが、あまりの違いに戸惑うばかりだ。それでも、どうしてもその子どもに泣き止んでほしくて、ゆっくりと道端にかがみこんだ。子どもに与えるにちょうど良い菓子もなければ、口下手な自分には気の利いた台詞も言えそうにない。さて、どうしたものか。
見知らぬおとなの気配を感じたのだろう。しゃくりあげながら、子どもがぐしゃぐしゃの顔を上げる。その瞬間、頭を思い切り殴られたような心地がした。泣き腫らした子どもの顔は、自分によく似ていた。
ああ、君は。
ひとりきりでこの子を産み、育てていたのか。
この子を遺していかなければいけなかった君は、どんなに苦しかったことだろう。すまない。
俺は彼女の命を奪ったが、彼女の命だけでなく、この子の希望も奪ってしまっていた。俺は俺自身の手で、俺と同じ不幸な子どもを生み出していた。やはり俺は生まれてくるべきではなかった。
何が、ひとり残されて辛いだ。どの口がそれを言えた。
君がいないなら生きる意味がないだと? 生きることさえ許されなかった彼女と愛するひとを奪われたこの子を前に、何を寝ぼけたことを。ああ俺は、俺は。生きる価値もない俺だけれども、生きねばならない。
泣きじゃくる男の子を抱き上げた。いやいやと彼は、俺の身体を蹴る。いい子だ。力強い良い足をしている。将来はきっと良い騎士になるだろう。
「……あんた、自分が何をしたのか、何をしようとしているのか。わかってんのかい?」
「……ああ。自分にできる償いをしていくつもりだ」
ぎらぎらと俺を突きさすその視線。ああ、彼女は俺がいない間に、しっかりと自分の居場所を作っていたのだ。災厄の竜がただの災厄ではないことを、この御婦人はきちんと理解していたのに、わかっていなければならない俺こそが分かっていなかったのだと思い知らされる。無言でこちらを見つめる周囲も、気がついていたということか。
憎まれて責められて、当然のことをした。突き刺さる軽蔑の眼差しは今の自分にはよく似合うと言ったなら、目の前のご婦人は俺の頬を容赦なく打つのだろう。
「名乗り出ないつもり?」
「母親の敵が実父だなんて、この子にとって不幸でしかないだろう?」
「この馬鹿男が!」
生まれた時からずっとそばにいなかったのだから、父親と名乗られたところでぴんと来ないだろう。ただの騙りだと思われてもおかしくはない。だから、きっとこれでいい。
だがなぜかご婦人は激高して、俺の足を踏みつけてきた。予想外の力強さに驚きつつ、この激しさを持っているからこそ、彼女はこのご婦人を信頼していたのだろうなとふと腑に落ちた。
たとえこの子が俺のことを父と呼ぶことはなかったとしても、俺はこの子を愛している。俺は、生きねばならない。彼女が死の間際に願ったのは、きっとこの子のことだろうから。彼女が安心して天の国で過ごすことができるように、俺はできることを愚直に頑張るしかない。
いつかこの子は、俺が母親の敵だと知るだろうか。恨まれ、憎まれ、殺されても仕方がないが、彼女が守ったこの子の手を復讐で汚すのは忍びない。きっとこの子が傷つくだろうから、自ら命を絶つなど言語道断だ。たとえこの子が望んだとしても。
目の前から消えろと言われても、這いつくばってこの子の生活を支えよう。泥水をすすってでも生き延びよう。後ろ指をさされても、この子が安心して暮らせる国を創ろう。そうしていつかこの子が家族を持ち、年を取り幸せになるところを見届けることができたなら、俺はようやっと地獄に落ちることが許されるのだ。
それまでの間、俺がこの世に留まることを許してほしい。愛している。ああ、プリムラ。この子にも、君と一緒に見たあの桜草を見せてやりたい。