メドゥーサ
「もしも明日、世界が滅亡するとしたら、君はどうする?」
そんな言葉で、目を覚ます。瞼を持ち上げると、カーテンを全開にした窓から、太陽の日差しが眩しいくらいに差し込んでいた。もうすっかり日は登りきっているらしい。時刻は昼頃だろうか。あぁ、きっとそうだ。鼻先を擽る珈琲の匂いが薄いから、今は昼時なのだろう。彼は目覚めると直ぐに珈琲を口にするから、きっと間違いない。
で、なんだったか。あぁそうだ、明日世界が滅亡するとしたら、なんてもしも話を持ちかけられていたのだった。
全く、折角心地の良い眠りについていたのに…と軽く溜息をつけば、「ごめんごめん」なんて言って、彼は頭を撫でてきた。案外悪くない撫で方に目を細めれば、彼も目を細めて笑う。
「この小説がさ、そういう話なんだよ。何故かみんなみんな石になっちゃうんだ。主人公は原因を探すのだけれど、結局見つからくて…。身体がどんどん石になっていくんだ。あぁ僕にはもう、明日は来ないかもしれない。僕の世界は滅亡する…って」
その小説を片手に、彼は視線を落とす。
「この主人公はさ、世界の破滅を防ぐために最期まで戦うんだ。家族や恋人のために、命をかけて。ストーリーとしては、有りがちだよね」
ふぅん。じゃあ、キミはどうするんだい?
そう思って彼を見れば、顎を指で摩りながら、考え事を始めていた。
「う〜ん、僕は…戦ったりはしないかなぁ。誰かを守れる程強くはないし、世界のためになんて、そんな大層なことはできない。朝コーヒーを飲んで、小説を読んで、ちょっと贅沢なご飯を食べて、温かいお風呂に入って…それで石になるよ。結局、日常が一番愛おしくて、大切だと思うんだ。あぁっ、そうだ!大事なことを忘れていたよ」
そういうと彼は笑ってまた、頭を撫でてくる。
「僕が石になったら、君はきっと困るだろうから、殆ど連絡を取ったことはないけれど、叔母さんに君のことを頼むって遺言を残すよ。早めに見つけてもらわないとね。あとはそうだな。僕が石になるまで、君が傍に居てくれたら、僕はそれで幸せだ」
そんなことを言って、彼は満足そうに笑った。会話は終わったとでも言いたいのか、開いていた小説を閉じ、背を向けて座る。
背骨のラインがよくわかる、薄い背中を見つめていると、彼が不意に振り向いた。
「どうしたの?なんだかすごく不満そうだ」
そりゃあ、不満さ。
起こされたと思えば、世界が滅亡だの石になるだの、よくわからない話をして。
「気持ちよく寝ていたのにごめんね。誰かに話したくなったんだ。あ、そうだ。今日は天気もいいし、僕も昼寝をしようかな」
そう言って彼は、ベッドの上に寝転がる。
「ほら、おいで」
腕を広げる彼を一瞥し顔を背けたが、骨張った冷たい指先が頭に触れると、抗えなくなった。彼の手は冷たいけれど、お日様の暖かさよりもずっとずっと優しい。
ねぇ、ボクは知っているんだよ。
キミが大好きだったオシゴトを辞めたこと。
知っているんだよ。
キミが顔を顰めて毎日飲む、オクスリの量が増えたこと。
キミの眠る時間が、とてもとても増えたこと。
ねぇキミは、石になったりしないよね。
「やっぱりキミは温かいなぁ」
彼の身体に寝そべれば、トクトクと優しい音色が聴こえた。時計の秒針の様に一定なのに、温かみのあるこの音が好きで、いつも直ぐに眠たくなってしまう。
「一緒に少し休もうか。あ〜ぁ、石になるのなら、今がいいなぁ。でも…君に寂しい思いをさせるのは嫌だなぁ」
あぁ、違うか。
耳に響く小さな声が、震えた。
「寂しいのは、僕の方かもしれないね」
優しい手が、頭を撫でる。
あぁボクも、君の頭を撫でてあげられたらいいのに。
額を胸に擦り付けて甘えれば、彼は息を吐いて笑う。その弱々しい笑い声が、何だか悲しく感じた。
ねぇ、大丈夫だよ。
もしも明日、世界が滅亡するのなら、ボクはキミの側にいるよ。
それが幸せだとキミが言うのなら、腕の中でこうやって、一緒に眠るよ。
ねぇ、大丈夫だよ。
もしも明日、キミが石になるのなら、ボクは諦めずに戦うよ。
キミが前に教えてくれた、メドゥーサにだって負けないさ。
ボクのことを、盾にしてくれたって構わないよ。それでキミはペルセウス、王様さ。
戦いたくないのなら、キミの代わりにボクが戦ってもいいよ。それで、一緒に朝を迎えるんだ。一緒にね。
ボクはね、 ボクは、キミからの「おはよう」を聞くことが幸せなんだ。
幸せなんだよ。
「おやすみ、ルーカス」
トクトクと奏でる音色を聴きながら、目を閉ざす。
お昼寝が終わったら、おはようってボクに言ってね。寝過ぎちゃったよ、なんて言いながら笑って、いつもみたいに頭を撫でてよ。
そしたらボクも答えるからさ。
「ニャー」
『おはよう。』って。