十字軍襲来
申し訳ありません、前話を一部修正しています。ものすごく大事なところが抜けてた。何やってんだorz
フランス各地、さらにはジェノバなどの港からも出港した十字軍艦隊はキプロス島に集結した。その数、大小合わせて1,800隻あまり。
そこから艦隊はエジプトを目指す。エルサレム奪還のためには、まずエジプトを制する必要があるとの判断である。
しかし、折りからの強風にあおられ、艦隊は一時散り散りになる。ナイル川河口の港湾都市ダミエッタ(アラビア語でディムヤート)の沖に到着した時、ルイの側にあった兵力は、全体の三分の一ほどにまで減っていた。諸侯達の中からは、艦隊の再集結を待ってはどうかという声も上がったが、さりとて艦隊が安全に集結できるような寄港地があるわけでもない。
ルイは現有兵力でのダミエッタ攻略を決断した。1249年6月5日のことである。
この時、ダミエッタの太守にはファクルッディーンが就いていたのだが、彼は焦っていた。十字軍襲来の報をカイロに伝書鳩で送ったにもかかわらず、その返事が返ってこないのだ。
スルタン・サーリフが重病であることは公にはされていなかったが、重臣であるファクルッディーンの耳には当然入っている。これは最悪の事態も考えておかなければならないのではないか。
カイロがスルタンの死によって混乱に陥り、増援が期待できないとなると、ダミエッタを守り切ることは難しい。
それに――、スルタンの後継者について、彼の手の届かぬところで勝手に決められてしまう恐れもある。彼はサーリフの嫡男であるトゥーラーン=シャーとは比較的親しいが、この王子は今遠くメソポタミアの地にて辺境警備の任に就いている。そして、今スルタンのお傍にいるのは、トゥーラーン=シャーの生母ではない王妃・真珠の木。奴隷上がりの女狐だ。
ファクルッディーンは上陸してきた十字軍と一戦交え、やはり手強いと見極めるや、早々に決断を下した。ダミエッタを放棄すると。
「お、お待ちください、太守! あなた様がいなくなられたら、この町はどうなるのです!」
部下達が必死に引き留めようとするのを振り払いながら、ファクルッディーンは言った。
「なまじ抵抗すればかえって、キリスト教徒どもの報復も苛烈なものとなろう。いっそのこと、さっさとくれてやった方が、ダミエッタの民のためでもあるのだ!」
都合の良い理屈だなと、彼自身自覚してはいたのだが。
単にダミエッタの町だけのことを考えれば、確かにファクルッディーンの判断は間違ってはいなかったと言えるかもしれない。ダミエッタを占領したルイは、いささか拍子抜けしながらも、異教徒であっても抵抗せぬ者はむやみに害さぬよう、諸将に命じたのだから。
緒戦は首尾良く、というか良すぎるほどにあっさりと勝利を収めた十字軍であったが、そのままカイロまで進撃するわけにはいかなかった。これより、ナイル川が増水期に入るのだ。
第五回十字軍において、疫病神が強引なカイロ進攻を主張し、その結果、水に囲まれて立ち往生した戦訓は、無論ルイも心得ている。しばしダミエッタで英気を養った彼らは、10月になってルイのもう一人の弟・ポワティエ伯アルフォンス率いる増援の到着を待って、次の攻略目標へ――というところで、御前会議は紛糾した。
「次はアレキサンドリアを攻めるべきと考えます。かの豊かな港町を制すれば、わが軍の兵糧にも余裕ができますし、今後イスラム教徒共が地中海を跋扈することも抑えられるでしょう」
ブルターニュ伯ピエールらの諸侯はそのように主張したが、ルイの弟であるアルトワ伯ロベールは、これに真っ向から反対した。
「蛇は頭を叩き潰さねばなりませぬ。アレキサンドリアを手に入れれば確かに得られるものは大きいでしょうが、それだけ戦線が伸びてしまうということでもあります。目先の欲に駆られるより、まずは遮二無二カイロを陥とすことこそ肝要」
「め、目先の欲とは言葉が過ぎるのではございませんか、王弟殿下!」
ロベールの言葉に、ブルターニュ伯の顔色が変わる。
この時代、フランスに限ったことではないが、王といえども諸侯に対して頭ごなしに命令を下したり絶対的忠誠を求めたりできるような関係ではない。
ロベールも一応は、諸侯に対して丁寧な態度を取ってはいたのだが、次第に頭に血が上ってきたようだ。
「強欲を強欲と言って何が悪い! 大方、ジェノバの商人共にでも唆されたのであろうが!」
「何をっ!!」
「ちょ、落ち着いてください、兄上。ブルターニュ伯も、どうかご無礼の段お赦しを。陛下はいかがお考えでしょうか?」
ルイ達の末弟・シャルルが慌てて仲裁に入る。一同の視線を受けて、これまで無言のまま議論に耳を傾けていたルイが口を開いた。
「諸侯も決してお忘れではないと存ずるが、先年のラ・フォルビーの戦いにおいて、十字軍国家群の戦力は憎きイスラム教徒共により壊滅しておる。現地の戦力が心許ない現状では、いたずらに戦線を伸ばすことなく、敵の首都を叩くという我が弟の案に一理あると考えるが、いかがか?」
王の言葉に、諸侯は渋々といった様子ではあったが納得し、ナイル川の氾濫が収まるのを待って、カイロに進攻するということで会議は決した。
「ロベール、諸侯を敵に回すような言動は慎んでくれよ」
会議の後、周りに人がいなくなるのを待って、ルイは血の気の多い弟を窘めた。
「すまぬ、兄者。だが、兄者も同じ気持ちではないのか? あの近視眼の強欲どもめが!」
「落ち着けと言っている。まあ、お前の気持ちもよくわかるし、だから会議でも賛成しただろう。しかし……お前も少々焦っておるのではないか?」
「俺が焦っているだと? 俺は冷静だよ、兄者」
「そうか、ならば良い」
弟が一礼して立ち去るのを見送り、ルイは溜息を吐いた。
カイロを陥としエジプトを制した暁には、ロベールをエジプト王に封ずる――。エルサレム奪還に先立ってエジプトを征服すると方針を定めた当初からの構想ではあった。
しかし、その話を聞かされて以降、ロベールはいささか前のめり過ぎるように思われる。
ダミエッタ占領後しばらくして、カイロのスルタンから、ダミエッタとエルサレムの交換による和睦の提案もあったのだが、この時もロベールは強硬に反対した。エジプトを抑えねばエルサレムを手に入れても守り抜くことは出来ぬ、と。
確かにそれはその通りなのだが――。
エジプト王の件、本人の耳に入れるのはいささか時期尚早だったかもしれぬと、ルイはかすかに不安を覚えた。
「お帰りなさいませ。会議はいかがでございましたか、貴方?」
部屋に戻ったロベールを、一人の若い女性が出迎える。マティルド=ド=ブラバン。ロベールの妻だ。彼の兄のルイなども同様だが、十字軍に参加した王や貴族たちの多くは、妻子を伴って来ていた。
マティルドがロベールと結婚したのは、十二年ほど前。当時はまだ十三歳で、先年ようやく長女を授かった。その幼い娘を実家に預け、夫の遠征に同行してきたのだ。
「ああ、少々揉めたが、俺の意見が採用された。カイロを陥とす」
夫の言葉を聞いて、マティルドは不安気な表情を浮かべる。
「それは良うございました。されど……いえ、ご武運をお祈り申し上げます」
敵の首都を攻撃する、それすなわち敵の主力部隊と激突するということだ。彼女にもその程度のことは理解できたが、だからと言って行くのはお止しなさいなどとは口にできるはずもなく。ただ、彼女に出来ることは、夫の無事を祈るのみ。
そんな妻を優しく抱き寄せて、ロベールは言った。
「案ずるな、マティルド。俺はかならずカイロを陥とし、エジプト王となってみせる。そして、次にお前が男児を産んでくれたなら、その子が二代目のエジプト王だ」
その言葉一つで不安が紛れたわけではないが、マティルドは健気に微笑みながら、夫を見つめて言った。
「はい、きっと貴方ならお出来になります」
「ああ、やってやるさ。アルトワ伯ロベール、いやエジプト王ロベールの名を、千年後まで轟かせようぞ」
ダミエッタを放棄してカイロに逃げ帰ったファクルッディーンを待っていたのは、サーリフの怒りであった。
スルタンはいまだ健在――と言ってしまっては語弊があろう。肺の病から来る咳は日増しにひどくなり、また太腿の付け根の腫れ物も段々大きくなって、もはや歩行もままならぬ状態だ。
それでも意識は明瞭で、サーリフはファクルッディーンと共に逃亡した将たちを、五十名あまりも処刑した。
しかし、最大の責任者であるファクルッディーンは死を免れた。彼が長年の宮廷生活の中で培ってきた人脈による助命嘆願と、かつてのスルタン位継承争いに際していち早くサーリフ支持に回ったことに対する恩義によるものである。
ファクルッディーンは軍の総司令官に任じられ、雪辱を期することとなった。
そして、サーリフは重病の身を輿に乗せ、かつて父カーミルが十字軍を撃退し、その地に記念として築いた町、マンスーラへと出陣。そこをカイロ防衛の拠点とするのだが――。
彼の命の火は、今にも燃え尽きようとしていた。