足音がした。
足音がした。スニーカーの軽やかな音がこちらにやってくるのを背中越しに感じる。きっと彼女だと良いなと、なんとなく思った。
ひとのまばらな地下鉄のホーム内、出口の近く、タッタッという音が響く。そして足音が止み切らぬうちに、背のほうから声をかけられた。
「ごめん、いつもよりはっ、早く出たつもりなんだけど」
振り向いたところには、少し荒い息混じりに苦笑いをする友人が居た。てっきりホームのほうから来るものだと思ってたのに出口の階段から登場されて、二重にびっくりした。
彼女は約束の時間を十五分も過ぎていた。電車の来るタイミングのおかげで人気のないホームの中、いつ来るものか、ひょっとして来なかったらどうしようかと悩んでいた。だけど彼女の姿を無事見れた歓喜が、その陰気を吹き飛ばした。
「いいよ、とりあえず休日会えただけでも良かったや。それで、映画館はどっちなの?」
内心大喜びしたことを隠し気味に問いかけると、彼女は気まずそうな顔を一変させて破顔し、意気揚々と外へと向かっていった。
「それは任せて! 何回も来てるから迷わずにすぐ行けるよ!」
話し始めて間もない友人と出かける初の休日で遅刻したのだから、多少思うところもあったんだろう。だけど私が気を悪くしてないところを見て安心したらしい。いつも通りのからっとした明るさが戻ったのを見て、少し落ち着いて、それからまたどきどきし始めた。
ああ、私は一緒に映画を観に行けるんだ。
「わたしって別に、そこまでマイナーな映画が好きってわけでもないんだと思うんだよね、だけどなんかわたしの周りの子って趣味が違ってさー、ていうかそもそもにわたしの友達、あんまり映画を観る習慣がないみたいでさ、だから一緒に行ってくれるって言ってくれたときすごく嬉しかったんだよねー」
矢継ぎ早に言う彼女は目的地のほうを見ながらずんずんと進んでいく。初めて来る土地で引き離されたらまずいと半歩後ろを追いかけていく。今日はなんだか曇り気味の天気だけど、それでも日が少しまぶしい。
「あ、ごめんね、大丈夫? 遅れてきた自分が言うのもなんだけど、遅れたからなんか急いじゃって」
「いや大丈夫だよ、でもそっかー少し浮いてたもんね」
「浮くって、わたしが?」
「いや、別に悪いとかじゃないんだけど、周りの子結構ふわふわしたスカートとか茶髪の子ばっかなのに、結構カジュアルめの服装で居たから、趣味違いそうなのになって」
思ったままに受け答えてから、今のは少しまずかったかなと思った。でも彼女は気にしなさそうに「そっかー、やっぱ見た目からしてわかっちゃうかー」と返してくれた。
「でもそういうのも似合いそうだよね」
「ん? わたし?」
「うん、ヒールとか履いてみたら、案外似合いそうだなーって思うよ」
ヒールかあ……と気のなさそうなつぶやきを最後に「あ、ここだよー、ちょっと館が離れてるんだけど、」と話題が切り替わった。
足音がした。背中のほうから聞こえる音に一瞬期待するも、コツコツコツ、と、よく響く速歩きなヒールに、きっと彼女ではないだろうなと思っていた。
お互い、映画を観た後にすぐ感想を分かち合える相手に飢えていたおかげで、映画の約束は習慣的なものへと変わっていっていた。観終わったその日に感想を言い切って、それから次の約束を取り付けて、二週間後にまた待ちぼうけをする、というのが私の生活だ。
私が張り切りすぎてるというのもあるかもしれないけど、彼女が私よりも先に来ていたことは一度もなかった。彼女の遅刻は悪癖のようで、もう数ヶ月になるというのに一度も指定の時間通りに来たことがない。
そんな調子でいつものことながら、ヒールの音を聞きつつも彼女のことを待ち遠しく感じていた。背中から声を掛けられた。
「いつも足音で気付くのに、やっぱり今日はわかんないんだねー」
「えっ?」
いきなり近くから話しかけられてびっくりした。強い思い込みがあったせいで全然想定外で、裏返った声が出るわ三歩後ろに下がるわ思い切って引いてしまってどうしよう、ど、どうしよ嫌われないよね、
「えっそんな驚く?」
私の反応に心外そうな声を上げた彼女は、顔のほうにもショックが現れていた。いやちがう、違わないけどっ、違うっ、
「そのっ意外で、いやでもすごく可愛いってか似合ってるよってかさっき、速歩きだったけど足大丈夫っ?」
失われてしまったものを早く埋めなくてはと感じて、大急ぎで思ったことをぽんぽん口にしたけども、言ってしまってから返って良くないことをしたと思った。
ああ私は本当に何をやってるんだろう、彼女の一挙一動に動揺しすぎだ。いやでも本当に可愛かった。普段アメリカンカジュアルでズボンばっかりの服装をしてたのに、唐突にふわっとしたワンピースとかで来られると、イメージが違うってだけで感動してしまう。
上着は前にも着てた、多分お気に入りらしいデニムのジャケットだけど、足元がふんわりするだけでこんなにも変わるのか。そう、足元だ、いつもと違う足音を鳴らしていたのは、合皮のショートブーツだった。
暖簾に手押しをしたんじゃないかと不安になったけど、彼女は私の言った可愛いという言葉をちゃんと拾い上げて、安心した表情を見せてくれた。おかげで一瞬私も安心したけど、そこから続いた笑顔にまたどきりとした。
「よかったあ、似合わないって言われたらどうしようかと、ていうかごめんね慣れないのに急いでぐきってしちゃって、余計に遅れちゃって、そのあとも急いだんだけど、もっと早く出るべきだったよね……」
再び笑顔が曇ったのが惜しくなって、私はすぐに「いやいいよ、いつも足音を聞きながら待つのも楽しみなんだ、だから気にしないで」とフォローをしてしまった。本当は少しくらい窘めたほうが彼女のためなのかもしれなかったけど、跳ね返ってきた「ありがとう」の笑顔に、なんだかそういう自分すらも許せてしまった。
いつまで経っても足音がしない。もう三十分、四十分が経とうとしている。
いくら遅刻常習犯だと言っても、これだけ長い間一本の連絡もないなんておかしい。そりゃあ、たまにはこれくらい待たされることもあったけど、そういうときは必ず十分か五分刻みくらいには連絡が入っていた。この異常事態に、想定される最悪が頭によぎって、それでも私はただ待っていた。いつものように「ごめん、また少し遅れます」の連絡のあとに、苦笑いを伴って登場する彼女を。
ただ現れてくれればいい。現れてくれれば、さっきの後に何も連絡がなかったことを怒って、ものすごく怒って、それから許すから、だから現れてくれ。
手持ち無沙汰な手を下のほうで組んで、それから顔のほうに持ってきて祈るような動作をして、解いて、そんなことを何度も繰り返していた。
不意に携帯のバイブレーションが鳴った。彼女の連絡先が画面に映ったのを見てすぐさま電話に出た。
「もしもし!?」
それは想定しうる最悪の連絡だった。
足音がしない。彼女のあの足音は、もう二度と聴くことができないのだ。
なのに私はすっかり習慣になってしまって、二週間に一度の待ちぼうけをしている。そしてこれから映画を見るんだ。可愛いめの洋服を着るようになっても、あの子の映画の趣味は一貫していた。そして私の好きな映画も、そのときと変わらない。
彼女が生きていたら、ここにまた遅れて来てたのかな。
ぼんやりと、それはもうぼんやりとしていた。十分はぼうっと突っ立ってたのかもしれない。足が疲れる感覚が彼女を待ってたときと変わらないくらいになってたから、たぶんいつもと同じくらい突っ立ってたんだろう。
ひとの降りるタイミングから外れた頃合いの駅の出口は、相変わらず人気がない。
「なにやってんだろ私は……」
一人言でも言ってないとやってられないところまで心を削ってしまった。わざわざ。本当に、なにをやってるんだろう、私は。
おとなしく振り返って、涙の滲みかけた視界に出口への階段を映したとき、そこにはいつものあの子が居た。
いつもの姿がそこにある驚きと、安堵が同時に混ざってぐるぐるして、声も出なかった。再び呆然とする私に彼女は言った。
「ごめんね、いつもと違って足音がないから、いつまで経っても気付いてもらえなくってさ、今日は時間通りに来たのにね」
そう言っていつものように苦笑いをする。
ああ、そうか、彼女が居なくなったなんて嘘だったんだ。
ふっと安心してしまって、それ以上の涙はひっこんだけど、笑みと同時に一筋だけこぼれ落ちてしまった。
「そっか、待ち合わせしてから、初めてだね」
それからまたいつもと同じように、彼女と映画を観に行った。今日は映画を見終わってからの食事のあとも、ずっと一緒に居られる。隣で歩く彼女は、足音がしない。