芍薬
「ねえねえ、きみさ、チョモちゃんだよね?」
声を掛けてきたのは、男だった。
他の誰かに声を掛けたわけでもなさそうで、誰だろうかと考える。
チョモちゃん……もしかしてと思う。
「でん……さん?」
「そうそう! ああ、やっぱりチョモちゃんだ」
男は笑う。その笑顔が、どこか恐ろしく見えた。
でん――御田影雅と名乗った――は、ある意味で、四方智里を<チョモラちゃん>に変えた男だった。
智里は<CantCapric>というSNSに、<チョモラ・マン>という名前で登録していた。
200人程をフォローし、それよりも少しばかり多くの数にフォローされ、そのうち実際にやり取りをするのは数十人程度であったが、疲れるばかりの日々で安らぎを得るには、十分すぎる場所だった。
そしてつい先月、<Peony>というサービスに誘われた。
<でん>というフォロワー――今、目の前にいる男からのメッセージだった。
「そいえばチョモちゃん、<Peony>ではすっかり人気だよね。どうよ、楽しい?」
「ああ、うん。もしかして……見てるの? でんさん……おれの、配信」
「たまーにね。でもさー、相変わらず真夜中にやるじゃんさ、見れねーよあんなの」
<Reincam>での写真加工による女性化ではなく、自らの意思で、女性となった自分の姿を。
本当に、今まさに目の前にいる男から、見られている。
どきりとした。ただ、これまで感じでいた、興奮とは違う、緊張。
「それは、飲んだ後くらいしか配信やらないからね。
あの、でんさんって……なんで、ここに?」
「ん? 俺はね、あれだよ。ただのオフ会だよ。それいらさんとか、Rさんとか……。
そうそう、チョモちゃん好きばっかりだけど、来る? みんな歓迎してくれると思うけど」
他にもね……と、5人ほどの名前が挙がる。誰もが知っているメンバーだった。
よくやり取りをしていたし、女性化した写真にも、チョモラちゃんだ、可愛い、なんて反応を貰ったような気がする。
でも、ここで、彼らと会ってしまったら。
変わってしまった自分が……以前の、<チョモラ・マン>としての自分を知っている人と、会ってしまったら。
「……ごめん。誘ってくれるのは嬉しいんだけど、予定があって」
「ふーん。ま、そうだよね。明日もまだいるから、気が変わったら声かけてよ……あ!
そうだ、せっかくだしさ、写真撮って良い?」
「写真? なんの?」
「チョモちゃんとのツーショット~! ほら、俺は<チョモラちゃん>のファンでもあるし」
いいでしょ、ほらいつもみたいにピースして、と肩を寄せてくる。初対面だと言うのに、随分と距離感が違いなと思う。
言われるがままに、いつも通りにピースをして。
向けられるスマートフォンのカメラをじっと見つめながら。
影雅の体温に。そして、男の匂いに。智里は、つばを飲み込んだ。
「ありがとう、良い写真が撮れたよ。これ、みんなに自慢するね」
それじゃあ、と背を向ける影雅に、どこか名残惜しさを感じながら、そういえば後輩と会う約束をしていた事を考える。
そうだ。後輩と。待ち合わせの場所は……。どこだったか。
「そうだそうだ、わすれもの~」
と、引き返してきた影雅。
もしかして、鞄か何かを、と思い、足元を見ようとした瞬間、強引に、抱きよせられていた。
影雅の整った顔が。瞳が。すぐ傍にある。
これは。だめだ。
影雅は、智里の強張った唇をゆっくりと、ときほぐす。
流し込まれる熱の籠った粘液が、智里の口腔へと潜り込む。舌と舌とが触れ合い、絡み合う。
どのくらい時間がたっただろうか。ここが街中だと言う事を忘れる程の、甘い痺れに身体全体が侵される。
唇が、舌が、互いの唾液が混ざり合った糸を引き、離れていく。
まって、もっと欲しい。自然と、影雅を求めていた。
「あぁ、チョモちゃん……ほんと、可愛いや。……じゃあね、待ってるから」
最後に、軽く、ほんの一瞬のキスを残して、影雅は何事もなかったかのように去っていく。
ほんの数分後、<でん>から届いたメッセージには、大きなホテルの写真と、その住所が載せられていた。
そして、次のメッセージには。
――チョモラちゃんの姿で、ね




