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【下】

縁談は結局、とんとん拍子に纏まり、父は母の位牌を前にして男泣きに泣いたと聞いた。


(まだお嫁に行ってないのに)


そんな風に思いつつも、父の亡き母への想い、それから千代自身の母への想いは千代を随分としんみりさせ、父母を安心させる為にも良き妻そして母になるべく努めよう、等と決心させた。


自分の心向きの変化には、もっと大きな別種の理由があるのには目を瞑る。

家の為の縁、将軍お声掛かりの婚姻に、己如きが反意を示せる訳がない、と千代は己に言い聞かせ-だから、このまま、何も考えずに嫁げば良いのだと結論付けている。


縁組み成ったとはいえ、許婚や許婚の家族には会っていない。

許婚は江戸に滞在中だが、許婚の父は国許で暮らしているし、許婚の兄達は御家とも三男でありながら御家の世嗣となった許婚とも疎遠になっていると聞いている。

十五の頃に人質として江戸に身を寄せて以来、許婚は寧ろ、将軍家やその譜代、旗本達及びその子弟との関わりが多いらしかった。


おそらく輿入れしても、千代の暮らしは今の暮らし-江戸邸に住まい、時折登城して将軍家のご機嫌伺いをし、御家との関係を良好に保つ-と大して変わりはないのだろう。


だが実際の輿入れの日が近付くに連れて。

徐々に千代の心は落ち着きが無く、千々に乱れ騒ぐ、ような気がした。


自分が気になってならない-不安と怖じ気を感じている-事から逃げているとは分かっていたし、別に人に態々偉ぶったりした事はないし、するつもりもないが、千代は織田信長と徳川家康という、希代の英傑を曾祖父に持つ、現在の武家においては最も誉れ高き血筋の姫だ。


戦略的撤退や待避は有り得ても、怯懦や愚昧による振る舞いあるいは考えは有り得ない。

許されない選択肢だ、と千代は思った。


それでも直情的な彼女にしてみれば、随分と迷い逡巡した後、結局登城した。

常と同様、直ぐさま快く本丸奥殿へ通される。


「まぁ、千代姫。しばらく見ぬ内に随分と大人びて」

御台所は変わらず優しく嬉しげに千代を迎えてくれた。


千代は先ず、御台所から贈られた晴れ着について丁寧に礼を言ってから、決意を持って御台所に視線を当てた。


改めて見れば、本当に美しい-可憐であるだけでなく嫋やかで艶めかしい-女人だ。

こういう女人こそ、傾国の美女というのではないか、などと思う。

実際、将軍辺りは妻の為ならば何でもすると決めている人間だ。


(亡き母上よりも年上、なのよね。忠利様よりも十三も年上なのだわ。……でも私だって忠利様より十二も年下なのだから……)


年が明けて十三になりはしたが、だからといって突然大人の女になれる筈もない。

それに、忠利の母-関ヶ原の戦の折りに敵方の人質になる事を嫌って自害したという誇り高く気高いひと-は、それこそ光り輝く程に神々しい、折り紙付きの美女であったという。

生母や御台所のように美しい女人を幼い頃から見知っている忠利の目には-そして忠利本人も男にして置くのは惜しいような容貌の持ち主であるから-千代など、ごく平凡でつまらぬ娘にしか映らないだろう。


(忠利様は御台様とはどのような関係なのですか)

(忠利様は御台様の事をお好きなのではないですか)

(だから、今迄、妻帯しておられなかったのではないですか)

(それを御存知な上様は、誰か適当な女人を忠利様に宛がわれようとしたのではないですか)


問い糾したい、知りたい疑問は、だがこうしてその答えを知っている筈の人と対面してしまうと、口にすればどれも目の前の母親代わりである-そして今では養母でもある-ひとを傷付けるだけではないか、という気がして来た。


父の境遇だけでなく母の身の上を考えてみれば、どれだけ徳川家更にはおそらく、豊家の時代それ以前には織田家の血筋の人々が、自分達を庇い、支えてくれたのか、千代には計り知れない。

確実に分かるのは、大叔父と大叔母が確かに千代の事を可愛がり慈しんでくれているという事実、だ。


「あ……の……聞きたい、事があって」

「ええ。何ですか」

御台所はふわりと笑んで、優しく千代の髪を撫でてくれる。


「もうすぐ輿入れですものね。色々と不安に思う事もあるでしょう。何でも聞いて下さい。姫が安んじてお嫁に行けるよう、私も努めましょう」

「……」


千代には想像出来ないような怖ろしい時代に生まれ、生きてきたひとなのだ。

千代には理解出来ない苦しみや哀しみを味わってきたのだろう。


そう考えると己の悩みはとんでもなく卑小でちっぽけなモノに思えてくる。


「……あの、どうしたら、旦那様の御心をずっと繋ぎ止めておく事が適うのでしょう」

「え?」

不思議そうに首を傾げる女人に、焦りつつもだがこれも確かに知りたい事の一つなのだと思い、訴える。


「だって……上様は側室や妾などお持ちでないでしょう?御台様一筋であられます。一体如何様にしたら、旦那様に、そのように大事にして頂けるのでしょう」

「……」

御台所が繊細な眉を顰め、幾分責めるような気配を醸し出したのに気付いて千代は唇を尖らせた。


「母が生きておりましたら、母に聞きますけれど、母はもうおりませぬ。父上に聞いても、父上は分からないと思うんです。……上様にはこんな事、聞けないし」

「……」

「私、旦那様に心を込めてお仕えするつもりですし、御家の為にも尽くす覚悟はあります。でも……夫を、誰か他のおなごと共有するなど我慢ならぬのです」


大叔母が溜息を吐き、千代を責めるのは止めてくれた-正確には諦めてくれた-ような気がして、笑みを堪える為に奥歯を噛み締める。

そんな千代の頬に、御台所はそっと手を当ててきた。


「何も心配はいりません。忠利殿は誠実な御方です。姫のことを大切にして下さるでしょう」

「でも」

「……人の心を繋ぎ止めるなど、誰にも出来ぬ事です」

千代が知る、常に柔らかく優しい印象の大叔母らしからぬ口調と感じ、思わず千代は大叔母の顔を見直したが、大叔母は千代に常通り微笑んだだけだった。


「久し振りですもの。皆に会ってやってくれるでしょう」

御台所は千代の手を取り、幾分上目遣いに甘やかな瞳を向けてくる。


「子達も最近姫には会っておらぬ故、寂しがっています。存分に遊んでやって下さい」

「はい、御台様」


確かに嫁してしまえば千代は将軍家の養女とはいえ、細川家の人間になる。

今迄のように気儘に登城したり、将軍家の子達と遊んでやることも出来ないだろうと千代自身寂しく思い、将軍家の御子達が日中を過ごしている釣殿へ向かった。

子煩悩な御台所が同行しないのを一瞬不思議に思いはしたものの、江戸城奥殿の女主人であり、また徳川宗家の正妻である御台所はそれなりに忙しいひとだとは千代も知っている。

又、釣殿に居た幼い御子達-四歳の国松君と年子の妹姫である和姫-が千代を見つけて、「千代姉様!」などと呼びながら飛び付いて来たのに僅かな不審など跡形もなく消えた。


「竹千代君はどうしたの?」

上の若君の姿が無いのに何の気なしに疑問を口にすると、幼い子達はとても可愛らしく顰めっ面をしてみせた。


「於福がめって言ったの」

「おやくとーを飲んで、おねんね、だって。竹兄様、可哀想」

「そう」

素直に言い付けてくる子達の艶やかな髪を撫でた。


「勝姫は?」

「お勝姉様、花嫁修業中だから遊ばないって」

「修行なの!」

あまり意味が分かっていないらしい子達に千代は苦笑した。

三の姫も既に、越前への輿入れが定まっている。


「千代姉様も修行するの?じゃ、修行ごっこしよう!」

「修行ごっこ?何それ、国兄様。お和、隠れ鬼が良いの」

「やだよ!お和は鬼になると、泣いてばっかりなんだもの!」

「泣かないもん!」

「嘘つき!泣き虫の癖に!」

「嘘、じゃないもんっっな、泣き虫、じゃない!」

既に涙ぐんでいる幼い姫を抱き上げて、千代は膨れっ面をしている若君とは手を繋ぐ。


庭に出ると二人ともすぐに機嫌を直し、千代の両手にそれぞれぶら下がり歌を歌い出す。

千代も一緒になって歌いながら、幼い頃、姉や兄達と過ごした頃の事、国許の、今現在居る場とは比べ物にはならない程ささやかな城などを想った。


(私も……このように可愛い子達を授かる事が出来るのかしら)

何の気なしに心中に浮かばせた考えに千代は赤面したが、子達と繋いだ手は離さなかった。

大御所の曾孫の姫と言いながら、実質は人質として江戸に置かれた身だ。

家族と離れて寂しかった心の隙間は、大叔父夫婦だけでなくその子達も埋めてくれた。


「あのね、国松君、和姫」

「なぁに、千代姉様」

「なぁに、新しいお話してくれるの?」


生え始めの芝草の上に付いてきた侍女に命じて毛氈を敷かせ、その上に幼い二人と一緒に腰掛けた。


「私も、もうすぐお嫁に行くの」

「うん。知ってる!父上が仰ってたの!すっごい剣士が一杯いる御家なんだって!国も行きたい~」

「お和に可愛いお手玉をくれた、綺麗なお兄様の所にお嫁に行くんでしょう。いいなぁ。お和も一緒に行きたい~」

無邪気な幼い者達の言葉についつい、千代は苦笑する。

同時に、千代は全く知らぬ事であったが、かの外様大名の継嗣である許婚は随分と将軍家の家庭にも親しく入り込んでいるのだと覚った。


無論。

だからこそ、千代との縁談も受け入れたのだろう。


「どうしたの、千代姉様。千代姉様はお嫁に行きたくないの?」

流石幼くてもおなごという事だろうか、小さくて人形のように愛らしい末姫が無邪気に丸い瞳を見開いて、とても鋭く訊いて来るのに咄嗟に応える事が出来なかった。

若君も又すぐに心配そうに千代の顔を覗き込んでくる。


「……そうね。千代は、本当は国松君のお嫁様になりたかったのよ。だから、かな」

「駄目駄目!国は母上とケッコンするんだもの!千代姉様をお嫁にはもらえないの!」

困ったように本気で拒んでくる若君に千代は思わず吹き出した。

がすぐに傷付いた顔を装って拗ねてみせる。


「まあ!ひどい若君ですこと!日頃、千代千代と私を御寵愛下さって、私をその気にさせておいて、千代の心を弄んだのですね!」

「え~」

「国兄様、ひどい!」


賑やかに戯れ、随分と心が晴れてきた、などとも思ったのだが。


「此方においででしたか」

聞き覚えのある、涼やかに美しい声に、千代は息を呑んだ。

それでも身についた礼儀作法に則り、素早く立ち上がり頭を下げる。


「細川様。ごきげんよろしゅう」

「……お寛ぎの所をお邪魔して申し訳ありませぬ。御台様より、姫もいらしていると伺い……御挨拶だけでも致したいと思い、罷り越しました」

「ご丁寧に、有り難う存じます」


深く礼を取ってから、しかし千代は将軍家の姫に相応しく堂々と顔を上げた。

養女となった以上、決して大叔父である将軍や、実の弟妹のように思っている御子達の面目や名誉を汚すような忸怩たる弱腰の振る舞いは出来ない。


(それに私は、小笠原秀政の娘なのだから)


父の家名も又、千代にとっては誇らしくも重いものである。


だが優美で柔らかい-それでいて底の知れぬ湖のように深く動かぬ-眼差しと合うと、心の芯が揺さぶられるような気がした。


美しい穏やかな笑みを千代に与えた後、忠利は将軍家の御子達に丁寧な臣下の礼を取る。


「国松君、和姫様。ご機嫌麗しゅう」

「……」


生まれた時からずっとこの奥殿で、殆ど外部の者には会わず、両親と侍女達に傅かれ守られている御子達は素早く千代の背後に隠れ、千代の着物に掴まりながら、物慣れぬ相手を見上げた。


「……ご、機嫌よう」

「……よう……」

恥ずかしそうに、だが人懐っこい笑顔で挨拶する若君に吊られて、人見知りが甚だしい妹姫も小さく挨拶の言葉を呟いた。


「良い御子様達です。……ますます御台様に似て来られましたね。ご健勝そうで幸いです」

一層優しく笑んでから、忠利は御子達が日常的に接していない相手に対しては内気で警戒心も強いと承知しているのだろう、深追いはせず、「それではこれで」などと綺麗なお辞儀を返してから、あっさりと踵を返した。


確かにその言通り、礼儀として挨拶をしなければならないと-義務として-赴いただけ、なのだろう。


(御台様に……会いに来られたのだわ)


千代は哀しくそう思い、振り返りもせず去っていく後ろ姿からは素早く視線を逸らせた。



将軍家からの突然の呼び出しが掛かったのは、凡そ一週間後の事だった。

幾分気は重かったものの、登城すれば大好きな人々との対面は当然の倣いであったから、基本的に千代は嬉しかったし、唯々諾々と従った。

おそらく間近に迫った輿入れに関する諸々の事であろうと思い、将軍の御前に出る。


総触れに使われる大広間や個別の謁見に使われる御広座敷などではなく、将軍が一人で調べ物や考え事をするような小さな書院に通されるのに戸惑い、更にその場に既に許婚である細川内記が座しているのを発見して動揺した。


「これへ」

将軍の落ち着き払った平板な声に従ったものの、己に向けられた大叔父の眼差しが普段より冷たく余所余所しいような気がして、思わず身を縮める。


「千代。そなた、如何なる所存なのだ」

唐突に糾してくるのも、常に理性的で法度や公正という言葉を日頃非常に好んで良く使うこの大叔父らしくない。

どうやら-見た目では全く分からないが-珍しくも大叔父は動揺しているらしかった。


「あの……」

何となく-あるいは大叔父の機嫌や考えを探る手掛かりになるのではないかと-許婚へと視線を流した千代に、特に忠利は目を向ける事なく、だが確実に千代の要請に応えて、膝を進めた。


「上様。姫には関係ない事でございます」

「内記。私を謀ろうとするでない。……そのような真似、其の方だとて、決して許さぬ」

簡単に年下の臣下を封じて将軍は千代に真っ直ぐ向き直る。


「正直に申せ。この内記の、何が気に入らぬと言うのだ。しかも既に輿入れの日取りも定まっている今この時になって拒むとは、そなたらしくない振る舞いだ。一歩譲って、余程の理由があるのであろうと考えてみても」

「……」

「先ずは養父であるこの私に申すべきではないか。何故、このような」


一瞬きつく大叔父が唇を引き結ぶのを見て取り、大叔父の怒りは相当のものであると千代はまざまざと感じた。

と同時に大叔父に言われた言葉に衝撃を感じてもいる。

慌てて許婚へと視線を戻すと、端麗な男は特に動じず、優雅にお辞儀をしただけだ。


(そんな……ひどい)

(幾ら……私が気に入らぬからといって……御台様の事を想っておられるから、といって……こんな……)


己で意識せず、勝手に涙腺が決壊した。


「千代。そのように泣いても無駄だ。先ずは申し開きをせぬか!」

大叔父の厳しい叱責の声も-普段ならば何があっても避けたいと思う冷たく鋭い眼差しも気にならず-どうでも良くて、千代は素早く立ち上がり、こんな時にも綺麗で優雅だと感じ入りそうになる男に詰め寄った。


「何よ!この、卑怯者!よくもこんな真似してくれたわね!」

「姫」

大名家の世嗣、しかも勇武も名高い家門-祖父や父の名は非常に高名だ-で生まれ育った青年は、千代の罵言に流石に顔色を変えた。

武将として、侍としては決して聞き捨てならない言葉とは、千代も承知している。この辺りは将軍家でなく父から習った『喧嘩』の売り方だ。


「そんなに私を妻にするのが嫌なら、話が出た時に断れば良いじゃないの!そ、それなのに、私に顔を見せておいて、私の気を引いておいて、よくも!」

「……」

「わ、私だって分かってたわよ!私だって、自分で情けないって、でもでも、貴男の妻になれるならって思って目を瞑ったのに!狡い奴!この、ろくでなしのコンコンチキ!あ、貴男なんて」


大嫌いと言おうとしたものの、どうしてもその言葉は出てこなかった。

美しく澄んだ瞳を丸くして千代を見上げている男を嫌うなど全く有り得ない。


何とか自分を納得させようと、自分の片恋を終わらせる為にと、拳を固め、きっぱりと言う。

いや、叫んだ。


「何よ!卑怯者の臆病者!自分は好きなひとに好きって言えないからって、年下の女の子を弄んで捨てるなんて、恥を知りなさい!貴男なんか絶対絶対、振り向いてもらえないんだからね!わ、私くらいなんだから!他のひとに片思いしてる男に嫁いで、それでもその薄情男に尽くして、幸せにしてあげようなんて子は他にいないんだから!何よ!一生後悔すれば良いんだわ!もう知るもんですか!」

「姫」

「望み通り、破談にしてやるわよ!一生、片思いしてれば良いんだわ!わ、私はその内、もっといい男を好きになってお嫁に行くんだから!貴男の事なんか……」


涙だけでなく嗚咽が漏れそうな感覚に、一端言葉を途切らせた。

が、千代の決意も衝動も、弱まる事や薄れる事も無く迸る。


「わ、忘れないけど、もっと好きなひとを見つけるんだからね!見てらっしゃい!」

ビシッと相手の眼前に指を突き付けた。


それから今迄静観していた-憎らしい事に全く動揺も驚きも見せていない-大叔父を睨み付ける。


「そういう訳ですから!この縁談は無かった事にして下さいませ!私は必ず他の、上様のお眼鏡に適う立派な殿御を見つけてみせます故、細川様にも小笠原の家にもお咎め無きようにお願い致します!全ては千代の身勝手でございます故!」


憤然と顎を上げ、踵を返した。

そのまま堂々と、将軍家の養女、織田右府の曾孫、徳川初代将軍の曾孫に相応しい毅然とした態度で退場するつもりだった。

だが。


「姫。少々、お待ち下さい」

相変わらず穏やかに涼やかで-千代にとっては己の身を呪縛する妖術のような声に、千代は身の動きを止めた。


言いたい事を言い切った後の虚脱感だけでなく決まりの悪さも覚えて、ついもじもじと千代はその場で身じろぎする。


「上様。ご無礼致しても宜しいでしょうか」

「ああ、許す」

先程の千代の少々不躾で感情的な訴えなど男達二人が見事に無視仕切っているのに、千代はむっと頬を膨らませた。

が素早く、元許婚が己に向き直り、真正面から千代の顔を覗き込んでくるのに、慌てて両手を頬に当てて引っ込ませた。


「……先程、姫は、他に縁談相手をご所望との事でしたか」

「ええ!」

つんと顎を上げてみせたが、不細工顔になるかもしれないと気になり、すぐに戻した。


「既にそのような相手を見つけておられるのでしょうか。ならばこの場で明かして頂きたいのですが」


(何よ。まだ私の事、馬鹿にする気?!)


綺麗な貌をして意地が悪く冷血だと心中で罵りつつも、千代は相手を睨み返した。


「そのような事!もう貴男には関係ないでしょうに」

「いいえ。そういう訳にはいかなくなりました」

「何よ!」

一層むっとして強く千代は言い返したが、そっと柔らかく、だが有無を言わせぬ素早さ強引さで手を取られたのに、口を噤む。

勝手に頬が火照ってくるのが恥ずかしく、だが相手から目を逸らす事も出来ずに睨む目に力を込めた。

少なくとも自分ではそうしたつもりだった。


「……初めてお会いした際、私から決して目を逸らそうとしない貴女が、とても……良い、と思いました」

「……」

「貴女との縁談、いえ、将軍家との縁組みなど、余りにも畏れ多い事と、お断り申し上げるつもりで……御台様にお縋りしようと姑息にも考えておりましたが、思い直した、のです。貴女のような方ならば、我が家でも、我が父とも渡り合っていけるのではないか、と思って」

「……ええ」


今更何を言っているのだろうと千代は眉を寄せたが、忠利は穏やかに優しげな風に合わず、千代の困惑など無視して続ける。


「ですが。それは私の勝手な考えで……貴女のお気持ちを伺っていない事に気付きました。貴女のお気持ちを確かめなければと、そう思って」

「……」

「確かめた以上、私の方からお断りするのが筋、と思ったのです。決して貴女を不足などと思ってはおりません」

「別に慰めて下さらなくても良うございます!」


漸く相手が言いたいことを理解して-少なくとも己ではそのつもりで-千代は男の意外と固く骨っぽい手を振り払おうとしたが、逆に深く掴まれる。


「ですが。私に、僅かなりとも、その、好意を、お持ちでいらっしゃるならば」

「!悪うございましたね!どうせ私は惚れっぽい愚かな小娘です!一目会っただけの貴男の妻にどうしてもなりたい、などと思ってしまいました!でも無理にもらって頂こうなどとは思っておりませぬ!」

強く言い返して、ついでに男の鉄の環のように閉まっている手から逃れようと己の手を振り回した所を、更に腕を掴まれて動きを封じられた。


「何よ!強引な!無礼でしょうに!」

「貴女をこのまま、他の男に渡す訳には参りませんから」

癇癪が破裂しそうになった-正確には金切り声を上げて相手を無茶苦茶に引っ掻いてやりたいという衝動に駆られた-千代の身は、一体どういう加減であったのか、男の腕の中に吸い込まれる。


「な、何をなさいます!」

「……これで我等、夫婦とならざるを得ない仕儀と相成りました。貴女が如何様に仰せであろうと、将軍家の御面目、貴女の御名だけでなく我が細川家の家門に賭けて、決して覆す事、適いませぬ」

柔らかく優しい-しかし明らかに得意げな響きを伴う-声で、忠利が宣言するのに身を固くする。


「お騒がせしました。上様。斯様な事と次第でございます」

「うむ」

常と変わらぬ重々しい将軍の相槌に、そういえば御前であったのだと思い出し、千代はあわあわと両手を動かしたが、勿論全く役には立たない。


「改めてお願い致します。どうか御息女との婚姻、お許し下さい」

「ああ、許す」


男達がまさしく今、己には不可解かつ理不尽な合意に至ったらしいのに、怒髪天を衝く状態でありながら、千代は何も言えなかった。


結局直情的で思うが儘に振る舞う事に慣れている千代には、己の覚悟や誇り、決意を無視され台無しにされた怒りや意地よりも、心の内より滾々と湧き出てくるような喜びと幸福感の方が大切であり、従うべきものであったので。



祝言を挙げ、褥を共にした夜、夫はその決意を口にした。


「何時か、必ずそなたを国へ連れて行く」

「はい」

素直に頷いたものの、正直どうでも良いと思った。

このひとが居る場所が己の故郷なのだと、そう思っているし信じたい。


「とても豊かで良い国なのだ」

婚姻前と変わらぬ優しい穏やかな-少々浮世離れした-声に、憧れと夢想のようなものを込めて繰り返す夫の頬に手を当ててそっと撫でてやる。


「きっとそなたなら、父上とも仲良くなれると思う。そなたとならば気も合う筈、だ。父上は、本当はとても良い御方なのだし……」

「ええ。無論です」


いつかこのひとにとっても己が故郷になれれば良いと思い、千代は微笑んだ。


顔色や挙措では全く見て取れなかったのだが酔っ払っているらしくそのまますぐ寝入ってしまったひとの可愛らしい寝顔を眺めながら、千代も又己の幸運と、例えようもない喜びに酔い痴れた。


夫が拘る『父』という人に実際に千代が会うのはもう少し後の事。

更には美し過ぎる-と千代は思っている-夫を持った常として、様々な気苦労は後々ずっと絶えずに続いたが。


それでも。

千代の恋は生涯、その鮮やか過ぎる程の彩りを失いはしなかった。


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