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【上】

千代は勝手知ったる大叔父の居城内を闊歩していた。

母-天下人である大御所の初孫、しかも正真正銘の世嗣であった父の初子の姫、まさしく徳川家の総領姫であり、その生母は織田信長公の姫だ-の死後、そして父が出家以後、一層頻繁に、登城するようになっていた。

幼い頃から江戸邸に住んでいたから、父の所領よりずっと江戸府内更には城にこそ愛着や親しみも持っている。


奥殿の御台所の寝殿に真っ直ぐ入り、左右に平伏する侍女達は無視して目的地迄突き進んだ。


「御台様!どうにかして下さいませ!」

文を手にしていた御台所は、千代が目の前に立って地団駄を踏むと、おっとりと顔を上げ、初めて驚いたように黒目がちの大きな瞳を丸く見開いた。


「まあ、千代姫。いついらしたのです?」

「いいから、聞いて下さいませ、御台様!」

御台と呼びつつ、幼い頃から可愛がってくれた義理の大叔母だ。


『義理』と言っても血の繋がりがない訳ではない。

千代の祖母は-未だ京で健在だが-大叔母にとって母方の従姉に当たる。


又、千代が、将軍家一の姫と同い年ということもあって、機会ある毎に衣や飾り物や用意してくれたり、歳時には城に招いて娘同様の扱いをしてくれた。

大坂に七歳で輿入れしたという一の姫の事は、千代は明確には覚えていないが、御台所、更には将軍にとって、己は一の姫の身代わりのようなものなのだろうと単純に考えている。


「何かあったのですか?まさか、何方か病にでもなったのではないでしょうね」

不安そうに美しい瞳を瞬かせながら、更には詰め寄っている千代の髪を優しく撫でてくれる御台所に、千代は一層目に力を込め、更には拳を握りしめて訴えた。


「上様ったら酷いのです!私のこと、養女になさるんですって!」

「あら、そうなのですか」

御台所はほんわりと微笑み、だが千代には悲しそうな瞳を返して来た。


「千代姫は私達の娘にはなりたくないという事ですか?……私達は貴女のこと、今迄だって娘のように思っていましたのに」

「あら。そうじゃないの」


優しい大叔母を傷付けてしまったらしいと気付いて、慌てて千代は手を振って否定した。


「私だって上様と御台様の養女にして頂くのは嬉しいし、光栄に思っておりまする。でも、あの、そうじゃないの」

「……」

涙もろい御台所の瞳に燦めく物を見つけ、千代は更に、御台所の手を取り己の頬に当てながら訴える。


「上様ったら、私を養女にして、私が顔を見たこともないひとに嫁入らせようとしているの!それも私よりずっとずっと年寄りなのよ!」

「まぁ」

「私、私、年寄りの狒々爺と結婚なんてしたくない!そんなの、絶対絶対嫌!」

「まぁ……」

御台所に思いっきり抱き着く。

常の如く、千代の勢いに流されたのだろう、御台所は優しく千代を抱き締めてくれた。

それだけで大いに慰められ、半ば以上機嫌を直して千代は高雅な香がする御台所の柔らかな胸元に頬擦りした。


「……そういえば上様が姫の縁談の事をお話になっておられましたね」

「あら。御存知だったのですか?」

心地良い時を破られたような気がして千代は頬を膨らませて大叔母を上目遣いで睨む。

だが大叔母は首を傾げて少し眉を顰め、己の考えを追っているようだ。


「でも……上様は、姫をそんな、年老いた方に娶せたりはしない筈ですけど。いつも姫には是非に確りとした前途有望な殿御に輿入れさせたいと仰せでしたし」

「そうなのですか?」

「ええ。万姫や国姫、亀姫は大御所様がお世話しておられるから……千代姫は御自分が責任を持って、他の姫達に負けぬ婿君をと、張り切っておられましたもの」


何故か嬉しそうに「上様は負けず嫌いですから」などと御台所が微笑むのに千代姫は頷いた。

千代には穏やかで優しい顔しか見せない大叔父が、為政者としては厳しい一面を持っているとは、知っている。

千代だとて大名家の姫であり、父は、君主達の間で色々と苦労をしたひとであった。自然、今現在の「上様」についての評も父から聞かされていた。


「大丈夫ですよ。上様にお任せすれば、きっと良いご縁に恵まれますとも。千代姫はこんなに愛らしくて美しい姫君なのですから」

根拠のない纏め方をされてしまったが、この場は千代は何となく丸め込まれてしまった。


おっとりと浮世離れして抜けているようでいて、この大叔母の考えは大抵正しく、又大叔母が望む通りに物事は運ぶのだ、と幼い頃から体感で知っている。


その後は普段の日常のように、将軍家の子達の許へ行って楽しく遊んでから邸へ戻った。

将軍家の子達は、今現在城内で暮らしている一番年上の御子である三の姫であっても、千代姫自身より三歳も年下なのだが、だからこそ千代姫は鷹揚な心持ちで己より立場も身分も高い姫とも仲良く出来た。

それより下の御子達となると、これはもう、面倒を見て遊んでやる可愛い親戚の子達でしかない。


邸に戻ってからも千代は御台所の保証を得て大船に乗った心持ちであったのだが、数日後又も彼女は登城した。

その前日に、将軍家より縁談に関して正使が邸に遣わされたのだ。


常と同じく御台所に訴えるべく駆け込んだが、しかしその場に陰口を言い募ろうとしていた当の将軍が同席していたのに、出鼻を挫かれた。

将軍は、無論千代の気性を幼い頃から知っている為、だろう、苦笑混じりの溜息を態とらしくしてみせて、僅かな身振りで千代に大人しく座すよう命じた。


血の繋がった大叔父とはいえ、流石に将軍その人に表立って反抗する事は出来ず、素直に膝を付いた千代に、将軍は微かな笑みを閃かせ、少し得意げに御台所へと話し掛ける。


「私が申した通りであろう。千代も充分に大人だ。早々に輿入れ準備を調えた方が良い」

「まぁ。でも姫は未だ十二歳ですのに」

「何を言う。十二ならば嫁に行っても可笑しくはない。一人前のおなごではないか」

「そうとは限りませんわ。人それぞれでございます」

「少なくとも同じ年頃であったそなたよりは大人だ。このように聞き分けが良く道理も弁えておる」

「!わ、私は十二で嫁ぎましたわ!私だって大人でした!」

「ふん。私が知らぬと思って偽りを申すでない。……どうせ木に登ったり、屋根に上がって叱られておったのだろう」

「ち、違い、ます!」


相変わらず傍が気が抜ける程に仲の良い夫婦だ。

脱力しながらも、これでは為らぬと強く己を奮い立たせ、千代はしゃんと身を起こした。


「上様、御台様!お話がございます!」

将軍が感情に任せた振る舞いを好まないと知っているから己ではかなり抑えて発言したつもりだったが、声音に力が入ってしまったらしい。

将軍が僅かに目を細めたのに気付いて、千代は素早く礼を取った。


「上様の思し召しは当家も、私も誠に有り難く頂戴致しておりまする」

「うむ」

「ですが……千代は、顔も知らぬ相手に嫁ぐ事は出来ませぬ」

「……」

将軍は特に顔色を変えはしなかったが、隣に座す御台所はおろおろと落ち着き無く夫君と千代を見比べる。

御台所の心を騒がせたくは無かったが、しかし、千代にはどうしても譲れぬ事だった。


「私は幼い頃より、父母だけでなく、上様と御台所様のお情けを受け、お心遣いを頂いて育って参りました」

「うむ」

「ですから。何れ何方かの妻となるならば。父母や上様と御台所様のように、心から信頼し合い思い合う、そのような夫婦になりたいとずっと願って参ったのです!」

「まぁ」

思った通り、御台所は千代の訴えに簡単に心動かされたらしい。

美しい瞳を潤ませるだけでなく、先程よりも夫君に寄り添うように近付いた。

表情を動かさない迄もそれを将軍も感じ取っているのだろう、帯に差していた扇を手にして膝に当てるのは、沈思の姿勢あるいはあるいは平静を保とうとする意思の表れだ。


「無論上様が、千代の事を考えて下さってお決めになった事とは承知しております。でも、千代は、顔も知らぬ、見ず知らずの相手に嫁ぐなど、怖ろしゅうございます。その、殿御に、気に入って頂けるかどうか分からぬのに……もしも、私をお気に召して頂けぬのに無理に嫁いだら、何と言っても将軍家お声掛かりですもの。離縁も儘ならぬでしょう?生涯互いに打ち解けぬ状態で夫婦として過ごすなど……千代には出来ませぬ。そのような縁に縛られる位ならば自害した方がマシです!」

「姫、いけません!」


御台所は蒼白となって-無意識なのだろうが将軍に縋り付きながら-千代に厳しく言ってきた。


「為りませんよ!そのような事!二度と口にする事も許しませぬ!」


だが声音は既に震え、湿ったものであると千代にも聞き取れるのだから、その夫君である将軍は尚更だろう。

更に。


「……旦那様、何とか仰って下さいまし」

御台所が、夫君には弱々しく-だが非常に効果的に-訴える。


「千代姫の身に何かあっては如何致します。どうか……お考え直し下さい」


(やった!)

千代姫は心中で快哉を叫び、一瞬、膝の上の置いた手を拳に固めてしまった。

妻こそ、常に冷静沈着、公正と法を全ての規範とする大叔父の、唯一の弱味であり例外だと、千代も幼い頃から見聞きし、承知しているのだ。

大叔母の言葉や願いは、大叔父にとってはこの世で最も優先させるべき事なのだ、とは江戸城においては暗黙の了解事だった。

だからこそ、これで己の意思は半ば通ったも同然、などと思ってしまったのだが。


目敏い大叔父の視線が動いたのを感じて、慌てて元通り淑やかに従順な形に手を直した。

が、遅かったのかもしれない。


「成る程。確かにそれなりに理屈はあるようだな」

皮肉と嫌味に充ち満ちた大叔父の回答に、臍を噛む心地で面を下げる。


だが千代が怖れ予測した続く叱責-といっても女子供に対して大叔父が声を荒げる事はない。ただ千代としては、何時も優しい大叔父に厳しい眼差しや冷たい言葉を与えられるだけで、他の子達と同じく身が凍るような心地を覚えるのだ-は無く、大叔父が微かに嗤った気配がした。


「まあ、良い。確かにおなごの一生は添う夫次第だ。それは私も承知している」

「……はい」


隣でひしと己の腕に取り付いている妻に大叔父はゆっくりと顔を向け、特に変わりない口調で諭した。

「そなたは何も案ぜずとも良い」

「でも旦那様」

「千代は我等の娘となったのだぞ。決して悪いようにはせぬ故」

大叔父の手が優しく大切そうに、大叔母の頬から髪を撫でるのを、千代は面映ゆいと同時に少々寂しい心地で見守った。


千代だって大名家の姫として生を受けた以上、家の為、親あるいは主が定めた相手に嫁ぐのが己の務めだとは知っている。

だがそれでも曲げられない真情として。

先程、訴えた通り、目前にいる二人のような夫婦となり家庭を築きたいという思いもある、のだ。


将軍が部屋の隅に控えていた侍女に合図を送り何やら小声で命じたのもぼんやりと見守った。

暫し、将軍夫婦は自分達だけの世界に浸っているかに見えたが、先程の侍女が戻って遠慮気に声を掛けると将軍は徐に千代に向き直った。

千代も姿勢を正して、礼を取って応じる。


「今宵は良ければ、泊まっていくが良い。……お勝やお和も喜ぶであろう」

「はい」

今迄にも屡々あった誘いであり、途端御台所が花が咲いたような笑顔を輝かせたのに、千代はただ単に御台所の気持ちを引き立て喜ばせる為の措置かと思った。

だが。


「そなたの望み、叶えよう。この後、そなたの縁談相手と引き合わせる」

明確な将軍の命に、千代は無論今回も逆らう事など出来なかった。



将軍の眼前に控えている状態では、己の心情-してやられた、とか、思いっきり己の思惑を逆手に取られて口惜しいとか-を表す訳にはいかなかったが、将軍の指図によりきっちり隙間無く立てられた几帳の陰に追いやられてからは、遠慮無く膨れっ面をした。


「こんなに取り囲まれていては顔など見えませぬ!上様は徹底し過ぎです!」

「そうですねぇ」

同じく几帳で確りと守られて、しかし嬉しそうに茶の支度をしている御台所はおっとりと応じて来た。


「でも千代姫は年頃で、上様にとっては、亡き兄上に繋がるとても大切な姫なのです。十重二十重に囲んでも足りぬと思っておいででしょう。万が一にも間違いがあってはならぬとお気遣いしておられるのです」

「……」

「上様は、細やかな御方ですから」


(でもこれって、絶対私の方が巻き添えだわ!)

心中の叫びを口にしなかったのは、几帳を隔てた場所に侍女達だけでなく将軍も又、千代達を見張っているから、更にはやはり大好きな大叔母を戸惑わせたり困らせたりするのは、基本、嫌だったからだ。

先程、大叔母の優しい気持ちを利用してしまった事、それを大叔父には見透かされ咎められた事に、千代は罪悪感を覚えていたし、又、大叔父の仕置きもある程度は正当なものと受け止め、認めている。


(でもまあ、良いわ。これでは『会う』なんて言えないし。相手からは私の事なんて見えないもの)

やはりそれなりに大叔父も千代に配慮し、千代の思いも尊重してくれているのだろう。


千代が気に入らない相手であれば、話を取り止めてくれるつもりなのかもしれない。

そう己を慰めて気持ちを収めてから、千代は大叔母を手伝って茶釜の湯を交換したり、茶器を拭いたりした。


少しざわついた気配が近付いて来たと思うとすぐに、御台所付きの侍女らしき声が「ご到着にございます」と先触れをした。


「内記、良く来たな」

将軍の声音が幾分明るく晴れやかなものとなったのに、千代はおやと思う。


(随分、お気に入りなのね。……ということは、もしかして上様より年上??)

大叔父が年上の臣下達を大切にし、御伽衆や側衆にも選ぶとは父から聞いて知っている。


(そ、そりゃ、上様は父上よりずっとお若いし、見かけだって若々しくて素敵だけどっっでも上様より年上のオジサンなんて絶対嫌!)


武将としては大したものらしいが、邸内、しかも奥での父の姿を一瞬思い浮かべて千代は身震いをした。

父の事は慕っているし尊敬もしているが、それとこれとは話が別だ。


酔っ払って褌一つになって腹踊りをしたり、大鼾をかいて大の字で寝るような夫は絶対に欲しくない。亡くなった母には悪いが、何故母がそのような有り得ない醜態を晒している父を愛おしげに見詰めたり世話を焼いていたのか、全く理解出来なかった。

勇ましく臣下達を叱咤したり、馬に乗って出掛ける父の姿の方が千代はずっと好きだ。


「お招き有り難うございまする。……このように奥殿迄、呼び入れて下さるとは……何事かございましたか」

穏やかに落ち着いた、だが大叔父より確実に若く、涼やかに通る声に千代は我に返った。


細い線状態の几帳の隙間に目線を当ててみる。


「何。御台が久し振りに其の方の顔が見たいと我が儘を申してな。急に呼び付けて済まなかったが、まあ、茶でも飲んで行ってくれ」

将軍がしれっと続け、言い訳にされた御台所は一瞬唇を引き結んだものの、すぐに又点前へと集中したようだった。


「御台所様が……私に」

男の視線が確実に几帳越しに此方へ向けられたのを感じ、慌てて千代は退いた。


「御台にとって其の方は、大事な友人の息子だ。私も其の方の事を息子、というには少々無理があるが、弟のように思っている」

「過分な御言葉、身に余る光栄にございます」

「良い。楽にせよ」


随分と和やかで、また近しい間柄であるようだと思い、千代は首を捻る。

態々己を養女にして迄の縁談なのだから、御家-将軍家-の略の為、と思い込んでいたのだが。


「さ。姫。運んで下さい」

御台所の柔らかい指図に我に返り、一瞬抗おうかと思ったものの、御台所と目が合って止めた。

御台所は寧ろ、千代の為に千代が望む『機会』を与えてくれている心算なのだ。


千代は御台所に礼を取ってから茶碗を高坏に乗せ、叩き込まれた礼儀作法通りに淑やかに静々と運んだ。

几帳から出た千代に、将軍が微かに手にした扇を揺らしたのを見て取っていたが、流石に御台所の指示とあっては-少なくとも客人の前では-止められないと判断したのだろう、将軍はそれ以上の反応は示さず、又千代にも特別に目を向けなかった。


千代は堂々と-勿論、振る舞いとしては大人しやかに-茶碗を客人の前迄運んだ。


高坏を捧げながら膝を付き、一端頭を下げてから、目線を上げる。


「これは、お手数をお掛けしました。有り難うございます、姫」

丁寧で恭しい感さえある労いの言葉に驚いて、まともに顔を上げ過ぎた。


自然、相手の男の顔を真正面から、作法に外れる程不躾にかつまともに真っ直ぐ見詰める形となる。


(え……)


清らかに澄んだ美しい眼差しに心の奥迄貫き通されたような気がした。

少し悲しげな憂愁を帯びつつ整った-男でこのように綺麗な顔立ちの者は見たことが無い、と千代はぼんやりと思った。将軍家の幼い若君達はそれぞれ異なる魅力のある御子達だが、あくまでも本当に子供だ。大人になれば、他の男達のように臭くてむさ苦しくなるだろう、と千代は常日頃残念に思っている-容貌は、男にしては色白なきめ細やかな肌のせいか、あくまでも優しく、雅かですらある。


「……」

ぼんやりと男の貌に見惚れている千代に不審を覚えたか、男が僅かに眉を顰める。


(夫差の気持ちが分かるかも)

等と幼い頃、生真面目な将軍に絵巻物代わりに読み聞かせられた漢籍の故事などを思い出す。

非常に手許どころか、身体の自律自体が疎かになっている、とはこれ又意識の外だった。


「危ない」

抱えていたままであった高坏から手が離れそうになったのを、男が素早く抑え-つまりは両手を握られる形になったのに、漸く我に返る。


「きゃぁ!」

己でもどうなのかと感じる程、幼いだけでなく愚かしい声を上げてしまったと思った。


慌てて、既に男の手に渡っている高坏からは手を離し、その場に平伏する。


「申し訳ありませぬ!粗相を致しまして」

「……いえ。こちらこそご無礼を致しました」


男があくまでも優しく穏やかに声を掛けてくれるのに、顔に火が付いた様に熱くなってくる。


「しっ失礼致しまする!」

お辞儀を一つするのが精一杯で、千代はこのような際には慰め抱いていて欲しい、などと思う大叔母の許へと逃げ戻った。


「まぁ、姫。大丈夫ですか。火傷など、しなかったでしょうね」

飛び付くようにしてしがみついた千代に、御台所は優しく呟いて千代の手を取り、言葉通り傷付いていないかどうか確認する。


「良かった。大丈夫なようですね。後で念の為、御医師を呼びましょうね」

「い、いえ、平気、ですから」

「……気にせずとも良いのですよ」

そっと小さく囁きかけてくれたのは、千代が粗相をして決まりが悪い思いをしているとか、意気消沈していると思ったからだろう。


千代の頬を撫でてから、御台所は几帳の向こうへと注意を向けた。


「忠利殿もますますご立派になられました。御父上様も御祖父上様もご自慢でございましょう」

「……いえ、そんな……お恥ずかしゅうございます」


美しい青年の美しい声が、実際恥ずかしそうに震えているような気がして、千代も頬を染めながら身を震わせた。


(や、やだ。私、どうしてこんな)


「……御台様が点てて下さったお茶を頂けるなど、まことに光栄でございます」

「あら。私の茶など。私の方こそ恥ずかしゅうございます。御父上様や御祖父上様の御薫陶を受けておられる忠利殿にお出しするなど、烏滸がましいですが……点前でなく私の心を受け取って下さいませ」

「そんな……あ、いえ、その、とても美味しゅうございます」


青年の声の響きに聞き惚れながら、千代は青年が随分と御台所と親しげなのが気になってきた。

将軍の言によると友人の子ということであるから、あるいは幼い頃からの顔見知りなのかもしれないが、千代の目から見ても、千代よりずっと年上である筈の御台所は今でも誰よりも美しく、若々しく魅惑的な女人だ。


だが同時に、将軍である大叔父がこよなく愛し、大切にしているひとである。

それはおそらく、今は将軍と親しげに千代には分からぬ政の話をしている青年だって承知している筈だ。


浮ついた落ち着かない気分で青年の声を聞きその貌を思い出していた千代だったが、瞬く間に時は過ぎ去り、再び礼儀正しく青年は退出して行ってしまった。


几帳を取り払って元通り、寛いだ形で座した後、大叔父がすぐに声を掛けてきた。

「どうやら随分と疲れた様子だな。やはり泊まって行くが良い」

「……はい。有り難う存じます」


何と言っても大叔父は優しいし、大叔母の言う通り、思い遣り深いと思ったが。


「で。どうだ。私がそなたの為に選んだ男は。なかなか佳い男であろう」

穏やかに、態とらしく問うてくる。


いつもと変わりがない大叔父の口調と声音であったが、千代の耳には自信満々、それ見たことか、などと言いたげ、という風に聞こえた。


むぅと頬を膨らませてそっぽを向く。


「別に!一瞬顔を合わせただけですもの!あれだけでは人柄など分かりませぬ!」

「そうか。……最近の若いおなごは難しいのだな」


将軍が微かな声を上げて笑い、だが後は妻である御台所にからかうような目線を向けているのを横目で眺め、千代は一層ふて腐れた。


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