泪の宝石
もし、貴方の視界一面全てが真っ暗な暗闇が広がっていたら貴方ならどう思うだろうか?
一番に浮かぶ感情として最有力なのは恐怖だろう。人間、自分が知らない、分からない状況に陥った際必ずと言っていい程この感情が湧き上がるものだ。
身近な例えで言えば朝目が覚めると知らない部屋の知らないベットで知らない異性と一緒に寝ているとき、その異性がどんなに美形でも驚きと恐怖を感じる筈だ。
真っ暗な暗闇もそれと同じく、きっと恐怖を感じるだろう。そして恐怖から派生して不安が生じそれが次第に焦りとなる。これらの要素が大きな摩擦となっていき理性の糸を段々と磨り減らしていく。
そうして磨り減ってしまった糸がプツンと切れた時、最終的な感情として絶望が生まれるのだ。
望みが絶たれると書いて絶望。足掻こうが泣き喚こうがもう成す術はない。無意味、虚無。今目の前に広がっている闇と同じである。
俺が今見ている風景も、ただの闇でそれが大きいのか小さいのか、近づいているのか遠ざかっているのかそれは分からない。いや、それすらどうでもよくなる程俺は絶望しているのだ。
――ぎゅるるるるるぅ。
「い、いやっ今のは違うんだ。僕のお腹が勝手にメロディを奏でただけさっ! くっ静まれ僕のお腹っ!」
俺は二段ベットの上段で、支給された白黒ラインのパジャマに着替えてから闇が何処までも広がる天井を見つめながら泪の訳の分からない言い訳と腹の音を聞き流していた。
基礎体力訓練の結果は泪の腹の音を聞けば分かる通り悲惨な結果に終わった。
キュピ男に追いかけられたビリーは極度の恐怖感から足がもつれ、第一コーナーで盛大に転んだ挙句ズボンとパンツまでもがズレ落ち、途中退場。
そして泪は予想を裏切ることなく半周で体力を使い果たし、皆が完走し一日目の訓練を終えた後もただ一人だけ生まれたての小鹿のようにトラックを永遠と彷徨っていた。
この世の中正解というのは各々の主観であったり人生経験だったりで意見が違うのでとやかくは言えない。だが五十周全力で走りきるのは誰しも不可能だと分かる筈なのだ。それなのに本当に馬鹿な奴だな泪は。
因みに俺は二人が脱落した後も普通に走り続けたがペナルティの下位三名からは抜け出せず終わった。
仕方がないという言葉でこの理不尽な結果に終止符を打つのも納得がいかないが仕方がない物は仕方がない。だって俺普通の人間だし。足に車輪とか付いてないし。
その後も基礎体力訓練は続き、百メートルの走りこみを10本百セットをこなしたりバーベル上げにスクワット、それから体幹トレーニングとしてひたすら腹筋と背筋を繰り返したりなど一日目はとにかく身体に負荷が掛かる訓練ばかりだった。
そして何よりも一番厳しかったのは夕食だ。
食事も訓練だと称し出された献立は九十年代の少年漫画の主人公が好きそうな丼にこんもりと山状に盛られた白米、肉の塊をそのまま焼いただろという位分厚く大きいステーキに辞書程のこれまた分厚い衣がついた揚げ物。足りない栄養価を補うようにバスケットボールが四個入りそうな位大きいボールの中に色とりどりの野菜達、ジャイアントな白田さんでも苦笑いするレベルの食事を完食しなければいけなかった。
訓練での疲労や負荷によって壊れた筋肉繊維を修復するためにも食事は大切だと健康番組でやっていた気がするがこの量は明らかに必要ないし逆に胃と腸の組織を殺しにかかっている。それに俺は今日の訓練で完全に疲弊しきっており食事など一切喉に通せる状態ではなかったのだ。
まぁ幸いなことに俺の隣の席はキュピ男だったので、目を光らしながら俺達を監視している教官の目を盗みキュピ男の皿に横流ししていたので大丈夫だった。一日目の訓練も軽々こなすし食事も馬鹿みたく食べるし、化け物だなこいつは。
そしてなんと言ってもビリーが可哀想過ぎた。
恐らく今日が彼の短い人生に置いて一番の受けがたい恥辱と疲労だっただろう。身も心もズタボロ雑巾になった挙句、完食しなければまた叱られる恐怖から涙を流し嗚咽交じりに食べ物を頬張り、それでも食べる手が止まると職員達に無理やり口を開けられ押し込まれていたのだ。
お爺ちゃんの飴をこっそり盗む事を自慢げに話す程度の奴なのに……ほんと可哀想なビリー。
こうして訓練一日目が終了し、俺達は牢獄に再度打ち込まれて今に至る。
碌でもない事が起こる覚悟は出来ていたのだが、まさかここまで厳しいものになるとは予想外だった。バイトでクソ悪魔共に絡まれている方が余程楽だと感じてくる。
どうにかしてこのクソ訓練から脱出する方法がないかと考えたがそれもまた難しい。
逃げ出そうにも蛆虫ハゲ教官含めここの元軍人の職員達、そしてあのマスターと三日三晩戦闘を繰り広げたと言っていたエリゴスさんから逃げ切る自身がない。
それにここは地獄だ。逃げ切ったところで俺には人間界に帰る術がない。加えて人間界に帰ることが出来たとしてもマスターに然るべき罰を与えられることだろう。
つまり俺に残された選択肢はこのまま後二日訓練を行なうことだが、今日の内容を振り返る限り身体が持ちそうにない。何をしても詰んだ状況、絶望だ。
「崇、まだ起きているかい?」
視界も思考も暗くなっている中、二段ベットの下から泪が俺を呼ぶ。
「起きてるけど何か用か? トイレだったら耳塞いでやるから我慢するなよ?」
「違うっ! そうじゃないっ! 全く君ってやつはデリカシーってものがないのかい? もう……」
マイペースでこれでもかと自分の世界観を広げてくる奴にデリカシーだのを語られるのは少し癪だが、疲れ果てているのもあってそれを言葉にはすることなく黙る。すると二段ベットに架かっている梯子が静かに軋み出して。
「君も疲れているだろう? そんな崇に宝石をあげようと思ってね」
白無地の真ん中に『狼』と筆書きプリントがされた一回り大きいサイズのTシャツを着ている泪がダボダボの袖から腕を伸ばし、俺の枕元にそっと何かを置く。目線だけでそれを確認してみると例の飴玉だった。
二つの眼球で捉えた一つの飴玉。それを見ていると今日起こった出来事や俺が泪に抱いた感情が気泡のように沸々と浮上してきて腹が立ってきた。
そんな感情から背を向けるように、俺は泪とは逆に寝返りをうってから。
「俺は要らないから。折角ビリーに貰ったんだから大事に取っておけよ」
「ふふっ遠慮なんかしなくてもいいよ。ほら、甘い物を摂取して疲れを癒さないと」
「いいから。要らないって言ったろ……飴玉も、変な気遣いも」
後悔は先に立たず、俺は自分で言ってしまった言葉によって真っ暗だった思考が更にワントーン暗くなる。
泪やビリーの事をガキだの子供だの散々言って置いた挙句、俺は自分の感情を制御出来ずまた失言してしまった。
自ら過ちに気がつくのが成長だと言った手前、俺は同じ過ちをまた繰り返してしまった。
「チっ」
そんな自分がつくづく情けなくて、腹立たしくて自然と舌打ちをしてしまう。それがまた一つの後悔を作り出してしまった。
「崇……今のはちょっと酷いと思う」
闇の中、そこに消え入り浸透していきそうな声が後ろから聞こえてきた。
俺は瞼を思い切り閉じ今の心情やらを全てリセットし、常日頃から思っている『普通な人生を送る為』の思考に戻す。
ここで無視をする、または逆上してしまえば更に俺の心は絡まった糸のように解くのが困難になる。それに残り最低でも二日は彼女と行動を供にしなくてはいけない。ここで気まずくなってしまえば後々面倒になってしまう。
そんな考えを元に俺は泪の方を振り返り謝ろうと思った。謝ってしまえばこの場は一先ず丸く収まると思ってしまった。
これが俺の三度目の後悔。この時俺は何故自分ありきな考えをしてしまったのだろうか。何故泪の気持ちを考えて行動出来なかったのか。反省すべき点は山程あるが先ほども言った通り、後悔は先に立たず。
「…………もういい。寝る」
泪は俺の顔を見ず、そのまま梯子を降りていく。
彼女が置いていってくれた飴玉の近くには光に照らせば宝石のように光る水滴の跡がポツポツの枕を濡らしていた。




