うさぎとかめ
人間、マイナスな思考に陥ると自然にそれが身体にも現れてしまい、動作が鈍くなることがある。俺の足首にはこれから起こるであろう碌でもない展開から生まれた足枷が巻かれ、まだウォーミングアップの一週目を終えたばかりだがもう足取りが重い。
「崇、表情が暗いよ。さっきも言っただろ? こういう時は笑うんだよ」
俺の隣では依然として自信満々の表情をしている泪。お前のその顔の所為で暗い気分になってるんだよぁ……。
そして何も浮かない表情を浮かべているのは俺だけではない。周りにいる他の悪魔共も同様な顔をしているのだ。
まぁ当たり前と言えばそうである。何せここに集まったのは反抗的なクソガキ悪魔で誰か知らない大人に、強制的に走らされる。しかもトラック五十周なんて馬鹿げた距離をだ。
こんな状況下の中笑ってる奴なんてのは物事を客観的に捉えることの出来ない軽率で短絡的な奴か、そんな距離朝飯前なんて程体力自慢の奴だけだ。
「キュピッキュピッキュピッ」
そんなことを考えながら俺はピッタリと俺達の後ろについてくる先程の筋骨隆々悪魔を横目で見た。つか自分の口で言ってるのかよ、その音。
「なぁ、なんかよぉ。あの筋肉野郎俺のこと見てねぇか?」
キュピキュピ音が耳障りな中、今度はビリーが俺の服の袖を指先でチョコンとつまみ怖気づいた声で言う。
確かに、厳密に言えば奴は俺達の後ろと言うよりかはビリーの真後ろに付いて歩いており、その視線はビリーのアイデンティティである金髪に注がれていた。
「お前何か気に障るような事でもしたんじゃないの? とりあえず謝っとけって」
「いや俺は何もしてねぇんだよ……怖ぇんだよあいつよぉ……」
「キュピッキュピッ……金髪……金髪ぅっ!!!キュピッキュピっ!」
完全にビビッているビリーと共にもう一度後ろを見てみると男は白目を剥きながら尚も訳の分からない効果音を口ずさんでいる。少しだけビリーの腑抜けっぷりを馬鹿にしてたが俺もあんな奴と話す気なんておきない。怖すぎだろあいつ……。
「おい泪、本当にお前の秘策は大丈夫なんだよな? ババ抜きするからババアは抜きとかどうしようもないダジャレとかじゃないよな?」
あまりにも心配になってしまった俺は堪らず泪に確認することにした。
「僕は下らないジョークのつもりで言っているんじゃあないんだ。泥舟に乗ったつもりで安心してくれ……勿論今のはジョークだよ。ふふっ」
「そういうのは求めてないんだよ。秘策の内容を教えて欲しいんだっ」
後ジョークにしては上手くも何ともないからな。
そんなやり取りをしている中、とうとう俺達はトラックの最終コーナー付近まで差し掛かってしまった。これを曲がり終え少しすればいよいよ本番が始まってしまう。
不安と緊張感のせいでまだウォーミングアップ段階だというのにもう息切れがしてきた。隣のビリーもキュピキュピ男に睨み付けられているせいで顔が真っ青である。今度は上から出ちゃうんじゃないのこいつ?
俺達男二人が『もう駄目だ……お終いだ……ッ』と絶望する状況の中、泪だけが平素通りクールな佇まいで歩く。その様は俺が心に余裕がない為か何時もよりほんの少しだけ格好良く思えた。
「崇。『うさぎとかめ』の話は知っているかい?」
そんな泪が腕を組みながら俺に聞いてくる。うさぎとかめというのは恐らく童話や童謡で周知される物語の事を言っているのだと思う。
ある日うさぎとかめが山の頂上まで競走をすることになる。脱兎の如くなんて言う言葉がある程足の速いうさぎ。それに比べて鈍くさいノロマ代表のかめ。序盤のレース展開は予想通りうさぎが圧倒的差をつけていた。
もうこのレースは勝ったも当然。少し位休憩しても追いつかれやしない。追いつかれたとしてもすぐ追い抜く自身がある。そう思ったうさぎは休憩がてら仮眠をとることにした。
しかし、それが過ちであり仮眠だけのつもりだったうさぎはすっかり熟睡。その間ゆっくりだが着実に歩き続けたかめがいつしかうさぎを追い抜きゴールしたという、ざっくりとした説明だがそんな内容だ。
この話の教訓として怠けたりせず、継続して努力をするということが大切だと言うことなのだがここで泪が何故この話を引き合いに出したのだろうか?
「うさぎが負けた理由……それは途中で怠けてしまったということ。つまりだね、逆を言えば怠けず最後まで走り続ければ勝てるんだよ」
「おいちょっと待て。まさかとは思うが、一応念の為聞くぞ? お前が言おうとしてるのは五十周全力で走れば勝てるってことか? 違うよな?」
「ふふっご名答。流石、勘が鋭いね」
何て安直過ぎる発想なのだろうか。聞いていて目眩がしてきたので俺は目頭をギュッと押さえる。
こいつは自分で何を言っているのか理解しているのか? 普通に考えて五十周を全力疾走して完走するなんて不可能なのだ。何でこいつは無理だと分かりきっていることをやろうとするのだろうか。
いや、考えるだけ無駄である。要はただシンプルに彼女は馬鹿なだけなのだ。そして泪に期待しようとした俺も馬鹿だった。
ここは当初の予定通り無理せず無難に、下位三名にならない程度に走ろう。それがこの訓練における一番聡明な考えだ。
それぞれの思惑の中、ウォーミングアップの幕切れを告げ、本番のスタートとなる白いラインが近づいてきた。泪は余裕の表情を崩さず歩きながら腕のストレッチを始める。俺はそれを横目で見つつ、ただ前を歩くだけだ。
俺の胸の内には小さなシコリのような物が生まれるのを感じた。その原因は泪に対しての怒り、落胆、失望……どれも的を得ているようで違う。形容し難いこの感情に少しだけ腹が立ち、小さく舌打ちをしてしまった。
そして。
「君に見せてあげるよ。野を駆ける兎をも捕らえる狼の神速っぷりをねっ!」
そう言い残し泪は皆がスタートラインを切る一歩手前からフルスロットルで走り始めた。
「ちょっとお前っ! それ普通に反則だろうがっ!」
「おや崇? この僕についてくるつもりかい? 面白いっ!」
泪にそう言われて俺は自分が彼女といつの間にか並走していることに気がつく。くそっ! やってしまった! ついツッコミのノリで走り出してしまったっ!
しかしまだ走り始めてから五十メートルを越えたばかり。スタートダッシュを決めてしまったお陰で無駄に体力を消費してしまったがここから徐々に速度を落としていけば大丈夫だろう。
しかし。
「うわああああっ!!! た、助けてくれっ!!!」
「金髪ぅ! 金髪ぅうううううっ!!!キュピッ!キュピッ!キュピッ!!!!」
そんな俺の思惑を打ち砕くように絶叫を上げて走ってくるビリーと爆音を辺り一面にぶちまけながら猛進してくるキュピ男。
「ちょっとお前こっち来るなってっ! 俺を巻き込むなっ!」
「そんなこと言ってもよぉっ! 止まれねぇんだよ俺はよぉっ! 助けてくれっ!!!」
目から泪を流しながら俺の方に向かってくるビリー。となれば必然的にキュピ男も追ってくる訳で……。
「くそっ! くそっ! くそぉおおおおっ!!!」
ジェットコースターが急降下したような感覚で叫ばずにはいられなくなった俺。その隣には馬鹿狼の泪。その後ろから俺以上に絶叫しているビリーに支離滅裂なことを叫び続けるキュピ男。
それぞれの思いが叫びとなり、混じ合うことで阿鼻叫喚となる。正に地獄らしく仰々しい歓声がグラウンド一面に広がりきった。




